03
目が覚めたら長谷川さんがいなくなっていた。
という気がしてかなしくて泣き始めてしまったけれど、よくよく考えたら眠るまえもいなかった。なにを寝ぼけてるんだ、ばかなんじゃねえの。
夜更けの土砂降りが窓の外の街路をべとべとに濡らしていた。油が薄く引かれたみたいにてらてらと輝いている。もともと汚い道だから、雨が降るとドブの下からあがってきた臭いが洗濯物にまで染みこんで嫌になる。
都会はどこも清潔だと思っていた。道は舗装されているし、雨が降っても泥にかぶれることなんてないんだろうなと思っていた田舎者の頃が懐かしい。どこにだって汚濁はあるし、田舎くさいあの臭いを「澄んだ空気」だというひともいる。
テレビをつける。テレビ見るなんて意外、とか言われたことがある。最近の若者は見ないんだそうだ。でもおれは割と子どもの頃からテレビっ子で、帰宅してから、風呂に入って洗濯機をまわして、寝る前に干さなきゃいけないから缶ビール片手に起きてる三十分の間、テレビを見ないなら他にいったいなにをしてればいいのか思いつかない。友達が多い人はもしかしたらLINEとかSNSとか、いろいろやることがあるのかもしれない。テレビだってべつにものすごく好きな番組があったりするわけでもないから、録画機能を使うことは少ない。
何分かして、ようやく決意が固まった。携帯電話を取り寄せて、いくつかの通知を押しのけ、発信履歴のいちばん上を押す。すぐには出てくれないから、何コールも待ち続ける。しばらくすると保留音楽に切り替わって、『きらきらぼし』が流れ始めた。おれはほっとした。もう数分待って、ようやく電話がつながった。
「おまたせ」
「すみません」
おれはひとと喋るとき、一言目にも二言目にもいつも謝ってばかりいるんだけど、この人に対してだけは、いつも本気で謝らないといけない、と特に思っている。大丈夫だよ、ってかえしてくれるこの柔らかい声を、信じてはいけないんだって言い聞かせている。
言葉や身体を覚えているよりも、微笑んだときのその一瞬の瞳の歪み、やわらかく世界が変わるみたいな光の空気、そういうのを覚えてしまっていたら、忘れられずにいるとしたら、これ以上の不幸はない。言葉は上書きできるのに、微笑みの名残はだれにも消すことができなくて、消えかけのキャンドルの煙みたいに印象的であり続ける。
だから、声ぐらいなら、ぜんぜん怖くない。そのはずなんだ。
「で、どうしたの」
長谷川さんはいつも言う。どうしたの、って。
どうやら、長谷川さんはおれが死んだことを知らないらしかった。さすがにこの人でも、死人から電話がかかってきたらもう少し驚くだろう。たぶん。
「木星の衛星写真の記事見ましたか。水が見えたってやつ」
「えっ嘘、そんなん出てた?」
出ているわけがないんだけど、長谷川さんは嬉しそうにガサガサと音をたてた。たぶん、パソコンかなんかで調べているんだろう。
「あ、もしかしてエウロパのこと?」
どうだっけ。木星の衛星なんて、有名なあの四つのやつですらいちいち全部覚えていない。
「いや、イオのほうです」
「えー、そっちに水なんてないと思うけどなあ」
当たり前だ。嘘だもん。でも、この人に対して嘘をつくのはいつも全然罪悪に感じない。
「デマだったのかもしれません」
「うーん、本当なら大ニュースだもんなあ」
宇宙に関するニュースには、けっこうデマや間違いも多い。いち早くそういうニュースをキャッチして、これデマでしょうか、そうかもね、みたいな話をするのが好きだった。間違っていても正解していても、どちらであっても誰も傷つけないような推論を重ねるのが面白かった。
そりゃ、世界のどこかでは、真偽によって本当に落胆したり狂喜したりしている人がいるんだろうけれど、少なくともおれの今日、おれの明日には、イオもエウロパも関係ない。ただ不幸な女の名前でしかない。星の名前、とくに衛星の名前ってやつは大抵そうなんだ。ギリシャ神話とかから取られていて、かならず不幸なエピソードが付いている。
「やっぱり、太陽系にあるとしたらエンケラドゥスなんじゃないかなあ」
どこの星だったっけ、なにかの衛星であったような気がする。たしか水か氷がある、生命がいるかもしれない、いたかもしれない、そういう星。
どこかにおれたち以外の生き物がいるのかもしれない、っていう空想はたのしい。なんの役にも立たないし毒にもならない、すくなくともおれ自身にとってはなんの関係もない、そういうものについて長谷川さんと考えているのはすごく楽しかった。なんでだろう、実のある話をするのが、小さい頃から苦手だった。
「星の名前、ぜんぜん詳しくないんです」
「こないだ科学館行ったらさあ、子ども向けかなって思ったんだけど、すごい詳細に書いてあって、よかったよ。太陽系の星が、まあ全部とはいかないんだろうけれど、有名なやつはちゃんと全部模型になってて、丸い部屋の真ん中に太陽があって、ぐるぐる回ってるんだ。ここに生きてるんだなあとか思うとすごかったよ」
子ども向けの科学館にこの人がいく理由なんてたった一つなんだろうけれど、おれはこういう時、だれと行ったんですかとか、いつ行ったんですかとか聞かない。電話繋がるのがやたら遅かったときも、何してたんですかとは聞かないし、会ってるときに突然帰らなきゃいけなくなったときも、どうしたんですかとは言わない。スマートフォンの覗き見もしない。なにもしない。
でも、べつにそれって、何にも気づいてないってわけじゃない。
「いいなあ」
と、絞り出した答えを言った。
あはは、と長谷川さんはどうしてか笑った。おれが、巨大な太陽系の模型をものすごく見たがっていると思ったんだろう。いや、そういうわけじゃなくて、全部に気付いているのかもしれないけど、でも、長谷川さんはとにかく笑った。
「じゃあ今度行く?」
電話口、ちょっと遠くから、誰かの声の小さな残響が聞こえてくる。実家の隣が公園だったから、おれは子どもの頃から大学に入って家を出るまで、随分この音に親しみがあった。子どもの声だ。騒ぐ声、諫める声、笑う声、しあわせな声。それらが一度凝縮してから広がって響きあっている。不思議だ、ただの騒音のくせに。
「長谷川さん」
「なに?」
あなたのことが、どうしようもなく好きだから、確実に愛があったから、だから、生き返ってしまった。
「なんでおれたちまた会えるの?」
「いつ、会えないことになったんだよ」
苦笑いするみたいな優しい声がひびいて、地獄、という言葉を思い出した。昨日ちょっと行ってきて、そして帰ってきたばかりなのに、おれの現世は閻魔のとなりよりもずっとずっと地獄みたいな臭いがしている。ドブがすぐ下を流れている。