Episode 3
うすぐらい商店街の路地裏で、スミレとツヨシがおママごとをしている。僕はうれしさのあまり、走り寄って大声で呼びかけた。
「スミレちゃーん! 生きていたのか?! おじさんだ! ヨハンのお兄ちゃんだよ!」
だけど、スミレは僕に気づかない。ツヨシを見ると、初めて会ったあの時のようにミイラのままだ。
僕は必死で呼びかけ、近づこうとするんだけど、足が思うように動かない。と、その時そこへ、あの薄らハゲの親父が横から近づいてくる。
「危なーい! スミレ、逃げるんだ! 聞こえないのか?!」
スミレとツヨシは僕の声が聞こえないのか、まったく動じる様子がない。やがて薄らハゲはズボンを下ろし、ぼってりしたイチモツを指でつまみだした。ますますスミレに近づいていく。僕は仕方なくヒップ・ホルスターからピストルを取り出し、薄らハゲめがけて撃ちまくった。薄らハゲは血まみれになってその場に倒れ、ようやくスミレが僕をうつろな目でみた。
「ああ、よかった。スミレは無事だ」
そう思ったのもつかの間、今度は別の人物が近づいてくる。手にはナイフをもち、軍服姿の男だ。しかもそれは高麗陸軍の軍服。
「キサマ、その子をどうするつもりだ!」
必死で呼びかけるが男は反応しない。どんどんとスミレとの距離を縮めていく。僕はピストルの弾を打ち尽くしていた。必死になって重い足をひきずって、ようやく男の肩に手が届きそうになったその瞬間、男がこちらを振り向いた……
僕は寝床で目が覚めた。軍服姿の男が近づいた時点で半分覚醒していたが、その時点では夢とうつつの境目だった。正気を取り戻したのは男が振り向いた後だった。しっかりと顔を見たのに思い出せない。
薄らハゲの親父を殺した日から、僕はこんな悪夢に悩まされるようになった。この夢と同じ夢を何度も見ることさえある。そのうち、この夢が出てくると、これは夢だと夢の中でわかるようにまでなった。
僕は何とか寝床から起き上がり、冷蔵庫の扉を開いた。レモン炭酸水をグラスに注いでから一息に飲みほした。何をどう考えて、それからどうするべきか、まったく思考が及ばない。僕は寝床に戻ってオーディオのスイッチを入れた。
この前の俸給日あたりに注文したハイレゾ・オーディオが届いていた。マーラーをオーケストラで聴いてみたくなったので買ってみたのだ。早速、荷をほどいて組み立ててみたが、小さな弁当箱みたいなアンプにブック・シェルフのスピーカーをつなぐだけの、ほんとうにシンプルな話。プレーヤーは自前のモバイルで十分。それでド迫力のオーケストレーションが楽しめる。まるで目の前で演奏しているみたいだから聴き惚れてしまう。
マーラーの交響曲をフルで聴いてみたが、アダージェットの印象とは異なり、総じて難解で大仰だ。むしろベートーベンのほうがメッセージがストレートでスッキリ聞かせる。それに多様なテーマと構成があって、飽きることなくワクワクさせてもらえる。20世紀の巨匠の音源が音源サイトに目白押しだし、最新の音響技術でナマの演奏に近い音源もそろっている。田園だとか、弦楽四重奏だとか、あと劇音楽の「エグムント」がオキニになった。仕事が終わってシャワーを浴びて、ビールを飲みながら……いつしか僕はオーディオを楽しむようになった。
僕はモバイルを取り出して、よっしーに電話をかけた。
「ああ、あにさん、何か用でっか?」
よっしーはすぐ電話に出た。
「おい、いい加減にしろよ」
「何がでっか?」
「もっと、まともなピストルを持ってこいよ。ダーティ・ハリーじゃないんだから、44マグナムなんかもってくるんじゃねえぞ!」
「ああ、すんまへん。あれはどっかのアホが物珍しさに手にいれたんでっけど、使い道がなかったんでその辺にほったらかしてあったんですわ。モノはまともでっせ? 新品同様」
「お前なあ、猛獣ハンティングじゃないんだから、あんなドでかい拳銃いらないだろ? しかもライトロードのタマ撃つんだったら、余計いらないだろう、あんなシロモノ」
「なんでもええ、言わはったんはアニさんでっせ? モノはええもんやし文句言われる筋あいや、おまへんわ」
「まあ、いいけど……もっと持ち運びのしやすいのを持ってくると思うだろう? 普通」
「……すんまへん」
「この次はもっと小さいのを頼む。痛いけどすぐ死なないような……口径の小さいのでたくさん弾が入ってるのたのむ。ジワジワ苦しみながら死ぬようなやつ。トドメさすにしても、もう44マグナムはいらないからな」
「ご希望には添えへんかもしれんけど、堪忍してください。できるだけええのお持ちしますよってに。あんま無茶いわんとっておくんなはれ。ご希望どおりにしよう思たら、すぐにはブツ、ご用意できまへんわ」
「金はいいのか?」
「ルフィはんからぎょうさん預かってま」
「ルフィってだれだ?」
「こないだ一緒にいたお友達でんがな」
「ああ、わかった。よろしくな」
ある晩、マーラーを聞いていると、スナから電話が。
「まあ、マーラーね」
「そうさ。アダージェットだよ。君のピアノで好きになったんだけど、やっぱオーケストラだね。オーディオを調達したんだ」
僕はオーディオのスイッチを消した。
「でもね、僕の好みが実はベートーベンだというのがよくわかったよ。エグムントが今イチオシ」
「まあ、クラシック初心者のいいそうなことね。あなたの言っていることは単なる当たり前の話。絵画で言えば、モネの絵はすばらしい、ゴッホのタッチが好きだ、ってのと同じ」
「よくわからないけど、何だっていいじゃないか。楽しければ」
「ようするに、それだけじゃないんだよ、って話よ。奥が深い世界なんだから。まだ入り口しか知らないんだね、って玄人には思われる話なの」
「なるほどね」
「ブラームスもお聴きなさい。ブラームスはベートーベン後継者というプレッシャーに、何年もシンフォニーを描けなかったほどだったの。それほどに緊張を強いられたのね」
「ブラームスなんてハンガリー舞曲しか知らないや」
「あはは、ベタねえ。もっと深淵な絶対音楽が彼の代表作なんだから。ベートーベンの後継者だからマストよ。シンフォニーの第一番から聴いてみれば?」
「わかったよ。聴いてみよう。ところでね……」
「なあに?」
「うっかり君の話を母にしたら何を勘違いしたか、写真を送れとうるさいんだよ。それで事後報告になっちゃったけど、無断で送ってしまった。前にBBQした時のツーショット。ごめんよ」
「あら、光栄だわ。フィアンセ扱いされちゃったわけね。……実はね、あたしもヨハンの写真を送らせてもらったの」
君もか!、二人は大爆笑した。
「苗字と本貫、生年月日は聞かれなかったの?」
「もちろん、しつこく聞かれたさ。でも、さすがにそこまでは……。けどね、栄光精工の跡取り娘だと言ったら、そんなことはすっ飛んだよ」
二人の大笑いは止まらなかった。
スナの話は高麗社会のオバさんたちアルアル、なのだ。高麗人の結婚はまず、一族の苗字と本貫の確認から始まる。同じ血筋でさえなければ、そこはとりあえずクリア。それが済んだら次は名前や生年月日を携えて、祈祷師・シャーマンのところへ持って行って相性をみてもらう。シャーマンはどんどんツクツク太鼓を打ち鳴らし「いまより、お告げを語って聞かせるぞよ。よいかよく聞け……」てな具合だ。街の占い師というパターンも多い。結果によっては、それで結婚が破談になることだって珍しい話ではない。馬鹿げた迷信だけれど。ま、考えようによっては他愛もないお遊びとして、レクリエーション的に楽しむのはアリかもしれない。度が過ぎることさえなければ……。
「ご両親は僕のこと、何と言ったか知りたいね」
「やめとくわ。あまり楽しい話でもないし」
「なんだ、芳しくなかったんだね。嫌な感じ」
「ヨハンのほうはどうだったの?」
「うちは大喜びさ。晩酌のときに二人で盛り上がって楽しんでるみたい。君の写真でね」
「うーん、うれしいような困ったような、微妙な気分」
また二人して大笑いした。
「うちの両親が何と言ったか、知りたい? がっかりしないと約束できる?」
言いたくないと言ったはずのスナが、自分から話を持ちかけてきた。気分を悪くしたくない、スナの両親を悪く思いたくない、という躊躇より興味関心が勝った。
「うーん、まあいいや。なんと言われようと。言ってみて」
「それが辛らつなの。<半日本人野郎の弁護士か、お前のまわりにはその程度しかいないのか? イマイチだけど、お前が好きなら仕方ない>ですって……ごめんなさいね。うちの父は権力者だから思い上がりが甚だしいし、教養が足りないから他者の尊重とか、多様性の認識が欠如しているのよ。おまけにビジネスマンだから損得勘定とか社会的ステータスしか興味がないの。でもね、言い訳になるけど、これでも最大限の好評価だから安心して?」
「安心はできないけど、理解はできる話だね。思考は環境に支配されるからね。お母さまはどうだったの?」
「母はね、人物は悪くない、男前も悪くない、ですって。やっぱり社会的ステータスが気になるみたい」
「なるほどねえ。確かに気分はよくない話だけれど、人口に膾炙した話だ。理解はできるね。同時に、君が気の毒だ。そういう世界に身を置いている……」
「あたしが外の世界に飛び出した理由がよくわかったでしょう?」
「どうだろう、自分に引き寄せてなら想像は及ぶかもね。完全な理解はできないかもしれないけど」
「考えてみたの。じゃ、例えばユニコーン企業、ベンチャー起業家だったら何と言うか? やはり同じでしょうね」
「ああ、そうか。住む世界が違いすぎるんだな、僕とは」
そう言うと、スナは沈黙してしまった。
「でも、僕は思うんだ。一見理不尽かもしれないけど、結婚なんて社会制度なんだから、格差社会の人間界では分相応の相手とするのが無理がない話かもしれない。そのほうが無用の軋轢とかトラブルから解放されるし、穏やかな人生が送れるかもしれない。恋愛とは別なんだから仕方ないよ」
スナは沈黙したままだった。何か気に障ることでも言ってしまったか? あるいは期待した返答ができなかったのか? 僕は判断に迷った。スナは意気消沈して言った。
「……あたしは、自分の好きな人と添い遂げたい。朝起きて、隣で寝てる人が、誰でもいいってわけじゃない」
彼女の気分を無視して、評論家ぶってしまったのがいけなかったようだ。
「そうだったね。世の中には収入や家柄で結婚する人が多いけど、君はそうじゃなかったね」
「うん、ありがと、ヨハン……今日は疲れたからもう寝るわ。おやすみ」
彼女はそういうとログアウトしてしまった。後味の悪い最後になってしまった。
何日かのち。ベッドで隣に寝ている、すっパダカのユヅキに僕は尋ねた。
「ねえ、結婚って恋愛と同じだと思う?」
ユヅキはごろりと寝がえりを打って、僕に抱きついた
「どうしたの?」
「いや、どうってことないけど。まじめに答えて」
「同じわけがないでしょ?」
「地位や収入さえ合えば、どんなヤツとでも結婚できる?」
「もちろん、最低限の要求は満たしてないとね。健康で清潔で……バカはだめ。逆に、金も地位もないやつと結婚して何のメリットがあるの?」
「愛がなくてもできる?」
「愛は途中でなくなるからね」
「ある程度の男だったらセックスできるわけね」
「ま、愛着はそのうちわくから。してもよくなってからすれば、ね?」
「ふうん。後悔とかしないかな?」
「誰としたって後悔するでしょ、普通」
「ふうん、そんなもんかねえ」
「そんなもんでしょ」
「君はもう旦那に飽きている? 不満はないの?」
「最低限、子供さえ作れれば、あとはいいんじゃないの? してもしなくても」
「だから外でするんだね。きみは」
「まあ、失礼ね。何が言いたいの?」
「別に」
「とにかく、もうアナタはあたしのもの。放さないから」
ユヅキはそういうと、僕のペニスを思い切り握った。僕はそれをふり払うと、もう一度ユヅキに挿入した。
「アン……」
ユヅキは小さく、あえいだ。