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chapter5

 昼下がりの地下ダイニング・ホールはもう閑散としていた。

「ウメダで買い物がしたいな」

 テーブルに肘をつき、両手の指を顔の前で組んだスナが、空になったランチプレートを前にして言った。

「冬物のコートが欲しいわ。マックス・マーラのキャメルもいいし、モンクレールでもいいんだけど、ダイマルで実物を見比べてから決めよう。付き合わない?」

 そのあと二人で食事をしよう、もちろん彼女のおごりで……まるで既定路線の報告のような誘い方だ。すごく断りにくい流れでもってくるのが彼女流。

 冗談みたいな話だと思うかもしれないが、スナとショッピングで出かけたウメダで、老人のオイハギに会った。オイハギなどという言葉はもう死語で、クラシカルなクロサワ映画の世界か中世の出来事のようだが、レッキとした現代の事件だ。しかも都会のど真ん中。

 髪が抜け、歯の大半を失ったヨボヨボの老人が僕達に日本刀を突きつけ、身ぐるみ一切残して立ち去れ、と迫った。彼らも生きるため、愛する者を守るために死に物狂いなのだ。護身用のピストルがヒップ・ホルスターからなかなか抜けず、危うく殺されそうになったが、スナの咄嗟の機転で何とか賊を撃退できた。賊の背後から忍び寄ったスナが棒きれでその頭を直撃、まさに間一髪のところで僕は反撃のチャンスを得た。

 銃を構えて引き金を引いた後、気づいた時には弾を全部撃ち尽くしていて、いつの間にかスライドは開いたままになっていた。9mm弾の連射を至近距離から受け、もろくなっていた老人の頭蓋骨はスイカのように割れていた。脳みそは飛び散り、周囲には血なまぐさい臭気と火薬の匂いが漂った。緊張のあまり、僕は空のピストルを向けたまま、静かに老人の遺体に歩み寄った。そして日本刀を持つ手を踏みつけ、遺体から刀を奪いとった。

「ああくそ!、なんてこった。ホローポイントだったのか!」

 こともあろうに、GHQから支給されたピストルの弾丸はダメージの大きいタイプのもので、戦争での使用が禁止されているダムダム弾だった。道理で遺体はぐちゃぐちゃだ。

 知らなかったとはいえ、運悪く老人が戦闘員だったらダムダム弾規制違反。これは軍法会議ものの話だ。米軍はこの規制には署名していないから軍隊でホローポイントも支給しているが、我が高麗共和国はハーグ条約全体に署名しているからややこしい。連合国軍の実体は米軍だから、あたりまえにホローポイントが支給されている。まさに国際部隊の落とし穴だ。


 ついに時はきた……これが僕の生涯で初めての「殺人」の一部始終だ。

 不思議と動揺もせず、特別な感情もわかず、ましてや精神的ショックどなかった。むしろ生きるか死ぬかの瀬戸際で賊を打ち倒した瞬間、アドレナリンが脳から噴出し狩猟本能が充足されるのを感じた。まるで獲物を仕留めたハンターのようにこの上ない達成感を覚え、同僚スナを守り切ったという自負心が静かに僕の心を満たした。

 生き残れた、生を勝ち取った安堵感以上の、かつて感じたことのない興奮……。

「気の毒だが自業自得だ。それにこの調子ではどうせ長くは生きられないだろうし、そのうちどこかでこうなる運命だったろう……」

 そう自分に言い訳することで罪悪感はたちまち消え失せた。現代では無人兵器によるモニター画面上の戦闘が中心とはいえ、戦争というものが狂気であることに変わりはない。人間を人間として見られなくなる。心の痛みという感覚がマヒする。医師が遺体を見て何とも思わなくなるように、人間は感覚を鈍磨させられるように適応したという。人間が生存するためには許容量以上の余分な苦痛は除去する必要があるからだ。


 下アゴだけになった首をみて、スナはショック状態になった。僕は何とか彼女を落ち着かせて軍の病院に送り届けたが、肝心のブランド物のコートはそれっきり行方不明になってしまった。


 人生など無意味だ……街をさすらう憐れな日本人を見ていると、それがよくわかる。

 皆、自分が何者なのかもわからず、何のために生きているか深く考えることもなく、わずかばかりのパンを奪いあって争い、糞を出してはまた貪り、わけのわからない世間のしがらみに悩み苦しみ、病気や事故や戦争で意味もなく死んでいく。

 不幸は連鎖し拡大再生産される。戦争さえなければ死ぬはずのなかった人たちが死に、その家族が路頭に迷う。女子供は飢え苦しみ、怒り悲しみ、そしてその未来は閉ざされてゆく。兵舎から出る残飯をあさる戦争孤児たち。親を失った戦争孤児たちはギャングとなって社会から迫害される。運が悪いと盗みをしただけで大人たちから殴り殺され、そうでなければ浮浪児狩りと称して自治体職員に収容所へ放り込まれる。何の責任もない、政治の犠牲者でしかない彼ら子供達が、社会から憐れみを受けるどころかまるで社会の害悪のように憎悪の対象とされる。

 ……ああ、何と言う理不尽! 

 それを見るたび僕の胸は痛み、孤児たちを野良猫のように施設に放り込む自治体職員に怒りがこみ上げる。そしてそんな傍観者としての自分に対する「負い目」から逃れるため、日々自分にこう言い聞かせる。

「悪いのは奴らだ」

「自己責任だ」

「自業自得だ」

 ……だが、あの憐れな孤児たちに、いったい何の罪がある? 

 僕は湧き上がるその疑問を頭の中から再び消し去って、できるだけ何も考えないようにして生きる。そうじゃないとおかしくなってしまいそうなのだ。人間の心を持ってしまうと、オイハギの代わりにスナと僕が死ななければならなかった。彼とて憐れな身の上。社会に追い詰められて犯行に及んだのだし、加害の以前はただの戦争被害者じゃないか。


 日本人でなくてよかった……

 今の時代に生まれてよかった……


 高級クラブで美人に囲まれ冷えたブランデーを飲みながら、いや、そういう場面だからこそだろうけれど、あのオイハギ老人を思うたび、僕はそう思う。

 ほとんどの日本人には戦争について意思決定の自由はない。だのに責任だけとらされてひどい目にあっている。そして今度は我々占領軍にあれこれ指図されて、文句すら言えずに我慢しているのだ。

 同じことをした外国が非難されないのに日本だけが世界中から非難され、忌み嫌われている。  

 ジャップ!、日本鬼子!、ウェノム! 

 そんな風に罵られ……しかもそこにたいした理由などない。何と言う理不尽! 

 生きるということは空虚だ。いずれの側にいたにせよ。

 日本人だけでなく我々高麗人だって同じだろう。高麗も異民族に支配されれば同じ目に合うはずだ。だが、生まれた星のもと、タイミングが違うだけで、こうも人の運命が違うというのはどういうことだ? 

 飢餓に苦しんできた人類がテクノロジーでそれを克服すると、今度は肥満や生活習慣病に苦しむようになる。病に苦しんだ人類が医学によってそれを克服すると、次は長寿社会で老いに苦しむようになる。おいそれと死ななくてもよくなった人類はやがて熱狂の渦に巻き込まれ、戦争で命を落とす……そこには何の意味もない。

 テクノロジーは不便を解消するが人類を救済することはない。一つの問題が解決してもそれはまた別の問題を生み出すだけで、永遠の無限ループなのだ。

「人はいったい何のために生きるのか?」

 そこが定まらない限り、暮らしの豊かさはあっても人類の救済はない。


 その夜もcrescent814とチャットをした。

「どうしたの? 具合でも悪いの?」

 どこからどうきりだせばいいものか、僕は少しとまどった。

 いや、実は今日、人殺しをしたんだ。

「えっ……それってどういうこと?」

 僕の話に静かに耳を傾けた彼女は、最期にこう言った。

「それは仕方のないことよ。あなたはなすべきことをしただけ」

 もちろんだ。だけど、今の僕は昨日までの僕とは違う気がする。

「あまり深く考えないで。戦争だから起こることよ。今は平時じゃないの」

 うん、そうだね。ただね、僕のしたことがこれからの僕にとってどんな意味をもつのか、今は整理がつかないんだよ。うまくいえないけど……。

「なんとなく気持ちはわかる。あなたの立場にたってみればね。私だって自分に落ち度がないのに悪者にされて、呆然としたことは何度もあるわ」

 ありがとう、なぐさめてくれなくてもいいんだ。別にへこんでるわけじゃない。あっちが死ぬか、こっちが死ぬか。どっちを取るか、答えは明白だ。罪を咎められるような状況でもない。ただ、人間の運命のはかなさ、存在の不確かさが切ないだけ。

「うん、そうね」

 オイハギの件といい弾丸の件といい、人間の運命なんて、いつなんどき変えられるのかわからないというのを、つくづく実感した。人間は自らの意思で生きているのではなくて、生かされているんだね。結局。僕の人生だって、父への反発からはじまって、最期はここで占領行政に関わっている。こんなことしたいとも思わなかったし、しようと思ってもできないような話だ。

「そうねえ、それはほんとにそうだと思う。同じことをしていたとしても、状況によってその意味は全然違うし、タイミングによっても変わってくる。なのに、ものごとを決めつけたり、たかをくくったり、ちょっとしたことで威張ったりへこんだりする人間って、愚かね」

 結局、できごとそれ自体に意味はないんだから、人間が勝手に前向きな物語として創作してみたり、後ろ向きにとらえて何時までも思い悩んだりするんだな。

「そっか……私は幸せになりたくて、ひとのいう通りの人生を歩んで、ひとを喜ばせたくてそのひとが喜びそうなことばかりしてきた。それで今があるんだけど、自分の思うとおりの人生を歩んできたとして思うとおりになったかどうか、今と違う人生があったとしてそれが幸せかどうか。何とも言えないわね」

 日本の敗戦についてみれば、なんか<日本の安全>だとか<誇りを取り戻そう>とか言い出す奴がいて、それがなぜか核開発と領土奪還という話になって、それがもとで戦争になって最後は敗戦。安全も誇りも失った。こう考えるとバカみたいな話で終わるんだけど、当時は誰もそれがバカげてるとは思ってなかった。もっともだと思ったことが全く逆の展開になった。

「前の敗戦だって同じよ。<列強の植民地の危機>から始まって軍事大国になったら、<ロシアの脅威を取り除く>になって、脅威を取り除いたら今度は<日本の権益を守る>になって、挙句の果ては中国を侵略してアメリカと戦争になって、最後はアメリカの植民地になっちゃった。当時はみなそれを大真面目に考えてたんだから滑稽ね。そして結局懲りずに、皆が忘れた頃にまた繰り返した」

 そうだね、しかも一流大学を出たthe best and the brightestの軍の参謀や官僚たちが大真面目に考えていたことがこれなんだな。問題は、あそこで違う選択をしていたらあの状況でどういう結果になっただろうか?、それが日本人の望む結果だったろうか? ということだな。一番確かそうなことはハルノート、アメリカの言いなりになっていたら戦争は回避されて植民地も失わなかった。原爆も米軍基地もなかった。あるいはグロテスクな軍事大国が温存されて、昔の北韓みたいな個人崇拝の奇妙な国になっていたかもしれない。いまごろ僕たち高麗人は日本の二級市民として埋没していたかもしれない。あるいは戦争がなくても、かつての帝国日本は破滅していたかもしれない。他の原因でね。かつて無敵のソビエト連邦が内部崩壊したように。清朝が辛亥革命で崩壊したように。

「私の今の空虚感は、他人の顔色ばかりみて生きてきたことと無関係かもしれない。自分の意思で生きてきたとしても、違う空虚感があったのかもしれない。そう考えるとホッとするような、それはそれで絶望的なような……」

 アハハハハ。妄想しすぎたね。もう寝よう。おやすみ

「おやすみ、ヨハン」


 その次の日のこと。僕は病院に赴き、スナを見舞った。彼女は明るい病室のベッドでスヤスヤと眠っている最中だった。看護師に容態をたずねると、もう気分は落ち着いて大丈夫だけれど、お薬で眠らされているのだと言う。本人次第でいつでも退院していいそうだ。

 あの日スナが選んだのと同じ、高価なブランドもののコートを枕元において、僕は病院を後にした。

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