5.ラウルスの夜
エクリプスからラウルスに移動したのは、ソロルの判断によるものだった。
あまりにも急だったが、どうやら標的の動きに合わせての事らしい。結局、エクリプスでも指輪を受け取る覚悟が出来ないままだった。
受け取ろうと思えば、カリスが話しに来る。一度会話をしてしまえば、たちまち受け取る気がそがれてしまうのだ。
人狼は敵だ。人狼は共に歩めぬ者だ。
――人狼はサファイアを殺した。
私がカリスと会話をしていると察すると、ソロルは何度もそう口走った。それでも、私に指輪を強制することはない。本当は嵌めてもらいたくて仕方ないのだろうけれども、その思いをこらえて私の判断に任せてくる。
まだ迷える。
海巫女一行が巡礼をし始める頃くらいまでは、アルカ聖戦士としての尊厳を保つか、人である尊厳すら踏み躙るかをゆっくりと選ぶことが出来るのだ。
だが、ソロルと穏やかに日常を楽しめば、もっと先を求めるようになる。本物のサファイアといつか寄り添いたい。その思いが指輪に手を伸ばさせようとするが、その気配を悟ってなのかカリスは毎日、ソロルの目を盗んで接近してきたのだった。
ラウルスに来て数時間。もう日も暮れているのに、ソロルは用事があると行って立ち去ってしまった。すると案の定、カリスは何処からともなく現れた。
すぐに説教するわけでもなく、ソロルの悪口を言うわけでもない。彼女はただ懐いた犬のように同じ空間を共有し、機会を窺ってから話しかけてきたのだった。
「私の誘い、少しは考えてくれたか」
控えめに窺うその声色は、以前感じた人狼特有の傲慢さが皆無だった。
「ヴァシリーサを倒すというやつか」
答えてみれば、カリスの表情がやや明るいものになった。だが、決して乗り気ではない私の表情を見て、慌てたように少しだけ身を乗り出してくる。
「私はきっとお前が思っている以上に役に立てる。ローザ大国まで連れて行ってくれ。サファイアやミールとの思い出をもっと聞かせてくれ。学校の話もいいな。お前の昔話を聞きながら、魔女討伐に向かいたい。……なあ、悪くないとは思わないか?」
「……確かに、悪くはないかもしれないな」
これもまた本心なのだろう。
人狼は嫌いだ。カリスはその人狼であり、その上、ジャンヌを殺したかもしれない。疑いと嫌悪、偏見によって、私たちの関係はとうに引き裂かれている。今は辛うじて繋がっているだけ。それも、カリスが会いに来てくれるから、繋がっているだけだ。
だが、気休めでも皮肉でもなく、本気で思ったのだ。カリスと再び歩む日々も悪くないのではないか。何度も、何度も会いに来てくれた健気な人狼に、昔話を聞かせてやるのもそれはそれで幸せなのではないか。
ヴァシリーサに敵うかどうかは分からない。怪しい人狼の力など、死霊の差し伸べた手を払ってまで選ぶべきものではないかもしれない。
それでも、カリスと共に歩むということ自体に意味があるのではないか。
――しかし、それではミールは。サファイアは。
ソロルは希望を握り締めている。私に提示してきたのは破滅に違いないはずだが、それでも上手くいけば私は天に復讐が出来る。サファイアを取り戻すことが出来れば、きっとこの苦しみからは解放されるはずだ。
――本当に、そうだろうか。
「ああ、悪くない。絶対悪くない」
カリスの興奮気味な声で、我に返る。
「お前の為なら力を惜しまない。リリウム教会には今のうちにたくさん恩を売ってやるからね。礼をたっぷり貰えば、食料だってお前の世話にはならずに済む。そうなれば、思う存分、力を発揮できる。ヴァシリーサだか何だか知らないが、悪趣味な魔女の居場所だってこの鼻で突き止めてやるさ」
得意げにそう言うカリスは、いつもとは違って実に子どもっぽい。将来の夢を語る少女のようだった。その自信が確かなものなのかは分からない。実は疑っている。ヴァシリーサがどうして長生きしてこられたのかを考えてみれば、本当にカリスが役に立つかは大いに疑問だ。
……しかし、これはそういう問題ではないのだ。可能か、不可能かではない。死霊による悪魔のささやきに従い続けるか、それをやめるかという問題だ。どちらを選ぶべきなのか、今はまだ考えがまとまらない。
「……そのまま魔女にやられたって後悔はないさ」
カリスの恍惚とした声が沁みこんでくる。
「長く生きた魔女は手ごわい。それは事実だ。それでも、私は純血の人狼なんだ。先祖代々受け継いだこの力があれば、命を捨てる覚悟で飛び掛かれば偉大な魔女と刺し違えることもできるはず」
「そんな覚悟がお前にあるのか。人狼狩りの魔女に怯えていたお前が」
思わず訊ねてみれば、カリスは薄っすらと笑みを浮かべた。
「お前の為ならば、ね。アマリリスによって犬死するのは御免だ。だが、お前の助けとなって死ねるのならば話は別だ。それは犬死じゃない」
「……こちらとしてはそれこそ御免だけれどね。お前の犠牲で復讐を遂げられたところで、気分はおさまらないよ」
「そうか。それなら、刺し違える戦法は駄目だな。魔女を翻弄し、お前が戦いに有利になるように助力するくらいか。いや、まだ何か出来るはずだ」
「翻弄で十分だ。アルカ聖戦士としてなら、なんの助力もなしに魔女や魔人と戦ったことがあるからね」
そのいずれも、ヴァシリーサほどの強敵ではなかったのだろうけれども、力の弱い者ばかりだったわけではない。一歩間違えれば死んでいたのはこちらだったという事は何度もあった。それだけ、魔女や魔人は手ごわい。しかし、人狼が味方するとなれば、有利なのは間違いないだろう。
復讐のみを考えるならば、カリスと一緒に行くのも悪くない。
カリスが人狼であることに目を瞑れるのなら、そのまま新しい未来について考え直すことだって出来るかもしれない。
――だが、本当にそれで満足なのか。
滅多にない誘いを受けているのだ。天地がひっくり返るような力が手の届く場所でぶら下がっている。導いてくれるものは、人狼などではない。その姿は、私が諦めたくても諦められない人物のもの。
サファイアを、私は本当に諦めていいのか。
「ゲネシス」
翡翠のような目が、こちらをじっと見つめてくる。
「出来そうじゃないか? 私たちにだって。怪しい力に手を染める必要はないんだ。私はお前の大切な人の代わりにはなれないかもしれない。でも、お前の退屈しのぎになれるよう努める。だから……だから」
そのまま彼女は俯いてしまった。表情は暗く、今にも泣きだしそうだ。
憎らしく、忌々しい人狼のはずなのに、まるで幼い頃からの友人のように思えるから奇妙なものだ。どうかそのように落ち込まないで欲しい。この私に慰める手段は殆どない。抱き寄せてやる気遣いも、優しさも、今の私には期待しない方がいい。
「すまない」
カリスは目を逸らして謝ってきた。
「焦らせたって意味はないのに」
そう呟いてから、彼女はその場に寝ころんだ。狼にはならなかった。意識しているのか、何も考えていないのかは分からない。
「お前の名前と出身地は分からないと言ってあるんだ」
カリスはぽつりと呟くように言った。
「でも、アマリリスにはお前を説得することを約束した。指輪をはめた彼女はとても穏やかなんだ。呆れたように揶揄ってくるが、私の報告をきちんと聞いてくれる。その姿はアネモネを思い出して、何故だかほっとする。ちょっと前までは人狼殺しの恐ろしい魔女だったのにね」
「あの指輪は古代より神の奇跡として語り継がれてきたものだ。魔女を聖女に変える聖具。だが、気を付けた方がいい。指輪を外せば聖女ではなくなると言われている。そうやって親しく出来るのも指輪を嵌めている間だけだ」
保護された〈赤い花〉が指輪を外す機会などほとんどないだろう。あるとすればそれは、〈赤い花〉自身が何らかの理由で外してしまった時か、誰かが指輪を盗んでしまった時だ。前者はともかく、後者はリリウム教会にいる以上、ほとんどないと断言してもいい。
「……どっちが本当のアマリリスなのだろう」
カリスは淡々とそう言った。
「私と殺すと言って目を輝かせていた時と、報告のたびに私の無事を祈る今と、どっちが本物なのだろう。奴もアネモネのように無害な性を課せられていればよかったのに。そうであれば、私たちはまた違う関係になれたかもしれない」
魔女の性はどうやって決まるのだろう。
カリスの言葉を聞いていると、ふとそういう疑問が湧いて来た。
もしも、ヴァシリーサが子どもを喜ばせるだけの性を持っていれば、ミールはあんな目に遭わなかった。サファイアの死をふたりで乗り越えることだって出来ただろう。
愛らしく、純粋無垢で、希望と志をしっかりと持っていたような未来ある少年が何故、人形なんかにならねばならない。魔女という存在も神がつくったのだとすれば、その目的はいったい何なのだろう。
「こんな事言っても意味ないか。……とにかくさ、お前の罪を知るのは、お前と、お前たちの信じる神とやらと、この大地と、あの死霊と、私だけだ。アマリリスを含め、リリウム教会の奴らはそこに入っていない。だから、安心してほしい」
「……安心、ね」
カリスが精いっぱい尽くしてくれているのは伝わってくる。
だが、そこまでやらなくてもいい。そこまでされても、こちらは困るだけだ。ソロルと共に歩もうという気持ちが揺らいでしまう。諦めてなるものかという思いに躊躇いが生じてしまうのが怖かった。
それに、この健気すぎる狼女は関わるだけでも痛々しく感じてしまう。だから、私は彼女に向かって言った。
「カリス」
美しい名に相応しいその顔が、ただこちらを見つめてくる。
「人の血を引かないお前に一つ教えておこう」
ソロルの気配が遠いうちに、私は彼女に言い聞かせた。
「人間は誰しも様々な顔を持っている。このおれもそうだ。おれがお前に向けたのは、もしかしたら優しさだったかもしれない。だが、おれが持っている感情は優しさだけとは限らない。アルカ聖戦士という肩書だってそうだ。肩書は肩書であって、種族でも民族でもない」
「どういう意味だ……?」
「お前が思っているほど、おれは善良じゃないし、優しくもない。今なら間に合うのはお前も同じだ。とんでもない事に巻き込まれる前に、安全な場所に避難しろ。リリウム教会を頼れば、何処かに連れて行ってもらえるだろう。出来るだけ遠くがいいぞ。マグノリアやラヴェンデル以北のような場所がいい」
「お前を放って避難できないよ。……それに、私がその気でも、離脱なんてきっと出来ない。リリウム教会とは約束がある。この力を活かして、アマリリスたちの旅を影ながら支えなくてはならないんだ」
「さっそく鎖で繋がれたか。お前の見下していた生き方じゃなかったのか」
「そうだったけれど、お前をまともな道に戻すためでもある。奴らと上手く付き合えば、お前の事もまだ大目に見てもらえるんだ。だから、お前を放置して避難なんて出来ない」
頑固者だ。だが、他人の事は言えない。
どちらも譲らないとなれば、拮抗状態で話は終わってしまうだけだ。だが、それではいけない。カリスが私に恩義を感じているのならば、私だって似たような感情はある。ここまで庇ってくれた気持ちにだけは、最低限であっても応えなければ。
「ならば、これだけは言っておこう」
私はカリスに言い聞かせた。
「この先、お前の目の前で何が起こったとしても、深入りはするな。影で身を潜め、命を守ることだけを考えろ」
「……どうして、そんなことを言う」
「理由なんて気にするな。ただ、このままの状況が良くないのは分かっているだろう。ソロルはお前を疎ましく思っているようだ。彼女はただのソロルではない。他の死霊たちと同じように舐めてかかればお前の命も危ういだろう」
「それは……私も分かっている。影道まで追いかけられるのは人狼だけだというのが我々の常識だが、その常識すら疑ってしまうほど奴の視線は恐ろしい……彼女の危険性を分かっているようだな」
「死霊によって死ぬものは多い。危険かどうかの違いくらいは分かっているつもりだよ」
我ながら言葉に力が入っていない。
死霊がどういう存在なのか、あれほど学んだのだ。カリスの言うことが正しければ、死霊は獲物と決めた人間を食べるために、死人の記憶を頼って嘘を吐く。だが、たまに本当の事も言うため、それが本当に嘘なのかどうかの判断は出来ない。
ジャンヌに化けた死霊の言葉も、サファイアの姿をして寄り添ってくるあのソロルの言葉も、何処から何処まで信じるべきなのかは分からない。だが、真偽はどうでもいい。騙されて、使い捨てられるのだとしても、そうでない可能性がある限り、恐れる気にはなれなかった。サファイアの姿をした彼女と過ごす瞬間に、幸せを感じてしまっている。それが全てだ。失ったはずの時間を取り戻しているような気になれるものだから、いつまで経ってもこの夢から覚める気になれないのだろう。
こんな気持ちをどうして他人に理解してもらえるだろう。ましてやカリスなど、私の気持ちは分からぬままだろう。その証拠は彼女の表情に現れていた。
「分かっているのに、どうして」
嘆きに近いその呟きに、答える気力は尽きかけている。それでも、私はどうにか彼女に応えてやった。
「死んだ者を狂おしいほど恋しがったことはあるか」
その問いかけに、カリスは口ごもった。
「生きていた頃の様な姿で現れ、生きていた頃のように語り掛けてくる。お前の言う通り、ジャンヌがもしも死霊に殺されたのなら、きっと私と同じ心境なのだろう。もう会えないと諦めていた人物が、そこにいるのだ。その葛藤がお前に分かるだろうか」
ジャンヌの死の夜、死霊の恐ろしさを彼女は語った。
それが嘘なのかどうかはこの際、無視しよう。あの時、カリスは言っていた。人狼は死霊に化かされないのだと。言い伝えでは、そうなっている。死霊が連れてくることが出来るのは、人間の血を継ぐ者だけ。魔物の魂は冥界から連れ出せないため、主な獲物は人間か魔族となる。
カリスはどう転んでも、同じ体験をすることはない。死別した親しい者たちは、皆、魔物であったはずだから。
「分かるよ」
それでも、カリスは必死に訴えてきた。
「分かるはずだ。私だって、友人を失った。ルーカスを、エリーゼを、目の前で失った。聖女となったアマリリスを恨みやしない。しかし、恨むことをやめたところで、彼らを失った寂しさは埋まらない。他の誰と仲良くなろうと、彼らの代わりにはならないのだから」
人狼は仲間意識が強い魔物だそうだ。それなら、ルーカスとエリーゼに対するその気持ちは本心なのだろう。
だが、納得は出来なかった。なぜなら、彼女が言っていることは想像に過ぎないのだ。同じ立場には絶対にならない。人間か、魔族かの友人を失わない限り、彼女が同じ思いをすることはない。そんな彼女に死霊の恐ろしさを真に理解できるはずがない。
「分かるというその口で、おれにソロルから離れろというわけか」
そんな言葉を口にすれば、カリスは息を飲んだ。私の表情をじっと見つめ、そして、がくりと項垂れる。
「違う……そうじゃないんだ」
カリスは力なく言った。
「お前の気持ちは想像できるんだ。もしも、お前の立場に私がいて、サファイアの立場にお前がいたとしたら……」
その言葉に、こちらも動揺してしまった。
しかし、カリスは全てを言い切らず、口を噤む。続く言葉を見失ったまま、大きくため息を吐いて顔を上げた。
「そろそろ帰るよ。長居をしすぎた。ソロルも許しちゃくれないだろうからね」
「……カリス」
かけるべき言葉の見つからないまま、その名を呼んでしまった。即座に気まずさが生まれる。空気を誤魔化すために、私は必死に言葉を見つけ出した。
「おやすみ」
塵が降り始めたのだろうか。外はしんとしていて、やけに明るく感じた。微かな悪臭が鼻をつくが、厚い壁に守られているお陰でさほど苦しくはない。対するカリスは先ほどよりも顔色が良いようだ。
翡翠のような目がこちらを見つめ、微笑みを浮かべる。だがその笑みには哀しみが確かに宿っていた。
「おやすみ」
そっと返事をすると、彼女は消えてしまった。




