04
がらがら体が揺らめくかんじがして目を覚ました。ガシャンとなにかが割れる音がした。昔から、雷も大嵐もなにもかも大丈夫なのに、これだけが苦手だ。地面が揺れるなんてどうかしている。
ベランダに続く貧相なアルミサッシの戸を開けた。向かいのアパートの住民が裸足でベランダに出てきて大通りのほうに首を向けている。サイレンの音がしている。空を見れば、曇の奥に月が滲むように浮かんでいる。
ただの夜だ。
戸を閉じて部屋に戻る。慣性に従って閉まるサッシの隙間から、月光がやけに青そうな色合いで入り込んでくる。怖かったのに、すぐにまた眠れた。
朝、起きてすぐにテレビをつけた。昨夜の地震のニュースを見ながら、そういえばだれからも連絡が来てないな、とわらった。いや、うそだ。LINE見るといくつか来ていた。でも、おれが連絡ほしい人からは来ていなかった、ってそういうことだった。返す気にもなれない。大橋さんからも来ていた。なにか壊れている個所があれば連絡ください――って、なんでこんな事務的な感じなんだろう。夜中の三時のメッセージのくせに。
*
「おい、大丈夫だったのかよ」
エレベーターではさっそく三輪さんに捕まった。いちおう昨日、言い訳を考えてはいたけれど、ぜんぜん思いつかなかったからそのまま会社に来た。案の定なにも言えなくて黙っていると、おい、と小突かれる。すみません、と小さく会釈するみたいにつぶやいた。
「すみません、ほんと」
なんだかこの数日謝ってばかりだ。と思うけれどでも、そもそもおれの生活ってそういうものだった。
長谷川さんに謝って、三輪さんに謝って、母親に謝って。でも、珍しいことじゃない。おつかれさまです、失礼いたします、申し訳ありません、こういうのって挨拶みたいにやりとりする符号であって、べつに感情じゃない。謝罪、ってよくよく文字面みると怖そうにみえるけれど、べつにおれは罪を謝るつもりなんてすこしもないし、たいていの人間がそうだろう。ごめんなさいは挨拶だ。
「おまえ、また聞いてないだろ」
「いや」
そんなことは。と、言いたいけど実際話半分だった。
すみません、とわらった。三輪さんがすこし顔を顰めて、しょうがないなと、またわらった。おれは甘えているのかもしれなかった。
午後になって、少しずつ状況が読み込めてきた。俺はやっぱり死んだことになっていたし、そのまえにしばらく失踪したことになっていた。とはいえこれらはたった三日程度の期間のことだったので、「や、外出先で肺炎になって、倒れちゃって、そのまま意識不明でした」といえば一応の説明はついた。閻魔に会ったってことは四十九日経ってたのかと、ひやひやしていたのも杞憂に終わった。
身元が分からないまま数日病院にいることなんてあるのねえ、小説みたいねえ、お財布とか持っていなかったの? とお局が面倒な相槌を打ってきた。おれはなにも言わなかったが、三輪さんが、「ちゃかすようなことじゃないっすよ」と言い、ようやくこの件についてはあまり触れては不謹慎だということになった。上司はぜんぜん守ってくれなかったが、執拗に質問してくることもなかったので、おれのなかでは味方に近かった。
デスクに花でも飾ってあれば面白いかと思ったが、さすがにそんなことはなかった。片づけられているなんてことも特にない。病気だったんだから仕方ない、ということで、特にお咎めもなしだった。人事部からは、欠勤扱いとするか有給扱いとするか審議するという連絡があった。べつにどちらでもいいな、とおれは思った。
「お前さ、言いたくなきゃ言わなくてもいいだけどよ」
と、海鮮丼のうえで箸を割りながら三輪さんが言った。
「はい」
「なにから聞こうかなぁ……」
三輪さんはうーんと唸ってみせる。この人はたしか元ラグビー部員で、高校ではサッカー、中学では野球の経験者だ。趣味で水泳のクラブに通っていたこともあるらしい。とにかく運動好きで、飽きっぽい。つねに身体を動かす機会を探しているようなこの人の肉体は、当然のように大きくてがっちりしていて、幸いまだボディビルにははまっていないから無駄に筋肉ムキムキってわけでもないが、でもただただ「なんでもできそう」な感じがする。
たいして年次が変わらないのに、おれを庇えるぐらいこの人の発言に力があるのは、おそらく容姿がいいからだろう。美形ってわけじゃない。でも岩男みたいに見えるほど筋肉ばかりついているわけでもない、なんだかのびのびと育った若木のようなこの人は、とにかく他人のコンプレックスを刺激する見た目をしている。
「この数日、なにしてたわけ? つまり、木曜日以降……ってか、水曜日の放課後以後、ってことなんだけど」
三輪さんは会社の『定時後』のことを『放課後』と呼ぶ。高校生みたいだ、と思うけれどおれはそれに直接つっこんだことはない。意味は分かるんだし、ぜんぜん問題ない。
「あんまり覚えていないんです。別に、隠そうとかそういうんじゃないですよ」
閻魔に言った通り、死ぬ前の記憶はひどく曖昧だった。地獄の門の前についたあたりからは随分クリアに覚えているが、それ以前のことは飛び飛びにしか分からない。
「でも、覚えてることだってあるだろ。べつに言いたくなきゃそれでいいし、おれも絶対知りたいとかそういうんじゃねえんだよ」
記憶を振り返り、三輪さんに言えるようなことがあったかどうか、一度考えてみる。会社を出て、最寄り駅までついたあたりまでなら問題ないだろう。でもその後どこに行ったのか、誰に会いに行ったのか、そのへんの正しいところは伝えづらい。それに、自分のなかでも記憶があいまいになっている。結局、なにも言わないことにした。
「ほんとに覚えてないんです」
「了解。まあ、しばらくは注目の的だろうから、飲み会とか行くのはやめといたほうがいいかもな。肺炎の後遺症が、ってことにしとけ」
はい、と返事をする。たしかに、しばらく身体が弱いフリをしていたほうが色々都合がよさそうだ。
「三輪さん」
少しだけ意を決して、名前を呼ぶ。なんだよ、と返される。
「臨死体験、ってわかりますか」
三輪さんは少しおどろいたようだった。目を丸くしている。
「……ほんとに肺炎だったのか?」
「いや、違いますけど、臨死体験したんです」
「事故とか? ……あーっ、いいや、なんかつい話掘り下げちまったけど、やっぱいい。話したいことだけ話せよ。臨死体験、どうだったんだよ」
「追い返されました」
「おばあちゃんとかに?」
「まだ生きてます」
「じゃあおじいちゃん?」
「いや、閻魔大王に」
大王。そういえば。大王、という称号を持っているんだ。ぜんぜんそんな風には見えない、ただ涼やかで嫌味そうな男なのに。
「へーっ、鬼も結構優しいもんなんだな。あ、閻魔って鬼? 悪魔?」
分からないので黙っていたら、三輪さんはスマートフォンで検索し始めた。呑気で素直な人だ、と思う。
そうこうしていたら、大した話もしていないのに昼休憩の終わりが近づいていた。おれは慌ててサーモンを口のなかにほうりこむ。三輪さんがあったかいお茶を頼みだす。
「ま、とにかく、しばらくは残業とかすんなよ」
「すみません」
少し考えて、おれはこう付け加えて言った。
「ほんとに、申し訳ないなとは思ってます」
三輪さんは顔をしかませ、煙草に火をつけた。溜息と一緒に紫煙を吐き出し、はーあ、とわざわざ言った。そしてすこしだけ笑った。たぶん許してくれたってことなんだろう。肺炎だってことにしてるのに、目の前で煙を吐くなんて、気が利くのかなんなのかよく分からない人だ。