7.前進
ラウルスから経つことを告げられた時、私は深くため息を吐いてしまった。
もうすっかりラウルスの日々が身に沁みていた。イグニスに向かえば、いよいよ決断の時も迫る。イグニスからカエルムへ向かわなくてはならない夜、それが、私にとって悩むことのできる最後の機会であった。
このまま進み続けるならば、ソロルから指輪を受け取らねばならない。しかし、受け取らないという選択もあり得る。その時は、ソロルの元を黙って去るしかない。聖剣〈シニストラ〉を向けるのが正しいアルカ聖戦士だろうけれど、愛しい妻の姿をした者を斬りつけるのは困難だろう。だから、そばを離れるしかないのだ。
「イグニスでも少しだけ滞在期間はあるわ。その間に、アルカ聖戦士として悩めるだけ悩むといい」
宿での最後の晩、ソロルは静かに言った。
「あたしは強制しない。あなたがもしも嫌なら、ついてこなくていい。かの女人狼はあなたを誘っているのでしょう? やってみたらいいわ。ヴァシリーサがそう簡単に見つかるとは思えないけれど、あなたの新しい人生が始まるかもしれないものね」
落ち着いているように見えるが、その声の端々には哀しみの様なものが込められている。黙っていると、ソロルはサファイアの目でこちらを見つめてきた。
「でも、サファイアは、それで納得するかしら」
その胸に手を当てて、ソロルは疑問を述べる。
「この子は冥界で嘆いていた。あなたに会いたがっていた。だから、あたしは連れてきた。それなのに、あなたが新しい人と歩めば、きっとこの子が悲しむでしょう。慰められるのはあたしではない。あなたよ」
「本当に、サファイアは嘆いていたのか」
問いかけると、ソロルはすぐに肯く。そんな彼女に、私は疑問を投げかけた。
「死霊は嘘を吐くものだと聞いている。ジャンヌの死も、お前たちの方が違っていると情報を聞いた。カリスの言っていることが正しいのならば、嘘つきはお前たちの方だ」
「クリケット……あなたにご熱心な翅人の情報ね。彼を信じてあたしを嘘つき呼ばわりするのなら、とんだ誤解よ。あたしはただ姉妹の方を信じているだけ。彼女がああやって主張するのなら、それを確かなものと信じてあなたに助言するだけよ」
このソロルが嘘を吐いているのかどうか、それは分からないとクリケットも言っていた。何を信じて、何を疑うのか。客観的に考えれば、クリケットの情報の裏付けもある分、カリスを信じるべきだろう。だが、それでこのソロルを嫌うことが出来るのか。何より、サファイアの復活の鍵を握っている彼女を嫌えるのか。
「クリケットの情報はいつも信用性が高い。彼の情報を信じるならば、嘘を吐いているのがお前の姉妹の方だ」
「――そう。そっちを信じるのならば仕方ないわ。あなたが何を信じようと、あたしは姉妹を信じ続けるけれどね。どちらにせよ、あたしがあなたに求めるのは一つだけだもの。サファイアを取り戻し、ヴァシリーサを倒し、ミールを救い出す近道はこの指輪の方」
そう言って差し伸べられる手には、あの禍々しい指輪がある。闇に葬られた遺物。手を出せば、とんでもない未来を引き起こすことになる。
「あなたがもしもあの狼を選ぶとしても、それだけは忘れないで欲しいものね」
「……だがそれを使えば、おれは大罪人になってしまう」
「神獣とあがめられた魔物たちを殺すだけよ。そうすれば、巫女たちはがんじがらめの運命から解放される。もう誰も、巫女の出生に関わって悲しむ人たちは現れなくなる。それに、ただ世界を傍観するだけの神様の代わりに、あたし達で世の中を変えられるのよ。ハダスの民に、弱い魔族や魔物たち。彼らの暮らしを変えられるのは、新しい力を手にしたあたし達になるでしょう」
「歪んだ正義感だ。それで救ったところで、失うものが多すぎる。それに、おれは、神になりたいわけじゃない」
ただ愛する人の隣にいたい。それだけのことだった。
「ええ、本物のサファイアに……愛しい人に会いたいのでしょう?」
ミールを救って、サファイアを蘇らせて、その後に待っているものはなんだろう。ソロルに言われるままに世の中を乱していけば、私は間違いなく地獄行きだ。しかし、死んだ後のことなど分からない。
「あたしは、本物のサファイアになりたいの」
ソロルは言った。
「本物のサファイアになって、あなたの傍に寄り添いたい。あなたと一緒に世界を眺めたいの。サファイアになって、永遠を分かち合いたい。人形になったミールを助けたいのなら、あたしが力になりたいの」
そう語るソロルの姿はまるでサファイアのようだ。
情を求めている死霊。クリケットはそう言っていただろうか。ただの利害にのみならず、ソロル自身が私を求めているとしたら。死霊は謎めいているため、その全貌は掴みづらいものだ。だからこそ、その印象は外見に縛られる。
サファイアの姿をした者が、私に罪を唆している。そこから得られるのは怒りではなく、葛藤ばかりだった。
「指輪はまだ受け取れない」
どうにかそう返答すると、ソロルは俯いて拳を握った。
「――いいわ。まだ時間はあるもの」
そう言って、いつものように窓辺に立つ。表情は見えないが、その背中が寂しそうに見えた。そうしているとサファイアを傷つけたようで落ち着かない。偽物だと本人がどんなに主張しようと、似すぎているのが悪い。
「あなたはカリスを信じるのね」
外を眺めながら、そう呟いた。
「やっぱり、あの人狼は危険だわ」
その言葉には恐ろしいほど抑揚がなかった。




