6.揺れる思い
ラウルスに留まって、半月以上経っている。先に進むわけでも、後に引くわけでもない状況だ。先に進みたくとも、ソロルがそれを許してくれないのだ。輿入れの儀についての詳細は、あまり詳しくはないが、イグニスからカエルムまでの移動にたっぷりと時間をとるのが慣習というのは覚えている。
聖女となった〈赤い花〉さえいなければ、すぐにでも前進したらしいが、ソロルはやけに彼女を警戒している。私と彼女を接触させたくないらしい。〈赤い花〉を摘むことを楽しみにしている割には、いささか慎重すぎる気もした。だが、ソロルにはソロルの都合もあるのだろう。
それに、悪いわけではなかった。こうして何もない日々が続くおかげで、私はまだ指輪を受け取らずに済んでいるのだから。いつでも考え直せるという環境は、それだけほっとするものだった。
だからだろう。ラウルスに来てからは特に、夢心地のような気分でいられた。失ったはずの妻と、新しい土地で暮らしているような気分に浸れた。金ならいくらでもある。ミールのために貯めていた資金が余っているから。その一部だけでも、ラウルスで一か月ほど泊まるのに十分すぎる額だった。しかし、金の安心などついでに過ぎない。安らぎの方がずっと望ましい。誰にも邪魔されぬ場所で、サファイアと会話をするだけでも、幸せだった。
それでも、いつまでも一緒にいられるわけではない。サファイアの姿をしたソロルは、頻繁に私の傍を離れていった。理由はさまざまだ。探りに来ている聖戦士たちの相手をする時もあれば、イグニスにいる海巫女たちの様子をひっそりと探りに行っている時もあった。まだ私たちを嗅ぎまわっているという情報屋を退治に行っている時もあったらしい。
一人にされた私は、時折、ラウルスをふらついた。することはないが、無駄にこの世界を目に焼き付けてみたくなる。私が壊すかもしれない世界。だが、今も誰かの犠牲の上に成り立っているかもしれない世界でもある。指輪一つで運命が大きく変わるのならば、どちらを選ぶべきなのか。
こういう時は、静かに思考に耽りたいものである。だが、この機会を目敏く見つけて近づいてくる者たちがいる。ラウルスの高台より一人で街並みを眺めていると、そのうちの一人が背後から声をかけてきた。
「お久しぶりですね、旦那様」
クリケット。売りさばく情報を見つけては姿を現す。どんなに役に立っても、やはり好きにはなれない男だった。
「何の用だ」
振り返りざまに突き放す気持ちで訊ねると、彼はにやりと笑ってみせた。
「相変わらず冷たいお言葉だ。特に用はございません。ただ、お姿をお見かけしたのでご挨拶しただけの事」
「情報屋のくせに、挨拶だけとはね」
「ああ、勿論、本日も旦那様のためにお話を集めてまいりました」
「念のために確認しておこう。どんな話だ」
「聖女様と人狼女の日常くらいのものですよ。せっかくですし、お話しましょうか? 価格はラウルス通貨でこのお値段」
示される数字は決して高くはない。むしろ、かなり安い。ただ、内容と宣伝を考えるに、適正ともいえない微妙な値段だ。お金を受け取れる内容か疑わしいと自ら述べる割に、取るところは取るものだ。
それでも、言われた通りの額を投げてやった。退屈しのぎにはいいかもしれない。くだらない内容だろうと、痛手にはならない額なので問題はない。
「ありがとうございます、旦那様。それでは、お話しましょう」
そう言って、クリケットは近くのブロック塀に腰掛けた。
「かの聖女様は自らの立場をご理解なさっていない様子です。可哀想に、いまだ自分が自由の身であると信じているのでしょう。リリウム教会の御方々も上手く彼女に接しているようですので、本当の狙いを悟られてはいないようです」
「〈赤い花〉を増やさねばならない、教会にそう言っている連中がいた。錬金術師だっただろうかね」
「その辺りの事は私にはよく分かりません。ただ、聖女様の姿は傍から見ていて哀れでしたよ。命よりも大切な愛玩少女を盾にされていますからね。……もっとも、花売りに捕まってしまうよりはマシでしょうけれどね」
そう言って、クリケットはのんきに顎を掻く。
「ゴキブリ野郎の件、努力していただいた時は嬉しかったです。私の情報が役に立ったようで何よりです。やつも懲りたみたいですが、ご伴侶様は容赦ない御方だ。決して討伐を諦めず、奴の逃亡術を果敢にも見抜こうとなさっているご様子です。今は奴もまだしぶとく生き延びておりますが、そう長くはないでしょう。商売敵の悩みが消えそうで気分がいい」
「そうか。……だが、お前もまた花売りだとすれば、他人事と笑ってはいられないぞ。あの人は花売りを殲滅したいと言っていた。世界の影より〈赤い花〉を量産し続ける奴らが疎ましいそうだ」
「ご安心ください。私は花売りではありませんので。それにしても、殲滅ですか。それは途方もない計画ですね。〈赤い花〉もまたゴキブリのようなものです。絶滅しかかって人々は焦っているようですが、子どもさえ生ませればすぐにまた増えます。〈赤い花〉の子は純血でなくとも高確率で〈赤い花〉となりますからね。男であれ、女であれ、少しでも陰で生き延びる個体が残っていれば、すぐにまた世界の何処かで咲き始めるでしょう」
「そうか。それなら、あの人の悩みも世界が終わらぬ限りは尽きないのだろうね」
――永遠の約束の印に、あの聖女に祀り上げられた哀れな〈赤い花〉の心臓をくださらない?
悪魔のようでいて妖艶なあの誘い文句を思い出す。
リリウム教会の保護した聖女アマリリス。生きながら飼われる身と、死霊に食い殺されるのは、どちらが望みだろうか。
――〈シニストラ〉を使えば、一瞬にして楽にしてやれるわけだ。
「ともあれ、この滞在期間を利用して、リリウム教会の御方々は聖女様を自らの意思で留まらせようと“説得”なさっているようです。求めている答えはたった一つだけ。断られ続けたとなれば、どうするおつもりなのでしょうね」
「リリウム教会には二つの顔がある。心より神を信じ、善良な者たちの知らない顔が、あの教会にはあるんだ。きっとその時は、聖下もご存知でないような世界に引きずられて終わるだろう」
「アルカ聖戦士様が仰ると、恐ろしく説得力がありますね」
不快な含み笑いをしながらクリケットは言った。
「自由を愛し、弱いながらも自分の意思で暮らすことができる私からしてみれば、聖女に選ばれてしまったことは可哀想です」
「どうせ、衣食住には困らないんだ。不自由な環境で、子を産むことを強制されるのだとしても、この世界で生きる多くの者達よりは恵まれた暮らしが出来る」
「それが、あなた方の本心なのでしょうか。誠に恐ろしいものです。魔の血を一切引いていないお方々がお決めになっていると聞いているのですが、生粋の魔物の方々よりも恐ろしいと感じてしまう」
そう言われると、黙ってしまうしかない。
私のしたことは残酷なことだったのだろうか。ただ保護を訴えられて、そのために動いただけだ。その過去がソロルの計画を狂わせているのだとしても、アルカ聖戦士としての罪の意識はないはずだったのに。
考え込んでいると、クリケットが慌てたように弁明した。
「ああ、勿論、旦那様が魔物のようだと言っているのではございませんよ。どうか、気を悪くなさらないでいただきたい」
「自らにも流れている魔物の血をそんな風にいう事はないよ」
そう言ってやれば、クリケットは不思議そうに首を傾げた。
「おや、不思議なことを言うのですね。人間のお客様はたいてい何の疑問も持たずに受け取るのに。やはり、旦那様は変わった御方だ。これから世界をどのように歩かれるおつもりなのか、さらに興味が増してきました」
嫌に好意を向けられ、居たたまれなくなる。翅人に好かれるというのも、あまり気分のいいものではない。差別的な感覚かもしれないが、正直な気持ちだ。
「カリスの話はどうした。何か見てきたのだろう」
誤魔化すためにせっついてみれば、クリケットは嬉しそうに肯いた。
「はい、それは勿論。かの女人狼めは、たびたび旦那様のご伴侶様の邪魔をしております。旦那様と雑談をしているだけではなく、ゴキブリ野郎の駆除を阻止するので頭が痛い。でも、私は寛大な方なので、死霊に食い殺されればいいのになんて決して思っておりませんよ。ご伴侶様の方も、旦那様の気持ちを推し量っていらっしゃるようで、本気で殺そうとはなさっていないようです。カリスを勝手に殺せば、きっとあなたは怒るだろう。そう思っていらっしゃるようです」
「あの人は浅はかではないようだからね。特別な死霊だと言ったのはお前だったかな」
「ええ、その通り。彼女は死霊の中でも力がある御方だ。しかし、それだけではないと私は思っております。他の死霊とは明らかに違う点が一つ。彼女は人の情を求めている。獲物を騙すだけが死霊ではありません。生き物のように、誰かと絆を結ぶことも、魅力の一つのようですよ」
「情を求めている? まさか」
かのソロルと私の間にあるのは利害だけだ。そこにサファイアへの懐かしさが重なり、絆が生まれているように錯覚しているだけ。そう理解してきた。嘘だと頭では分かりながらも、それでも夢を見たいのだと。
しかし、情を求めている? そんなことを言われるのは恐ろしい事だった。なぜなら、本気で信じてしまいそうになるからだ。
「女人狼の話に戻しましょうか」
クリケットは私の顔色を窺いつつそう言った。
「旦那様がどのように感じられているかは分かりませんが、私の目から見る限り、かの女人狼はいつも正直に生きているようです。ああ、そういえば、ご友人の死に関して、死霊たちと彼女の意見が割れているそうですね。どちらが正しいのか、あなた様もお知りになりたいのでは?」
「知っているのか?」
飛びつくように訊ねると、クリケットは微笑みながら数字を示した。不服ながらもその額を投げてやると、彼は背筋を正して語りだした。
「私が目にしたのはほんの一部です。旦那様、死霊の言うことに耳を傾けるなという言葉はご存知でしょう。その通り、死霊の語る故人の死に際は基本的に嘘だと思った方がいい。ジャンヌ様の姿をしている彼女は、ジャンヌ様ではないのです。あの件に関しては、女人狼の主張は間違ってはいない。ジャンヌ様はご友人の姿をした死霊に殺され、ジャンヌ様の姿をした死霊は嘘を吐いているのです」
「嘘……」
心がざわついていた。本心では、ジャンヌの姿をした死霊の方が本当であって欲しいと思っていた証拠かもしれない。
「ご伴侶様までもが嘘を吐いているかは私には分かりません。同胞の言うことを信じたかっただけとも考えられますのでね。ただし、私の目が確かならば、ジャンヌ様の死は女人狼のせいではありません」
「……そうか」
心が落ち着かないのは何故だろう。級友の仇を討てないからだろうか。ジャンヌの姿をした彼女が私を騙したからだろうか。
いや、そうではない。人狼であるカリスが間違っていないという事実に、何故だか恐れを感じていたのだ。
私の疑いは正しくなかった。人狼であるカリスが嘘つきならば、サファイアの命を奪った者と同種族として憎めただろう。しかし、そうではないという事が裏付けられると、何を恨み、何を憎めばいいのかが、ますます分からなくなる。未知のもの、計画外のものが怖いのだろうか。いや、それだけではない。カリスが善人だと分かれば分かるほど、全く新しい未来を感じてしまい、過去との別れが余計に怖くなるのだ。
この先、カリスが人狼であることを忘れられる時が来たらどうするのか。彼女がただの善良な人間であったならば、どうしていたのか。
ふと、そんなことを想い始め、思考が止まりかけた。
「私の目で見た事実をお伝えしましたのに、あまり嬉しそうではありませんね」
「そんなことはない。気のせいだ」
「そうですか。何だか心の痛む表情をなさっているように見えたもので。……旦那様、私はべつに旦那様が地獄に落ちればいいと思っているわけではありません。ただどう歩まれるのかが気になるだけ。お求めになる情報を売っているだけ。旦那様がどのような道を歩まれようと、私は常にその成功を祈っておりますよ。現在のご伴侶様とこのまま歩まれるにせよ、別の御方と全く違う道を歩まれるにせよ、私はただ見つめるだけです」
淡々とだが、やけに寄り添うような言葉だ。その顔を見つめながら、私は彼に訊ねた。
「……お前は、どちらが正解だと思う?」
すると、クリケットはゆっくりと首を振った。
「私には分かりません。決める権利もありません。旦那様の幸せは旦那様がお決めになるべきものです。そのための情報を集めてこいと仰るのなら、喜んで飛び立っていくまでのこと。翅人情報屋に出来ることなど、それだけです」
「そうか」
言われるまでもなく、その通りだろう。クリケットの意見を聞いたところで、従うわけがないのだから。
指輪を受け取る時はまだ先だ。このまま流れに身を任せて受け取るべきなのか、拒否するべきなのか。
――ミールを助けに行こう。
無邪気ともいえる狼の誘いを思い出す。
カリスの――かつて恨んだ種族の力を借りながら、ローザ大国へ。
新しい希望にこの身が震えそうになる。人狼嫌いを克服し、過去の恨みも忘れ、ただ親しい間柄として魔女の討伐を目指して旅立つのは、どのようなものだろう。彼女の思いに答える形になるかは分からないが、少しでも情のある相手だ。彼女となら、その道中は楽しいと思う瞬間があるかもしれない。
だが、サファイアは……サファイアの復活は、諦めなくてはならない。
このまま愛する人を取り戻すために世界を敵に回すか、諦めて別の幸せを追い求めるべきなのか。悩めば悩むほど分からなくなっていく。




