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The Pure land of Perfect Bliss

 スナ、アシスタントのパク君、カン少尉とそのアシスタントのキム君。

 我ら五人組は年が近いこともあって、妙にウマが合った。いわば青春時代の終版。おおらかで自由闊達な学生時代の余韻は残しつつ、少し背伸びもして、気のきいた大人のつきあいだってできないと「ヤボ」だと相手にされない年代。互いの個性や領域を尊重し、抑制的で気のきいたマナー……僕達は新な年代のつきあいの世界に心奪われた。

 プライベートで遊びに行くことも多かった。仕事帰りに食事をしたり飲み会をしたり、週末にはカラオケやパブでウサばらしした。テニスやゴルフ、スイミング。スイミングは軍が専属契約したスポーツクラブで年中楽しめたし、リッチなテニスコートやゴルフ場は占領軍が接収し、軍専属の施設として好きな時に使えた。 

 春は桜。ピザとワインで花見としゃれこんだ   

 夏には水上スキーやダイビングをするために伊勢や和歌山、四国の有名スポットに出かけた。

 秋がくると、大きなキャンピングカーを借り、交代で運転しながらあちこちの景勝地に出かけてはハイキングやキャンプ。

 冬は温泉めぐり。温暖化ながら、かろうじて長野や新潟、北海道ではスキーも楽しめた。

 それはまるで天国だった。望みさえすれば何だって手に入ったし、何だってすることができた。友軍に顔さえきけば、何十・何百ビリオンダラーもする政府所有の兵器をオモチャにすることだって、それほど難しいことじゃなかった。表向きの理由さえデッチあげれば空も好きに飛べたし、海の底にだって潜れた。

 それこそ、かつての貴族以上の暮らしぶりと言っていい。日本政府の負担により、一切の対価を支払うことなしに。

 軍隊生活とはいえ、僕たちは青春を謳歌した。不自由を強いられている庶民の暮らしをよそ目に。実際、フェンスで区切られ、警備に守られた領域に押し込められていたのは我々占領軍のほうだったが、一切制約を受けない暮らしができたから、むしろ広大な領域に住む日本国民のほうがフェンスに押し込められているように思えた。


 考えてみれば皮肉な話だ。

 在日米軍の駐留経費を日本が負担するのはおかしい

 NOと言える日本

 美しい国、日本

 この国を守り抜く……

 そんなスローガンに踊らされて維新政権の台頭を許した日本国民は、その政府がしでかした戦争により、結局は占領軍の経費を負担させられているのだから。

 今にはじまった話でもない。100年前の敗戦でも、神の国の政府は「ヤマト民族の繫栄のため」だと称して中国を侵略し、「大陸の権益は日本の生命線」だとして譲らずアメリカに戦争を仕掛け、他国民や自国民を飢餓と殺戮の地獄におとしいれた。

 そしてお約束通りに戦争に行き詰まると、最期は「一億玉砕」というスローガンをその同じ口から吐いた。

 一億玉砕……民族の集団自殺? それじゃまるで安物のカルト宗教じゃないか。

「民族の繁栄のために戦って、みんなで死のう」だなんて「健康のためなら死んでもいい」というギャグに近い。それをれっきとした国家が仕出かしたのだから。

 そんな神国政府のスローガンが「欧米支配からのアジアの解放」

 ……これ以上の皮肉があるだろうか? 当時の日本は「全人類の敵」として世界中の国から宣戦布告され、当時の指導者はその残虐性と侵略性から断罪されたというのに……あろうことか、それも外国人の手によって。そんな国は歴史上、そうは無い。

 世界もうらやむほどの繁栄を戦後の日本にもたらしたのだって、神の国の政府ではなかった。憎むべき鬼畜米英の占領支配がもたらしたというのだから……あきれてものがいえない。この国のファナティックはどうかしている。みな健忘症か、よほど懲りない性格なのか、ひょっとして何かにたたられているのか? 神話に出てくるシシュフォスみたいに。

 いや、日本人だけを非難するのは筋違いかもしれない。意味のないことを繰り返すのは人間の性かもしれないのだから。crescent814の言葉は言い得て妙だ。

「いいから考えてみて……毎日毎日お三度の用意をして、着飾ってはまたぬいで、お風呂に入って寝て、起きたらまた食事の用意をして食べて寝て。同じような病気にかかって何度も病院に行ったり、伸びた髪を定期的にカットしに出かけたり。ただ生きているだけでものすごい資源の消費をしているのよ? それだけじゃなく、とてつもない辛い思いをしたり、何かのためにコツコツ準備しなければいけない。どうせ死ぬなら全部無駄じゃない。で、誰かが死ねばまた誰かが生まれてきて、また同じことの繰り返し。何度も何度も同じことを繰り返して、わかりきったことをまた繰り返して悩み苦しんで……何か目的でもない限り、すごい無駄だと思わない?」

 人間は自ら犯した罪により、神罰を受けている……人生は苦しみのみ多かりき。太古の人びとが自らの境遇をそう嘆いたとしても、何ら不思議ではない。

 

 大阪の街にも慣れてくると。送迎バスじゃなく自分であちこち行きたくなってくるのが人情というものだ。本格的な春のバイク・シーズンをひかえ、僕はかねて念願の通り、大型バイクを購入することにした。

 お目当てはハーレー・ダビッドソンのEVバイク。ドカドカと力強く走る大排気量V型ガソリン・エンジンではないハーレーに存在意義などあるのか? という素朴な疑問はさておき。

 往年の名作映画「イージー・ライダー」をお手本に、僕はバイクをシンプルなアメリカン・タイプにカスタマイズすることに決めた。基調色はバッテリータンクの星条旗カラーにメカニックのシルバー。ああでもないこうでもないと楽しみながら部品をチョイスするのも醍醐味の一つである。僕はシングル・シートのデザインが好きだったのに、スナの横やりで二人乗り用のタンデム・シートに無理やり交換させられた。

 モーターはバッテリーの持ちを優先、パワーの大きいのにしたからF1マシンなみの加速性能で、操作性の悪いアメリカン・タイプのバイクには無駄にパワフルだった。ソフト・ウエアでアクセル操作をマイルドにカスタマイズしないと、命と免許証がいくつあっても足りやしない。ジェット機のエンジンような音をたてモリモリ加速するモーターのスピード感はしびれるほどで、レーサー・レプリカ・タイプのバイクも欲しくなってしまったほどだ。もっとも勤務して間もない僕にはたいした稼ぎもなく、ハーレー購入ですっかり貯金をハタいていたから、それは到底無理な話だった。おまけにコッチェビのツヨシの治療費のローンだって、ほぼ、そっくりそのまま残っていた。

 バイクは日本での軍隊生活全体を通じ、この上ない相棒となった。とにかグラマラスでスタイリッシュでかっこいい。朝は軍服を着たままそれで出勤することだってあったし、休みの日には革ジャン姿で阪神高速湾岸線を一人ぶっとばした。暖かな季節になるとスナを連れ、あちこちにツーリングに出かけた。カーナビ代わりのモバイルフォン片手に、スナをナビゲーターに、ワッカヤマ・イセ・アワジシマ・ホグリグと。あるいは本州から橋を渡ってセトナイカイを越えシコクに向かった。スナと一緒に食べたサヌキ・ウドンの味は、それはそれはおいしかった。

 気づけばいつしか、僕はこうしてスナの<青春の思い出づくり〉と、ワクワクドキドキな〈運命の出会い〉の演出に乗っかっていた。自分から積極的にというより何となく流されて、ではあるが。何故って、なにしろ彼女はキレイだし、crescent814に比べればお肌はピチピチ。ぜい肉のたるみはないし、メンタルにダメージもないから全くの健康体である。結婚相手としては申し分ない。この先、彼女以上の女性と巡り会えるかどうか。このまま温めておいて損はない。

 ただ……大人のcrescent814と比べればまだまだ子供。退屈なのである。毒にも薬にもならない。たえず発想は自己中心で自意識過剰。自分の殻を決して壊そうとはしないし、やたらと神経過敏で自己防衛本能の塊。そのくせいつも夢見がちの理想主義者。いまだにどっかのイイとこのお嬢様気分が抜けない「お子ちゃま」だ。あけすけで単刀直入、物おじせずに直球勝負のcrescent814と比べるとかったるい、面倒くさいやつなのだ。いや、スナが特にそうだというわけではない。同世代の女性としてはごくごく平均的で、特に彼女がどうこうというわけじゃない。crescent814だって独身時代はこうだったろう。女にとって、この時期は自分の評価を最大限にひきあげ、値踏みして最高値で売り込まなければならない。商品価値を下げる要素は徹底的に排除しなければならず、自意識過剰、防御的、神経過敏になるものだ。平均的な「年ごろの未婚女性」というべきか。結婚も出産も経験して腹のすわった大人の女と、夢と希望に満ち溢れるネンネの小娘を比べることの方が土台おかしいのかもしれない。

 それに、彼女といると奈落の底に吸い込まれそうな気分になる。「結婚」という地獄の底に。だから、おいそれと彼女の手をとったり、そのクチビルにふれてみむ、などとはユメユメ思ってはならない。なにしろ彼女は仕事上の同僚でもあり友人だ、男女関係で破局でもしようものなら、あとあと制御不能の事態に追い込まれるハメになる。


 この春、スナはようやく念願叶って公衆衛生福祉局への転属が認められ、福祉部児童福祉課に配属されて張り切っていた。それだけでなく彼女は若手の占領軍官僚たちが立ち上げた「日本統治の理想」に関するワークショップにも意欲的に参加し、そこで研鑽を積むとともに、交友関係も広めていた。日本の占領統治に対する疑問が軍の若手の間で湧き上がっていたのだ。

 関西地区軍政部はあくまでも高麗陸軍が主体の軍事組織であり、占領目的はあくまで日本軍の武装解除と責任者の処罰。その陰に隠れ、占領期間終了までに自国利権をできるだけ多く確保するのが最優先事項だ。地方軍政官が与えられた条件のもと、軍の都合で行政プランを机の上で組む。例えそれで庶民の暮らしに不都合があろうがなかろうがお構いなしだ。それゆえ、民主的な行政とか日本人の福利厚生とは程遠いのが占領の実態ということになる。人々の暮らしはないがしろにされ、街は餓死者・行き倒れがめずらしくなかった。

「乏しい資源でも機動的で効率的な運用さえすれば、より多くの民衆が救えるはずだ」

 これがスナたち心ある若手官僚たちの問題意識だった。

 もっとも提案を伴わない批判は無責任であり、提案には実現可能な具体性が不可欠である。そこで情報部門で日本の実情に詳しい者、前線で現実問題と社会的ニーズを肌で感じている者、上層部の認識と政策について状況を把握している者たちが部局横断で知恵を出しあおうということになり、ワークショップを自主的に立ち上げるに至った。

 ただし、このことは必ずしも軍上層部にとってありがたいものではなかった。彼らにとって余計な仕事はできるだけ無い方が楽だし、責任問題の種となるやっかいな失敗は避けたいのが本音のところ。だから間違いのない範囲でありきたりのことをし、適当に引き上げてしまいたい。ただ、この無難な現実論は、連合国が掲げる軍国主義日本の改革復興という「表向きの理想」には沿わない。いきおいスナたちは現場でフラストレーションを溜め、上層部へのイラだちを募らせることになる。

 バイクの整備に余念がない僕の背中に向かって、彼女はよく語りかけた。

「ねえヨハン、聞いて。局長ったら……」

「ねえヨハン、知っている? いま、身寄りのないお年寄りや障害のある人達が、どんな風に生活しているか。日本の政府は何もしないで放ったらかし。いえ、したくても予算や権限の問題で出来ないんだけど……。それに、そういう人たちにご飯を食べさせるより、死んでもらったほうが手っ取り早いし、安上がりだから」

 スナは本気で日本国民のためにその胸を痛め、僕に愚痴を聞いてもらいたがったし、アドバイスを求めた。しかし、あいにく僕は日本の統治などに関心はなかった。早く軍隊と縁が切りたいだけで、スナたちと問題意識を共有することはなかった。僕の関心は専ら予備役退役後の自らのキャリア形成あった。福祉や人道問題に関心がない、というわけではない。日々の業務や将来の人生設計、ほかのことで忙殺され頭がいっぱい、脳の容量に空きがなかっただけのこと。彼女の訴えは僕の右の耳から左の耳へ通過して終わるのみだった。


 あいも変わらずの占領軍暮らしで年は暮れ、正月も忙しく過ぎようとしていた、ある昼下がりのこと。

 僕は将校クラブのカフェでカン少尉とばったり出会い、一緒にコーヒーでも飲むことになった。

「そうだ。例のサイトで一人の女性と仲良くなったよ」

 僕がカン少尉にそう言うと、彼は勝ち誇ったような顔をした。

「ほーっ、味をやるじゃねえか。それで、どんな女だ?」

 カン少尉は熱いコーヒーを息でふうふう冷ましながら尋ねた。

「うん、子育て中の主婦で、すごく綺麗な女だ。すごいさばけてて、オッパイだろうがアソコだろうが、頼めば何だって見せてくれるんだぜ」

 物知り顔の少尉が、フフン、と鼻を鳴らした。

「そうだろうとも。あそこは表向き真面目な交流サイトだけれど、実態はそれを隠れ蓑にした出合い系サイトなんだ。まあ見てな。知り合いになるとパーソナル・チャンネルを使って駆け引きを仕掛けてくるぞ。そのイカれた女、おそらく専属売春契約がしたいんだろうよ。まあ、せいぜい金をふんだくられないようにな。それと性病にだけは気をつけろよ」

「さあ、どうだろう……彼女はお金持ちの奥さんのようだが」

 僕が空気も読まず異をとなえたものだから、少尉は少々機嫌を損ねたようだ。

「わかるもんか。なら、夫婦生活に飽きて若い男が欲しいクチだろう。いずれにせよアバズレだ、あんなところにマトモな女なんかいるもんか。あまり真面目に相手するんじゃねえぞ」

 そう言うとカン少尉は拳で僕の胸を突く真似をした。

 せっかくの少尉のご忠告だれど、僕にはどうしたって彼女がすれっからしのアバズレには思えなかった。撃てば響く。高い知性や教養の片鱗が、その言葉の端々からは滲み出していた。

 しかし豈図らんや……意外にも、コトはカン少尉の予言通りに展開しだした。彼女からついにお誘いが来たのだ。


 二月も上旬のある夜のビデオチャット。crescent814はいきなりこう切り出した。

「今度所用で大阪にいくわ。どう? 時間ある?」

 ……さあ、おいでなすったぞ! いよいよだ。

 僕の心臓はバクバクした。今までモニター画面上の二次元の存在に過ぎなかった彼女が、今度は生身の実体をまとって迫って来たのだ。2ndステージへの展開、といったところか。

「いつ? 何時ぐらいだろう?」

「あさっての夜、七時ぐらいかな?」

 大人の女性自ら、夜に面会を求めているのである。状況からみて彼女が抱かれにくるのは明らかだ。こちらとしてもそのまま帰すわけにはいかないだろう。僕は覚悟を決めた。

「いいよ。どこで会う?」

「じゃ京阪天満橋駅のスタバで」

「わかった」

 その日は木枯らしが街角を吹きけ抜ける、寒さの厳しい日だった。僕は黒のニット帽とブルーのチェスターコートに身を包み、待ち合わせ時刻きっかりにスター・バックスに入った。

 店に入るとまず、僕は彼女の姿を求めた。見れば通りに面したショー・ウインドウ前のカウンターに、それらしい女が座っている。黒のワンピースにシルバーのパンプス、ホワイト・フレームの丸目サングラスを頭に乗せた女だ。女はイスに座って膝を組み、ラテを飲みながらモバイルフォンの画面を人差し指でしきりと突っついていた。

 女は僕が傍に立つと顔をあげ、思わずニヤけておどけてみせた。

「はじめまして、と言うべき?」

 彼女は隣の席にかけてあったロングコートをどけて僕に譲った。

 それからほんのひと時、二人は照れながらどうでもいい会話をした。どうでもよすぎて何を話したか覚えていないぐらいだ。たぶん以前の会話についての捕捉とか、その日の互いの印象についてとか、そういう類の話だったと思う。話の内容より三次元の実感……いつものビデオカメラの二次元ではなく、奥行きだとかリアルのサイズ感だとか、質感だとか匂いだとか、がここでは重要だった。

 そんな感じで、所々かみ合わない会話をしているうち、突然彼女が帰ると言い出した。覚悟を決めていた僕が少々あっけにとられたのは言うまでもない。

「じゃあね、さよなら」


 crescent814から再び連絡が来たのは、その翌深夜になってからだった。

「それでアタシ、どうだった?」

 僕が呼び出しに応じると、彼女は唐突にこう切り出した。

「どうって、どういう意味で?」

「もちろん女としてよ」

「ああ、綺麗な人だった。いい女だったよ」

 僕は女性に対する礼儀のつもりでほめてあげた。

「そう……私に興味ある?」

「そうだね、ある」

 正直、ブログのケバい写真を見慣れた僕にとって、実物の彼女は年相応の、普通の主婦でしかなかった。かなりキレイな部類とはいえ、少なくとも、盛りに盛ったブログ写真ほどでは到底ない。

「ふうん……」 

 彼女は僕の返答を聞くや我が意を得たりと、しばしの間満足そうに沈黙した。それはまるで何かを企んででもいるかのように。

 いったい何を言い出すのか……そう期待している僕に、彼女が発した言葉がこれ。


 アタシ アナタト オツキアイスルカ ドウカ ワカラナイワ


「……へ?」

 予想外の展開に、僕の頭は真っ白になった。

「それって、どういうこと?」

「そうね。他にも何人かお友達がいるし、誰とお付き合いするかよく考えてみる」


―ああ、そういうことか……値打ちこくつもりね

―こっちが付き合いたいかどうかも確かめないで……


 その身勝手な仕切りに、僕は少々腹が立った。しかし考えてみれば、彼女にとってあのサイトは、そういう「自由恋愛」が前提の「出会い系」。だからいちいち断るまでもなく、サイトにいる以上お相手の物色が目当て、と思われても仕方ない……といえば仕方ない。自分としては単なる見物人、傍観者のつもりだったとしても、だ。結局、真面目に相手をした僕がバカだった。

「そうか、ならしょうがない。それじゃ」

「……え?」

 僕がきっぱりと別れの挨拶をすると。次に絶句したのは彼女の方だった。

―何だ、僕が未練のあまりひれ伏すとでも思ってやがったのか?

 多少の未練はあったものの、僕はサイトからそのままログアウトしてやった。半ば、彼女とはもうそれっきりだろうと思いつつ……。

 ところが、である。彼女は僕のブログへのコメントをやめなかった。投稿する度こまめにやって来る、〈いいね!〉や即レスには面くらったのを覚えている。



 それから二人は、時間があればお茶を飲んだり食事をしたり、一緒に映画を鑑たりするようになった。彼女もあちこち自分の行きつけの店を紹介してくれたり、ずいぶんと関西ライフの楽しみ方を手ほどきしてくれたものだ。

 これはそんな日々の映画館でのヒトコマである。

 それは奇跡的に生き残ったような、場末の汚い映画館だった。平日午後の観客席に人はまばらで、みな思い思いの距離で場所取りをし席についていた。

 僕達二人はカップル・シートの指定席に並んで席についた。crescent814は少し僕にもたれかかるように座った。柔らかな彼女の二の腕が薄いワイシャツとブラウスを挟んで僕の腕にかすかに触れ、それが実に心地よかった。多少の高揚感に僕の胸は弾んだ。

 と、その時crescent814が突然耳元でささやいた。

「そっちに移ってもいい?」

 僕には意味がよくわからなかったが反対する理由もない。彼女は僕の前を横切り、反対隣の席に移動して座った。途中、彼女は僕の右膝を股間で挟み込み、陰部を軽く押し付けた。その何ともいえない生ぬるい感触に、僕は思わず鳥肌を立ててしまったのを覚えている。他方、彼女が席を立ち上がったのと同時に、隣の席から一人の男が立ち上がって席を移動していくのが見えた。

「どうしたの?」

 僕が平静を装ってそう尋ねると、彼女は言った。

「隣のオヤジが触ってきたのよ」

「僕が横にいるのを知りながら?」

 彼女は黙ってスクリーンを見つめていた。

 オヤジは斜め前方の少し離れた席に移って、何ごとも無かったかのように座っている。それが彼女の思い過ごしだとしたら、オヤジが席を移動する理由もない。おそらく事実だろう。

「ぶん殴ってやろうか?」

「やめなさいよ。ほっとけばいいわ」

 やがて映画の上映が始まり、大音響が会場に流れた。

 しばらく二人して映画を観ていると、crescent814はやおら僕にもたれかかり、乳房を二の腕に押し付けてきた。ふんわりとした、そのあまりにリアルな感触に気を取られ、おかげで僕は映画どころではなくなってしまったほどだ。それでもじっと映画を観ている僕の手を、今度は彼女、握ってきた。思わずその目を見た僕に、crescent814はイタズラっぽい笑顔で応えたのである。

「これってキスの催促? たった今ここで?」

 いぶかしく思う僕をよそに、crescent814はつないだ手を引き僕の顔を自分のそれに近づけた。そこまでくるとさすがにニブい僕にも彼女の意図は理解できた。僕達はそっと唇を重ね、まったりと舌をからめ合ったのである。

 僕達はそれからかなりの時間、キスを楽しんだ。途中crescent814は再び僕の手をとったかと思うと、それをそっと自分の太ももに這わせ、僕の指を下着の脇から奥に導いた。僕にとってそれは全く予想外の過激な行動だったし、驚きはしたものの、おそるおそる彼女の感触を楽しもうとは試みた。

 やがて僕の指がcrescent814の敏感な部分にさしかかると彼女の息はとたんに荒くなり、喉の奥からこみ上げるものを必死で飲み込もうとする。そして彼女は突然キスを中断した……。

 彼女は僕の目をじっと見つめながらバッグを開き、ハンカチを取り出すと僕の指をそっと拭った。その後二人は顔を真っ赤に蒸気させながら、まるで何ごともなかったかのように再び映画鑑賞に戻ったのである。

 次の日僕はまたイチャイチャしたくなって、crescent814にメッセージを送ってみた。しかしいくら待っても返事はこない。何かあったのだろうかと気になって、さらにメッセージを何度か送ってはみたが返事は梨のツブテ。僕はイライラしたりあれこれ詮索したりして気が気ではなくなった。時をおいては何度も連絡を試みた。

 しかし、とうとう彼女からの返事は来なかった。


 連絡が途絶え、ようやくcrescent814から連絡があったのは、数週間過ぎてのことだった。

「どうした? 何かあったの? 連絡がとれないから随分心配したんだよ」

 僕の言葉に、crescent814はあっけらかんと言った。

「ごめんねー。ちょっとゴタゴタしてたもんだから……ううん、何でもないの、心配しないで……」

 そう言った彼女の言葉は悪びれるどころか、どことなく楽しそうだった。そんな彼女の態度に少々気分を害し、僕は思わず非難がましくなった。

「一言メッセージぐらいくれてもよかったのに。そんな時間もなかったの?」

「うん、そうなの。ごめんごめん、許してちょうだいね。それよりこの間は有難う! とてもステキだったわ……」

 crescent814は勝手に話題を変えてしまった。

 もう彼女がこの問題に関して誠意をもっているとか、こちらを尊重しているという空気を感じることはできなかった。僕は彼女の人間性に疑いを持ち、先の付き合いが思いやられた。

「この人はよほど自己中心的か、僕のことを大切に思ってはいないのかも知れない……」

 しかし二人は所詮、何のしがらみもない赤の他人だ。それに、どうでもいいようなネットの行きずり。誠実にとか几帳面に対応してもらおうとか、小さなことに目くじらたてるのも馬鹿馬鹿しい間柄なのである。彼女と僕の間には専属契約も婚姻関係もないのだから、嫌なら付き合わなければいいだけの話なのだ。それでもなお抗いきれないほど魅了されてしまって愛の奴隷に落ちぶれたなら、ひれ伏して寵愛をこいねがうか、打算で相手と馴れ合うしか道はない。

 ……イヤなら好きにすれば? でおしまいの世界。不本意だとしても適応せざるを得ない。

「ああ、こちらこそ。とっても楽しかった」

 この後crescent814は何ごともなかったかのように、今までどおり会話をし始めた。そして今までどおりに連絡をよこしてくるようになった。そして僕の危惧したとおり、こういうことを度々起こすのである。

「女同士って、こんな感じの付き合いなんだろうか?」

「この人、こういう適当な感じで今まで生きてきたのだろうか?」

「主婦とか母親になると、こういうイイ加減な感じなのかなあ」

 僕が少し引いて付き合いをすると、彼女はとたんにグイグイ押してくる。すごく感じよく接してくれて、まあいいか、って感じにさせるのである。

 そのうち僕は、彼女に過度な期待を持たなくなってしまった。


 その年の夏は狂ったような夏だった。

 いつまでも梅雨がはじまらないと思ったら、いきなり豪雨がおしよせ、長々と雨が降り続いて各地で災害を引き起こした。そしてそれが突然終わると、今度は連日の猛暑が各地を襲う灼熱地獄となった。

 夏も盛りのある夜、もの欲しげなcrescent814の態度をウェブカメラ越しに見透かした僕は、思い切って誘いをかけてみた。

「ねえ、今度時間があれば一緒に飲みに行かないか?」

 crescent814は退屈で死にそうだったようだ。画面からは彼女がこれに反応し、激しくゆり動かされたのが伝わってくる。彼女はまるで僕から誘いがくるのを待っていたかのようだった。

「そうね……いつがいいの?」

 あくまで自分は誘われた身。平静を装いつつも、いく分彼女の声ははずんだ。できるだけ動揺が伝わらないよう、彼女が平静を装ってるのがわかる。互いのギラギラした欲望と表向きの体面がシノギを削る、大人の駆け引きのはじまりだ。

 わたし、そんなつもりなかったし……言い寄ってきたのはあんたのほうでしょ?

 絶えず逃げ道や言い訳の余地を残しつつ、出し抜かれないよう、自分が優位に立てるよう交渉を進める。立場が悪くなりそうになったら相手に責任をなすりつけ、後はそ知らぬ顔。ひとつ間違えれば駆け引きはそこまでの、スリリングなやりとり。

「いつだっていいさ。君のほうが忙しそうだし、時間も自由がきかないだろうし」

「……そうでもないわ」

 彼女は意外にも、努めて協力的だった。このチャンスを逃したくないようだった。ワクワク感に僕の狩猟本能がアクセル全開となる。

「だって君は主婦であり母でもある」

「それが、意外と都合がつくものなのよ」

「へえ、そうかい。じゃ明日はどうだ?」

「それは無理だけれど、来週の水曜なら都合がつくわ」

 crescent814は僕からの誘いであるよう、どこまでも体裁をつくろおうとする。

「うん、それでいいよ。もしダメなら連絡するから」

「それで? ……どこで落ち合う?」

 crescent814の声はうわずり、心臓がバクバクしているのが画面から伝わってくる。

「君の家の、最寄り駅まで行くよ」

「それはダメよ。誰に見つかるかわからないもの」

「じゃ、こっちまで出ておいで」

「いいわ。新大阪の駅まで行くわ」

「OK、わかった」

 当日、僕は駅でcrescent814と落ち合った。そしてそこでタクシーを拾い、キタシンチに繰り出して、とある高級ラウンジに彼女を連れ込むことに成功した。

 薄暗い店内。彼女は神経質そうに胸のネックレスを指先でもてあそびながら、ケダモノのような女の目で僕を見つめていた。そこには母親としての面影は微塵もなかった。

「それで……僕はね、今夜君と寝たい。思いっきりヤリたいんだ」

 いくら何でもはしょりもはしょって……僕があけすけに彼女の耳元でそうささやくと、彼女は一瞬目を大きく見開いた。電流が彼女の全身を駆け抜け、ほんの一瞬フリーズしたようにも見えた。どうやら彼女も、まどろっこしい能書や駆け引きのプロセスは願い下げだったようだ。僕の戦略は彼女のストライク・ゾーンに見事ヒットしたらしい。思った通り彼女は僕が欲しがるのを、誘うのを待っていた。

 crescent814はこくっ……とツバを飲み込むと、僕の目を見た。

「……ここはもう出ましょう」

 動揺のあまりその目は泳ぎ、表情は引きつり気味。僕たちはブランデーのグラスに口をつけないまま、そのラウンジをあとにした。

 その後二人はすぐラブホテルに入り、待ちきれないまま入口のドアで濃厚なキスをした。ネットリした感触が下半身を刺激してやまない。僕が彼女をぐっと抱きしめるとその表情は恍惚となり、甘く熱い吐息を吐き出す。まるで押し殺すかのように細く、長く。僕はもうその時点ですっかり興奮し、もどかしくてたまらなくなっていた。早速彼女をベッドに押し倒すと胸をまさぐり、服を脱がせようとやきもきした。正直、僕は経験豊富というわけではなかった。ぎこちなさは否めなかった。しかしcrescent814がやさしくリードしてくれたおかげで首尾よくことは進んだ。誘導してくれたのか彼女好みに調教されたのかは微妙なところだけれど。


 彼女の成熟しきった肉体は、今まさに女盛りの絶頂期。想像以上に素晴らしかった。

 弾力があって形のいいバスト。

 マシュマロのように柔らかく、薄くキメ細かなモチモチ肌。

 そして吸いつくようにしっとり包み込んでくる粘膜……。


 したたり落ちる汗と体液で体中ベトベトになりながら、狂った夏の夜を二人は夢中で愛しあった。時に彼女はウットリと白目をむいて我を忘れたようになり、あるいは野獣のように僕に食らいついた。ドキドキのあまり、シミかと思うほど頬を真っ赤に染めながら、自ら脚を広げて一糸まとわぬ裸体をさらけ出したりもした。

 一見清楚でつつましやかな人妻が、ベッドの上では一転。ポルノ女優のように荒々しく男に奉仕する……その姿に、僕はそれまでの女性に対する先入観(女性の神秘性や母性に対する敬意等)をすっかり打ち砕かれ、天地がひっくり返るような心地になった。

 終わり果てたと思ったあと、何度も何度も僕の欲望は頭をもたげ、彼女の下腹部に熱いものをぶちまけては果てた。crescent814のほうはすっかり意識がぬけて、まるで抜け殻のようになり、僕のなすがままにその体を揺すられ続けた。

 僕の女性像を破壊した女として、彼女が記憶から消えさることは生涯ないだろう……今にして思えば月並みな情事だけど、少なくともそう思わせるだけのインパクトと爪あとを、彼女が僕の人生に残したことは間違いない。

 楽しい時間はあっという間に過ぎ、何とか終電に間に合わせるよう、その日彼女は帰って行った。


 それ以来、僕達はカジュアルに誘い会って頻繁に愛しあうようになった。

 いや、あれが愛と呼べるかどうか甚だ心もとない。ほとんど野獣の体だから。

 別段気取ったり装ったりする必要もなかった。「ねえ、出ておいでよ」とか「会いたくない?」と言えばそれで通じた。二人の間では「会う」=「ヤる」ことを意味した。実際会える・会えないは別にして、いつ何度誘おうと彼女がそれを拒否することはなかったし、むしろお誘いを楽しみに待っている風だった。ひょっとすると自分からは誘えないから誘って欲しかっただけかも知れないし、誘われること自体が彼女の自尊心をくすぐったのかもしれない。

 僕達は何度愛しあっても飽きることはなかった。ヘトヘトでこれ以上愛し合えないと思っても、半日も経てばまた彼女としたくなった。彼女は彼女で生活にもお肌にもハリができたようで、誘われればウキウキして精一杯オシャレをし、キラキラした目で僕と待ち合わせた。

 ある夜のこと。愛しあった後ベッドで僕に寄り添いながら、彼女はこんなことを言った。

「毎日退屈で死にそうよ。上辺だけのママ友たちとの付き合いや近所づきあい。来る日も来る日も同じことの繰り返しの主婦業……世間から隔離されたようで窒息しそう。毎日毎日が母親業だと、時々自分が女であることさえ忘れてしまうの」

 また別の日はこんなことも言った。 

「出産してから<良さ>がわかったわ。そして年々、したくてしたくてたまらなくなる。どんどんよくなるのよ。ばかみたい……こんなことなら、もっとたくさんの男に抱かれておけばよかった。いったい何から自分を守ろうとしていたのかしら?」

 あの夜以来、1年365日、1日24時間……それこそ四六時中、僕の頭からcrescent814が離れることはなくなった。会えば切なくなって離れたくなくなり、会えなければ恋しくてたまらなくなった。もちろん、あの肉体が……。

 時には二人、クスリでキメて愛しあった。画期的な合成麻薬、<entrancer>が2030年代にアメリカで開発されていたから、僕達はそいつを使って楽しんだ。entrancerは揮発性の吸引型パーティ・ドラッグで、羞恥心を薄れさせ、多幸感を生じさせるだけでなく感覚を鋭敏にし、触感や性感を何十倍にもする。なのに健康被害はアルコール程度と、その安全性は各国政府の食品衛生部門の折り紙つき。多くの国で酒タバコ同様の嗜好品の扱いになっていたというスグレものだ。とはいえ長期過剰摂取はアルコール中毒程度の副作用はもつ。それで日本国内では違法、高麗その他では合法と、国によってその対応はわかれていた。それは国内に二重の法秩序、すなわち日本では違法、GHQ内では合法という事態が発生していたことを意味する。まあ違法と言ってもあくまでも建前の話で、取り締まりは機能せず野放し状態だったが。

 crescent814はことの他これを気に入り、その力を借りてベッドの上でますます大胆に、貪欲になった。有頂天になった彼女はワインを口移しで飲ませようとしたり僕の体中を舐めたり、僕にあらゆる奉仕をし、あらゆるサービスを要求した。そしてしばしば僕に道具や機械の使用を懇願した。それがどれほ甘美で快感だったのかは男の僕には想像すら及ばない世界だけれど。

 白目をむき、体を痙攣させ、まるでケダモノのように吼えるcrescent814……

 その姿は普段の彼女とは全く異質だった。似たような光景はオンラインのポルノ・ビデオではお馴染みでも、よもや自分の身に起ころうなどとは夢にも思わずにいたから、どこか夢見心地で現実のこととも思えない自分がいた。

 女の悦びは男のそれとは比較にならないくらい壮大で深淵なようだ。底なし沼に引きずり込まれてゆくが如く快感に溺れ、絶頂にひたり、恍惚として悦楽に耽るcrescent814。性によって覚醒し、解放され、ベッドの上で野性の本能をむき出しにする彼女を通じ、僕は女というものの業の深さをマザマザと見せつけられた。生命を産み出す性として、女は男より原始や野性に近い性なのかもしれない。ひょっとすると古来女性を抑圧してきた男尊女卑のシステムは、荒ぶる女の獣性を封印するための仕掛けだったのでは? そんなことすら思わるほど、彼女はベッドの上で猛り狂った。そして狂うたび彼女はどんどん艶やかに、なまめかしく、キレイになって輝いていくのである。


 crescent814は住まいや家族、旦那の話など自分の身の回りのことをよく話題にした。しかし僕は彼女の個人情報には関心がなかったから、いつも聞き流していた。所帯じみた彼女の私生活などむしろ知りたくもなかったし、知らない方がプレイを楽しめそうだったから。行きずりの関係は後クサレなくて気楽だしお互いを詮索しないところがいい。

 しかし上辺の付き合いも長くなると、どうしても関係が密になってくる。ことさら隠しておく必要もないし、返って知らないほが不自然にさえ思えるようになっていた。

 ある日、彼女は自分の名を「桐野弓月」だと教えてくれた。それすら僕にはどうでもいいことだったのだけれど、それ以来言いづらいcrescent814はやめて、僕は彼女を単にユヅキと呼ぶようになった。僕のほうはハンドルネームもヨハンだったので彼女が呼び方を変更する必要はなかった。ユヅキ、ヨハン………僕達は互いを気楽に名前で呼び合う仲になった。


 そのうち僕は気がついた。どうやらユヅキにはSNSで大勢のボーイフレンドがいる。

 僕はただのお気に入りにすぎないようだ。

 年下で気楽だし、若くて清潔だし、何より

「モテるタイプの独身男は気楽でいいわ。あれこれ面倒みなくてもいいから」

 年長の彼氏や妻帯者のボーイフレンドとの関係がどういうものか、およそ見当がつく。

 だが逆に、そうまでしてなぜユヅキが多くの男たちと付き合おうとするのか、僕にとってはそっちの方が謎だった。浅く広くオープンに、あるいは魅力的な人をいくつか選んで、というのならわかる。しかし得体の知れない、どうでもいい人達と個人的に密なチャンネルを持つことの意味は理解できなかった。

 だからといって僕がそれを話題にすることはなかったし、ユヅキがあえてそこに触れることもなかったけれど……僕にとっては知ったところで仕方がないことでクソ面白くもない話だし。ただ、誰をどれほど愛しているのか、どこまでの関係なのか、気にならないと言えば嘘になる。彼女が僕から離れないんだから何となく想像はつきそうな話だが……。

 ユヅキが誰かに夢中になると、いつも突然音信が途絶えた。しかし、しばらくすると直、舞い戻ってくる。実際のところ男運が悪くてロクなのに出会わなかったみたいだ。誰かとトラブルが起こるたびにSNSのIDをコロコロ変えていたようだから。無責任なネットの出合い系ではありがちな話だけれど、とんでもないDV野郎だったりソクバッキーだったり、ヤバめの変態だったり。

 そうこうしているうち、僕はノロケ話と被害相談の両方を聞かされる羽目になった。話の内容によっては相手の男に激怒することもあったが、そんな馬鹿を相手にしているユヅキにも腹が立った。正直、男にとって自分の女が他の男に抱かれるなんてクソ面白くもない話だ。おそらく嫉妬もあっただろう。

 そんな時僕は深入りしようとはせず、「いい年して馬鹿なやつらだな」と思うことでやりすごそうとした。「僕に性の奉仕さえしてくれれば、あとはどうでもいい話だ……」そう割りきろうとした。当時の僕にとって彼女とのセックスは、痩せ我慢してまで維持するだけの価値があったのである。

 何というか……全く気持ちの伴わない、その場限りの性欲の処理だけでは何か物足りない……かといって当時の僕に、一人の女性をまともに相手できるような人生経験も人間的な深みも、あまつさえ、持てあます「心の傷」とてなかった。



 年の瀬もおしせまり、クリスマス間近となったある日。

 その日は僕のそれまでの軍隊生活で最良の日となった。G2大阪の全体ミーティングにおいて、僕は名指しで上層部から賞賛されたのである。ずいぶんと前の話で、それがどんなものだったかすら思い出せないような些細な仕事で、だ。

 その日の朝、僕たちG2将校は司令部の大ホールに集められ、整列して幹部の訓示を聞くことになった。参謀長代理の挨拶とこれからの活動方針についての説明の後、G2部長から簡単な活動経過の報告がなされた。その後僕の直属の上司、G2翻訳通訳部長キム大佐からのブリーフィングがあった。

「諸君、まずはこれを見てほしい」

 大佐はプロジェクターを使って日本のニュース映像を流した。

 それは日本の政権与党、「令和維新の風」の幹事長暗殺事件のニュースだった。同幹事長は愛人とホテルで密会しているところを襲撃され、ベッドの上で愛人ともども裸のまま銃殺された。後日、政治結社「天誅組」のヒットマンが名乗り出て犯行を自供したという、いわば一大政治スキャンダルである。今年最大のニュースとして連日報道が続いている。

「何を隠そうこの事件は諜報史に残る、我がG2大阪の最大の活動成果だ。詳細について公式に語ることはできないが、既に聞き及んでいる者も少なくないだろう。彼の死によって某国の日本占領妨害工作は未然に防がれた。それだけではない、敵対勢力と日本中枢との人的コネクションは壊滅し、根絶やしとなった。今後、某国は外交的にも負債を負い、もはや連合国を壟断することはできないだろう。まさに我々の完全勝利である。この成果について多大の貢献をしたのは他でもない、我が翻訳通訳部のエース、ヤン・ヨハン少尉である。少尉の日ごろの緻密な調査と咄嗟の機転によって、GHQの占領統治最大の危機は除かれた。諸君、少尉に惜しみない賞賛の拍手をお願いする」

 たちまち会場には拍手が鳴り響いた。そしてそれがひとしきり落ち着くと、大佐は話を続けた。

「実のところ、少尉の家系は在日僑胞出身である。しかも志願兵である。わが祖国が戦後の貧困と分断という試練にあり、国家による外国居留民の保護が思うにまかせなかった時代、在日僑胞が異国の地でなめた辛酸労苦を思うたび、私はあふれる涙を禁じ得ない。それにもかかわらず、彼らは耐えがたきを耐え、忍び難きを忍び、それでも民族の誇りと魂を捨てなかった義士たちなのだ。そんな彼の一族の歴史と今日の彼の祖国に対する献身を見るにつけ、私の胸はなお一層の感慨で満ち溢れるのである」

 ここで再び拍手が、今度は自然と巻き起こった。

「また少尉はいわゆる特幹、一般大学の特別幹部候補生出身の将校である。士官学校出身の将校諸君のなかには特幹に対する複雑な思いを持つ者もいるだろう。だが諸君、考えてみてほしい。我々軍人のミッションとは何だ? それは他でもない、国防という分野における国家への貢献である。我々は国家の安全のため、外交を背後から支えるために存在する。そこに特幹も士官学校もない。断じてない!」

 またもやここで拍手がホールを満たした。

「少尉は特幹出身、しかも弁護士出身の将校である。彼は予備役の間、民間の弁護士事務所で研鑽を積み、今日の専門的な調査能力を身に着けた。それが今回の成果となって表れたのだということを覚えていてほしい。言うまでもなく、諸君は国防のエリートであり、戦闘プロフェッショナルである。だが、複雑に発展した現代社会において国防の任を全うするためには、軍事だけでは到底覚束ない。将校諸君、士官学校で学んだ<超限戦>の理論を思い出してほしい。弱肉強食の国際社会において国家の安全を守るには、情報技術や工学はもちろん、経営学や法学、ありとあらゆる分野の専門性が要求されるのである。将校諸君、今一度言う。我々は心を一つにし、力を合わて一致団結、ただひたすら祖国のため尽くそうではないか! ……以上だ」

 大佐の絶叫のあと、ホールは割れんばかりの拍手喝采で満たされた。中には感激して涙を流している将校も少なくなかった。

 過分の賞賛に、僕は面映ゆさと申し訳なさで一杯になりながらも、心の中では密かにほくそ笑んでいた。しめしめ、これでいい思いができるぞ、軍隊での地位も安泰だ、と。おそらくこのセレモニーは将校の士気と忠誠心を高めるための演出だろうが、そのオマケとして、僕は恩恵にあずかったのだ。

 大佐の演説がまるっきり嘘というわけではない。分断国家の時代に国の助力が行き届かず、在日コリアンが日本で蔑まれ、軽んじられたのは事実である。しかし同時に隣人として日本人の親切や友情に助けられたのもまた、まぎれもない事実なのだ。それに差別で苦労をしたのは祖先であって僕ではない。僕は祖先の労苦やその成果を相続したに過ぎない。さらには国家分断の時代、僑胞が民族としての誇りを捨てなかったのは事実であるが、国家に対する貢献という点では甚だ心もとない。何しろ我々も祖国とは隔てられ、交渉すら持てずにいた人々も少なくなかったのだから。それよりも何よりも、任務に対する僕の献身が事実であるにせよ、国家に対する忠誠心という面ではお寒い限りなのである。僕が軍に志願したのは大学進学での負債を国家に返済するためであって、愛国心からでは決してない。そのうえ兵役期間を合理化するためだけに志願したのだ。大佐の話は事実に基づくとは言え、動機の不純さという点で、僕への評価は多分に美化されたものと言わざるを得ない。

「まあ、国際ビジネス・ローヤーへの道には出遅れたが、このまま軍で出世するのも悪くはないか。行きがかり上とは言え、案外楽ちんかもしれないな……人生なんてチョロイもん?」

 その日以降、僕とすれ違う同僚は袖を引き合い噂をするようになった。あれが噂のヤン少尉だ、と。もちろんそれがうれしくないわけはない。しかしこの一件を最も喜んだのは僕ではなく、スナだったかも知れない。スナはまるで我がことのように僕の出世を喜び、周囲の賞賛に舞い上がった。そして僕のことを熱い眼差しで見つめるのだった。

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