02
長谷川さんはよく謎かけをする人だった。
あの昼時もおれに対して、答えのなさそうな問答を仕掛けようと躍起になっていた。たいていの問いにおれは正答することができなかったが、長谷川さんもべつにおれと発展的議論がしたいとか討論がやりたいとかそういうことじゃなくて、ただ、じゃれあっていたかったんだろう。
直前までの話の流れは忘れてしまったけれど、たしか長谷川さんは「愛はほんとうに価値があるか」みたいなことを聞いたと思う。おれはというと生物の定義について思い出していた。
「自己増殖して、こんなに強くて、それでも愛が生き物じゃない理由ってなんなんでしょうか。まさか、目に見えないから?」
とおれが聞いたあの日は、たしか長谷川さんの三十八歳の誕生日だった。
「おれはプランクトンも見たことないよ。いや、ほんとうに目に見えないのか、ただ見たことがないだけなのか、それすらも分からないしな」
かれの冷たい声がすきだった、すきだったと思う。おそらく本当に。
なんの話をしていたんだっけ。そうだ、星だ、可愛い話がしたかったのに転がり続けて生命の定義のことなんか話題に上げてしまった。たぶんこういうのは可愛くない。ちがった、星の話でしたねって戻したら、長谷川さんはぜんぶ許すみたいに微笑んだ。
「ほら、日本語ってさあ、全部『星』って言うじゃんか。星は輝く、星は光る、って。英語だと、planetとstarで、単語が違うのにね」
「日本語だって、恒星と惑星、なんなら衛星までありますよ。おれは衛星のことを全部moonって呼ぶほうが不思議です」
「あ、意外と英語分かるんだね」
分かるうちに入らないでしょこんなの、と言いながらちょっと誇らしげな気持ちになる自分が嫌いだった。誇り、っていちばん変な感情だとずっと思っている。
「でも、moonのほうもmonthlyのほうも、やっぱりどちらも月になるよね。まあ当たり前か」
当たり前ですね。でも、そうじゃない言語圏がもしあったら、ちょっと面白いかもしれない。かれらは一年をなにで区切り、一月をどう区切るんだろう? 星を見ない一族がもしいたら、空のうえで月が膨らんだりしぼんだりすることにまったく気づかずに一生を送る一族がもしいたら――うん、いるわけない。
だから、MoonとMonthlyが同じ「月」なのは、やっぱりあたりまえなんだ。おれたちはどんな言語を持っていようと、かならず月を見上げて過ごしていた、その名残がいまの地球に残っている。
世界が揺れている。なにかが変わっている気がするのに、ほんとうは何一つ違っていない。そういう曖昧な変化が繰り返されたあとで、ふと目が醒めるみたいにすべてが反転してしまう。
ここが夢ならいい。
――でも、そうじゃないから、おれは起きてしまう。
目が、覚めてしまう。冷気が頬を包んでいく、どうして秋ってこんなに寂しい感じがするんだろう。冬には、クリスマスとかお正月とか、誰かと一緒の楽しいイベントが用意されているのに、秋は誰を誘う口実もなくて、だからただ、夏が奪われただけみたいに感じてとてもさみしい。
愛は、ほんとうに価値があるのか。
おれはその問いかけを思い出しながら、時計を見た。左腕には変な傷だけが見えて、時間は分からなかった。そういえば死んだんだったと思い出す。スマートフォンを見るのが嫌で、仕方なくテレビをつけたら、失踪した男のニュースをやっていて、よく見るけれど名前は憶えていないキャスターがおれの名前を明瞭な発声で何度か口にした。悲劇が起きていた。なにもしたくなくて、結局おれは部屋の扉が勝手に合鍵で開かれたその瞬間まで、つまりは二時間そのままぼうっとしていた。
*
「もうほんと、なに、どうしたの?」
ビックリしたんだからね、と何度言われても、響いてこない。多分心配してくれているんだろうな、と他人ごとみたいに受けとめて、いつもそれで終わりだ。こういう場面はよくある。
彼らのほうは、微笑んで、ちょっと苦そうな表情を作って、それで終わり。いつかは分かってくれるって思っているんだろうな。おれもそうなったらいいなと思うけれど、確約できないせいで、結局彼らとおれとは敵のままだった。彼ら、っていうのは、わざわざ死人の部屋の換気に来てくれた管理人の大橋さんとか、会社の先輩の三輪さんとか、あとおれの母親とかだ。たぶん、ある意味おれを愛してるんだろう。
愛はたしかに価値を持っている。
部屋がかびくさくならない、なんとか社会人生活を送っていける、最低限の愛情にひたされた幼少期の記憶、そういうものは、きっと価値を持っている。
でもそれがすぐには表面化しないから、おれは直情的には感謝できないし、彼らもそれを強要できないが、しかしこういう親切は続いていく。愛の持続性のために。
でも今みたいなとき、大橋さんになにを聞かれてもおれはうまく答えられない。
おれは死んだと思われていたそうで、心配させたこと、驚かせたことについて、お詫びしてもぜんぜん心がこもっていないということで何度もリテイクさせられている。何度繰り返したって変わらないけれど、何度か繰り返さなくては彼らもあきらめようとはしないものだ。
こういう経験は多い。多すぎるほどある。だれかがおれにとって、おそらく大事な忠告をしている場面に何度も居合わせて、そんな言い方じゃこいつ反省しませんよ、ってもう一人のおれのために言ってやるんだけど、でも相手からしたらおれはたった一人しかいないので、つまりおれは意味のない虚勢を張る、 プライドの高い意地っ張りの頑固者ってことになるんだ。
「でも、だって警察の人が来たんだよ?」
大橋さんはめちゃくちゃおれのことを疑っていた。今回はなかなか、簡単には解放してくれそうにない。
「死んでるとこ、見たんですか」
「怖いこと言うよね。見たわけないじゃん。でも、警察の人が……」
「おれ、それ覚えてないですよ。勘違いだったんでしょ」
「でも、ニュースでもやってるよ?」
ほら、と大橋さんがテレビのリモコンをピッピッとやって切り替える。でも幸いなことに、おれの名前を喋る人は画面のどこにもいなかった。次の話題に移ったようだ。
「あれ……でも、やってたんだから! ほんとに!」
「見ましたよ、さっき。けど間違いなんです。こうやって生きてるんですから」
もう少し情報を集めたい。でも、いち管理人にすぎない大橋さんはそもそもそれほど情報を持っていないようだった。母親に連絡は行ってるのか、会社にはどう連絡が行ってるのか、あとで、自分で調べなくてはならない。閻魔にこういったあたりの情報を提供してくれるよう、頼んでおくんだった。
大橋さんが途中、泣きそうになりながら「ほんとうに死んだんだって思ったんだよ」と言った。おれも、おれが死んだと思った。こういうふうに泣いて泣いてしょうがない人を慰める方法を知っていたけれど、結局なにもしなかったから、大橋さんはそのまま一時間以上もおれの部屋にいた。本当なら十五分で済むのに。
彼女が帰ったあとで、ようやく母親に電話をかけた。職場にも連絡した。おおよその誤解がとけて、二日後週明けからおれは普通の人生に戻ることになった。