Episode 4
部長が僕を酒にさそった。
「場が飲食店なだけでオフィシャルな会合だ。職務命令だから拒否はできないぞ」
むろん拒否する理由もない。夕刻、仕事が一段落した時点で僕は部長につき従った。
二人してタクシーで乗り付けたのはキタシンチ。言わずと知れた大阪を代表する高級歓楽街。洗練された大人の社交場だ。だがビジネスマンや資産家たちにかわって、いまや通りを闊歩する客の大半は軍関係者となっている。僕たちは黒服の男が脇を固める大型店舗の一角に吸い込まれた。
黒服に案内されたのはステージのある大きなホール。間接照明の薄暗い店内で、客はおしゃべりやギターの生演奏をたのしんでいた。街では餓死する人がいる一方で、こんなところで遊ぶ余裕のある日本人も少なくないのに驚く。
部長と僕がソファに座ると間もなく、ドレス姿のホステス数人がどこからともなくスーッと現れ、二人の脇に侍った。
「いらっしゃいませ。ようこそお越しいただきました」
その艶やかさたるや、あたかもモデルか映画俳優。目がチカチカするぐらいまぶしくて美しい。こんな長身の8頭身美女が昼間はいったい、どこに潜んでいるのか、不思議になるくらい妖艶だ。こちらが気後れするくらい。
黒服の男たちがブランデーやらアイスペールやらチャームやら、テーブルにそろえてはスッと引いていく。
「たまにはこういうところで飲むのも、いいだろう」
部長はそう言うと、両脇の美女に微笑んだ。慣れない僕はガチガチで居心地悪い。
「大佐。お酒、召し上がります? 今日もロックで」
美女はそう断ってから部長のグラスに氷を入れ、ボトルを傾けた。
「ああそうそう、こいつは僕の腹心の部下で、目をかけてる男だ。今は軍服を着ているが、普段は弁護士事務所で企業法務を扱っている、有能な弁護士だよ。兵役でここにいるのだが、軍人としても優秀でな、期待の新人だ」
まあ……美女たちは品よく驚いてみせ、うやうやしく挨拶をくれた。
「大佐の腹心だなんて、きっと将来を約束された方なんでしょうね」
照れてのぼせあがっているところへ、着物姿の女性がオーラを放ちながら現れた。ホステスが譲った大佐の隣のスペースに、彼女はすっと腰かけた。
「大佐、おひさしぶりです。ようこそいらっしゃいました。お待ちしておりました」
「おおママ、すまん。このところ忙しくて遊ぶヒマもなくてな。知ってのとおり、司令部襲撃の事件とかいろいろあっただろう」
「はい、あれにはびっくりいたしました。まだあんな元気な方々がいらっしゃるなんて」
ママは部長としばらく世間話をして、ではごゆっくり、と席をたった。
それからちょっと間、ホステスと楽しく語らったりチークダンスをしたりした。部長が人払いをすると、ホステスたちはすーっといなくなった。
身を乗り出すと、彼はこう切り出した。
「ヨハン。キサマよくやってるな。俺は満足しているぞ。お前は優秀だ。なにより俺とは気ごころが通じる。お前となら楽しくやっていけそうだ」
「千万のお言葉、恐縮です」
「おれは昇進試験の推薦状を書いてやってもいいと思っている。三段階特進で少佐ってのはどうだ? 職業軍人に転身するつもりはないか?」
部長はズバリと本題に入った。ほんとうにそんなことができるのだろうか。
「はい。正直、考えてはおりませんでした。なにぶん今までは弁護士修行中の身でしたので……」
「弁護士なんかやめちまえ。あんな七面倒くさい事務仕事なんざ、年取って暇をもてあましてからでもいいだろう。どうだ、俺と楽しくやらないか。ワクワクするような人生を保証するぞ」
僕は答えようがなくて苦笑した。軍はむしろ、今まで忌避してきたキャリアだというのに。
「おまえら特幹将校の存在は、むろん戦闘部隊の指揮を期待されてのことではない。士官待遇はたんなる学歴とのバランス調整だ。軍は民間の専門性に期待し、学部生の段階から人材を確保したかった。軍隊の視点で民間の知恵を吸収できる人材をな。テクノロジーが発達した現代では、戦闘員だけでは安全保障の諸課題に対応できん」
「承知しております」
「どうだ? 情報将校として俺の下で働いてみないか? 昇進試験はカンタンだ。教育部隊にいくわけじゃあない。それとはまた別コース、陸軍の諜報学校で活動のイロハを叩き込まれれば自動的に昇進だ。お前は弁護士だから座学の試験のほうは免除される」
「諜報活動……ですか?」
「ああ。ほかにも外交関連やら政治の後始末やら、軍とはかならずしも関係ない非合法の汚れ仕事だってある。大きな意味で国家のためと割り切らなければできないような……その代わり待遇は申し分ないぞ。表向きの基本給は安いが、裏のボーナスだけでお前の年収ぐらいは軽く超える。キサマがいま想像しているレベルとはちょっとケタがちがうぞ。もちろん国家公務員だから退職金もバッチリ。情報要員に年齢は関係ないから、定年など気にせず好きなだけ働けるし、情報機関は多種多様だから天下り先も充実してる。よりどりみどりだ」
「はぁ……」
「ぶっちゃけ、お前の思いつく程度の欲望だったら何だって叶うぞ。世界中どこのどんな人種の女だろうと、よりどりみどりで抱き放題。うまいもんはたらふく食えるし、高級車も乗り放題。高い酒だって飲み放題だ。どうだ? 自分では気づいてないだろうが俺のみたとこ、お前はこの仕事に向いている」
僕はリアクションに困って固まったまま、ドン引き状態。そういう贅沢にはトンと興味がない。だが、たしかにボンボンで育った割にはこういうヤバい世界にも、なんとか適応できているのは事実だ。凶暴な野生の本能だって覚醒しようとしているのも自覚している。
「弁護士なんざヤメロヤメロ、あんな地味で肩の凝る事務作業なんかやめちまえ。それよりよっぽど面白い人生があるんだぞ。世界をマタにかけるんだ。例の<令和維新の風>の幹事長暗殺事件のように、一発の銃弾が歴史を動かすことだってある。どうだ? 俺と楽しくやらないか? おれは忠実にサポートしてくれる優秀な部下が欲しい。そして俺の属する在日出身軍人の派閥を盛り立てていってほしい」
どうやら今回の酒宴は部長のリクルート活動だったようだ。だけど、部長が僕に目をかけてくれたのは、こういう下心あってのことだとは思いたくない。忠実な部下と派閥用員と言ったって、誰でもいいわけじゃないはずだし、よほどの信頼と能力評価がなければこんな話はもらえないはず。部長の言葉にウソはないと信頼できる。それに、この人のためだったら、という気持ちもないではない。部長を信頼して敬愛しているし、タテ社会に組み入れられる快感だって、オスの動物的習性から僕も持ち合わている。
「悪くない話です。部長の下でしたら、考えてもいいと思っています」
ご機嫌取り半分で僕がそういうと、部長は満足げにほほ笑んだ。
「たった一度の人生だ。よく考えてみろ。ただし時間はそう長くはやれんぞ」
僕はうなずいた。
「……ハイ、了解であります」
部長は安心したようにソファに深く腰掛けた。そしてブランデーのグラスを傾けた。
「ところで、スナとはどうなんだ?」
その言葉は全く予想外だった。部長からその言葉が出るとは思ってもみなかった。僕は動揺を隠せなかった。
「……はい、いい友達であります。楽しくやっております」
「おれのみたとこ、彼女はお前に惚れているな」
ドキマギして、心臓がバクバクしてきた。部長は何が言いたいんだろう。
「どうでしょうか。自分ではわかりません」
「財閥令嬢だそうだな。いい娘だ。美人だし教養があるし、人柄だって申し分ない。そういう女の存在が、お前の立身出世にどれほど貢献するか、お前は考えたこともないだろう」
僕は返答に困って沈黙するしかなかった。スナのことをそんな風に考えたためしはない。
「いいから彼女をモノにしろ。子供をもうけるんだ。いい家庭を築けるだろう。俺たち縁の下の力持ちには帰る場所、老後の居場所が必要だ。母子家庭になるのはホボ確実だが、お前と一緒なら彼女は幸せになれるだろう。いまのチームにいる以上、お前の仕事への理解もあるはずだからな」
僕はますます当惑した。そっちも、どっちかというと忌避してきたコースだから。
「あんな上玉ほっとくなんて、お前どうかしてるぞ。二度と出会うことはないレベルの女だからな。○○タマついてんのかお前は、まったく。だらしないヤツめ」
部長の乱暴な物言いに、頭に血が上って、クラクラしてきた。
「いいから今すぐにでもやっちまえ。彼女だって望んでるだろう。わからないのか、このトンチンカン。行け! 孕ませちまえ。俺が嫁にしたように」
部長はそう言って笑ったが、彼にしてはあまりにもデリカシーがなさすぎる。僕にはそれが意外で、少々気分を害しすらした。それはまるで女性を単なる性欲の対象として、動物として扱う感じがして、大切な友人としてのスナの一面を冒涜しているような気さえした。
「身を固める気は、まだありません」
僕の言葉を、部長は切り捨てた。
「いずれ通る道だ。お前が望もうと望むまいと。遅かれ早かれそうなることだ」
部長は予言めいたことを言って、ニヤリと笑った。
翌日、地下ダイニングのランチで、スナが隣に座った。彼女は気持ちよく挨拶をくれたが、僕はまっすぐに彼女の目をみることができなかった。どうして自分がやましい気分にならねばならないのか、よくわからない……悪いのは我が部長で、僕は何もしていない。
「おかしなヤツ。ヨハン、今日はなんか変ね……どうかしちゃったの?」
スナは何かを感じとったようだ。
「……別に」
僕は、しらばっくれるしかなかった。
ハラマセチマエ……その時、部長のあの声が頭の中でコダマしていた。ムラムラする欲望と、面倒からは逃げ出したい防衛本能が、僕を二つに引き裂いた。
次の容疑者は幼稚園の先生だった。どうやってシノいでいるのかわからないが、悪事は一切発覚していない。
僕はインターネットのプロバイダー、PCの型式、OS、ブラウザを調べあげ、サイバー部隊の同僚にコンピューター・ウイルスを処方してもらった。そして変態仲間を装い、そいつをEメールに仕込んでハッキングしてやったところ、やつのパソコンにはおぞましい犯行写真がわんさかとコレクションされていた。彼は児童ポルノのコレクターであり、わいせつ画像頒布会の幹事、教え子にイタズラを繰り返すような鬼畜野郎だった。児童買春だって日常茶飯事という有様だ。僕は被害児童の両親とマスコミに証拠写真を送付してやった。あえて手を汚さずとも、厳罰化されたDBSの制度によってヤツは永遠に仕事から排除され、監視され続けるとともに、社会的にも抹殺されるはずだ。そして変態のアイコンとして永遠に光り輝く存在になる。死ぬよりつらい話だ。
正直、変態の相手してると頭がおかしくなりそうで、うんざりする。仕事もしながら疲労もピークだ。しかしスミレの笑顔を思い出す度、理屈抜きのエネルギーが沸き起こって、今まで何とか乗り切ってこれた。それが今度は、部長のリクルートで決意が揺らぎはじめている。
こんなことしてていいのだろうか?
キャリアを台無しにしないだろうか?
将来に響かないか?
スナとの未来に水をささないだろうか?
今まで想像すらしなかったような未来への期待、打算、なるかどうかもわからないような未来に対する不安が頭をよぎり、僕を惑わせた。自分は取り返しのつかないことをしでかしたのではないか? なにか損をしてないか? そういう後悔の念が僕をさいなみ、自らの軽率さを恥じさえした。
その夜、夢にスミレが現れた。スミレはお花畑で花を摘んでいた。僕が近づくと彼女はにっこりと微笑み、小さな花束を差し出した。あまりのかわいらしさに、僕は思わずスミレを抱き上げ、頬ずりした。スミレは僕の首に両手をまわし、ギュッと抱きついた。
「スミレちゃん、会いにいかなくてごめんね」
そういうと、スミレは小さく2度、首を横にふった。そこへポツポツと雨粒が落ちてきた。
「ウチ、雨の日キライ」
僕の胸に顔をうずめ、スミレが言った。
「どうして?」
「お星さまが見えへんから」
「お星さまが好きなの?」
すると、スミレはまた小さく、2度首を横にふった
「ウチいっつもな、お星さまにお願いしてるねん」
「へえ、どんなこと?」
「あんな(あのね)、ヨハンのおっちゃんと、つなのおねえちゃんが会いに来てくれますように、って」
僕の胸は罪悪感でいっぱいになった。
「……ウチのこと、もう、ほかさんといて(捨てないでね)」
そう言ってスミレが泣いた。
涙があふれてあふれて止まらなくなった。