(2)
「もう良いぞ」
ショノアの声にセレンがゆっくりと目を開ける。しかし目を開けるなりセレンの目が驚いたように見開かれた。
「……ファタル…?」
「は?」
聞き慣れない名前を口にしたセレンは突然感極まったようにショノアに抱きついてきた。その力はもうどこにも行かせないとばかりに強い。
「生きていたのですね! 良かった…本当に良かった!」
泣いてしまうのではないかと思うほど必死な声で、セレンは何度も繰り返す。どうやら誰かと見間違えているらしい。
「セレン。……俺はショノアだ。その…何とかっていう名前の奴じゃない」
あまりにもセレンが悲壮な様子なので、否定するのが心苦しいほどだ。
「⁈……」
セレンはその言葉を聞いて慌てて体を離した。しかしそれでもまだ半信半疑な様子でショノアの顔を見つめている。
「今の俺は14歳の姿だからな…。随分と見た目が変わってしまっているとは思うが…」
お互い時を遡る影響で異世界の姿ではなく元の姿に戻っていたが、セレンの方は顔つきが若々しくなった程度で大した変化はない。しかしショノアは丁度大人と子供の境界となる年齢だ。声も随分と高くなり、身長も少し低くなっている。
服がダブついてしまっているので、ショノアは魔法ですぐに大きさを調整した。
「……ショノア…なのですか? 私はてっきり…」
セレンはまだ状況が把握できない様子だ。本当にどうしてしまったのだろうか。
「ああ…いえ、そんなはずはないですね…。
すみません。驚かせてしまって…」
今の状況を確認して無理矢理自分を落ち着かせているのが丸わかりだ。
「どうしたんだ? 俺の姿が誰かに似てたのか?」
「……」
ショノアに聞かれてもセレンは顔を伏せて黙り込んでしまうだけだ。何か話せない事情でもあるのだろうか。
しばらく思い悩んでいるようだったセレンだが、やがて口を開いた。
「ファタル…といいます。私と一時期共に暮らしていたガレス人の子供です。
あなたにとても…本当によく似ていました…」
「あんた、ガレス人と一緒に住んでたのか?
けど…確かあんたがデルフィラと戦ってた頃は、ガレス人とミレノアル人が一番険悪だった時期だろう?」
聖剣の使い手で将軍にまでなる男が、たとえ子供であろうと敵側の人間を傍に置くというのは考えにくい。だとしたら考えられることは一つだ。
「デルフィラに戦いを挑んだ時か? ガレスに入ってそれで…ファタルとかいう子供を利用したんだな?」
「……」
セレンは答えなかった。それはむしろショノアの言葉を肯定しているということだ。
「軽蔑…しましたか?」
今までのセレンの様子を見る限り、ファタルをただ利用するだけの対象として見ていなかったことは明らかだ。ただセレン自身はそれをずっと後ろめたく感じていたのだろう。
「当時は内乱中であんたはミレノアルの将軍だ。しかも潜入は得意分野だろう? あんたのやったことに良いも悪いもない」
セレンに悪意はなかった。それだけは間違いない。
「その子供は…どうした?」
先程のセレンの言葉からして生きている可能性は低い。だがまさかセレン本人が手を下したわけではないだろう。
「……あの子は…私とデルフィラが戦った折に…亡くなりました」
絞り出すように言われてショノアは後悔する。どうやらセレンにとってその子供の死はかなり深い心の傷となっているようだ。涙こそ流れてはいないが、その表情はあまりに苦しそうでこちらまで胸を締め付けられる。
「10歳になったところでしたから、今のあなたよりもう少し幼い姿でしたね…」
セレンは今はいないその子供の姿をショノアに重ね合わせて寂しく微笑んだ。
「10歳の頃か…。俺、実はその頃までの記憶がない…。
多分捕まってる間に何かされたんだろうって、マリウスに聞かされてたんだけどな」
自分によく似ていたという10歳で死んだ子供。そしてその年齢までの記憶を持たない自分。これは偶然だろうか。
「もしかしたらあなたとファタルの間には…何か関わりがあるのかもしれませんね?」
セレンはそっとショノアの頭を撫でる。きっとかつてはファタルの頭をこうして撫でていたのだろう。
しばらくショノアは彼のしたいようにさせていたが、突然セレンはその手を止めた。そして通路の方に視線を投げる。
「何か…視線を感じませんか?」
先程までの悲しげな様子はどこかへ消え去り、セレンは厳しい顔を見せている。
「視線? ……いや、俺は何も感じないが…」
そう言いかけて頭上に何かの力を感じた。咄嗟に解呪の魔法を上に向かって放つ。魔法は何かに当たって弾け、代わりに現れたのは鳥のような魔物の姿。
「あれは…使い魔…? ガレス人か⁈」
ショノアはこの世界ではあり得ない状況に警戒心を強める。しかしその魔物を見て激しく動揺しているのはむしろセレンの方だった。
「……あれは…デルフィラの使い魔です!」
緊張感が一気に増す中、狭い通路の先に現れた人影にセレンが素早く反応する。もし本当にデルフィラがここに現れたのなら先制攻撃以外に勝機はない。それをセレンはよく知っているのだ。
指輪は抜くまでもなく手に収まる剣の姿になり、現れた人影に向かってセレンは走り寄る。空いている方の手で相手の喉を捕らえて壁に押さえつけ、剣をその顔ギリギリのところに突き刺した。
「ひっ…!」
恐怖に息を飲むような小さな悲鳴が聞こえ、ショノアが追い付いた先で見たものはセレンに押さえ付けられた若い女性の姿だ。
セレンはそれでも力を緩めることなく相手を見定めようとしている。
「……わ、私を殺せと父に命令されてきたの…⁈」
女性は恐怖に震えながらも必死で言う。演技には見えないその様子にショノアはセレンに女性を解放するよう声を掛けた。
「セレン、この人は違う。本物のデルフィラならあんたと同じくらいの年齢のはずだ。あんたみたいに異世界に行ってるのでもなければ、結構歳を取ってる」
怯え切ったその女性はとても50歳近くの年齢には見えない。せいぜい20歳前後だ。
しかしセレンが手を緩める様子はない。
「……姿を変えることなど彼女ならば造作もありません。あの使い魔は彼女のものです。見間違えはしません。
あれに…どれだけ多くの者が命を奪われたか…!」
「……セレン…」
確かに使い魔は同じものは存在しない。使う魔術師の魔力によって形を取る使い魔は、魔術師と同じ数だけ違う種類が存在する。何度もデルフィラの使い魔を目にしてきたセレンには、その姿は彼女自身と同じくらい憎しみの対象なのだろう。
「どうやって私達の居場所を割り出したのか…。少なくともここに来るまで気配は何も感じませんでしたが…」
喉を押さえ込まれた女性は魔法も使えず、苦しそうに顔を歪めてはいるが、気丈にもセレンを睨みつけている。
「何を言ってるの⁈ 私を見つけ出したのはあなた達の方でしょう⁈」
意味がわからないと叫ぶ彼女を更にセレンは押さえ付けた。
「見え透いた演技はやめなさい。私がそんな言葉を信じるとでも思っているのですか?」
主人の危機を感じて使い魔がセレンに襲いかかる。しかしそれを一瞥さえくれずに彼は容赦なく切り捨てた。
「……!」
消滅した使い魔の姿に女性は小さく息を飲む。その死を悲しんでいるのか、目から次々と涙が溢れ出した。それでもセレンを睨む目は逸らさない。
「セレン!」
あまりにもひどい光景に思わずショノアは声を上げた。女性を押さえるセレンの手を除けようと彼がその腕に触れた時だった。
「邪魔立てするなら相手があなたであろうと斬ります。その覚悟があるなら来なさい」
どこまでも冷たいセレンの声が響いた。これがあのセレンかと信じられない思いだ。
彼は確かに大勢の命をその身に負っているのだろう。それが今の容赦のない行動に駆り立てていることはわかっている。それでもショノアさえ容赦なく斬り捨てると冷たく言われ、彼の頭に一気に血が上った。
「斬れるものなら斬ってみろ…。ファタルと同じ姿をしたこの俺をな!」
「!」
その瞬間、セレンの腕の力が少し緩んだ。ショノアは必死で女性の手を引っ張り、道路に向かって走る。
「早く! 走るんだ!」
こんな正体不明の女性を連れて、本来連れ帰るべきセレンから逃げるなど不毛なことはよくわかっている。しかしセレンが本気で彼女を殺す気だったなら、最初に剣を壁に突き立てた時に殺していたはずだ。
あの一瞬、セレンは彼女の顔を見て迷ったのだ。思っていた姿と違うように見えた彼女に、このまま殺してしまっていいものかどうかと。きっと時間が経てばセレンも冷静さを取り戻す。それに期待するしかない。
「あなた達、本当に何者なの⁈ あの人とは仲間ではないの⁈」
女性は走りながらもショノアに質問をぶつけてくる。
セレンの言う通りにもしこの女性がデルフィラの変身した姿なら即死だ。そんなことも考えなくはなかっただけに、少し安心した。
しばらく行けば“線路”とかいう遠くまで続く陸の上に建てられた橋が見えてくる。確かこの辺りにはその“線路”に上がるための“駅”もあるはずだ。
11年半後のこの近辺の様子を思い浮かべながらショノアはひたすら女性を連れて歩いた。人通りの多い場所に紛れてどこかに身を隠せば、さすがにセレンも2人の姿を見失うだろう。
「どこか、店に入ってしまった方がいいだろう。あんたとはゆっくり話した方が良さそうだ…」
子供の姿をしていて助かった。女性は明らかに髪も服も乱れていて、しかも顔は泣いていたのがはっきりわかる状態だ。ショノアが元の姿でこんな女性を連れて逃げていたら、女性を暴行して連れ回しているとでも思われかねない。
駅の中にある適度に混んだコーヒーショップに入ると女性に奥の席で待っているように告げる。店員が心の中で予想している通りの品名を注文すると、それを持って女性が確保しておいたテーブルに運んだ。
ショノアは道路に飛び出した時に姿を変えていたが、女性の方は始めからこの世界の人間の姿だ。髪と目の色を変えるだけなら大した魔法ではない。この世界の飲み物は摂取できるのか尋ねれば、それも問題ないと言う。確かに身体の仕組みさえ変えられるガレス人なら見た目を若い頃に戻すことなど簡単だ。セレンが疑うのも無理はない。
「あんた、名前は?」
「私は…」
女性は少し口ごもる。
ここで実はデルフィラですなどと答えられたら身も蓋もないが…。
「ガレス国王アルゴスの娘…第34王女デルフィラ」
ショノアは思わず飲みかけていたオレンジジュースを吹き出しそうになる。
「あ、あんた…本当に…?」
無意識に距離を空けてしまうが、そのショノアの手をデルフィラに掴まれた。
「待って! 私、今まで城の外…いいえ、自分の部屋からさえ一歩も外に出たことがないのよ⁈
あなた達に殺されるようなことは何もしていないわ!」
冷静に考えてみればアルゴスとは今から向かおうとしている時代のガレス王だ。その娘であるからにはこのデルフィラも115年前のガレス人ということになる。
「『デルフィラ』って名前は王族に多い名前なのか?」
何とか気を取り直して尋ねてみれば、彼女は首を傾げる。
「……さあ、どうなのかしら。私はほとんど知識というものを与えられずに生きてきたから…」
デルフィラの話では、彼女は生まれてから今までガレス城の、ある一室の中だけで生きてきた。外に出ようとすれば王の造った魔獣に連れ戻され、城の中ではひたすら魔力を増強する術を施される毎日。強い魔力を持っていながら、それを使う術を一切教えられずに育った。
「私の存在を知った兄の1人が父に隠れて色々と教えてくれたの…。それがなければここに来ることも勿論できなかった」
寂しそうに笑うデルフィラは嘘を吐いているようには見えない。
「ねえ、あなた名前は?」
「……ショノアだ」
一瞬迷ったが、素直に名前を告げる。まだ謎は多いがこのデルフィラは害がないように思えたからだ。
「そう。それからあの怖い人が『セレン』ね?」
何度かショノアが名を呼んでいたからだろう。デルフィラは名前を言い当てられて少し得意げだ。
「あいつは…普段はあんなじゃない。きっと今までにひどい目に遭い過ぎたんだ…」
付き合いが長いとは決して言えない関係だがショノアはセレンが本来優しい性格なのはわかっていた。優し過ぎるが故に失われる命の重さがセレンに全てのしかかる。守りたいが故に全てにおいて容赦が無くなっていくのだ。
「……そうね。なんとなく…わかるわ…。
兄に少し似ていたからかもしれない…」
「あんたの兄? さっき話してた人のことか?」
「ええ、そう。……もう…会えないのだけれど」
デルフィラが悲しげに目を伏せる。恐らくデルフィラの慕う兄は既にこの世にはいないのだろう。
「兄は私に身を守る術と、父のことを教えてくれた。
父が私のことを寿命を延ばすための生贄としか見てないことや、他の兄や姉も既に父の命となって消えていったことも…」
「寿命を延ばす…だと?」
確かにショノアの記憶にあるアルゴスの在位期間は人間の寿命ではあり得ない年数だ。しかしそれは歴史書にはよくある記録違いの一つだろうとショノアは考えていた。
「34人目の娘だなんて異常だとは思わなかった?
私に色々と教えてくれた兄は第5王子だったけれど…、あの人は父の手から長い間逃れ続けた。私とは親子ほども歳が離れていたらしいから、兄はよく私のことを『娘みたいだ』って言ってたわ」
デルフィラは恐ろしい話を事も無げに話すが、彼女にとってはそれが日常だったのだろう。
「兄から色々なことを教わって…外に出てみたくなったものだから、一度外に出たいって父に頼んでみたこともあるの。
そしたら父はこう言ったわ。『城の外にお前に必要なものは何もない』…って。それは私が決めることでしょうに」
冷笑を浮かべたデルフィラから強い怒りが伝わってくる。
アルゴスは恐らくこれこそを避けたかったのだろう。他人との接触を断ち、知識も与えずただ命の貯蔵庫としてデルフィラを育てた。しかしそれは思わぬ所から綻び始め、彼女は今こうして城の外にいる。
「あんたはこの世界に…逃げてきたのか?」
「城を出るのは無理だもの。
この異世界には何度か様子を見に来ていたから色々と知ってる。逃げ場所としては最適でしょう?」
「そうとも言い切れないな…」
「え…?」
デルフィラは異世界を移動してきたらその道筋が永久に残ることを知っているだろうか。それに選んだ異世界がここというのも問題だ。この世界には魔法というものが一切存在しない。
元々魔法の存在する異世界ならば、デルフィラが紛れ込んだところで魔力を辿られることはない。だがこの世界では少しの魔法でも嗅ぎ付けられてしまうだろう。魔法を一切使わずにこの世界で生活するならば、まだ逃げ延びられる可能性はあるが、それさえも食物が身体に合わない為に魔法無しでは生きていくこともできない。
「ここに来て、あんた何日目だ?」
「まだ半日程度よ? こんなに長い時間この世界にいるのは初めてかもね」
「この世界があんたの世界と時間の流れる早さが違うってことは知ってるのか?」
「……それ、どういうこと?」
デルフィラは唖然としている。何度もここに来ているとは話していたが、どうやら気付いていないらしい。外界と遮断された場所で生活している為に、時間の流れさえ感じにくくなっているのかもしれない。
「半日となれば恐らく俺達の世界では5日は過ぎている。そろそろあんたの居場所も割り出されているかもしれないな…」
ショノアは思わず舌打ちする。
デルフィラに対する追っ手となればどんな恐ろしい相手が来るかわからない。彼女自身は殺されはしないだろうが、周辺にいる人間はその限りではない。
「セレンと離れたのは失敗だったか…」
デルフィラと協力し合えば追っ手も撃退できるかもしれないが、何しろ2人とも実戦経験に乏しい。
ショノアも知識や技術は豊富だ。魔力もブラドに集められた選りすぐりの魔術師達の中でも一番高いと言われていた。しかしそんなショノアでも先程のセレンをどうすることもできなかった。
ミレノアル人であろうとガレス人の魔法を封じる手段があることは知っている。話によるとガレス人の魔法を生み出す器官が喉の辺りにあり、そこを適度な力で押さえ込まれると魔法が使えなくなるのだそうだ。
その話を聞いた当初は半信半疑だったのだが、ブラドを始めとした騎士団所属の貴族達はその方法である程度のガレス人達を屈服させた。さすがに高位の魔術師は抑え切れずに魔法具の力を借りてはいるが…。
その点セレンは恐ろしい。彼の場合は魔法具もなしに高位の術者であろうデルフィラの魔法を封じてみせた。恐らくショノアの知っている騎士達に比べてかなり熟練した技を持っているのだろう。もしあの時ショノアが魔法を使おうとしていたら、彼もデルフィラ同様身動きが取れなくされていたに違いない。そんな相手を敵に回すわけにはいかない。
「何とかしないとな…」
気の重い状況にため息を吐けば、デルフィラがこちらを見てきた。
「ねえ、あなた達はどうしてここにいるの? どうしてあなたは…ミレノアル人と一緒にいるの?」
彼女の時代ではミレノアルとガレスは戦争中だ。異世界にいるとはいえ、敵同士の人種が仲良く2人一緒にいるというのは本来あり得ない。
「俺達は…」
説明しようとして本当のことを言うべきかショノアは悩んだ。
デルフィラ自身は確かに敵ではなさそうだが、彼女の存在自体は謎が多い。彼女にその気がなくてもショノア達の情報がいつ誰の悪影響となって現れるかわからない。
「……悪いな。まだ話せない。セレンにも関係のある話だからな」
渋々断ればデルフィラもがっかりしたようだ。
「そう…残念。
でもあの人とあなたの仲が良いことはわかったわ。だとしたら…あの人が私を嫌うのはガレス人だからというわけではないのね…?」
彼女にしてみればまだ敵国の人間だから目の敵にされるのだと思っていた方が良かったのかもしれない。初対面で激しい敵意を向けられ、理由も知らされないのでは気分も沈むというものだ。
同情してしまったショノアは少しだけ事情を話すことにした。
「俺達は…あんたと同じ使い魔を操る女性を知ってる。
そいつは恐ろしい力で俺とセレンの大事な人をみんな殺してしまったんだ…。あいつがあんたを殺そうとしたのはそれが理由だ。それ以外には何もない」
「私と…同じ使い魔…」
彼女も使い魔がこの世に二つと存在しないことを知っているのだ。だからこそ事の深刻さをちゃんと感じたのだろう。
「俺は…あんたの言うことが本当なんじゃないかって思ってる。セレンだって本当はそうなんだ。
だけどあいつの立場がそれを許さない」
「立場?」
聞き返されて、ショノアは一瞬話し過ぎたかと口ごもる。しかしセレンのことも115年前のミレノアルでは最早意味のないものだ。
「あいつ…ミレノアルの騎士なんだ。ずっと長い間、ミレノアルを守る立場にあった男だ」
「ミレノアルの騎士ってあんなに強いの? だったらガレスはミレノアルに勝てるわけないわ」
「ああ、いや…、それはあいつが特別なだけで…」
デルフィラが心配するのも無理はない。
確かにミレノアルの騎士がセレンみたいな人間ばかりだったなら、たとえネメアの脅威があったとしても今のミレノアルがガレスに支配などされることはなかっただろう。実際にセレンがいる間はガレスの攻撃を何度も退けていたのだから。
「そうだ! あんた、ミレノアルに亡命しないか?」
「亡命…?」
デルフィラは聞き慣れない言葉なのか首を捻っている。
「セレンほどじゃないにしてもミレノアルには俺達ガレス人に対抗するために色々な対策が練られてる。アルゴスから逃げるには一番安全な場所かもしれない」
ミレノアルに逃げ込んだとなれば、さすがにアルゴスも手出しはできなくなるだろう。良い考えだと満足するショノアだったが、デルフィラはあまり乗り気ではないようだ。
「だけど…ミレノアルは敵国よ?
存在を隠されていたとはいえ私が王女であることには違いがないわ。そんな私を迎え入れてくれると思う?」
せめてミレノアルの騎士であるセレンが協力してくれるならまだ見込みはあるが、ガレス人の彼らだけでミレノアルに入ろうとした所でただ殺されるだけだとデルフィラは言う。
「確かにあんたは王女だ。でもだからこそミレノアルは匿ってくれるだろう。アルゴスにとってあんたは“大事な娘”なんだからな」
親子の情などというものは始めからショノアも期待はしていない。しかし彼女がいなければアルゴスは寿命を延ばすことができなくなる。それだけは間違いないのだ。
「追っ手を差し向けるってことは取り戻したいからだろう?
あんたのことが不要なら放っておくはずだ」
「むしろ不要であってくれた方が良かったのだけど…」
デルフィラは苦笑を浮かべる。
追っ手が来なければ彼女はこの世界で一生を過ごすつもりだったのかもしれない。父親から愛情を向けられなかったからには彼女自身も父親に対する愛情はない。追っ手がかかることはただの煩わしいだけなのだろう。
「とにかくミレノアルに行くならセレンと合流しないとな。
さすがにあいつも俺達がいないとこの世界からは出られない訳だし」
「私のことは…」
「俺が説得するよ。話せばわかってくれる」
セレンとしてもこんな所でショノアと揉めている場合でないことはわかっているはずだ。
彼女が115年前のガレスからこの世界に道を開いてくれたおかげで、当初の懸念材料だった異世界間の移動は問題がなくなった。それだけでも彼女に協力する理由にはなる。
今後の予定が決まったとなれば、こんな所でぐずぐずしている場合ではない。そろそろ店を出るかとショノアはデルフィラを促した。しかし彼女は窓の外を見たまま固まっている。
「どうした?」
彼女の視線の先を辿れば、そこに次々と舞い降りてくる飛竜の群れ。
「出るぞ!」
ショノアはデルフィラの手を掴むと、窓から離れた店の出口に向かう。するとその先にはローブを頭から被った幽鬼のような魔物が立っていた。