(3)
「……誰ですか?」
ガレス人はデルフィラ女王と同じ人種だ。
魔法の得意な人種で、100年前まではガレスとして独立した国を持っていた。ミレノアルとの戦いに敗れて以来ガレスは併合されたため、ガレス人であろうともミレノアルの国民ではある。
だがデルフィラ女王が独立に向けて動き出してからは、それに賛同するガレス人も少なくはない。この青年がどちら側の人間なのか、今の所不明だ。
警戒心を隠さずにセレンが見つめてくるので、青年は少し戸惑うように頭を掻いた。
「聞いてたのとちょっと違うな…。
50歳目前だって聞いてたから貫禄十分の親父を想像してたのに、これじゃ俺とあんまり違わないじゃないか」
青年は1人ぶつぶつ呟いていたが、やがてセレンの厳しい視線に動じることもなく名乗ってきた。
「俺はショノア。まあ、見ての通りのガレス人だ。宰相のブラドからあんたを探すよう命令を受けてきた」
「ブラド…? 近衛騎士の隊長だったあのブラドですか?」
その名前はセレンにも聞き覚えがあった。彼とほぼ同時期に騎士となり、家柄の良さだけで出世したような男だ。聖剣の使い手として異例の出世を遂げたセレンに対して、いつも異常なほどの対抗心を燃やしていた。
「へぇ、あの人も一応昔は騎士だったんだ…。今じゃ見る影もない、肥え太ったクソ親父だけどな?」
このショノアという青年は見た目はどちらかと言えば中性的で優しげに見えるのだが、口は悪いようだ。
「昔…と言ってもたかだか1年半ほど前の話ですよ?
それにそんなに急激に太ったと言うなら、何かあったのではないですか? 確かに以前から美食家ではありましたが…」
「1年半…? あんた何言ってる?」
ショノアが聞き咎めて何かを言おうとした所で周りが騒がしくなる。ようやくネメアの起こした騒動から人々が立ち直ったらしい。
「場所を変えた方がいいな…。こっちだ」
ショノアは面倒そうに舌打ちすると、セレンの腕を掴んで強引に先程子供を置いていったあの路地裏に入っていく。
通りすがりに親を見つけた子供が泣きながらセレンの脇を走り去っていった。それを見たセレンの顔に思わず笑みが浮かぶ。
もう…大丈夫ですよ…
心の中で呟けば、この世界の平和さが身に染みる。セレンの世界ではいくら人を助けても、その親や子は既に別の場所で死んでいることが多かった。
温かい気持ちを抱えて前を向けば、ショノアはどんどん先に歩いていく。しかしこのままではただ路地裏を抜けて別の大きな道に出るだけだ。心配し始めていると突然周りの景色が一変する。
「……ここは?」
そこは随分と馴染みのある場所だった。プラスチックや樹脂とかいう謎の物質や金属製の家具が幅を利かせていた異世界とは違い、ほとんどが木製で細かな装飾が随所に施された家具が並んでいる。
「身を隠すために俺が用意した異空間だ。今見えているのは幻影だが、あんたには見覚えがあるはずだ」
「見覚えがあるも何も…ここは私の家です」
昔壊してしまった椅子を修理した跡まで再現されている。感心するセレンを見て、ショノアは疲れたようにため息を吐く。
「やっぱりあんた…セレンで間違いないんだな…。どうりで見つからなかったわけだ…」
かなり苦労したのだろうか、ショノアの声には苛立ちさえ混じっていた。
「この世界に来てから何故私の姿が変わってしまったのか、それは自分でもよくわからないのです。別に隠れていたわけではないのですよ?」
目立つ容姿をしているはずだからすぐに見つかるはずだとショノアは考えていたのかもしれない。だとしたらよく諦めずにいてくれたものだと思う。
ネメアの幻を使ってセレンを燻り出すとはなかなか思い切った手法だが、そうでもしなければ自分はこの青年と出会うことはできなかっただろう。ちょっとした騒動にはなったが、結局この世界には何の被害もない。子供を襲ったのもセレンが近くにいると踏んだからこそ仕向けたことなのに違いない。
本音を言えば肝が冷えるほどに慌てさせられたので、二度と同じ目には遭わせないでほしい。だがそれがきっかけで元の姿を取り戻せたような気もしていた。
「それは…確かにあんたがこの世界の人間と同じ見た目に変わってるとは思わなかったがな…。
俺が言ってるのはそれとは別の話だ」
「そういえば先程も私のことを50歳前だとか何とか言っていましたね? ですが私がこの世界に来たのは33歳の時です。それからまだ1年半過ぎただけですよ?」
セレンの言葉を聞いたショノアが動きを止める。それからまずセレンを見つめ、やがて何かを考え込み始めた。
「これは俺にも運が向いてきたな…。まあ、あの動きを見た時点でいけるとは踏んでたんだが…」
「ショノア?」
随分と悪い顔をしてショノアは独りほくそ笑んでいる。整った顔が台無しだ。
「ああ、いや…。情報を整理するとだな…。
この世界と俺達の世界とでは時間の流れる速さがかなり違うらしい。
あんたはここに来て1年半だと言ったが、ミレノアルでは既に15年が過ぎているんだ」
「15年⁈」
セレンは思わず声を上げてしまった。1年半国を空けただけでも謝罪の気持ちで押し潰されようとしていたというのに、15年ともなればもう気が遠くなるばかりだ。
「……それでは今…ミレノアルは…?」
恐る恐る尋ねると、ショノアは一度目を伏せた。そして胸元から1枚の紙を取り出してセレンに渡してくる。
「ミレノアル王の遺書だ。
国民に向けての言葉はブラドが直接聞いたが、これはあんたに宛てて王が書いた物だ」
その紙を両手で受け取ったセレンはそっと中を開く。そこに書かれているのは、ただ王の死を自分の責任だと思い込むなとそのことだけが切々と綴られている。
「……陛下…!」
読み終わったセレンはただ涙を堪えることしかできなかった。
王は、早くに両親を亡くしたセレンにとって父親のような存在だ。騎士として初陣に立った時も、大きな戦果を上げた時も、いつでも一番に喜んでくれたのは王だった。
初めてネメアがミレノアルを襲撃した日、セレンは周囲の期待通りに動くことができなかった。街への被害は甚大で、当然セレンに対する世間の失望も大きかった。危うく全ての責任を負わされる所だったセレンを助けてくれたのも王だ。
“そなたにばかり…つらい思いを背負わせてしまうな…”
いつでもセレンを気遣い、支えとなってくれていた王。その王が…死んでしまった。
手紙で王はセレンによく最後まで戦ったと労い、後のミレノアルを守るのは自分の役目だからと結んであった。
「……」
セレンはやり場のない怒りに、思わず机に手を叩き付ける。
なぜ自分は一番大切な時に王の傍に居られなかったのか。使命も果たさず、何も知らずにこの平和な世界で1人穏やかな生活を送っていた。そうして無駄に費やされた時間がただただ口惜しい。
「ミレノアル王の死を以て、家臣や騎士団、そして民達はその命を見逃された…。
デルフィラとしてはミレノアルから王を消してしまえばそれで満足。他の者に対して恨みはない…ということらしい」
「……それで騎士団も納得したと言うのですか…? ブラドも…?」
その場にいなかった自分にとやかく言う権利などない。王が自ら進んで命を差し出したと言うのなら、誰も反論することなどできなかったのかもしれない。それでも彼は問わずにはいられなかった。
ショノアにもそれはわかっているのだろう。わずかにため息を吐いている。
「現状ではそれが最善だった…、それは確かだ。だが真の地獄はそれからだったと言っていい」
「地獄…? デルフィラは約束を守らなかったのですか?」
王の犠牲の下、他の者は死を免れた。先程ショノアはそう話していた。それなのに何故地獄だと言うのか。
「奴が誰に対しても恨みを抱いていないというのは本当だ。命も確かに直接は奪っていない。何しろミレノアル人もガレス人に至るまで、デルフィラにとっては大事な研究材料であり実験台だからな」
「……実験…台…?」
あまりのことにそれ以上言葉が出てこない。
「王を失ってからは騎士団も家臣も自分のことばかりで平民には見向きもしない。弱い者達から捕えられ、デルフィラにとって有益な怪物に変えられたり、そいつの餌にされたりしてる」
ショノアは怒りを堪えるように手を握りしめた。
「元々ミレノアル国内でも他所者扱いされていたガレス人はまず最初に犠牲になった…。
俺は子供の頃に牢に入れられて…、でも偶然一緒にいた人が連れて逃げてくれた」
ショノアの話にセレンも同じく怒りを感じていた。
今がどんな状況なのか、ずっと異世界にいたセレンには全くわからない。騎士としての誓いも何もかも吹き飛ばすほどの恐ろしい所業が日々行われているのかもしれない。
それでもやはり王を見捨て、更には国民の命さえ見殺しにする騎士団や家臣達にはデルフィラに対する以上の怒りを覚える。
「そういえばあなたはブラドの命を受けて私を探しにきたと言いましたね? それではブラドだけはデルフィラに対して戦いを挑もうとしているということですか?」
「……」
一縷の望みを抱いて尋ねてみれば、ショノアは良い顔をしなかった。
「あんたには…ひどい話ばかりで悪いんだが…。ブラドの目的ははっきり言ってあんたの持つその聖剣だ。それもデルフィラを倒すために欲しがってるわけでもない」
「……まさか…」
セレンは嫌な予感を感じた。
ブラドは昔から出世欲の塊で、騎士としての務めを蔑ろにしがちな男だ。自分が聖剣に選ばれていたならセレンよりももっと有能な存在になっていた。そんなことを言って回っていた時期もある。
15年間で何があったのかは知らないが、少なくともブラドが王の後を担えるような器でないことは確かだ。その上でショノアの話と照らし合わせれば、大体の予想は付いてくる。
「私から聖剣を奪ってこいと…正しくはそう命じられたのですね?」
「俺達の感覚ではあんたはもう現役の騎士ではいられないような年齢になってるはずだったからな…。
本来の指示は…あんたを殺して聖剣を持ち帰れ…。少なくともあんたをここに残して聖剣だけ奪ってくるか、どちらかだと言われた」
「!……そこまで落ちぶれましたか、あの男は…!」
引退間近のセレンならば彼1人で事足りると考えたのだろうか。
確かに彼の魔術師としての能力は高いのだろう。セレンが今まで戦ってきたどの魔術師よりも質の高い幻術を使えるのだ。それは戦わなくてもよくわかる。
だがたとえ15年経っていたとしても、そんな不純な動機で聖剣を奪おうとするブラドには死んでも渡すつもりはない。
「しかし何故私にその話を打ち明けるのですか?
これでは私を騙して聖剣を持ち去ることもできませんよ?」
セレンとしてはショノアにその気がないことはもうわかっている。気になるのはその理由だ。
「俺が黙ってブラドの言いなりになると思うのか?
あんな…自分のことしか考えない野郎に良いように使われる覚えはない」
「では何のためにここに来たのですか?」
セレンが問い詰めればショノアは一度言葉を切った。
「あんたに…デルフィラを倒してもらうためだ」
「私に? ……しかし私は…」
セレンは一度敗北した。再戦しても勝算を得られる可能性は今の所ない。それはもう誰もが知っていることだ。
しかしショノアは表情を変えなかった。
「俺だって今のままあんたに戦えとは言わない。そんなことしたら、今度こそあんたは殺される」
「……ええ、それは間違いないでしょう」
セレンは素直に認める。
あの時、この世界に来る直前のことだ。
デルフィラの攻撃をまともに受けて、セレンは死を覚悟した。
身体中がバラバラに砕けてしまったのではないかと錯覚してしまう程の強烈な衝撃。意識を保つことさえ難しい苦痛の中で、セレンはとある女性の声を聞いた。背中を何かに掴まれたような感覚の後の浮遊感。そして聞こえた「逃げて!」と必死で叫ぶその声。
どこかで聞いたような声だったが思い出せなかった。
その後セレンの意識は途絶え、次に目が覚めると見知らぬ世界にいたのだ。
しかしあの声の主は一体誰だったのだろうか。見知らぬ世界に来てしまった時は絶望しかなかったが、今となってみればこの世界に来たことでセレンは危険から遠ざけられた。
王を護れなかったことは悔やんでも悔やみきれないが、かと言ってその場にセレンがいたとしても王はその身を差し出しただろう。そしてやはり止められなかったに違いない。
「ではどうするつもりなのですか?」
このショノアという青年はかなり頭が切れる。セレンの状況を知った上で何か勝算を掴めたからこそここまで来たのだろう。それは一体何なのか。
「過去に行って、聖剣の刃を取ってくるんだ」
「⁈……そんなことが可能なのですか?」
突拍子もないことを言い出したショノアに驚いて問えば、彼はわずかに目を伏せた。
「時を遡る魔法はブラドが数年前から魔術師達を集めて復活させようとしている古い魔法だ。ブラドも俺と同じことを考えて過去に行こうとしてるからな…。
だから俺はその研究員の1人になった」
つまりブラドの研究を盗むために近付いたということだろう。
「研究には金を惜しまない奴だ…。ガレスの魔導書もガレスから逃げ延びた魔術師もみんなそこに集められていた」
ショノアはそこで時間移動に繋がる『次元転移』の魔法を研究し続けた。その際に偶然セレンの居場所も判明し、ここに来ることができたと言う。
「異世界は星の数ほどもあるが…一度誰かが通った後は道ができているようなもので見つけやすい。
俺達の世界から異世界に空いた穴はたった一つ。俺はそこにあんたがいると踏んでここに来た」
「そうだったのですか…。途方もない労力をかけて探し出してくれたのですね」
聖剣のためとはいえ、その努力には頭の下がる思いだ。おかげでセレンに再び使命を果たす機会が巡ってきた。
「別にあんたのためじゃない。俺は…俺自身と仲間のためにやっただけのことだ」
「それでも感謝します。このまま誰にも気付かれずに見知らぬ土地で果てていくのだと、覚悟していましたから…」
たとえセレンを助けに来るのが目的でなかったとしても、結果として使命が果たせるのならそれでいい。可能性を与えてくれただけでも十分だ。
満足そうに微笑むセレンに対し、ショノアは呆れ顔だ。
「……あんたは人が良過ぎる。
そんなんでよくあんな自分勝手な貴族共と渡り合ってきたもんだな?」
彼の心配はもっともだろう。
昔から貴族や貴族出身の騎士達は不毛な権力争いばかり繰り返していた。領土を正しく治めようともせず、自らの欲望を満たすために醜い奪い合いを続けた。
「私には陛下が…付いていてくださいましたからね。あの方が好きにせよと私の意思を認めてくださった…。それだけでどこまでも強くなれたのです」
王のためならばどこまでも冷酷になれた。王を悩ませる者は女子供であろうと容赦なく手にかけた。
たとえ聖剣が不完全でもセレンにできることはいくらでもある。ネメアが出現しようがしまいが、王に尽くすことが騎士の本分だ。お飾りの聖剣で出世したなどと言わせないよう、セレンは常に努力という戦いを続けてきたのだ。
「しかしその陛下も…もういません」
王を失ったミレノアルにはショノアの言う通り私利私欲にまみれた人間しかいないだろう。そんな国を守ることに自分は命を懸けられるだろうか。
いや、それでも…。
セレンは目の前にいるショノアを見た。
嫌いな相手に取り入ってまでセレンの居場所を突き止めたショノア。その強い決意は余程のことがあったからだろう。
「あなたの家族は?」
「そんなものはいない。
俺にとっては城から連れ出してくれた人とその仲間が家族だ。それももう…誰も残っていないがな…」
「……」
彼もずっと苦しい思いをしてきたのだ。
セレンは机の上に置いていた聖剣を見る。
王はもういない。だが…王が命を懸けて守ろうとしたミレノアルはまだ滅び去ってはいない。
「わかりました」
セレンは突然聖剣を正面に掲げて敬礼の姿勢を取る。
「この身は既に一度死んだようなもの。
陛下が崩御された今、私の騎士としての誓いはミレノアルに生きる者達全てに対して立てましょう」
祈るように目を閉じれば聖剣からも白いオーラが立ち昇る。
「私はこの先ミレノアルの地に平和を取り戻すためにこの命を捧げます。もう…迷いはしません…」
最後の戦いで、セレンの心は一度挫かれた。
自分の運命を恨みさえした。
私はあの時ファタルを殺せなかった…
使命に対して冷酷になり切れなかったのは自分の中に迷いがあったからだ。
大切だった存在を手に掛けてまで得られるものは果たして勝利なのか? 元々勝てない戦いだったのなら何故今の自分がこれ程つらい思いをしなければならない? その迷いが隙を作った。いや、既に心はデルフィラに敗北していたのだろう。だからこそ1人のうのうと平和な世界で生き続けるのが苦痛でしかなかったのだ。
決意を新たにしたセレンがゆっくり目を開ける。抜けるような青空を思わせるその瞳が一瞬ギラリと鋭い光を放ったように見えた。
気圧されるようにショノアが無言でセレンを見上げている。
「!……ああ、すみません。いきなりで驚いたでしょう?」
セレンの行為は騎士が誓いを立てる時によく行うことだが、ショノアには馴染みがないことだろう。唖然としてしまっても無理はない。
「……いや、何だか元気が出た…」
「そう…ですか?」
このショノアという青年はあまり儀式とかそういうものを好んでいないように思えたのだが、違ったらしい。
「あんたが…他の連中と同じような奴じゃなくて良かった…」
ショノアが初めて嬉しそうな顔を見せる。
「あんたの話は色んな人から結構聞いてたんだけどな。それでも…今残ってる騎士やら貴族の連中があまりにも酷くて、あんたのことも半信半疑だったんだ」
それが今のセレンを見て噂は本当だったと確信したらしい。
「あなたが期待しているほどは…立派なものではないと思いますが…」
「だからどうしてあんたはそこですぐに引くんだよ…」
先程までの勇ましい英雄然とした振る舞いはすぐにどこかに消えてしまい、今ではむしろ自信無さげにさえ見えるセレンにショノアは呆れ顔だ。
「まあ、それで周りに舐められてなかったんだから、やっぱりあんたは相当なんだよ。自信持てよな…?」
呆れた様子のショノアは脱力して椅子にドサリと腰掛ける。幻だと言っていたが、この椅子は座ることができるようだ。
「……安心したら腹が減ってきたな。何か食べるか?」
座ったかと思うとショノアは立ち上がり、壁際の棚を開けた。しかし中にあるのは小さな瓶詰めの野菜が一つあるだけだ。
それを掴んだショノアは肩を落としてテーブルまで戻ってきた。
「悪い。もうこれだけしか残ってなかったみたいだ。今のミレノアルじゃ食糧を調達するのも一苦労だからな…」
あまりに心許ない食材の量にセレンはショックを隠せない。
「これであと何日凌ぐつもりだったのですか? 私がいつ見つかるとも知れなかったのでしょう?」
「ブラドからはろくに支給がなかった。足りない分は現地調達しろと言われたし…」
「……」
ショノアはいつものことだと言わんばかりで、特に怒りも感じていないらしい。その様子が彼の置かれた状況を物語るようで、思わずセレンは唇を噛み締める。
「外に行きましょう。
この世界にある物は皆問題なく食べられます。美味しいものも多いのですよ?」
「……」
その言葉を聞いたショノアが意味ありげにセレンを見つめ、急に背中を見せるように言ってきた。
意味もわからず後ろを向けば、今度は背中を触っても良いかと聞かれる。
「どうしたのですか?」
「いや、ちょっと確認したいことがある」
ショノアの声は真剣で、何か良くないことが起こっているようなそんな気分にさせられる。
彼はセレンの背中に手を当て、何かを探っているようだ。その内、手の触れている辺りが妙に熱くなってきた。
「……ショノア…何を?」
背中は何か皮を剥がれるような痛みまで伴い始め、最早熱いから痛いのか、痛みが熱を持っているのかさえわからなくなる。耐え切れずに膝が折れそうになった所でショノアがようやく手を離した。その一瞬で熱と痛みは何事もなかったかのように退く。
「今のは一体…?」
わずかに乱れた息を整えつつセレンが尋ねる。
ショノアはセレンを椅子に座らせると自分も向かい側に座った。
「この世界の食物は…ほとんどが毒だ。俺達の世界の人間には受け付けられない成分でできている」
「……え?」
一瞬、何を言われたのか理解が追い付かなかった。
ショノアは気にせず続ける。
「魔法で害になる成分を取り除くか、完全にこの世界の人間と同じように体を変化させられれば食べられる。俺はその魔法が使える数少ないガレス人だ。だからこの世界であんたを探し続けることができた」
「ですが私は…」
ガレス人でさえ使いこなすのが難しい魔法など、セレンは勿論使えない。それどころかミレノアル人として血が最も濃いと言われる彼はどうやっても魔法の素質は皆無だ。
「あんたを見つけた時、姿が変わったからおかしいとは思っていたんだ…。しかもあんたの場合はかなり念入りで、この世界の人間としてのあんたを投影して、どこまでも違和感のないように修正する魔法が掛けられている。
こんな魔法…使えたら敵側に潜り込み放題だぞ?」
セレンはこの世界に来た直後のことを思い返す。
確かにショノアの言う通り、自分が何かこの世界であり得ない言葉を発しようとすると全て違う言葉に置き換えられていたことがよくあった。
周りの人間に怪しまれないことは良かったが、それでも自分自身が何かよくわからない力で歪められているような気がして良い気分はしなかったものだ。
「私の身体に一体何が起きているのですか?
これは私の力ではない。それだけは断言できます」
ショノアはわずかに目を伏せる。それはあまり良いことがないということだろう。
「あんたの姿を作り替えることだけがこの魔法の効果だと言うなら問題はない。だが掛けた人間が誰かわからない以上、今後何が起きるかわからない。しかも解除しようとするとかなり強い抵抗が起きる」
それが先程感じた激しい熱なのだろうか。
ショノアの口ぶりではセレンに掛けられた魔法はかなり高度なもののようだ。そんなものをミレノアル人が掛けられるはずもない。となればガレス人であることは間違いないのだ。
今でこそショノアのように協力してくれるガレス人もいるだろうが、セレンがいた頃は高度な魔法を使える魔術師ほどミレノアルに対して反抗心が強かった。それはデルフィラが女王を名乗って現れたことにより更に強まり、かなりの苦戦を強いられた覚えしかない。
そんな最中にセレンに掛けられた魔法など、良いものだと信じる方が難しい。
「唯一の救いはあんたに目立った悪影響が出てないことだ。どちらかと言えば魔法の効果はこの世界で生き抜くのに大いに役に立ったわけだしな」
確かにこの世界に来て何も食べられないとなれば、いくら山奥で隠れ住んでも生き続けることは不可能だ。
姿形も名前まで変えられて、ミレノアル人であることも忘れてしまいそうなくらいこの世界に溶け込めたのは、この魔法のおかげだ。
「俺はこういう解呪とか…浄化とかの類の魔法が得意じゃない。帰ればそういう魔法に詳しい奴も知ってる。だからいつかは解くこともできるが、油断はしないことだ」
「……ええ、そうですね」
不安がないと言えば嘘になる。
ショノアでも手を焼くような魔法が自分に牙を剥いたらどうなるか。想像するだけでも恐ろしい。
正体が不明な分、その効果が及ぼす被害の規模も想定することは不可能だ。セレンだけが被害を受けて、それで済むならばまだ良い。周りを巻き込んで、その挙句に今回のように自分だけ助かるような事態だけはもう勘弁してほしい。
「セレン」
深刻な顔で黙り込んでいると、ショノアが声を掛けてくる。顔を上げればショノアはこちらをじっと見つめていた。
「心配はいらない。俺が絶対に魔法を解いてやる」
頼り甲斐のある顔でそう宣言されれば何だか本当に安心していいような気になる。
「そんなに私は不安そうでしたか?」
しかしショノアにそんなことを言わせた自分とはどんな様子だったのだろうか。
弱気な所など、今まで部下達にも見せたことはない。完璧なまでに英雄を演じてきたつもりだったセレンは思わず苦笑する。
「いや、そこまでは…。ただ何となく…そうじゃないかと思っただけだ」
本当に大した根拠はなかったのか、ショノアはもうその話を終わらせたいようだ。
だがセレンは少し昔を思い出していた。
“どうしてそんな顔しているの?”
ずっと英雄の仮面を被り続けていたセレンの本当の顔に、気が付いた人間が以前にもいた。
幼いながらもセレンの微妙な心の変化をいつも感じ取ってしまう、賢い子供だった。もう二度と会えない大切だった存在。
ショノアも同じような存在になり得るのだろうか。だとしたらもう二度と失いたくはない。強くならなければ…。大切なものを守れるように。
決意を新たにするセレンの顔を、ショノアが思案げに見つめていた。