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Chapter 1
最上階の将校クラブのラウンジで、誰かが備え付けのグランド・ピアノを弾いていた。
エレベーターの扉が開いたその時、それがバッハの作品だというのはすぐわかった。
無機質で、幾何学的……
そして淡々として、ただただ美しい、あの独特の旋律
それが空間を満たしていたからだ。
のみならず、その演奏者が誰か、というのも同時に、おおよそ察しがついた。こんな時間に、こんなところでバッハを奏でるような酔狂なやつなんてアイツしかいない。
僕は入口付近のテーブルの椅子に腰かけ、曲が終わるまで黙ってそれを楽しんだ。
演奏が終わったとき、「ブラボー!」のかけ声とともに、たった一人のバラバラとしたまばらな拍手がウシロから沸き起こった。演奏者は少し驚いてふり返り、それから笑みをうかべた。彼女は立ちあがると少し膝を落とし、僕にむかってお辞儀をした。ヨーロッパの女性貴族がするようなカーテシーで。
僕はピアノに近寄って、ヒジでもたれかかった。
「ゴールドベルグ変奏曲だね。母がそのアリアをよく弾いていたよ。グールドのCDだってウチにあった」
知ったかぶりをした僕に、スナはイタズラっぽい笑みを浮かべてこう返した。
「ブッブー、残念でした。アッハッハ……バッハまでは正解だけど、それは誰でもわかることだから自慢にはならないわね」
「えーっ、マジか。ジャなんていう曲?」
スナはもったいぶって、こう答えた
「フフフ……これはねえ、チェンバロ協奏曲。第5番へ短調、ラルゴ。曲名は似ても似つかないわね」
「へえ、ピアノで聞くとゴールドベルグみたいだね。てっきりそうだと思ったよ」
「うん、確かによく似ているわ」
僕はピアノの長椅子の隣に腰かけ、おねだりをした。
「ねえ、マーラーのアダージェットを頼むよ」
彼女はますます勿体ぶった。
「真昼間っから気分じゃないわ。いまならこうかな?」
スナは立ち上がると中腰になって、ブギウギみたいなのをかきならした。どうやらそれは、スタイル・カウンシルのMic's blessingという曲のようだ。僕は思わず足でリズムを、太モモを手でたたいてで拍子をとった。
「……フゥ!」
演奏の終わりに、スナが気を吐いた。
僕は人差し指でたどたどしく音を探しながら、間違い間違い、アダージェットのメロディーを奏でようとした。ニコニコしながらそれを見ていたスナは、やがてそれがアダージェットらしい、とわかると、僕の手に自分の手をそえて「そうじゃないわ、ここよ、ここ。そう……」と言いながら、鍵盤の位置を示してくれた。そして何とか形がついてくると、たどたどしい僕の演奏におつきあいして、拍子のズレた伴奏をつけはじめた。
同じところを何度も何度も繰り返した。あまりにもスットンキョウにテンポがずれるものだから、二人はだんだん笑いがこみあげてきて、ゲラゲラ笑いながらピアノを連弾した。
「原曲は嬰ハ短調だから、ヨハンの伴奏、転調がタイヘン」
ピアノを弾きながら、スナはやがて僕の左肩に頭をもたれ、ウットリとして幸せそうな表情を浮かべた。
彼女の髪からただよう甘い香りに、僕は少々フクザツな気持ちがした。
あなたが恋焦がれるほど、僕はあなたを愛していない
それに、僕には道ならぬ逢瀬を重ねる女性まで、ほかにいる
こんな風に親しみを込めて接してもらえるような資格は、僕にはないというのに……
このヒトは友達以上・恋人未満の大切な親友だ……それなのに
全幅の信頼を寄せるこの女性に、何も言わず微笑んでいるだけの僕は不実とは言えないか?
あるいはひとつの優しさの形として、許容されるべきことなのだろうか?
やさしい嘘? それともただの偽り? 偽善? 芝居?
だとしても、恋人でもないスナに向かって「僕はあなたを愛してない」などと、ブシツケに言う筋合いもないのだけれど……
その一方で、肌を密着させて親密な状況を楽しんでいるうち、僕はある種の暴力的な衝動に駆られていた。身勝手にも、スナの肉体で若い欲望を浄化させたいという衝動に……。
その新鮮で柔らかな肉体が想像以上の悦楽をもたらすことは間違いないし、彼女も喜んでそれを受け入れてくれるであろうことは疑いない。……ただ、それをしていいものか?
道徳的に、というだけではない。友達以上・恋人未満の、この刺激的でイイ感じの関係がぶち壊しになることもまた確実なのである。
そうなった以上は元にはもう、戻れない。失いたくない。大事にしたい。そのことは、たとえスナ自身が「ひとときの秘め事」でいい、と許してくれたとしても同じなのだ。
そして、ひとたびそうなったなら、僕は彼女の付属物として永遠に縛りつけられることになるだろう。もちろん、それはそれで悪くない。だけど、その先はどうなる? 僕はスナという太陽の軌道を永遠に回り続ける惑星か、原子核の周囲を回り続ける電子のように閉塞状態に陥ってしまう。
ほんのゼロ・コンマ何秒の快楽の代償としては、失うものが大きすぎる。
少なくとも今、この自由な年代は……僕たちは、出会うのが早すぎた
あと10年もすれば、僕は迷いなくこのひとを喜んで受け入れられるというのに……
スナの肉体に未練タップリで、その日彼女とは別れた。
週末になると僕はハーレーにまたがり、淀屋橋あたりでスミレがいそうな孤児収容施設を探した。
ただ、それは思ったよりも大変な作業だった。
普通の民家を改装した建物が、収容施設の代用として多く利用されていた。そこでとりあえずは雨風をしのげるようにしてやり、あたたかな食事で日々の空腹を満たしてあげて、簡単な医療を施してやる。それほど孤児収容は急場しのぎで応急的な福祉事業だから、公的な記録などあろうはずがない。非効率な人海戦術でしか彼女の所在をさがし求めることはできないのである。
ところが、これがいっこうに要領を得ない。スミレの名前で探しても、施設の職員は当惑するばかりだし、仮に心当たりがあったとしても人違いだったり。
そのうち、だんだん僕の不安は強くなっていった。ひょっとして、もう金輪際あの子と会うことはできないのではないか?
「こんなことなら見ないふりなどせずに、ちゃんと居場所を把握しておくべきだった……」
いまさら後悔してもはじまらなかったが……。
ただ、とある一軒の施設だけが有望な候補となりえた。スミレの名前と人相風体が一致する児童に、心当たりがある職員を見つけたのだ。
対応してくれたのは大阪のオッカさん風の中年女性施設長だった。彼女は割烹着で手を食用油まみれにしたまま、スミレが施設を脱走したと、早口の大阪弁で教えてくれた。
「お恥ずかしい話ですけど、ここは環境が劣悪で……収容児童の間でイジメや暴力の問題が常態化しとりまして、脱走があとを絶ちません。みなそれぞれ問題をかかえ厳しい環境で生きてきた子ばかりですから、一筋縄ではいかへんのです。おそろしい話ですが、児童の間でレイプ事件すら起こるほどでして……」
同じ日本とはいえ、両親がそろった暖かい家庭がある一方、このような別世界も存在するのだ。僕はスミレの可憐な笑顔を思い出し、やりきれない思いがした。
そのうちまた収容されることもあるからと、スミレの消息がつかめ次第連絡をくれると施設長は約束してくれた。ただ、それもはなはだアテにならなそうだったが……。
僕は淀屋橋付近のコッチェビたちからも情報を得ようと試みた。小賢しそうな子を見つけては声をかけた。
「淀屋橋の保護施設にいた、スミレという女の子を知ってるかい? 情報をくれたら100ドルあげよう。本人を連てきたら1000ドルだ」
僕はそうふれこみながら用意していた1ドルを孤児たちに配って回った。
ある日のこと。一人の浮浪少年が、僕におそるおそる近づいてきた。
「おっちゃん、ホンマに1000ドルもくれるん?」
「もちろんだよ」
そう言って保証しても、少年は「ホンマにホンマにくれるん?」と念を押す。僕が1000ドルの札束をポケットから出し、チラつかせて見せると、とたんに少年の目は輝いた。
「ひゃっほう! ……けどな、スミレは死んだで」
「どこでだ?」
僕は驚いてそう尋ねた。
「先週な、あっちの公園で死んどってん。警察が来て死体持っていったわ。嘘ちゃうでぇ、テレビでもやってたし……」
その瞬間、僕は全身から血の気が引くような思いがしたが、彼に10ドルを渡し、こう言った。
「それが僕の捜しているスミレだったらもう50あげよう。もし違ったとしても、イイ情報を持ってきたらやっぱり50あげる。だから金を受け取りにまたここにおいで」
少年は桁の少ない現ナマを見せられて少々不服そうだったが、それを握ると、とたんに上機嫌になって、大喜びで去っていった。撒き餌としての効果は十分ありそうだ。
「他のやつらにも声をかけて、情報をどんどん持ってこいよ! 金は必ずやるからな!」
そう声をかけると少年は振り返ってうなずいた。
その時だ。僕は背後から声がしたのに気が付いた。振り返ると一人の美しい少女が立っている。
「おっちゃん、エフいらん?」
「エフ? 何のことだ?」
僕がそう尋ねると少女は怪訝な顔をする。
「え、マジ知らんの?」
「知らないね」
「おしゃぶり。フェラに決まってるやん」
少女はつっけんどんに言い放った。
「フェラって、フェラチオのことか?」
少女は黙ってうなずいた。
彼女がなぜ近づいてきたのか、僕はそこでピンときた。僕が子供たちに金を配っているのを見て、おおかた体でも買いに来たと勘違いしたのだろう。彼女らは日頃そういう大人ばかり目にしているのだから、やむを得ない話ではある。
「一回10ドル。長いのやったら5分毎に10ドル。日本円はなし、暴力も無し。本番も無し」
「10ドルって君……年はいくつだ?」
「……そんなん、どうでもええやん」
都合の悪いことを詮索されて、少女はふてくされた。
「お金を上げるから本当の年をいってごらん。日にいくら稼ぐ?」
「多いときで2~300かな。少ないときはゼロ」
「じゃ、100あげるから正直に年を言ってごらん」
「はたち」
「うそつけ、どうみても中学生じゃないか」
「……14」
僕は財布から金を出して彼女に与えた。
「100あげるから、今日はもう、客をとらないで家に帰りなさい」
ところが少女は妙な顔をするだけで、金を受け取ろうとはしない。
「100やったら10回おしゃぶりできるで?。口の中でしたってエエねんで?」
「おじさんは占領軍の軍人だ。お金を受け取っても変なことをしろとか言わないから」
少女はしぶしぶ金を受け取った。
「……なあ、なんでお金くれるのん?」
どうやら彼女、僕がうさんくさいらしい。幼い年齢ですっかり人間不信に陥っているようだ。
「僕は今、君より小さな少女を探している。その子のことが心配なんだ。君だって子供じゃないか。こんなことしてちゃダメだよ。そのうち大変な目にあうぞ」
「……うん。もう何べんも怖い目に遭うてる」
そういうと少女は耳の裏の裂傷の縫合痕を見せてくれた。
「頭わしづかみにされて、思いっきりノドに突っ込まれるねん」
「さあ、わかったらもう帰りなさい」
僕がそう言うと彼女はすごすごと歩き出した。そして突然立ち止まったかと思うと、礼を言った。
「……おっちゃん。ありがと」
僕は黙ってうなずいた。
「君、ほんとは男の子だね?」
「うん」
「やっぱりか。そのうち日本も立ち直るだろうから、それまで希望を捨てずに。ちゃんと勉強はしとくんだぞ」
「わかった」
その子はそう言うと明るい表情になり、しっかりした足どりで去っていった。
子供の頃、僕は周囲の大人達からいっぱい愛情を注がれ、何不自由なく育てられた。
それが当たり前だったし、特別なことだと思ったこともなかった。
ところがどうだ? この国の子供は大人の食い物にされて、すっかりすさんでしまっている。このまま大人のおもちゃにされたまま教育も受けられずにいたなら、大人になってからも自立できずにマスマス食い物にされるハメになるだろう。この国の子供たちを見ていると、いろいろな思いがこみ上げてきて、切なくなってくる。
僕は思わずその場で泣いた。
その夜、SNSのサイトの着信音が鳴りひびいた。
アプリを立ち上げると、全裸のユズキの写真にメッセージが添えられている。どこかのリゾートのホテルだかコンドミニアムだか、オーシャンビューの窓際に、一糸まとわぬユヅキが背を向けて立っている。なまっちろいウナジからなまめかしい曲線が臀部まで連なっていて、すごくキレイだ。
「あらまあ、いきなりリゾートかよ。いいとこの有閑マダムなんだからなあ、……ったく」
そえられたメッセージにはこうあった。
答えが見つかったかも
昔の心の傷 癒せないまま
それがずっと私につきまとって
すべてを台無しにする
何かで心が満たされることがあっても
ぜんぶ帳消しにする
ブッダのいうように何もかも捨てて 自分を無にできれば解決できるんだろうけど
マインドフルネスの修行でもして 自分をごまかすスキルを身に着けようか
それですべてが解決するかもしれない
そんな気がする 今は
なにもかもかなぐり捨てて まっさらの人生がはじまったら
違う毎日があるのかもしれない
……どう? 私が欲しい?