05
「やあ」
忘れるわけもない、大王様。閻魔がそこにいた。
玄関横の籠にキーをほうりこみ、ブーツを脱いでコートを掛ける。かるく手を洗ってから、冷蔵庫からビールを取りだす。たぶん、酔っぱらっちゃったほうが楽だろう。
炬燵に入ってはあと一息をつく。まるで同棲中の恋人みたいに当然に、クッションを抱えた青年が微笑んでいる。向こうで会ったときよりも幼く見えた。
「お邪魔してるよ」
「様子見に来たのか」
「そうだよ。まだ、分かんないのかい?」
なんのことだ、と思ったけど、そういえば謎がひとつ残されていることになっているんだった。死んだ理由。
「あんた偉いひとなんだろ、こんなところで遊んでていいのかよ」
煙草に火をつける。もうこんな習慣辞めたい。やめられない習慣ばかりが増えていく。
「いや、なんか投げやりみたいだから」
「だから?」
「愛の大切さを伝えにこようかと」
かれがまた単調に微笑むから、信用できない理由がまた一つ増えた。
ほんとうに短い期間だが、高校のころテニス部に入っていたことがある。壁打ちの練習ばかりさせられていた。単調で、面白みのない、ボールの跳ねっかえり。ぽーん、と音が鳴る。球が返ってくる。打ち返す。
「大王って、忙しくないの?」
「なに。閻魔と名のつくものがわたし一人でも、わたしの役割をこなせるものは無数にいるさ」
「へえ。それってむなしくならない?」
「いいや? 残機が多くてありがたいことだ」
そんなもんだろうか。驕りに近しいと思う。打ち返すまえに、次の球が来る。
「とはいえ――様子を見に来た、というだけじゃなくてね。それ以上のことを君にしようと思ってる。そろそろ君の人生にも方向付けが必要かなって思ってさ」
「――方向付け?」
すこしだけ頭がうずくみたいに覚醒した。話をまともに聞こうか、という気分になった。
「なぜ死んだのかを探ろうともしないようだし、ぐずぐずしているうちにタイムオーバーが来ちゃうかもしれないだろ? だから、早めにちゃんと話をしようと思ってさ」
タイムオーバー。閻魔のいうタイムオーバーとは、死のことなのだろうか。
最低限で、打ち返す。
「話って?」
「もうすぐ君の周囲を悲劇が襲うよ。わたしからしたら大したことではないんだが、君にとっては重要事項。おっと、内容は言えないが、でもわたしが知っているということは、大体どういう管轄のことなのか想像もつくだろう。べつに君が何をしても何をしなくても結果は変わらないので、ただ意識の持ちようだけ気を付けていてくれればOKだ」
意識の持ちよう。結果は変わらない。内容は言えない。でも、重要事項。
足元に転がった球をひとつひとつ眺めてみる。どれかひとつでも、返せるものがあるだろうか?
おれはすこしだけ考えて、「分かった」とだけ言った。
「話が早くて助かるなあ。だいたいみんな色々質問してくるけどね。途中で口挟んできたりとかしてさ」
「聞かなかったことにすればいいんだ」
「なるほどね。君の人生っていうのは、そういうのの連続ってわけなんだな」
なにかに納得したかのように閻魔が愉快そうにビールの缶を開けた。おれが飲む分がなくなったので、もう一つ、ビール缶を冷蔵庫から出す。
「聞いてない、知らない、関係ない――そういうことだろ?」
おれはなにも答えない。
「そして、挑発にも乗らない。うーん、閻魔大王としての立場で言わせてもらうなら、これほどありがたい死者はいないけどね。あ、きみは生きてるけど」
「死者を挑発することもあるのか?」
「わたしはないかな。でも、鬼たちがキーキーとうるさいだろう。それで人間の本質が分かるってこともあるしね」
「善人を天国へ送り、悪人を地獄に落とすのか」
「いろいろと細かいところで、反論したいことはある。ま、でも、そんな些事のお話をしてもそれこそつまらぬ限りだろう。だいたい君の言う通り、いい人か、わるい人かを振り分ける『ふるい』をするのが役割さ」
「ふるってどうする?」
「どうもしないよ。ただ、区分けして送るだけ。その先のことはわたしは知らないな」
ま、想像はつくけどね。と閻魔がわらう。その顔を憎いと思いたかったはずなのに、あまりに柔らかい表情だったから、なんだか友人のようだと勘違いしそうになった。
*
すっかり全てを忘れかけたころ、大橋さんがおれの部屋の戸をノックした。
「ほら、暫くは身体も弱ってるだろうし、野菜も食べたほうがよくない?」
とのことだ。べつに大橋さんがいなくてもおれは野菜ぐらい一人で食べられるわけだが、せっかくのご好意のようなのでありがたくキュウリやトマトなんかが入ったビニール袋を受け取った。居住人にこれほど世話をやく大家が、現実にほんとうに存在するとは思ってもいなかった。
「来月の家賃に上乗せして払っときます」
袋のなかに紛れ込んでいたレシートに気付き、おれはそう言って戸を閉じようとした。ちょっと冷たい態度かな、と思わなくもなかったが、大橋さんと長々喋っていたい気分でもない。
「あ! もうほんとに大丈夫なの?」
「べつに病人ってわけでもないですから」
目を伏せているのが気まずくなって、おれは久しぶりに女性に対して愛想笑いをした。真正面からこの人を見たのは久しぶりだ。前に会ったときは、かなり騒がれて、なんなら泣かれていたから、困ってぜんぜん目を見れなかった。風呂上がりなんだろう、頬には濡れた髪の毛がひっついている。濡れた黒、その真黒さに、閻魔のことを連想した。
「なにか困ったことがあったら、教えてね」
家のことでは特に困っていないです、と答えようかと思ったが、嫌味なかんじがするのでやめておいた。
「また何か持ってくるから」
母親の顔を思い出す。おれの周りの女性ってのはどうしてこうなんだろう。
恋人がいるフリをしようかと思ったことが、何度もある。おれだって長谷川さんに迷惑をかけているのに、優しくしてもらっているのに、その分をこの人に返そうと思えないのは、あるいは不親切なことなんだろう。
「お金は気にしなくてもいいからね」
と、閉じかけの戸の向こうで大橋さんが言った。
*
まえに電話をしてからもう一週間が経つから、そろそろまたかけても大丈夫。
だれに決められたのでもない、かといって自分のなかでも鉄則ってわけでもない、あいまいな決まりに支配されている。多少震える手で携帯電話を持ち上げて、そこから連絡帳を開くのに数分かかって、通話ボタンを押すのにまた数十分をかける。まったく不便な精神だ。
しきたりみたいな決まりごと、しばらく鳴るコール音、すこしずつ冷え切っていく指先、もしかしたら怒ってるかもしれない、と思ったりする。
不意に、コール音が保留音に切り替わる。ああよかった、たぶん出てくれる。
長い長い『きらきらぼし』のあと、ようやく静寂が訪れた。電話がつながった。
「ごめんごめん」
「いえ、すみません」
ちゃんと繋がった。安心する。ほっとして吐く大きな息、泡、これだけで死んじゃえそうだ。なんて簡単な感情なんだろう。
「週末なのに、大丈夫でしたか?」
「うんうん。そっちは? 若いのに、俺に電話する以外の用事はないの」
「ないですよ。さっき大家さんが見舞いに来てくれたぐらいで」
「ああ、そういえば病気してたんだっけ」
「野菜をもらいました。キュウリとか、トマトとか入ってるんで、サラダにでもしようかと」
「健康的だねえ。あー。でもさあ、キュウリとトマトってさあ、一緒にたべるとトマトのほうの栄養素消えちゃうんだよね」
「へえ、そうなんですか」
ぜんぜん知らなかった。とにかく野菜は食べれば食べるだけ良いような気がしていたが、冷静に考えればそんなはずはない。野菜が身体にいいといわれる所以ってなんなんだろう、とかいま考えなくてもまったく構わない疑問で頭がいっぱいになってくる。
「まあ、女の子からもらえばなんだって嬉しいかもしれないけど」
と長谷川さんが笑った。おれはそうでもない。
「そうでもないです」
「そう? 最近の子ってやっぱりクールな感じだよね」
キュウリとトマト。恒星と宇宙。やめられない習慣。嘘をついていることとか、逆に嘘をつかれていることとか、欲しいものといらないものとか。
「そういえば、明日でいいんだよね?」
はい、明日でも、今からでも、なんでも構いません。とは言えずにおれは、明日の集合場所について、メモしてあった『JR公園口 十時でお願いします』をそのまま棒読みした。
「はいはい、分かったよ」
前日に電話までしてくるなんて、俺ってそんなに信用ないかなあ、まあ前に二時間遅刻しちゃったもんね。なんて無邪気そうに長谷川さんが笑う。笑う声がする。低い声なのに、それが鈴みたいに賑やかに聞こえる。これは友情とか親しみとか尊敬とかじゃなくて、ただ恋と呼ぶんだと、おれはもうずっとずっと前から知っている。