Chapter 2
オフィスに戻ると僕は書類を机に放り投げ、椅子に深くもたれかかった。
今日一日の出来事が整理しきれないまま、僕はショック状態だ。
ムラカミは、いままでに出会ったことのないような異次元の人種だ。
すごく偏っているのに切れ味がするどくて、なんだか怖い……。
反論しようにも、彼自身が自分の利益を放棄しているんだから、とりつくしまもない。
……それにしても部長はいったい何者なんだろう?
ムラカミと部長はどういう関係?
僕が今、まきこまれているこの世界は一体何なんだ?
そのときモバイルの呼び出しが鳴った。アイコンはユヅキだ。
「ヨハン、いま時間ある?」
「勤務中だけど」
「今日会える?」
僕は思わず腕時計を見た。
「どうだろう? 遅くてもよければ何とかなるかも」
「それはいいけど……ゆっくりできる?」
「どうしたの? 何かあったの?」
「別に……ただ、二人でゆっくり会いたいだけ」
そこへ割り込みの電話が入った。部長だ。折り返し連絡すると言ってユズキの通話をサスペンドする。
「ヨハン、今日はこれからムラカミと飲み会だ。キサマには監視役として立ち合いを命じる」
それは、いままでの部長からは想像できないような展開だった。
「部長、お言葉ですが、彼は捕虜ですが?」
「キサマが心配することはない。ただ、我々二人の監視役を務めればいい」
「わかりました」
さっそくユヅキに折り返し連絡をする。
「ごめんよ、急に命令が入った。今日は無理みたい」
「なんとか時間つくれないの?」
「まあ、そう言わないで。キミにも事情はわかるでしょう?」
ユヅキは押し黙った。なんだか、いつもと少し様子が違う。
「……いいわ。無理言わない」
「また穴埋めするから」
ユヅキは返事もせず、そのまま電話を切った。
なんか変だなあ、いったいどうしたんだろう……気がかりを残しつつもモバイルをしまう。
考えてみれば、さっきはムラカミの思想に違和感を感じたけれど、僕たち軍人だって自分の意志とか都合はそっちのけで命令に服従しているじゃないか。軍隊のために命まで差し出して。特別でもない、たいして変わらんな……と思わず苦笑いをする。
エントランスの車停めで部長を待っていると、二人のMPに両脇を固められた部長とムラカミが下りてきた。ムラカミはカジュアルな服装に衣替えしていて、あまり目立たなくなっている。
「MPは部屋の外で待機している。中の様子はキサマが確認して報告書にしろ」
部長は僕にそう命じた。
そのあと、僕ら3人は軍幹部用のセダン車に、MPは憲兵隊仕様のSUV車に分乗して、ツルハシの街に繰り出した。
3人は高級韓国料理店の一室を貸し切り、テーブルを囲んだ。ムラカミは生ビールを注文すると、ごくごくとノドを鳴らしながら一気にそれを飲み干す。こっちまで気持ち良くなるほど、それはそれはウマそうに。
部長はムラカミがビールを飲み干すのを眺めながら、焼酎のロックをチビチビなめている。つまらないことに、僕はウーロン茶で我慢だ。
「ひさしぶりや。やっぱりビールは最高やな、これからの季節」
そういうと、ムラカミはビールをピッチャーで注文した。
「あまり無茶するな、ゆっくりやれ」
部長は笑顔でムラカミに忠告した。
やがてナムルやフェ(なます)、プルコギなどの料理がどんどん運ばれてくる。
「こういう店にくると、子供のころ、キサマのオモニにごちそうになったのを思い出す」
そういうと、ムラカミは僕を見た。
「俺のうちは貧乏でな、それこそ、ゴハンも食べられないようなことさえたびたびあった。けどサリャの家に遊びにいくと、いつもオモニが”晩御飯食べて行き”と言ってくれる。こいつの家は焼肉屋でな、お店のメニューを食べさせてくれるんやが、子供ゴコロにタダで食っていいのか?と、いつもオドオドしたもんや」
高麗伝統の、客人への社交辞令ですね……僕は相槌を打った。
部長が昔を懐かしむように口を開いた。
「ケーやんの親父は酒飲みでなあ。家に金を入れへんから、母親が夜も働いてた。ケーやんの晩御飯を世話する人間はおらへんのや。それを見かねたおれのオモニがそうしたまでのこと。オモニにしてみれば息子の大切な友達や、仲良くしてくれてありがとうね、ぐらいの気持ちやな。そのうちケーやんは息子同然になったんやが」
ムラカミが続いた。
「今でも忘れられん。俺にどこか元気がないのを察したオモニがなあ、ケーやん、なんかあったんか?って聞いてくれた。俺も子供やったから、気兼ねなく”実は……”って。オレの母親がなあ、申し訳ないけど高校にはやれん、働いてくれって、そう言うんやって。そしたらサリャのオモニがなあ、心配するなと言うてくれるやないか。学費はウチがだしてあげるから、頑張って勉強しなさい、って。そのかわり、立派な大人になってお金返しにくるんやで、って。まあ、出世払いでええ、っちゅうことやな」
「ああ、ケーやんはなあ、家こそ貧乏やったけど成績優秀。勉強もスポーツも文武両道。学業を断念するなんてもったいない、というのがオモニの思いやった」
「おかげで公立の進学校に入学することができて、大学の入学金まで面倒みてもろた。あとは家庭教師やバイトをかけもちしながら何とか大学を卒業できたんや」
部長は韓国生まれだと思ってました……僕は少し疑問が解けたような気がしてそう言った。
「俺の家系はキサマと同じ在日出身。オレがなぜ翻訳通訳部に配属されたと思う? 日本語がペラペラの在日出身やからやないか」
部長はそう言って笑った。なるほどそれで納得だ。
ムラカミが付け足すようにつないだ。
「先の大戦では米軍は日系アメリカ人を利用した。アメリカ人の日本語情報士官を養成するため海軍日本語スクールを作ってその教員に、あるいは暗号解読部隊の要員に。ウシロから味方に撃たれてはたまらんと、さすがに日本戦線に日系人は使えんかったが、ヨーロッパ戦線や対日諜報作戦には有効利用したみたいやな。日系人の活躍もあって、暗号の中身は完全にアメリカ側に筒抜けやったから、米軍は連戦連勝やった。米軍の偽装工作で日本側は最後までそれに気づけなかったんやが」
部長はうなずいた。
「米軍は日系人を根本的に信用してなかったんやな。情報士官に日系人を使わんと白人を養成させた。全面的には任せられへんから自前で養成ということや。ところが高麗人と日本人には利害の一致はない、むしろ敵対的やというので安心して利用できた。もっとも、面倒くさい占領行政を丸投げされただけやが。元請けのおいしいとこだけアメリカがつまみ食い、うまみのないとこ、面倒くさいとこは連合国」
敵味方のはずのムラカミとキム部長が、米軍批判で大笑いしている。ちょっと考えられない光景だ。
僕は思い切って疑問をぶつけてみた。
「大佐どのには高麗に対する敵対意識や在日差別、嫌韓感情はないのでしょうか? 語弊をおそれず申し上げれば、いわゆる右翼らしくないように思えるのですが」
ムラカミは気分を害することなく言ってのけた。
「俺はそういう民族派ではない。道徳重視の理想主義者やから五族協和がモットーや。それに俺にはサリャという友達がいたから嫌韓どころか韓国大好き、嫌韓は論外や。在日差別など断固反対、雅量の狭さは日本の恥や、思とる」
右翼=嫌韓は短絡的なのですね。
「戦前の戦争責任肯定派ですら民族派右翼のなかにはいる。レッテル張りには意味がない。それにな、在日差別どころか、おれの生育環境では在日崇拝まであったし、逆にイジメられていたところをよくサリャに助けられたもんや。日本人をいじめるな! ってな」
二人は大笑いをした。ご冗談を、と僕も笑ったが、キム部長は真顔だった。
「冗談やない。俺の育ったコリアン・タウン、ツルハシ界隈の大阪ではな、在日子弟が日本の公立学校の半分以上というのもめずらしくなかった。クラスの大半が在日というのも普通。在日へのあこがれとか称賛とか、在日になりたいと韓国風の名前を名乗る日本人もいたほど。そこでは韓国人が一番、二番目が日本人、三番目が中国人というヒエラルキーやった時代もあったのや」
ムラカミが何度もうなづいた。
「まあ差別なんて、所詮マジョリティが誰かという問題やからな」
二人の話は、それまでの僕のステレオタイプのイメージとは真逆。にわかには信じ難い内容だった。僕はますます頭が混乱してきた。
「大佐どの。せっかくの機会ですから、失礼を承知であえてお尋ねします。さきほどのお話では、道徳完成のための全体への貢献、というのが大佐の信条。しかし、それだけだとかえって不道徳、反道徳的な場合が生じませんか? たとえば上層部が他国の侵略を命令したり、異民族からの侵略への反撃であっても必要以上の残虐行為を命じる、などという場合は非道徳的な結末に至るのではないでしょうか?」
格下のズケズケとしたもの言いにも、ムラカミは穏やかに応じた。
「短期、中期的な目線ではキサマの言うとおり。しかし物質世界を含め世の中、作用には必ず反作用が生じるもんや。個々のランダムな運動だけをみれば、それらは一見混沌として見えるが、全体としてみれば調和がとれてるのがこの世界。個々の動きにとらわれることに意味はない。相互作用全体としての調和がとれていることが大切なのや。歴史的にみても、一見苛烈と見られる現象が起こるが、必ずそれに対する反作用が生じる。共鳴したり打消しあったりして調和が生まれる。弾圧には反攻、革命には反革命、戦争には反戦活動……個々の存在は、おのが分際さえわきまえていればいい」
「しかし、それでは正義が実現できない。愛するものは守れない」
僕の反論に、ムラカミは一呼吸を置いた。
「では聞くが、キサマはキサマひとりで、この理不尽な戦争を止められたのか?」
いいえ、できません。僕は応えた。
「では、お前の愛する母が、老いて死んでいくことを止められるのか?」
僕は沈黙するしかなかった。
「津波が押し寄せるがごとく、火山が噴火するがごとく、星の寿命が尽きて超新星爆発を起こすがごとく。一度動き出した流れは誰にも止められん」
そこから静かな時間がしばらくの間、続いた。誰も何も言わなかった。
「だが絶望はするな」
ムラカミが無言の空間を破った。
「キサマの努力が報われなかったとしても、思い通りにはいかないとしても、ひとつの動きには必ず反応が起こる。それが波紋となって全体に波及していき、やがてはそれが原動力となって大きな波が起こる。だから個が全くの無意味というわけではない……わかるか?」
「おっしゃることは理解できます。だが共感はできません。侘しいし、悲しいです」
ムラカミは何も言わなかった。ただ、少し笑ったように見えた。
その日、宴は深夜まで続いた。