魔王の正体
ラインフェルド川を越えてしばらく草原が続き、やがて暗い森に入る。そこまで来るとまるで別世界のように急に雲が分厚くなり、常夜のように薄暗くなった。
その鬱々とした場所に聳え立つ魔王城。黒いシルエットが不気味に浮かび、俺は身の毛のよだつ恐怖を感じた。
トラファルガーからここまでたったの数時間。魔王の飛行魔法は馬車移動を遥かに凌ぐスピードがあった。
メアリーは今頃、魔物に捕まった同い年の子どもたちと一緒に馬車に詰め込まれ、自由に手足を伸ばせない環境で長旅を強いられていることだろう。それを考えると、俺はいたたまれなくなった。
「どうだ、ここがわたしの部屋だ。素晴らしいだろう」
魔王に案内されたのは城の最上階。広さが三十畳ほどもある、とてつもなく広い部屋で、大理石の床以外は基本的にパープル色の強い内装になっていた。
壁もカーテンも家具も寝具道具も、あらゆる所が紫一色で、何だか卑猥な気分になる部屋だ。
「毛が汚れてるな。風呂に入ろうか」
穴に落ちたせいで、俺の全身は土で汚れていた。
だけど、できれば湯浴みはしたくない。前世でも風呂は好きじゃなかったけど、このカラダになってからはなおさら嫌になった。全身の毛がべったりとくっついて肌にまとわりつくのが不快で仕方ない。
魔王の腕の中で暴れもがくことによって入浴回避の道を探ったものの、失敗に終わった。
部屋から螺旋階段をのぼり屋上へ。そこには魔王専用の露天風呂があり、周囲360度、暗い森の景色が広がっていた。
「どうだ、絶景だろう」
魔王自慢の風呂らしい。わざわざ俺を抱いたままグルッと一回転した。意外とかわいいところがある。マルコたちの殺害を命じた惨酷さがまるでウソのようだ。
そんでもって、
「ママも一緒に入るから安心しろ」
俺の耳元で甘く囁いた。
……ん? 今、ママと言ったよな?
片手で俺を抱いたまま、魔王はもう片方の手で仮面を外した。
「にゃあ!?」
思わず驚きの鳴き声を発してしまう俺。身長が二メートル近くあるものだから、てっきり男かと思ったら魔王は女だった。
しかも、十七歳ぐらいのロリフェイスで、赤髪をショートにしていて、肌は真っ白。まつ毛がクルッと上がった、パッチリ大きな瞳も赤色で、見つめられると心臓をギュッと鷲掴みにされるような奇妙な妖艶さがある。
真っ白な歯はキレイに並んでいるものの、小さくニョキッと出た八重歯のせいで、笑うと小悪魔感が強く表れた。
黒マントを脱ぐと、紫色のビキニアーマーを着たグラマラスボディが露わに。身長は魔王としての威厳を見せるためか、三十センチ近くもある厚底ブーツで盛っていたらしい。それを脱ぐと、違和感のある大女からスーパーモデル級の美女へと魅力がアップした。
「今、脱ぐから待ってろ」
お湯で濡れる床石に降ろされた俺は、忠犬ハチ公よろしく、その場でおとなしく待機。
「フフ、かわいい子だ」
頭を撫でられた。お前もな、と心の中で返す。猫アングルから見上げる脚はとてつもなく長く美しい。興奮で尻尾がおっ立つのを抑えきれない。
ビキニアーマーが着脱され、白肌の全裸が拝めるかと思いきや、タイミング悪く湯気が流れてきて、絶妙な加減で魔王の局部を隠してしまう。……クソゥ!
だけど、まだチャンスはある。
溢れるばかりに肉が詰まった胸と尻を隠そうともせず、魔王は先に風呂に入ると、
「ルシウス、おいで」
両手を広げて俺を誘う。おお、これは夢か幻か。何と素晴らしいシチュエーションなのか。猫に転生してよかった。心の底からそう思った。
「にゃあ」
尻尾をおっ立てたままお湯に入ると、魔王が両手で抱き寄せてくれた。行きつく先はふたつの巨大なメロン。ぷにゅっと擬音が鳴りそうなほどに柔らかだ。
しかも、
「かわいいでちゅね~」
魔王は急に甘々な口調になって、俺の頭に顔をスリスリしてきた。
おいおい何だよ、この凄まじいほどに強烈なツンとデレのギャップは。
おまけにこの温泉、特別な効能があるのか、疲れたカラダが一瞬で癒された。まさに至れり尽くせりの極み。はぁ……ここは天国でしょうか? やはり俺は親ガチャ運に恵まれているらしい。
「ほら、もうキレイになったぁ」
魔王に軽く撫でられただけで全身の汚れは落ちて、金色の体毛は自分でも見惚れるほど神々しく輝いた。
「何て美しい猫ちゃんなの」
恋する乙女のような目で魔王は俺を見つめる。そんなに褒めるなって。照れるじゃないいか。
「よぉし、ルシウス、お前をわたしの右腕、副魔王に任命しちゃう」
口頭で辞令を下すと、もう我慢できないとばかり、魔王は俺を強く抱きしめてきた。何もしてないのに重役職をゲットしたぞ。
ぷにゅぷにゅとした感触の豊潤な胸に顔を埋めながら、乙女の心を完全に掌握したことを確信して、俺はほくそ笑んだ。
これで魔王軍は余の想いのままじゃ、ヒーヒッヒッヒ。何つって。小心者だから、悪いことは一切できません。
ところで、副魔王って具体的に何をするの? 基本、『副』がつく役職って何もしないイメージなんだけど。
力強くハグされ、頬に頬をスリスリされた。
見た目が九割なのは猫も一緒ってことだな。前世で容姿に恵まれなかったことが悔やまれるよ、ホント。
風呂から上がって毛を乾かすと、
「城の中を案内してあげまちゅねぇ~」
何て甘々な口調だったのに、いざ部屋から出た途端にキリっとした表情に変身。
マルコといい、組織のトップってみんな、こんな風に対外的な顔と素顔がまるで違ったりするのかな?
何はともあれ、魔王の腕に抱かれて城内巡りを開始。廊下には等間隔でランプが設置されているものの、灯が弱いために薄暗く不気味で、肝試しをしてるような気分になる。
おまけにどこも特徴がないから、ひとりで出歩いたら迷うこと必至だろう。
「前の飼い主に会いたいか?」
階段を降りながら魔王に訊かれた。メアリーのことか。無事なんだろうか?
「にゃあ」
と答えた。
「よし、連れて行ってやろう」
魔王はなぜかニヤリ。何か意味深だ。
嫌な予感を抱きながら辿り着いたのは地下牢だった。地上階の廊下よりさらに明かりが乏しく、冷たい空気の中に腐臭が漂っている。
「ここには、わたしの命を狙いに来た愚かな者たちが収容されている」
通路の左右にある鉄格子の向こうには、痩せさらばえた男たちの姿があった。誰も彼も魂を抜き取られたように生気がなく、空虚な瞳と表情をしている。
魔王を倒しにここまで辿り着くぐらいだから、いずれも腕に覚えのあるツワモノばかりなのだろう。
それでも歯が立たず、廃人同然にまで追いやられてしまうとは魔王恐るべし。その腕に抱かれてることが急に怖くなってきた。
そのまま地下牢の奥に進むと、すすり泣く声が聞こえてきた。メアリーの声だ。間違いない。
その予想通り、メアリーはひとりきりで牢屋に入れられていた。部屋の奥に設置されたベッドに突っ伏して泣いている。
無理もない。落とし穴から出てイノシシ男に失神させられ、気づいたら魔王軍に捕らえられて、こんな劣悪な環境に陥ってしまったのだ。
「にゃあ」
俺のひと鳴きで泣くのを止め、こちらを振り向いた。
「ルシウス!」
涙でぐしょぐしょに濡れた顔に少しだけ明るさが戻る。鉄格子まで駆けてきて、
「ルシウス、無事だったんだね。お父様たちはどこ?」
おお、メアリー。君はみなしごになってしまったんだ。その説明責任のない猫の身であることに安堵する自分がいた。どんな事情であれ、かわいい子を泣かす役はごめんだ。
ところが魔王は非情なもので、
「お前の父親も母親も、姉たちも殺してやった」
ニヤリと楽しそうに言う。
「ウソよ!」
そう叫び、「ウソよね?」と問うようにメアリーは俺を見つめる。
やめてくれ、そんな悲しみに沈んだ目で見ないでくれ。心が痛い。俺は目を逸らした。
「本当だ。信じられないなら、首をもってきてやろうか」
追いうちをかけるように魔王は言う。
やめてくれ、そんなサディスティックなマネをするのは。ほら、メアリーがますます悲痛な顔をしてるじゃないか。
ふたりきりの時はあんなにチャーミングなのに、どうしてそんな悪魔みたいな性格になってしまうんだ。
「じゃあ、どうしてわたしは生きてるの?」
同じようにマルコたちも生きてるに違いない。一縷の望みを抱くようにメアリーは言う。
「この子がお前をかばったからだ。感謝するんだな。ルシウスは命の恩人だ。今度からわたしがしっかり面倒を見てやる。最後のお別れをしろ」
鉄格子の間に顔を押しつけているメアリーの目の前に、魔王は俺を差し出した。
「お別れなんて嫌!」
大粒の涙を流すメアリー。俺も気持ちは一緒だよ。君は少し鈍いところがあるけど、美しく優しい心の持ち主だ。君みたいなひとばかりならば、前世でもきっと俺は引きこもらずに済んだだろうな。
「にゃあ」
いつか助け出す、という意味を込めて俺は鳴いた。通じてくれるとうれしい。
ただ、どうすれば助け出せるのかはわからない。それはすなわち、魔王を裏切ることになる。
「さあ行くよ」
魔王が俺を抱き寄せて引き返す。
「ルシウス!」
メアリーの叫び声が地下牢と俺の心に響く。
「メアリーをどうするつもりだ?」
と魔王に訊けないのがもどかしい。殺されはしないだろうが、その方がマシだという生き地獄を味わわされたりはしないか。それが心配だった。