28.旦那様とお泊り、再び……(後編)
温泉宿に泊まったエレイナと、ハルダロスと、アネルス。
エレイナとハルダロスは、偽物の夫婦だが、夫婦の振りはしないといけない。
ひとつの部屋で、二人きり。
ハルダロスは、不敵に微笑み、
「きっと忘れられない夜になるよ」と言うのだった……
かっぽーん……。
夕食を終え、エレイナは、露天風呂に入った。
「はあ~、気持ちいい」
思わず幸福な溜息が漏れる。
ここのお風呂は、王都の宿の大浴場と違い、完全に外にある。
自然の岩を組み上げて作られた湯舟は、大浴場よりは断然小さい。
しかし、今、露天風呂にはエレイナしかおらず、ゆったりとつかれた。
露天風呂の周りには、装飾用の岩が数個置かれ、外周は竹の柵で囲われていた。
頭上には満点の星空。
「きれい……」
幸せだ。エレイナは、思った。そして、城にいる本物の夫、アンダロスを思い浮かべた。
――旦那様、今頃どうしているだろう――
エレイナは、宿の女将に、手紙を城に届けてもらうよう手配していた。
今夜は帰れない事を伝える手紙である。
――そろそろ届くと思うけど……帰れなくてごめんなさい――
ふと、義弟ハルダロスの姿が、蘇る。
ハルダロスは、エレイナを見つめ、
「きっと忘れられない夜になるよ」
そう言った。
そして、ふと思い出したように、仕事の話があるんだった、と、隣のアネルスの部屋に行ってしまった。
「はへえ~」
エレイナは、力が抜けた様に、膝から崩れ落ちた。
「びっくりしたようぅ」
もしや貞操を奪われるのではと思っていたエレイナは、心底ほっとする。
――よく考えたら、あの優しいハルダロス様が、私を襲うなんて無いわよね。私ったら、ハルダロス様に対して失礼な妄想を――
それから三人は、食堂で夕食を共にした。
夕食は、猪肉と焼き魚が美味しかった。
夕食後は、楽しみにしていた露天風呂へ。
露天風呂は男女別で、今頃男湯にはハルダロスとアネルスが入っている筈だ。
忘れられないって言うのは、きっとこの宿が素敵だって事よね。夕食は美味しかったし、温泉も気持ち良いし。本当に忘れられない夜になるわ。
エレイナは、ほのぼのと、そう思った。
かっぽーん……。
洗い場で身体を洗ったハルダロスとアネルスは、外の露天風呂に出て来た。
お湯に足先を付けると、なかなかの熱さだった。
ゆっくりと、身体を沈める。
アネルスは、気持ち良さそうに両腕を広げて、湯舟の淵の岩の上に肘を乗せる。
「疲れが取れますねぇ」
ハルダロスは、片肘だけを岩の上に置いて苦笑を浮かべた。
「そうだな」
そう言って、顔をよそへ向ける。
アネルスは、主の心情を察する。
「後で、仕事のご相談があるのですが」
ハルダロスは、ほっとした様な顔をアネルスに見せた。
「うん、行くよ」
それきり、二人は黙って温泉につかった。
脱衣所に用意されていた柄のあるローブ(浴衣)を着て出て行くと、女将が特別な飲み物を用意したと持って来た。
小さな瓶に入った白い液体。
「牛の乳です」
「牛の乳?」
「そうです、そうです。腰に手を当てて、ぐいっと飲むんです。今、それが流行ってるんですよ」
「はあ」
ハルダロスとアネルスは、勧められるがままに腰に手を当て、牛の乳をぐいっと飲む。
んごきゅ、んごきゅ、んごきゅ……
「ぷはーッ! うまいッ!」
アネルスが、豪快な声を上げた。
「よっ! 良い飲みっぷりだね!」
女将が、はやし立てた。
ハルダロスも、飲み干した。
「なんか、良く分からんが、美味い気がする」
「よっ! 旦那さんも良い飲みっぷりでしたよ!」
女将が、はやし立てた。
「旦那様」
女湯から、浴衣姿のエレイナが出て来た。長い髪を頭の後ろでまとめているが、濡れた一房が顔に垂れていた。
ぐふっ!
ハルダロスの内に、これ以上ない動揺が走る。
「何してるんですか?」
不思議そうなエレイナに、女将は、すかさず牛の乳の入った瓶を渡す。
「こうです、こう!」
飲み姿勢を伝授され、エレイナは、腰に手を当てて牛の乳を飲む。
ごきゅ。ごきゅ。ごきゅ……
「ぷはっ!」
エレイナは、目を輝かせる。
「何だか、普段飲む牛の乳と全然違って、すごく美味しいです!」
「でしょでしょ! さっすが奥様! お目が高い!」
女将が、はやし立てた。
「部屋に戻ろうか」
何事も無かった様に、ハルダロスが言う。
「ふあい!」
エレイナが、ふにゃふにゃした声で答えた。
「エレイナ?」
「なんでしゅか?」
また、ふにゃふにゃして答えた。
ハルダロスは、まじまじとエレイナを見た。よく見れば、目がとろんとしている。顔も赤いが、これは温泉のせいなのか。
「どうした……大丈夫か」
「だいじょーぶでしゅ! ヒックッ」
アネルスも、おかしいと思う。
「奥様、もしかして酔ってます?」
「え?! まさか、牛の乳で酔ったんですか?!」
女将が、顔を青くした。
エレイナは、にこにこして手を左右に振る。
「へへっ、んにゃわけないぢゃないでしゅうぅ」
言っている途中で、脚の力が抜け、崩れ落ちそうになる。
「エレイナ!」
それをハルダロスが、エレイナの身体を抱き留め、支えた。
「だ、だいじょぶでしゅ」
そう言いながら、エレイナは、息苦しさから、ハルダロスにしがみついた。
「全く、何をやっているんだ」
ハルダロスは、誰にぶつけるともなく苛立ち混じりに呟くと、エレイナをお姫様抱っこした。
アネルスが部屋の扉を開け、ハルダロスが、エレイナを抱えて中へ入った。
部屋には、既に布団が二組用意されていた。
1つにエレイナを寝かせる。
「だんなしゃま……」
寝言なのか、エレイナが、小さく呟いた。エレイナは、呼吸が辛くて目を閉じている。寝ているかどうか良く分からない。
へにょへにょの顔で顔を赤くして、息苦しそうにしているエレイナを見て、ハルダロスもまた、困った様に顔を赤くする。
「はるだろすさま。ありがとござ……」
エレイナが、ふにゃふにゃと呟いた。
ハルダロスは、首をのけぞって悶えた。
何だよお前!! 何でそんなに可愛んだよ!!
ちくしょー!!
アネルスの部屋に、ハルダロスが逃げ込む様に入って来た。
「お疲れ様です」
「疲れてねーよ!!」
ハルダロスは、思わず噛み付いた。
アネルスが、なだめる様に言う。
「酒でも飲みますか」
「……うん」
「おれあもう、ダメだあ」
麦酒で酔ったハルダロスが、泣き言を言った。
「そうですね」
アネルスが、優しく相槌をうった。
「おれは、兄上の事を尊敬してるんだ」
「はい」
「だから、兄上の振りをするのは、好きでやってるんだ」
「そうですね」
「けど……」
「はい」
ぐすっと鼻をすするハルダロス。
「おらあ、もう、だめだぁ」
あああ、と、テーブルに突っ伏した。
「そうですか」
一瞬、沈黙があり、ハルダロスが、がばりと顔を起こした。
「おまえ、ちゃんと聞いてるか!?」
アネルスは、落ち着いている。
「聞いてますよ。もう、だめなんでしょ」
ハルダロスが、泣き顔になる。
「そおいう訳にはいかねえだろうがよぉ」
「そうですね」
「おまえ、聞いてるか?!」
「聞いてます。どうしますかね」
ハルダロスは、静かに俯く。
「兄上の呪いをどうにかしないと……」
「そうですね……」
ハルダロスが、がばっと天井に顔を向ける。
「俺の方がどうにかなっちまうよ!!」
アネルスが、気の毒そうに苦笑を浮かべる。
「そうですね」
「おまえ、聞いてるか」
「聞いてます。好きなんでしょ、エレイナ様を」
ハルダロスは、全ての感情が抜けきった様な、無感情な顔になると、ぐったりとテーブルにうつ伏せになった。
「もう無理だよ、おれ……」
ハルダロスは、力無く、呟いた。
アネルスが、申し訳なさそうに微笑む。
「こればっかりは、私は、お力に成れそうにありません」
ハルダロスは、部下の気遣いに、小さく微笑んだ。
ハルダロスは、兄とエレイナの姿を思い浮かべる。
ハルダロスは、兄もエレイナも失いたくなかった。
だが、エレイナは、諦めなければならない。
「全部片付いたら、誰か紹介してくれ」
ハルダロスが、呟いた。
アネルスは、はい、と答えた。
ハルダロスは、あと何杯か麦酒を飲んで、やっと、眠りについた。
空が次第に白く明るくなるのより、少し前の事だった。




