06
連なる博物館のなかで、右から三番目の建物一棟がまるまる『宇宙館』なのだ、と長谷川さんは教えてくれた。
おそらくプラネタリウムとして使われるんだろう巨大な半円形の天井が、キノコの傘みたいににょきりと生えているのはユニークな感じがして面白い。厚紙で手作りしたんだろう『ようこそ宇宙館』の看板を横目に千四百円のチケットを切ってもらって入場する。
「ほんとにここでいいの? ま、オススメだけど」
会うたびに、毎回かならず、ああ、よかった、とおれは安心する。
正直なところ、会う場所はどこでもいい。話が弾むなら。いや嘘だ、べつに一言もしゃべれなくても、気まずくないなら構わない。さらに言うなら、たとえどれほど気まずくたって、長谷川さんが家に帰ろうとせずずっと横にいてくれるならそれでいい。だから希望としては、難破する予定の船に二人きりで乗って、そのままモーリシャス島とかでドードー鳥の研究でもして死ぬのが一番だ。
そんな物騒な祈りをよそに、長谷川さんは作り物の宇宙をながめて、わあ、とか、すごい、とか言っている。
「惑星、衛星で、それぞれ色が分かれているんだよ」
と長谷川さんが言って、安っぽく禿げた天井のラベルを指さした。原色で、青と赤。
惑星がPlanetで、衛星がMoonで。
「このあいだ、StarとPlanetの話をしましたね」
「ああ、したねえ。ちなみにあそこにあるのが北極星だよ」
前に、北極星のことが好きだと言ったのを覚えてくれていたらしい。あの時はとっさに名前を言えるほど星の名前を知らなくて、仕方なく北極星が好きだということにした。
「北極星は、英語でなんていうんですか?」
「Polarisだよ。ポラリス、って、なんか歌詞とかで聞き覚えない?」
ある、たしかにある。カラオケのデンモクで「ポラリス」と入力すれば、ざっと五十件以上はヒットすることだろう。
「で、あれが太陽」
「どうして、おれたちは都合よく、光る星の周りを回ってるんですか?」
「うーん。ある程度よりも大きい星は恒星になるし、その大きい恒星の重力に振り回されながら固まって星が出来ることも多いからね。結果、恒星の周りをまわる星を惑星、その周りをまわる星を衛星、って名付けてあるんだ」
すこしよく分からなかったので、ほかの質問をすることにした。
「たとえば恒星が二つあったら、どうなるんですか?」
「距離や状況によっては連星になるね。そんなに珍しいことじゃないよ」
「スピカみたいな?」
「そう。シリウスとかも有名だよね」
二つの光る星が互いの間をめぐっている。それはどこか幸福な想像で、追いかけっこする双子の兄弟みたいだと思う。あるいは恋人同士でもいい。
「やっぱり不思議です。Polarisも恒星なんですよね?」
「そりゃあね。北極星にかぎらず、夜空に光る星々は、殆どが恒星だよ。恒星になる条件を知りたい?」
知りたかったので、おれは素直にうなずいた。
「はい」
「ある程度より大きいこと。条件はほぼそれだけみたいだよ。実際ね、木星はもう少しのところだった」
長谷川さんが、青い帯を周回し続ける大きな星を指差す。衛星が四つ付いている。木星の衛星はたしか無数にあったと思うが、代表的なものだけが模型化されているんだろう。
「なり損ねたんですね」
「まあ、木星が恒星になっていたら、地球に生命が誕生したかどうか怪しいから、ぼくらにとってはラッキーなんじゃないかな」
木星も光り輝く太陽系を、見てみたいと思った。木星は柄が可愛くて好きだ。木目みたいでお洒落だし、『なり損ね』になんて全然見えない。
「ただ大きければ恒星になるって、不思議ですね」
「サイズというよりは質量の問題だけどね。重たいガスが、自重でまわりを巻き込んで、もっともっと重たくなって、最終的に光りだすんだ」
重たくって、引っ張って、どうにも逃げられなくちゃって、それでたくさんの星を巻き添えにしながら自分は光り出す――なんて自分勝手なものなんだろう。太陽はやさしくて暖かいような気がしていたけれど、原理を説明されるとどうしようもないほど利己的な存在に思えてくる。地球や火星や木星や、おれたちの世界全部をぶんぶん振り回しておいて、やさしいもなにもないのかもしれない。
おれは、この世があって、死んだらあの世の手前に閻魔がいて、そういう世界で生きていると知っている。それでもこの世界が地動説で動いているのも多分真実だ。あの世っていったいどこにあるんだろう。あの場所では、万有引力とか恒星とか円運動とか、そういうのってあるんだろうか。科学館のなかで閻魔のことを考えるのは、随分不道徳な気がしている。
「そういえばさ、ここ、日食つくれるんだよ」
と長谷川さんが言って、ガタガタとハンドルみたいな機械を動かす。ぐいん、と嫌な作動音がして、地球と月が不自然に動き出す。
「ほら、あのモニター」
地球のうえには、小さな人のフィギュアが乗っている。その頭越しに、太陽が見える。そのうえに月が被さって――これが、日食の原理だといいたいんだろう。太陽が、どうしてかひときわ強く輝きだした。
「アナログな仕組みなんだけど、だからこそ分かりやすいっていうか。こういうの好きだなあ」
地球の上に乗った人形は、花を一輪掲げた少女の姿を模していた。
あれ、女の子ですね。と言おうとして、そういえば長谷川さんには娘がいることを思い出した。なにも思い出させたくないから、結局なにも言わない。不自然な沈黙に、長谷川さんは、あれー、つまんなかったかあ、と笑いながらハンドルを逆回転させた。日食が終わる。
ホール中央にある太陽は、ラブホテルのライトみたいに明滅している。現実の太陽にはない変化を加えているのはどうしてだろう。橙色の光が強弱のリズムをとることで、多少、この暗い空間が陽気に感じられるからだろうか?
「優弥くんってさあ、ツボが分かるようで分かんないんだよなあ」
「そうですか?」
うん、いつも難しいよ。と、おれにとっては世界一難しい人が、苦笑いしている。
「いつか分かるようになれるかなあ」
「なんですか、それ」
全然おれのことなんて理解する気もないくせに、いや、多少はあるのかもしれないが、それほど本気でもないくせに。この人に好きだと言われたことはもちろんない。ある意味とても誠実な人だ。
太陽の逆光がこの人を照らしている。
愛はいい。かならず成功する。もちろん、交際の申込みや結婚の事情に失敗することはあれど、ただ恋をする、相手を愛してみる、それだけならば、決して間違えることも失策することもありえない。もしなにかの弾みで消えてしまっても、呪いが解けたんだと穏やかな死人の顔でいればいい。
おれの愛。おれの人生の価値。こんなものがほんとうに生きる理由になるなんて、閻魔は信じているんだろうか?
だとしたらかれは馬鹿だ。いちど下界にインターンに来たほうがいいだろう。
――もうすぐ君の周囲を悲劇が襲うよ。
予告されたおれの悲劇について思い出す。おれにとって「悲劇」と表現されるのは、この人と会えなくなったときぐらいだろう、と思った。それは恒星が、太陽が、この世界から消えてしまうような類のことだ、と。
初めて出会ったのは三年前だった。好きになるのはほぼ一瞬だった。いや、だめじゃんこの人、って思ったときにはもうすべてが遅かった。
嫌いになるための手始めとして、嫌なところをいくつか書いてみようと試みたのに、三つ目で終わった。人の話を聞かないところ、嘘が分かりやすいところ、時間を守らないところ。嫌いなところを探し始めたりする、こういうのって終わりだ。終わりっていうか、ながい恋のはじまりっていうか、とにかく破滅ってこと。
だめじゃん、っていうおれの直観は何の役にもたたなかった。だめだ、だめだ、と念仏みたいに呟きながら何度も会った。仏はなんの役にも立たなかった。
はじめて旅行にいってからちょうど一年になるから、ってかわいらしいキャンドルのささったケーキをもちだしてきた長谷川さんをみて、この人はほんとうに頭がおかしいのかもしれないと思った。たいした思い出もないのに、思い出すと好きだなと思う。ほんとうにどうしようもない。
明確に家族がいると言われたことはないけれど、きちんと隠そうともしてくれなかった。あの人は、陽だまりのなかでわらうのが上手い女の子とその母親の人とを持っていて、たぶん幸せなのだ。でも、いったいなんでおれと旅行に行ったりするんだろう。どうして何かが壊れるのが、ぜんぜん恐ろしくないんだろう。