Chapter 3
「おもしろいのね。仏教系の右翼ってあるんだ。神道じゃなくてもいいのね」
その夜、ユヅキはそう言って笑った。
「ショーンの話では、大戦前の大日本帝国の時代からある思想の一派らしい。それどころか一時は一世を風靡したらしいよ。高度成長期の1970年代に国民の所得が向上して核家族化が進むまで、日本人はどこかの神社の氏子だし、寺の檀家だった。神仏習合、いい加減でデタラメなチャンポン宗教ね。今とは違って仏教は行事を通じて日常に深く浸透していたし、檀家の家族は婦人会とか青年会とか組織化されて統制されていたから、今とは違う時代的な背景があるね。軍の幹部にさえ、天皇万歳を叫びながら有力仏教宗派の熱心な信者だった人もいたのは有名な話だ」
「1960年代からの高度成長期以降は、そこにキリスト教の文化まで根付いて。クリスマスケーキとかツリー、チャペルでの結婚式とかね。葬式は寺で結婚式は教会でとか、キリスト教やイスラムの一神教の世界ではありえない、冒涜に近い話だけれど。そういう意味では日本の文化は多神教なのに、一神教の国家神道を無理やり持ち込んだのね。だって天皇は絶対で、神聖にして不可侵だというんだから。ムチャクチャだわ」
「でも、そのことは日本人にとってはあたりまえ。自分のことは棚にあげて、中国人や朝鮮人はおかしいとか、わけがわからないとか言ってるんだから」
「あー、言われてみれば確かに。日本人は自分が変だとか自覚がないわね。当たり前だけど」
二人は笑った。
僕はウイスキーのグラスを飲み干した。
「それにしても、自分という存在は無なんだから、無私になって全体に奉仕するという彼の発想自体は確かに道徳的な面があるんだよ。ユヅキが言っていた、生きる目的とか意味の話に通じる」
「全体に奉仕したからと言って、自分の問題が解決するものでもないけれど」
「その答えはね、自分を突き抜け集団に至れ、ということさ。発想の転換だ」
「理解はできるわ。親にとって子供や家族の幸せは自分の幸せだし、自分の命より大切なものだから」
「家族と国家の間には相当の飛躍があるけれどね。それに彼の思想だと、奉仕の内容が非道徳的かどうかは問題にしない」
「その矛盾はどう埋めているの?」
「全体としての調和らしい。いろいろなハレーションがあって作用反作用で進歩調和が訪れる」
「そこだけ弁証法的唯物論なのね。共産主義じゃないの」
「なるほど、いちいちケチをつけだせば、ただの変な思想だね。彼が話せば一貫性と説得力があるんだけど。ただ、物理法則は共産主義とはイコールじゃないよ、レッテル張りだ」
「仏教の唯識思想にも弁証法みたいなの、あるのかもしれないわね。まあ、右翼・国家主義と一言で言っても、実際は様々なグラデーションがあるのね」
「僕たちにとって問題は、どのクラスのどの分野に人材が散らばっていて、どんな人脈があるかなんだよ。政権の中枢さえにぎれば、少数の集団が国家全体を牛耳れるんだから」
ユヅキは深くため息をついた。
「道徳の完成とか、全体としての調和とか、そんなのどうだっていい。私にとって救済は私個人の救済だから、無私になんてなれないわ。日本人がみなハッピーでも私が満たされないなら意味がない。いま自分が生きている意味が知りたいのよ。どうすれば自分の生が充足できるかが知りたいの。仏教の<縁起>の概念、相互主義とか相対主義なんて自分の関心とは嚙み合わない。そんなの誤魔化しにしか感じられないわ」
「そうだねえ。そういう思想は国家の侵略主義や膨張主義に利用されるだけだ。権力にとっては都合のいい話だからね。ゲリラの親玉は、侵略の反作用として権力批判や平和主義が発生したことを進歩ととらえるんだろうね」
「だけど、それにしたって100年もたたずに振り子が反対にふれて、日本は軍国主義になって破滅したんだから、意味なんてない。私には今いる個人が救われてナンボよ」
「ゲリラの親玉はいった。じゃあ、自分自分と言ってみたところで、君は自分を救うことができるのか? ってね。僕は反論できなかった。個人の救い、個人の救い、と念仏を唱えたところで誰も救われないよ」
ユヅキはまた、ため息をついた。
「そうね……タダのどうどうめぐりね。だとしたら、人生なんて重荷を背負わされて、ただ傷つくばかり。なんのために生まれてきたのかわからなくなる。成仏なんてできないし、したくもないわ」
「……わからない。僕は君の言うことがよく理解できるのに絶望してない。未来があって意欲があれば、苦しいとか辛いとか思わないのかもしれない。明日楽しいことがあるとの期待があれば生きていけるのかも」
「でもヨハン、それだと未来や期待をもてない人が救われないわ。未来があっても希望を持てない人が生きていくにはどうすればいいの? みな絶望して死ぬしかないの?」
「死や絶望にはフタをして見ないようにするしかないのかなあ。でも、それだとただの誤魔化しになるかもしれないね。他人と比較して自分の不遇を嘆いていたら不幸にしかならないけど、不遇を忘れたところで悲しい現実は消えないからね。ゲリラの親玉に言わせれば、天皇のために奉仕して人生満足だ、ということになるようだけど」
「生きる目的や、自分にとっての幸せとは何か、が理解できているかどうかなのかな。でも、それが他人をないがしろにしたり傷つけたりするものであったとしたら? 何でもいいわけじゃない」
「ありていに言えば、他国を侵略して外国人を殺しまくっても日本人が幸せなら、それはそれで充足されてはいることになる。その先に破局が待っているとか、国際的非難を受けるとか、歴史に裁かれるとかはまた別問題だからね」
「刹那主義ね。その次の瞬間に死ねれば、それはそれで完結しているけど。私は周囲の人と末永く幸せになりたい」
「だったら、ユヅキの幸せって何?」
ユヅキは虚空を見上げた。
「……子供たちと楽しく過ごせて、好きな人と一緒にいれて、自分の好きなことが楽しめて、周囲の愛するひと、大切な人たちが楽しそうだったらいいのかな?」
「それは長続きしないね。子供は巣立つし、好きな人はやがて嫌いになって、そのうち死んでしまう。自分の好きなことなんて飽きちゃうし、やがては老いて何もできなくなる。いまを生きるしかない。それに……」
「それに、なあに?」
「いまユヅキが言った幸せって、今のあなたにはもう、既にある。少なくとも僕にはそう見える」
ユヅキは絶句した。
「……確かにそうだわ」
「だったら、今のあなたに足りないものは何? どこから渇きが生まれているの?」
ユヅキは力なくつぶやいた。
「……結局、私の問題?」
「そのようだね。そうとしか考えられないね」
「どれだけ何かに打ち込んでも、いくら何かに溺れても、いつだって救われないの。すぐに虚しくなるから」
「じゃあね、今の自分ではなくて、いままでの、過去の自分が問題なのでは?」
ユヅキはそこでドキリ、としたように見えた。
「確かに、そうかも知れない……」
僕は言った。
「そうだとしたら絶望だ。過去はもう君には変えられない」
グラスのなかの、気のぬけた炭酸水をユヅキは口に含んだ。
「結局、いまを生きるしかないんだよ」
「いままでの二人の議論は抽象的すぎて、何の意味があったかわからなくなっちゃった……」
ユヅキの言葉に、僕は思わず笑った。
「確かにそうだね。そのこと自体、君の問題のヒントかもしれないね。漠然とした不安を語ってみても救われないし、実らない」
「でもね、どのあたりがストライクゾーンで、どっからが見当違いか、手探りできたかも」
「だとしたら、うれしいね」
「ううん、いつもそうなの。いくら偉い先生の幸福論とか哲学書を読んでみても、核心的なところはアイマイなまま、周辺だけなぞって終わるのよ。おもしろい、フムフムそれで?ってワクワクしながら読み進めても、最後は自分次第、みたいなね」
「心配ないよ」
僕の言葉にユヅキはキョトンとした。
「どうして?」
「適当なところで君の寿命のほうが先に尽きるから」
これにはユヅキも思わず苦笑いするしかなかった。