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悲劇は分かりやすくやってきた。
朝、テレビをつけていたら、長谷川さんの名前をニュースキャスターが読み上げていた。あんなに眩しい人が、なんでそんな下らない死に方するんだよ、と思うような死因だった。
震える手で電話をした。どうしよう、と思っている間にすぐコール音が途切れた。『きらきらぼし』は流れなかった。
「はい、長谷川の電話です」
かなり気丈そうな声だった。もちろん、長谷川さんのあの中低音じゃない。
「すみません。ご友人の方ですか?」
初めて聞く声だ、とおもった。いや違う。電話越しにたまに聞こえていた。この人のものを盗んでいた。おれは目を閉じた。
「……いえ、違います」
関係を言うことができない。いっそ友人だということにしてしまえば良かったのに。
相手はすこしだけおれの言葉を待っていたが、沈黙に勝てなかったのか、
「では、職場の方……?」
と言った。
初めてこの人のことを、ただ可哀想だとおもった。おれも可哀想だけど、この人も同じく可哀想だ。そもそもあんな男の人のことを好きになってしまった時点でお互いどうしようもなく憐れなもんだ。
「あの、えっと、ご存じでしょうか」
「はい、知っています。ニュースを見て連絡しました」
なにをとは言わなかった。お互い言えなかった。遠くでだれかの泣き声がしている。
「ご連絡いただいたのにすみません。まだ、なにも決まっていなくて……」
通夜や葬儀の問い合わせをしたと思っているんだろう。おれは、ええ、そうですか、と言った。
でもこの人には、正しく泣く権利が与えられていて、喚いても許される立場が与えられていて、おれが同じことをしても、ただ我儘を言っているだけなんだ。
ご愁傷様です、と定番の挨拶を、最初にきちんと言えていなかったことを思い出した。葬式には行けるだろうか、行きたいんだろうか。友人だと言えば不審に思われることはないだろう。でも、言えなかった。結局そのまま電話を切った。
ふしぎと悲しくなかった。世界の全てが制止しているような気がした。涙を出すのはまだ早い、他にやるべきことはないのか、なんて考えていた。――ばかみたいだ、やるべきことなんてあるはずがない。泣きわめく以外やることなんてない。それなのに俺はスーツを着て会社に行った。たぶん心が最大級にバグると、日常をきちんと辿ろうとしてこういう挙動になるんだろう。仕事がちゃんとできるはずもなく、おれはすぐに部長に雷を落とされた。まったく丁寧な人だ、半日おれが仕事をしなかっただけですぐ気づく。しばらくちゃんと話を聞いていたが、すぐに涙が出てきそうになった。なにしてるんだろう。気付けば、三輪さんが愛想笑いしながらおれを引っ張って会議室を出るところだった。
「なにしてんだよ、お前」
タイムスリップしたみたいだった。目の前に三輪さんがいた。珍しく怒っているようだ。はやく泣きたいのに、どうしてか何も出てこなかった。心臓が変に脈打ち、とっくに全部枯れそうなのに。
「悲劇がちゃんと来たんです」
三輪さんはなにも言わなかった。ただ、顔をしかめている。
「何度も忠告されていました。なにも出来ないとあらかじめ予告もされていました。悲劇はただしく来たんです」
正しい、だからなんなんだ。おれはおれ自身の言葉がなんだか嫌になっちゃって、わらった。三輪さんはますます顔を険しくした。
「俺さ、おまえがどうもよくない付き合いしてるのは分かってたよ。でもなあ……仕事だろ、これ。最近いろいろあったのも、その……分かってんだけどさ」
違う、たぶんこの人は勘違いしている。やっと別れたんだとでも、思ってるんだろう。そりゃそうだ、死ぬだなんて誰が思うものか。おれだって自分が死んだとき、本気で死ぬだなんて思っていなかった。死ぬならそれでいい、なんて考えていたしそれは嘘ではないけれど、でも、本気で死ぬんだって自分のことを分かっていたりしなかった。
自分のときより、ずっしりくる。何かが重たくのしかかってくる。変だ。ほんとうはおれは失ったばかりなのに、いま、なによりもここにつなぎ留められている。すべてを被っている気持ちでいる。
「優弥、お前さ、ちょっとほんとゆっくり休んだほうがいいよ。休職しろとか言ってるんじゃないぜ、ふつうに二日ぐらい年休取ってさ、」
うるさいな、あんたになにが出来るっていうんだよ。と言いそうになった。三輪さんのことは信じていると思っていたのに、でもこんなにあっけなくどうでもよくなる。これが愛してないってことだ、いや、愛していたとしても、一番ではないってことだ。この人はただ恒星になりかけの木星だ、あんたじゃない、違う。
気持ちが顔に出ていたんだろう。三輪さんが顔をしかめる。なんだよ、なんも出来ないくせに。
「……」
そんな可哀想な顔したってなんとも思わない。おれは、なんとも思わない。おれが悲劇だと思うのはたった一つだけだ。
終わりが近い。
慎重そうな足音だけで、誰が来たのかが分かった。放っておいてほしかった。居留守を使ったのに、あっさりと合鍵を使われた。さすがに怒ってやろうかと思ったが、そんな元気もない。
「帰れよ」
と最後の気力を振り絞って言ったのに、全然帰らない。大橋さんは雨に濡れた顔のまま、滴も拭わず、おれの玄関で靴を脱いだ。
「おい」
「たとえあなたの人生のなかで、わたしの出番がこれで最後でも、それでもいいの。わたしあなたにちゃんと大事だって言いにきたの」
紐の複雑そうなスニーカーがふたつ、狭い玄関に転がる。大橋さんが間近にいる。おれが生き返ったとき、そういえばこの人は泣いていた。
「それで?」
思っているよりも冷たい声が出た。ああ、どうして。
この人には優しくできないんだろう――
と、思っていた。一応、そう『思っている』ことになっていた。でもこんなの当たり前じゃないか。
おれはこの人が、かわいそうでたまらないんだ。この人はおれと同じものを見ている。トマトとキュウリは一緒に食べたら栄養が消えるから、だからこの人の好意はただの無駄なんだって、そう言ってもらえたら愉快でうれしかった。人の好意のことなんて意に介さない長谷川さんが好きだった。
「それで――なんでもないの。これだけなの。三輪くんから連絡あったよ。優弥くんのお母さんからも、最近どうしてるのかって連絡あった。絶対なにも話してないよね? それでも、みんな気付いて、あなたのこと心配してるの」
「それで?」
「わかってるよ。わたしに帰ってほしいよね。やりすぎだって分かってる。でも本当にみんな心配してるの。わたしもその一人なの」
「……それで、どうしたら帰ってくれるの」
「もう帰るよ。わかってくれないことも、わかってるの。でもあなたにちゃんと言いたかったの」
それだけ言うと、意外と素直に大橋さんは帰っていった。わざわざ脱いだ濡れた靴をもう一度きちんと履いて。
わかっている、わかっている。めんどくさくても助けてくれるのは、冷たくしても声をかけてくれるのは、それは、おれがすごくよく知っている動機に似ているから。
携帯が再び鳴った。母親から、メッセージが来ていた。この世界はおれにおせっかいで、ただ愛してもらいたがる人ばっかりだ。そして閻魔は悲劇をおれに寄越す。
そうだ、閻魔だ。
おれは天啓を得たみたいに、日光の射すキッチンで立ち尽くした。
あいつはどこにいるんだろう?




