30.父、帰る
「あの、もし」
城の玄関から中に入ろうとしていたエレイナは、聞き慣れない、しかし何処か聞き覚えのある不思議な男の声に振り返った。
背の高い、黒い丸眼鏡を掛けた長い銀髪の男が立っていた。
エレイナの傍にいたアネルスが、目を見開く。
「あ、貴方は……」
男は、嬉しそうに口角を上げる。
「おお! お前、アネルスか? 俺を覚えてるか?!」
「誰でしたっけ?」
「おおっとお~」
男は、ずざーっ!と、足を滑らせた。そのままのけぞって倒れるのかと思うほど体勢を崩したが、しゃきっと立て直した。自分の顔を指さし、
「俺だよ、俺! 分かるだろ」
「分かりません」
「よく見ろ! この髪を見て分からないか?!」
と、男が言っているそばからアネルスがエレイナの背中をそっと押す。
「エレイナ様、あんなの放って置いて、さっさと入りましょう」
「え? あ、あんなの?」
男は、ムラムラと闘志を燃やす。
びしいっ! と、アネルスを指さし、
「アネルス、貴様! わざとやっているな!!」
と、叫んだが、
「今日のお昼は何ですかね」
「何ですかね」
アネルスと、エレイナは、ほのぼのと昼ごはんの献立の話をしていた。
「お前らあっ。無視するなよぉ」
仕舞には泣きそうな声を出す男に、エレイナは、思わず振り返る。
「あ、あの」
「おお!!」
男は、気力が蘇った所でエレイナに訊く。
「で、あんた誰だっけ?」
「私は」
エレイナが、答えようとすると、アネルスが遮る。
「エレイナ様、あんなどこの馬の骨とも分からない男、放って置きましょう」
「おお! エレイナか!」
すかさず、男が聞き取った。
「あ、しまった」
アネルスが、顔を歪めた。
「エレイナ!」
男が、呼びかける。
「はい!」
エレイナは、元気よく答える。
「で、誰だっけ」
「え? あ、妻です」
「妻……」
男は、呆然と訊き返した。
エレイナは、背筋を伸ばし、はっきりと答える。
「はい。私は、ギエナ領伯アンダロスの妻、エレイナです」
さわり。
二人の間に風が吹き渡った。
庭の枝葉が揺れ、咲き切った花が散っていく。
しばし沈黙が横たわる。
「そうか……。妻か……」
男が、ぽつりと呟いた。
「はい」
エレイナは、よく分からないまま答えた。
男は、何か考え込む様に顔を下に向けた。
エレイナは、心配になる。
「あの……?」
様子を伺っていると、アネルスが、またしても背中を押す。
「エレイナ様。入りましょう」
「あの、あの方は」
アネルスは、はっきりと嫌悪を顔に表し、
「いいんです。放って置いて」
と、言った。
エレイナは、何も言えなかった。
玄関前の小広間に、侍従やキリオスが出迎えに出て来た。
「エレイナ様、御無事で何よりです」
キリオスが、言った。
エレイナは、微笑む。野盗三人組の為に焼き菓子を作る時、城の管理を任されているキリオスが全面的に協力してくれた。
「ありがとうございます。戻りました」
「約束には間に合ったのですか」
「それが、時間には間に合ったのですが、渡せなくて」
エレイナは、そう言って、焼き菓子の入った袋をキリオスに渡した。
「良かったら、皆で食べて下さい。まだ一杯残ってるので」
キリオスは、微笑む。
「ありがとうございます。台所の者達に差し入れます」
「はい。是非」
キリオスは、ふと、外に立っている男の姿に気が付いた。
「え」
いつも穏やかなキリオスの顔が、強張った。それを見て、エレイナは、いよいよ不安になる。
一体、あの方は、誰なの?
キリオスは、焼き菓子の袋を侍従に預けると、急いで何処かへ行ってしまった。
エレイナは、アネルスを見る。
「あの、アネルス」
「はい」
「あの方は、どなたなの? どうして皆、よそよそしいの?」
エレイナの問いに、アネルスは、どう言えばいいか、言葉を選ぶ。
「あの、あの方は」
「エレイナー!!」
突然、男が大声を出してエレイナを呼んだ。
エレイナは、驚いて、振り向く。
男は、エレイナに駆け寄ると、力いっぱい抱き着いた。
「へ?」
エレイナは、意味が分からず、かっちん、と固まった。
「な!?」
アネルスも、固まる。
「エレイナ、エレイナ」
男は、涙声で何度もエレイナの名前を呼んだ。
「ちょ、ちょっと、何やってるんです!?」
アネルスは、慌てて男を引き剥がしにかかる。
しかし、男は、しっかりとエレイナに抱き着いて、なかなか離せない。
「ちょっと、あんたねえ!」
「何やってるんだ!?」
鋭い声が響いて、男は、声のした方を見た。
そこに、犬耳の子供と、伯爵が立っていた。
エレイナが、顔を向ける。
「旦那様」
男は、エレイナに抱き着いていた腕をほどくと、黒い丸眼鏡を取った。
灰色の瞳が露わになり、エレイナは息を呑む。
この方は、もしや……
「元気だったか。息子よ」
男が、そう言った。




