(2)
「ショノア!」
セレンの叫ぶ声が耳に入ってくる。彼は倒れてくるショノアの体を必死で受け止めてくれた。しかし踏み留まる力はもう残っていないのか、そのまま2人で崩れ落ちるように倒れてしまう。それでもセレンはショノアの傷口を探し出すと懸命に両手で押さえた。
「デルフィラ、ショノアを…!」
呼ばれた彼女も悲壮な様子ですぐにショノアの傷を癒そうと力を込める。しかしセレンの腕からも先程ネメアに負わされた傷からまだ血が流れているのだ。ショノアの体はあっという間に血まみれだ。そんな状態を見ながら魔力を込めるものだから、彼女の顔は今にも泣いてしまいそうだ。
「しっかりして…、私が絶対に治すから…」
どちらかと言えば気丈に振る舞っていたデルフィラが、今はもうすっかり涙声で冷静さを失っている。
「…大丈…夫…」
2人を安心させようと強がってはみるものの、声もろくに出ずに余計に心配を煽ってしまうだけだ。セレンの手は痛みのせいか、それとも絶望感のせいなのか、ずっと震えていて思うように力も入っていない。デルフィラも懸命に魔力を注いでくれるが、元々回復力の弱いガレス人が相手ではセレンのような劇的な回復は望めない。治りの悪いショノアの傷にデルフィラの顔には焦りが見え始めていた。それでも2人の手とその存在はショノアに大きな安心感をくれる。自分は今1人ではないのだと、こんな戦いの中でもそれが嬉しい。
「戦いの最中に怪我人を案じるなどと…そんな暇が貴様にあるとは思えんがな?」
しかしショノアを介抱するセレンに向けて非情なアルゴスの声が下りてくる。しかもその直後にアルゴスは風の刃まで投げ付けてきた。デルフィラが反応する暇もなく、セレンは剣でその魔法を振り払う。
「っ……」
風でできているとは言え、その風圧で相手を寸断するような魔法だ。弾き返す時の体の負担はかなり大きかったのだろう。セレンはもう剣さえ握っていられなくなり、片手を地面に付いた。
「もう後がないな? 頼みの綱も切れて苦しむ貴様にはすぐに死を与えてやろう」
片腕だけで必死に身体を支えるセレンの姿に、アルゴスは勝ち誇ったように笑う。
「……くそっ…」
言いたい放題のアルゴスには何か言い返してやりたいが、かと言ってショノア自身も傷の痛みで何もかもが思うようにならない。幸い胸の傷は大きく裂かれてはいるが、ミレノアル人化の名残か、思ったより深い傷にはならずに済んでいるようだ。だがそれでもまだセレンのようにデルフィラの力を受けて簡単に治ったりはしない。
セレンを殺すため、そしてショノアにとどめを刺すための魔法がアルゴスの中で膨れ上がっていく。するとショノアを必死で癒していたデルフィラが意を決したように立ち上がった。何をするのかと目で追えば、彼女は自分やショノア、セレンを強力な結界で覆い2人のことを守るつもりのようだ。しかしそんなものはすぐに破られてしまうだろう。アルゴスも同じことを思ったのか、無駄なことをと苦笑を漏らす。
「懲りぬな、お前達は…。今ここでお前がこの者共を守ったところで結局ネメアには勝てぬだろう? 全て無駄なことだ」
「無駄かどうかは…やってみないとわからないわ」
デルフィラは2人を守りながら更に攻撃魔法を発動し始めた。
「聞き分けのない…。諦めの悪さはその男の影響か?」
「……」
アルゴスの指摘にデルフィラは一瞬動揺したものの、慌てて無表情を装う。相変わらず彼女は隙だらけだ。アルゴスはそんな彼女を見て嘲るように笑った。
「今更隠しても手遅れだ。お前にとってそこにいる男が特別な存在だということは既にわかっている」
デルフィラは不安そうにセレンを見つめた。彼女は父親に目を付けられた人間がどうなるかをよく知っているのだ。だがそんなにもあからさまにセレンを頼る様子を見せてしまっては、アルゴスの言葉を裏付けることにもなってしまう。彼はデルフィラの反応が予想通りで満足したようだ。悪魔のような笑みを浮かべながら彼女を見つめている。
「どれ、それでは可愛い娘のために一つ提案をしてやろう」
その言葉は彼女に対する皮肉だろうか。確かにアルゴスにしてみれば、簡単に手玉に取れる彼女の存在は可愛いに違いない。
「聞いてはいけません! デルフィラ!」
嫌な予感がしたのだろう。セレンが必死で止めようとするが、デルフィラが彼の方を見ることはなかった。彼女の心は既に父親に向いてしまっているのだ。
「私の元に戻ってこい。そうすればここにいる者達の命は取らずに城に帰ってやろう。悪い話ではあるまい?」
罠であることは明白だ。ショノアもデルフィラを止めようとするが、とにかく起き上がる力さえない。
「ネメアも魔物達もみんな引き上げてくれるの?」
「ああ、勿論。私が連れてきた全てのものにお前が加わり城に帰るだけだ。そうすればこの男も元気を取り戻すかもしれんぞ?」
デルフィラは魔法の発動を止めるとセレンを見つめた。その顔には激しい葛藤が見て取れる。彼女はアルゴスの提案に乗るつもりだ。だがセレンの側からも離れたくはないのだろう。
「…迷う必要などありません。このような交渉は…無意味です」
セレンはジリジリと立ち上がり、彼女を自分の後ろに庇う。しかし彼が戦いを続行できる状態にないのは誰が見ても明らかだ。
「私の国は…王の命と引き換えに無事を約束されました…。ですがそれは魔法の開発に利用されるため…ただ生かされているだけだと聞いています…。あなたが行けば…この国も同じに」
「黙れ!」
アルゴスの火球がデルフィラの結界を突き破ってセレンに襲いかかる。セレンはそれを剣で受け止めるものの、弾き返すことはできずに吹き飛ばされた。
「セレン‼︎」
駆け寄ろうとしたデルフィラの目の前で、ネメアの大きな前脚が倒れたセレンの体を踏みつける。地面にめり込む勢いで押さえ付けられたセレンから激しい苦鳴が漏れた。もう死んでしまうのではないかと思うくらいのその声にデルフィラは悲鳴を上げてそのネメアの脚にしがみ付く。
「お父様! お願い、やめさせて!」
彼女は必死で涙ながらに懇願するが、最早アルゴスは彼女の言い分を聞くフリさえしない。
「我が娘をたぶらかした不届き者はここで死ぬ。愛しい者が目の前で無惨に死んでいく様をその目に焼き付けよ、デルフィラ!」
アルゴスの怒号と呼応するかのようにネメアは更に力を込めてセレンを押し潰そうとする。セレンからは一度だけ小さく呻く声が聞こえたがそれだけだ。それ以降はもう何の声も聞こえず、ただ生木が折れていくような不気味な音だけが響く。
デルフィラは渾身の力でネメアの脚に魔法を叩き込んだが勿論何の効果もない。ショノアもセレンを救う方法が何かないかと必死で頭を巡らせるが、焦り切った自分の頭は少しも働かない。その間もセレンは容赦なく地面に沈まされていく。
「やめて…! いや…いやあああ…!!」
何もできない自分に絶望したデルフィラは狂ったように叫んだ。その声は虚しく空に響き渡り、セレンの命運は尽きたかに思えた。
その時突如上空から大きな影が差した。そして次いで巻き起こる真冬のような冷たい吹雪。その猛吹雪の直撃を受けて、セレンを押さえ付けていたネメアが仰け反り倒れる。その体に覆い被さるように飛びかかったのは1匹の白い竜だ。
その竜は暴れるネメアの首を前脚で押さえ付け、大きな口で頭に噛み付いた。ネメアの頭の一部がその顎に噛み砕かれ、そこから何か光る玉のようなものが空に飛び去っていく。ネメアはそのまま地面に崩れ落ち、二度と動くことはなかった。
「貴様…!」
それを見たアルゴスが怒りの形相でその竜に向けて雷の矢を放つ。
「させるか!」
ショノアはここぞとばかりに残っていた力を振り絞った。同じ雷の矢を横から受けて、軌道は竜から大きく逸れる。
何が起きているのかは彼にもわからない。ただ確かなことはこの白い竜がたった今ネメアを1体『倒した』ということだけだ。この竜が何の目的でここに現れたのかはわからない。それでも今の状況を変えてくれる力なのは間違いなかった。
竜は高い知能を感じさせる視線をショノアに向け、すぐに新たなネメアに向かって飛んでいく。もしかしたらショノアが自分を助けようとしたことを理解しているのかもしれない。
「……な…に?」
半狂乱になっていたデルフィラはまだ放心状態で、ただ解放されたセレンの体に縋り付いている。しかし竜の姿を目で追っている内にその表情が驚きに変わっていった。
「お兄…様……?」
「⁈」
その彼女の呟きを聞いたショノアは驚いてデルフィラと竜の姿を交互に確認する。まさかあれが姿を消したヘイム王子の姿だと言うのだろうか。しかしだとしたら自分達の力になってくれるのは確実だ。彼の目的はアルゴスを倒すことなのだから。
ショノアは身体を引きずるようにして立ち上がる。胸の傷は何とか血は止まった。デルフィラの力を受けてもさすがにセレンのように塞がったり治ったりということまでは無理だ。だが当面、出血の多さで死ぬようなことはないだろう。
目の前では竜が次々にネメアに襲いかかり、倒していっている。残っていた魔物達も反撃とばかりに竜に襲いかかるが、ミレノアル人達がネメアに対して攻撃できないようにその竜にも攻撃は通用していない。
「おのれ…どこまでもわしの邪魔を…!」
アルゴスにも竜の正体がわかっているのだろう。竜に魔法の網をかけて動けなくすると、何かの魔法を発動し始めた。あの竜がネメアと同じような魔獣だったとしたら、ネメアの造り主であるアルゴスにはその弱点もわかるのかもしれない。もしそうだとしたらあの竜が危ない。
「……⁈」
しかしその時すぐ近くで恐ろしい魔力の高まりを感じてショノアは振り返る。セレンを抱いたまま、デルフィラがアルゴス以上の力を出し始めたのだ。それに気付いたアルゴスが唖然として彼女を見つめてくる。
「お兄様にまで手出しはさせない…」
涙を流しながらデルフィラは厳しい顔でアルゴスを睨みつけた。
「私の前から消えて! 二度とここには来ないで!」
彼女の全身から凄まじい光が一筋の彗星のようにアルゴスに向かって飛んでいく。主人を守ろうとその軌道に魔物達が集まるが、一瞬で消滅させられその勢いは削がれることはない。アルゴスはネメアを自分の前に全て集めて不敵に笑った。
「ここまで力を増しておるとはな…」
ネメアとアルゴスに命中したデルフィラの魔法はそのまま光の爆発を起こした。目が一瞬見えなくなるほどの眩しさと凄まじい爆風。それはデルフィラの魔法が如何に強力だったかを物語っていた。
「消えた…。いや、退いたのか?」
目が見えるようになると、そこにはもうアルゴス達の姿はなかった。残っているのは魔物とネメアの死体だけだ。静かになったその王都に、ただデルフィラの泣き咽ぶ声だけが響く。
「そうだ、セレン…!」
ショノアは急いで2人の元に駆け寄るが、セレンの姿は一目見ただけでも絶望的な状態だとわかった。勿論デルフィラはずっとセレンに力を注ぎ続けている。だがネメアの爪が食い込んでいた彼の体から血が止まる様子はなく、恐らく見えない体の内部に至っては無事な骨が残っているのかどうかもわからない。
「…治ら…ないの…、少しも…」
彼女の力は治癒力の増幅に過ぎない。セレンにその力が残っていなければ増幅のしようもないのだろう。
「グレシルを呼んでくる。使い魔は…出せるか?」
彼女は黙って頷くと、すぐ側に大きな鷹が現れた。
「すぐに連れてくる。それまで…」
「グレシルならここにいるぞ!」
ショノアが鷹に乗ろうとしていると、思いもしない声が聞こえた。
「ベリル⁈ それにグレシルまで…?」
振り返ればそこには馬に乗ったベリルとグレシルがいた。
「皆の避難を無事見届けた後、王都のすぐ外で身を潜めていたのだ。我々にできることなどこれくらいだからな…」
悔しそうなベリルだったが、今のセレンにとっては救いの神だ。グレシルは馬から飛び降りるとすぐにセレンの元へと駆け寄った。
「グレシル…、彼を助けて…」
肩に担いできた大きな袋を床に下ろし、変わった形の薬瓶を取り出し始めたグレシルにデルフィラは必死で頼み込む。その肩にグレシルはそっと手を置いた。
「準備はしっかり整えてきた。少しの間、セレンをわしに診せてくれんか?」
言われてようやくおずおずとデルフィラはセレンから手を離した。
「……」
グレシルは深刻な顔でセレンの体を一通り見ると、わずかに息を吐いた。
「やるだけのことはやってみよう。じゃが助かるかどうかは…今の所は何とも言えん…。最悪の事態も覚悟しておくのじゃぞ?」
「そんな…!」
デルフィラがまたセレンに取り縋ろうとするのをショノアが引き止める。
「グレシルにしばらくの間任せておこう。あんたにできることはもう既に全てやってる。少し休んで冷静になった方がいい」
「ショノア…」
彼が手を引くとデルフィラはもう逆らわずにセレンから離れた。しかし視線だけはずっと彼から離さない。
「しかし…どうやってアルゴスを追い返した。それにあそこで死んでいるのは…まさかネメアか…?」
「それな…。実はあの竜が俺達を助けてくれたんだ」
ショノアが視線を送れば、ベリルもその視線の先を見る。
「あれは…! あんな竜は初めて見るぞ⁈」
すぐ側でショノア達を見下ろしている竜はあの巨大ネメアに匹敵するほど大きかった。そして姿は他に類を見ないほどに美しい。真珠のような柔らかい光沢を持つ白い鱗に宝石のような紅い目。馬のような銀色の鬣に翼の皮膜は透明で、立ち上る魔力の光が時々それを七色に輝かせていた。
「デルフィラはガレスの第5王子ヘイムだと言うんだが…」
真偽の程を確かめようとデルフィラの顔を見れば、彼女はしっかりと頷く。
「しかし何故…王子ともあろうものが魔物の姿に? それに我々を助けてくれたというのも…」
ベリルにしてみれば、ヘイムは悪逆非道の限りを尽くしたアルゴスの手先でしかない。そんな王子がミレノアルの救い主だと知っても俄かには信じ難いのだろう。
「話せば長くなるんだが…、少なくとも彼女の話を聞く限りヘイム王子は俺達の敵じゃない。むしろアルゴスを倒そうとずっと父親に従うフリをしていたんだ」
ベリルは驚いて再度竜を見た。すると竜のすぐ側で光が凝縮していったかと思うとそこには1人の男性が立っていた。
「……まさか、本当に…?」
ベリルはその男性の顔を見て言葉を失う。彼女は何度かヘイムと顔を合わせたことがあったのだろう。
「そこにいるのはミレノアルの騎士ベリルか? 8年ぶりだな。君と会うのは…」
「あの時の戦いを覚えていると言うなら、やはりあなたは…」
ベリルは緊張した様子でヘイムと向き合う。彼の姿は幻で、どうやらショノア達と話すためにその幻影を作ったようだ。
「あの時のことは…本当にすまなかった。言い訳はしない。あれは…許されぬ行為だった」
「……」
過去に何があったのか。しかしアルゴスの言いなりだった当時のヘイムはきっと恐ろしいことをしでかしたのだろう。ベリルは怒りを堪えるように手を固く握りしめた。
「償い…という訳ではないが、今後私は父を倒すべく力を尽くすつもりだ。どうかその宿願を果たすまで復讐は待っていてもらいたい」
「アルゴスを倒す…だと? ならば何故もっと早くに現れなかった⁈ セレンがああなる前に!」
ずっと顔には出さなかったが彼女もデルフィラと同じくセレンの状態に大きなショックを受けていたのだろう。詰め寄るベリルにヘイムはただ申し訳なさそうに顔を伏せる。
「すまない…。私もたった今目覚めたのだ。デルフィラの声が聞こえなければ未だに眠りに就いたままだったろう」
「私の…声?」
デルフィラはヘイムの顔を不思議そうに見つめた。彼女は半狂乱になっていたため、あまりよく覚えていないのだろう。
「そうだ。……お前の悲痛な叫びが聞こえた。誰でもいい、自分の愛しい者を救ってくれと…。それから…」
ヘイムはセレンのすぐ脇に落ちている聖剣を見つめた。
「恐らくその剣が、私をここに導いた」
「聖剣が?」
聖剣の刃は既にボロボロでいつ折れてしまっても不思議はない有様だ。しかしその反面、柄の方は今や白い光を明滅させてまるで拍動しているかのようだ。その視界の端でグレシルが手を止めていた。ショノアは嫌な予感を振り払いつつ、決死の覚悟で尋ねる。
「グレシル、セレンは…?」
彼の表情は相変わらず深刻だが、悪いことになっていないことだけをただ祈る。
「……何とか持ち直した。驚いたことにそこの聖剣がこの男の魂と共鳴しているようでな…。恐らくその作用でセレンの魂が回復してきているのじゃ。それがなければわしにもどうにもできんかったろう…」
その言葉を聞いたデルフィラが嬉しそうにセレンに駆け寄っていく。
「魂の…共鳴だって?」
ショノアはただ驚いて聖剣を見つめた。あの光の明滅が死にゆくセレンを押し留めていたというのだろうか。だが共鳴と言うからには聖剣もセレンの魂と似たものを持っている必要がある。そうでなければ反応するはずがないからだ。
もしかしたら“聖剣に選ばれる”というのは“魂を分け合う”ことなのだろうか。だとしたら今までのことも色々と説明が付く。しかしセレン本人はそんな自覚は全くないのだ。知らない内に魂を半分奪われてしまっていたのだとしたら、この聖剣は本当に魔物だと言わざるを得ない。
「しかしまだ油断はできん状態じゃ。早く安全な場所を探して休ませてやらねばならんぞ?」
「ならば城が良い。地下に避難場所を確保してある」
ベリルの言葉にショノア達は一斉に動いた。




