4.ハダスの民
いつまでも引きこもっているのはよくない。そう言いだしたのは、ソロルだった。エクリプスに来て以来、ソロルは今まで以上によそよそしくなった。恐らく、私が悩んでいるためだろう。サファイアの姿でそうされるのは辛いが、その反面、ほっとした。
ソロルはしつこく話しかけてくるようなことはしなかった。私の傍にいない時に何処にいるのかも自分からは話さない。ただ、私の傍にいるときは、静かに寄り添うだけだった。
それでも、あまりにも私が日の光を浴びたがらずにいると、さすがに口を出さずにはいられなかったらしい。
「あたしにとっては忌々しい太陽だけれど、人間のあなたには必要でしょう? それに、あたしは知っているのよ。影でこっそり雌狼と密会しているって」
返す言葉は浮かばなかった。
否定はしない。また来る、という言葉通り、カリスは何度もやってきている。こちらが拒絶するまで一方的に会話をしようとしてくる。その様は、ヴィア・ラッテア大渓谷で初めて出会った頃のようだ。だが、あの時よりもだいぶ人間らしく、不快感も減った。彼女は日に日に人間らしくなってきている。人狼が悪となるのは環境のせいだと習った日の事を思い出した。あれは本当だったのだ。
「ゲネシス」
黙ったままの私に、ソロルはサファイアの声色で話しかけてきた。
「人狼を信用しちゃだめよ。前にも言ったでしょう? あれはジャンヌを殺した相手なの」
「だが、本人は否定している……」
「当然よ。だって、あの女はあなたの心が欲しいのだもの。あなたに嫌われることを何よりも恐れているわ。だから、本当のことを隠している」
「おれには分からない。あなた達を信じるべきか、彼女を信じるべきか」
「あたし達に決まっている。……ごめんなさい、ゲネシス。この話はいったんやめましょう。あなたは疲れている。そんな時は、エクリプスの風に当たった方がいいわ」
そう言って、ソロルは窓辺から外を眺めた。快晴だ。異様なほどに明るい。こんな日は塵もあまり降らない。人間にとっては有難い日なのだが。
「死霊というものは、太陽の光が毒だと聞いている」
「……ええ、そうね。でも、あなたが一緒なら大丈夫よ」
振り返るその姿は、恋人になる前のサファイアのものによく似ていた。任務のためにフリューゲルを訪れ、当時の事件について彼女の両親に事情を窺った際の姿だ。家畜を襲うという理由で待ち伏せることになり、その際に彼女に世話をしてもらった。ミールはまだ言葉もおぼつかないほど幼く、サファイアも私も若かった。ぎこちなく会話をした夜。蝋燭の揺らめきと緊張気味に話した声が頭の中でちらついている。
「ね、行きましょう」
その微笑みに引き寄せられるままに、従った。
エクリプスを今更観光したいとは思わない。こんなご時世だ。どんなに美しい建造物も、その傍を通りかかる人々の顔色の悪さや全体的な空気の重さを前にすれば、全く楽しめるものではない。
それでも、ソロルの足取りは軽く、楽しそうに私を誘っていった。
目指しているのはエクリプスで一番有名だろうと思われる公園だ。エクリプスの領主がかつて住んでいた城の庭園だったが、シトロニエの革命の混乱で焼き討ちにあい、正統な後継者共々城を失ってしまったのだと聞いたことがある。以来、新たにエクリプスの長となった人物を中心に管理しているのだとか。
前に来た時はまだエクリプスの領主のものだった。アルカ聖戦士として見せてもらったことがある。あの時以来の公園の噂は特に聞いていない。
ソロルに連れられるままに赴いてみれば、公園は思っていた以上に変わっていなかった。シトロニエ全体の暗い雰囲気から解放されていた。真横に広がった緑はとても美しく、かつてそこにあった城は火災の爪痕が色濃く残ってはいたが、それでいて造形は記憶以上に見事なものだった。
何より、見物人がちらほらといるのに驚いた。革命前は滅多に見物できるものではなかったものだが、焼け落ちた城を眺める客がぱっと見ただけでも四、五人はいる。公園になったというだけあるだろう。この先、もっと国が安定すれば増えるのかもしれない。
「静かだわ」
隣に立つソロルがそう呟いた。目は焼け落ちた城に向けられたままだ。共に立ちながら見物していると、サファイアが戻ってきたかのような錯覚に陥り、一瞬だけ幸せな気持ちになれる。もちろん、その反動は大きいのだが。
「かつてのあのお城の輝きが見えるの。大勢の人々がそこに暮らしていて、ある日突然、みんな殺された。そうやって、時代が変わったのね」
「聞いた話だと、城主から下働きの者たちまで無差別に殺されて、火を放たれたらしい」
凄惨な事件だが、当時はそんな事件がシトロニエで多発していた。城にいたほぼ全員が助からず、暴徒化した市民の中にも火にまかれて複数死んだ者がいたらしい。そこにあるのは、計画でも信念でもなく、ただ感情の爆発と、その結果だけだ。
「哀れに思う?」
ソロルはふとそんなことを訊ねてきた。
「あたしについてくるという事は、ここで起こった以上の悲劇を繰り広げるという事よ」
「そうだな」
すべてを根本から変える。それには強い感情と力が必要だ。だが、向き合った相手の事を一瞬でも考えれば、強い抑止力となる。ソロルを聖地に連れていくためには、きっと共に誓ったはずの仲間たちを斬り殺す必要も現れるだろう。
やっていることは、この城を焼いた者たちと一緒だ。ソロルと共に行くということは、そういうことだ。
「……帰りましょうか」
私の表情を読んだのか、ソロルは呟くようにそう言って戻り始めた。
それからは無言だった。話すべきことも見つからない。それでも、変な焦りは生まれず、沈黙の時間を共に過ごすことが出来た。共に歩くことがあまりにも自然で、まるで家族のようだった。それとなく安心感を覚えながら歩み続けた。
しかし帰路についてしばらく、ふと視界に入った光景にそれまでの静けさは一変した。
喧嘩だ。いかにもシトロニエ人らしい市民の数名が、暴言を吐きながら何かを蹴っている。すぐに止めに入るべきだろう。しかし、隠し持っていた〈シニストラ〉と、リリウムの紋章を武器に近づこうとした時、その半ばで足が止まってしまった。
――ハダスの民だ。
動揺してしまったのは、想定していなかったからかもしれない。鼻がやや低く、目はサファイアほどではないが目立つ青。髪の色は黒く、肌も少し浅黒い。サファイアやミールのように容姿に恵まれているわけではないが、確かに同じ民族の者だと分かった。
目と目が合って、慌てて私は駆け寄った。
「おい君たち、何をしている」
忘れかけていたシトロニエ語で怒鳴りながら割り込むと、ハダスの青年を蹴っていた市民の一人が乱暴に振り返る。
「ああ、なんだ? 外人は引っ込んでろ!」
だが、さり気なく見せたリリウムの紋章に気づくとすぐさま顔色を変えた。
「おっと、これは聖戦士様」
男の一人が興奮を抑えつつそう言うと、他の者達もはっとしたようにこちらを見つめてきた。リリウム教会の力が弱まっていると聞いているが、アルカ聖戦士という肩書はこんな場面でもまだ通用するらしい。
「とんだ失礼を」
「その男性を一方的に蹴っていたように見えたが」
訊ねてみれば、市民たちは互いに顔を見合わせてから答えた。
「なに、コソ泥を追い詰めていただけですよ。我々の家から金目のものが丸々消えてしまったものでね」
「証拠はあるのか? そもそも、そのように一方的に蹴り飛ばされるのが新しい時代のエクリプスでは許されるのか疑問だが……」
「証拠? それなら簡単だ」
取り巻きの一人がハダスの青年を指さしながら訴える。
「こいつは親父の代から悪い噂の絶えない一家なんです。誰かの家で泥棒だとあっちゃあ、次の日には夫婦そろって妙に羽振りがいい。そんな夫婦の息子なんだ。疑われても仕方ない」
呆れて物も言えない。だが、こういう連中は意外に多い。噂は憶測で生まれるが、それが流行り病のように広がってしまうと収拾がつかなくなるものだ。こういう時のためにクルクス聖戦士がいたはずなのだが、革命後のシトロニエにおいてクルクス聖戦士たちの影響力は他国と比べて著しく弱体化しているようだ。もっとも、その前から腐敗していただけだったのかは分からないものだが。
「とにかく、これは我々の問題だ。アルカ聖戦士様の御力を借りるまでもありません。なんせ、この男はハダスの――」
言いかけた市民の一人が、ふと私の後方に目を向けた。離れた位置からこちらを見つめているのは、サファイアの姿をしたソロルだ。サファイアの容姿を見て彼女の出自に気づく者は多い。リーダー格の男が明らかに私の連れである彼女と、今し方自分たちの蹴り飛ばしていた男とを見比べる。そして、最終的に私の顔色を窺うと、深くため息を吐いた。
「分かりました。このくらいにしておきますよ」
「聞いたか、運が良かったな。これに懲りたらもう盗みなんてするんじゃねえぞ」
しまいに蹴り飛ばそうとする男を別の仲間が咎める。市民たちが恐れているのは、私の視線のようだ。そそくさと立ち去っていくのを見送り、青年の傍にそっとしゃがみこんでみれば、彼は痛々しい姿ながらも笑ってみせた。
「へへ、助かりましたよ、旦那」
やや訛りのあるシトロニエ語でそう言った。
「奴ら、いつも因縁つけてくるんです。今日は本当に手を抜いてくれなくて。このままじゃ本当に殺されんじゃないかってくらい……痛てて」
「立てるか。一度、医者に診てもらった方がいいな」
「いやいや、これでもおいらは丈夫に出来ていますからね。親父譲りの健康体なんです」
「そうはいっても酷い有様だ。立てそうならついてこい。私が一緒なら、近くの教会が手を貸してくれるはずだ」
「ああ、それなら大丈夫です。おいらにも仲間がいますからね。ところで、そちらの女性は……?」
その眼がじっとサファイアへと向いた。当然、彼にも彼女より同胞の匂いが分かるのだろう。だが、中身はサファイアではない。彼の求める安心感は偽物ものだ。それでも、ソロルは近づいて来た。そっと座るとぼろぼろになった男と出来るだけ視線を合わせ、手を差し伸べた。
「『辛くとも周囲を恨まずに笑うのです。涙は神にだけ見せればいい』」
リリウムにもある聖典の言葉だった。
「必死に耐えるあなたも、いつか救われる時が来るはずよ」
「……へへ、ありがとう。お袋も昔よく言っていたなあ。あんたみたいに美人じゃなかったが、それでもおいらにとっちゃ最高の母ちゃんだった。……少し元気が出たよ。仲間のところに戻る」
「送ってやろうか?」
すかさず訊ねたが、青年は頑なに拒んだ。
「いや、仲間の中には聖戦士様を怖がっちまう者もいてね。気を悪くしないでくださいね。おいらは大丈夫ですから」
ふらつきながらも立ち上がり、よろつきながらエクリプス市街の隅へと消えて行った。彼の姿が見えなくなるまで見送ってから、私は静かにソロルに言った。
「まるでサファイアのようだったよ」
すると、青い目を細めて彼女は答えた。
「……薄っすらと残る彼女の記憶に倣っただけよ」
彼女の記憶。そんな言葉に小さな衝撃が走る。その一つ一つはばらばらに引き裂いた手記のように脈絡のないものかもしれないが、それでも共に過ごした過去のある私にとって、一枚一枚に確かな価値があるものだ。
サファイアは死んでしまった。ここにいるのは偽物だ。他ならぬ本人がそう言ったとしても、ここに記憶が薄っすらと残されていると思うと、愛おしくてたまらなかった。生まれながらに浸ってきた信仰を健気に守りつつ、真実の愛を求めて私と絆を結んだ彼女が生きていた証がそこにある。
今やもう姿の見えなくなったハダスの青年に向けた言葉。冷たく見えて、仄かに情のある慰めと励ましの言葉を口にしたソロルの姿は、まさにサファイアそのものだった。このソロルが元来どのような性格をしていようと、宿っているものの正体はたしかにサファイアに違いないと思えてしまう。
――この世界は本当に正しいの?
マルの里で聞いた言葉を思い出していると、そっとソロルが手を繋いできた。
「そろそろ帰りましょう。暗くならないうちに」




