3.差し伸べられる手
起き上がるのも面倒だったので、横になったまま私はカリスと向き合っていた。
ソロルは帰ってこない。カリスの出現に気づいていないのか、敢えて泳がせているのか、それは分からないが、今この場で私たち二人の間に割って入る者はいないようだった。
カリスは人間の姿をとっていた。意図的なものなのかどうかは知らない。ただ、彼女の人間の姿は、あれほど憎んだはずの人狼であることを忘れてしまってよくないものだった。
「いっそゴキブリ共々ぶった切ってくれれば楽になれたのに」
「そんなことを言うな。一応、おれはお前の為に新しい環境を用意してやったんだぞ」
「でも、その環境を台無しにしようとしている。……ゲネシス、お前はきっと混乱している。あのソロルに騙されているが、本心はアルカ聖戦士に戻りたいんだ」
「……すまない、今は頭が痛いんだ。そういう話は止してくれ」
冷めた声でそう言えば、カリスは口ごもった。だが、帰りはしない。人間の姿でありながら、オオカミのようにその場に寝転がり始めた。表情は深刻そのものだ。だが、いつものように口煩く説教するつもりはないらしい。
その表情を見ていると、こちらもまた疑問がわいてきた。
「どうして、そんなにおれに構う。あれほど冷たくあしらってやったのに。向こうには屈強な人狼戦士もいるのだろう。おれを売って、教会に尻尾を振った方が利口というものだぞ」
すると、カリスは首を振って悲しそうな表情を浮かべた。
「確かにそれが利口というものだろう。でも、今の時点で食うに困らない生活が出来ているんだ。どうして尻尾を振る必要がある。垢を落とせるようなこの暮らしも、全部お前のお陰なのに、お前を見捨ててまであちらに尻尾は触れない。……私は恩を返したいんだ。黙ってお前が破滅の道を歩んでいくのは耐えられない」
きっと、本心なのだろう。
カリスという人狼が善か悪かという判定をする気はない。だが、私に構い続ける理由は本当なのだろうと信じることは出来た。ソロルたちだってそれまでは否定しない。ただ、その執着によるあらゆる可能性に目を向けさせてくるだけだ。
ジャンヌを殺したのは本当にカリスなのか。
決断を出すべき時ではないが、そんな疑問が頭をよぎる。カリスを信じるか、信じないかという選択が、今の私に大きくのしかかっている。過去と決別するか、しないか。カリスはそれだけ重要な人物と言えるだろう。
だが、今はそんなややこしい事実からすらも遠ざかりたかった。こうしてただ一緒にいると、ヴィア・ラッテアからしばらく共に歩んだ日々を思い出した。あの頃から私は一目でいいからとソロルに会おうとしていた。それは確かだが、共にカリスと歩みながら、第二の道の可能性についても何度も考えていた。
すべてを忘れて、カリスと共に生きるのも悪くないかもしれない。
だが、もうあの頃には後戻りできない。それでも、気分だけは後戻りしたかのような錯覚に陥っていた。
「新しい環境には、慣れたようだな」
そう訊ねてやれば、カリスは弾かれたように顔をあげた。
「あ、ああ、すっかり慣れた。訓練した人狼戦士に比べると動きが素人らしいが、元盗賊やアマリリスから逃げ続けているうちに鍛えられていたみたいでね。こき使われるものだよ。でも、暮らしはずっとよくなったから不満はない。囚われの聖女さまを揶揄うのもやっと楽しくなってきたからね」
「……そうか。洗礼は?」
「受けていない。マルの里では別に受けなくてもいいと言われたんだ。おかげで、私の存在をきちんと把握していない戦士もいるくらいだよ」
「密偵のようなものか。だが、気をつけろ。その身分はトカゲの尻尾のようなものだ。いつでも切り離される可能性がある。洗礼を受けていない人狼となれば、尚更危なっかしいぞ」
「ああ、勿論、心から信用しちゃいないさ。でも……悪い奴ばかりじゃないってことは分かったんだ。各地で話すことになるリリウム教会の連中は、会話をしてみればいい人そうなやつらばかりだった。私への恐怖心は隠せないだろうが、それでも、精一杯、気を遣っていることが伝わってくるものだった。……お前がかつて言っていたのは本当だったんだ。ここに私の場所を作ることが出来る。そうなれば、この居場所から犯罪者になるしかない同胞を救うことも出来るかもしれない……そう思った」
行き場や職を失った人狼の若者が、開き直って食人を始めたり、盗賊や海賊になってしまったりするということは世界各地で起こっていることだ。
カリスだってその一人だった。人の味を覚え、過去には盗賊までしていた。そして、私の方はそんな経緯で食人鬼となった人狼を何度も切り捨てたことがある。
だが、生き方が変わればどうだ。犯罪者になるしかない同胞を救いたい、か。洗礼を受けてないといっても、その心はすっかり影響されているらしい。リリウム教会に、というよりも、共に旅をしているはずの海巫女様に、なのかもしれない。あるいは、聖女に変わってしまったという〈赤い花〉の方か。
とにもかくにも、カリスは変わった。世界に絶望し、欲望と憎しみのままに生きる魔物から、愛と希望を取り戻して絶望の淵にいる仲間に手を差し伸べようとする存在へ。
「人間と人狼の架け橋になりたいわけか」
そう呟いたとき、ふと懐かしい顔を思い出して目頭が熱くなった。
――カンパニュラに行ったらね、まずハダスの人々について皆にどう理解してもらえばいいか考えてみる。
精霊のように美しかった義弟の姿を思い出し、その顔の端々に浮かぶサファイアによく似た表情に震えてしまった。
――僕は、ハダスとリリウムの架け橋になりたいんだ。
「似ている」
「――え?」
「今のお前、おれの義弟にそっくりだった」
「義弟……ミールか」
「ああ、そうだ」
カリスが人狼であることに目を瞑れば、彼女の人格そのものを見つめることが出来る。差別と偏見に晒されつつも曇りなき瞳で世界を信じて疑わなかった一人の少年と、荒波の中で本能にしがみついて生き延びてきた女人狼とでは何も似ていないかもしれないが、未来への希望を語るその姿は重なるものがあった。
ハダスの民への偏見をなくしたい。本当の愛とは何か知って、自分や姉のように苦しむ者を減らしたい。そんな純粋な願いを彼は持っていた。
美しい姉に似た微笑みを思い出す。一人前の男となった彼は、どんな活躍を見せただろう。可能性を秘めたまま、人形にされてしまった哀れな義弟を思い出すとやるせない気持ちになる。サファイアに申し訳ない。守ると誓ったはずだったのに。
「ミールはそんな少年だったのか」
思い出に残る彼の姿を少しだけ語ると、カリスはじっと私を見つめながらそう言った。
「リリウムとハダスの架け橋、か。彼なら、人狼の私とも対等に話してくれただろうか」
「それは……そうかもしれないな」
正直な反応をしそうになり、躊躇った。
それはどうだろう、というのが本心だ。人狼は彼にとっても敵であった。大好きな姉が死んでしまったのをきっかけに、彼はカンパニュラで聖戦士を目指したいと希望してきたのだから。
だが、そんなことをカリスに語る必要はない。今も愛しているサファイアの死因が人狼だったなんて何故言える。
――そんなことを教えたら、カリスの心が傷ついてしまう。
そうだ。今分かった。
これもまた躊躇いの原因の一つだったのだ。
私はカリスを拒絶しようとしていながら、同時にカリスの心を傷つけることに躊躇いがある。
お互いの過去など忘れて、ただ前だけを見て共に歩めたら。そんな希望を実はまだ捨てられていないのかもしれない。
願望の可能性に気づいてしまえば、迷いも深くなっていく。私はどうしたいのだ。カリスを遠ざけたいはずなのに、なぜ、躊躇い続けているのだろう。
「あのソロルは、ミールを取り戻すために力を貸すって言っていたな?」
カリスが恐る恐る周囲を窺いながらそう言った。
「聞いていたのか」
咎める意図もなくそう言うと、カリスは慎重に肯いた。
ただ、その表情を見るに、まだ本当の計画までは知らないようだ。せいぜい、聖戦士たちの隙をついて海巫女に危害を加えるぐらいにしか思っていないだろう。隠密が得意になってきたと思われるカリスであっても、あのソロルが本気で警戒している状況までも侵入できないらしい。
「話はいくらか聞かせてもらっているからね。もっとも、あのソロルが見逃してくれている時だけだが。ヴァシリーサを倒すための力を餌にされているのだろう? やつが海巫女を食えば助けになれる? 本気でそれを信じているのか?」
「信じるな、と言いたいのだろう。死霊の言うことなど全て虚言だと」
「分かっているじゃないか。だが、私が言いたいのは諦めろという事じゃない。私の嗅覚はそこいらの名犬たちよりも確かなものだ。お前の為ならば、危険な魔女の城にだって潜入してやれる。なあ、私と組まないか? 一緒にミールを助けに行こうじゃないか」
どうして彼女はこんなにも寄り添おうとしてくるのだろう。
それが人狼であることを忘れれば、それが温かいという感情も素直に受け入れられる。カリスに人食いの過去があったという事実を忘れてしまえば、かつて私に降りかかった悲劇を少しでも忘れることが出来れば、カリスの誘いは頼もしいとさえ思えるのに。
「ヴァシリーサの守りは、生半可な力では破れないそうだぞ」
気を落ち着かせてそう答えてみれば、カリスは飼い犬のように唸った。
「誰が確かめたんだ。試してみなければ分からないじゃないか。死霊の怪しい力になんか頼ることはない。私を頼ってくれ。出来る限りの事はする」
――人狼は嘘つきだ。
これまで散々言われてきた常識が頭をよぎったが、カリスの表情はその印象と拮抗するほどのものだった。
「金は幾らだ? 幾ら欲しい?」
呆れ半分の状態でそう言ってやると、カリスはさらに唸りながら答えた。
「ただに決まっているだろう?」
「ただ? 信じられんな」
「金じゃない。これは、私の気持ちだ」
――気持ち、か。
反応が薄かったせいか、カリスは不満そうにため息混じりにラヴェンデル語で悪態を吐いた。何と言ったかは早くて聞き取れなかったが、淑女らしからぬ態度なのは間違いない。
もしも、カリスが身分の確かな人狼戦士だったら。きっと、私は喜んでその力を借りただろう。金を払ってでも付き合ってほしいものだが、命知らずを売りにするような者達の提示する額は果てしない。それに引き換え、カリスは無償でやるときた。無償で、人狼の恵まれた力を借りられるとなれば、困っている人間は誰だって飛びつくだろう。
いくら、日頃の生活で人狼の悪い印象を植え付けられていたとしても、その説明のつかぬ能力は魅力的であるし、便りがいがあるものだ。
だが、それだけではない。
――カリスと共に魔女退治か。
忘れかけていた感情が再び濃くなった。
思い出せ。サファイアを奪ったのはカリスではないのだということを。人狼だからといって恨むことは、正しい事ではない。かつてはその教えを真面目に守っていたからこそ、カリスを助けたのではないか。
当たり前に縛られていた常識が、顔を覗かせている。私はどうしたいのだろう。カリスと共にいたいのか、ソロルについていきたいのか。どうしてもまとまらない。
やはり決断の時は早いのか。
「――まあ、すぐには返事も出来ないだろうさ」
私の表情を見て、カリスは先読みしたようにそう言った。
「ただ、私の力を疑っているのなら弁明させてくれ。私にだって自信はある。そりゃあ、狂気と切断の力をこちらに向けてくるアマリリスにはビビっていたが、あれは例外だ。この世のほとんどの生き物は、奴より怖くない。奴のことを教会が預かってくれている以上、怖がるものはほとんど何もない。そのくらいの自信はある」
「盗賊だったころの経験か」
それとも人食いの、と言ってしまわぬうちに、カリスは答えた。
「それもあるが、それだけじゃない。私は幼い頃から多くの人狼の中で育ったからね。厳しい人間社会で生き抜くためには鍛えるべきだと言うのが養父の考えだった。……それに、子供の頃は憧れている人がいたんだ」
「憧れの人?」
「ああ、前に話さなかったかな。毛皮商人から幼い私を助けてくれた人だ。人助けを性としていた魔女。名前は……アネモネだったかな」
「……人助けの魔女アネモネ」
その名は古代イリス語で「風」を意味する。だが、それよりも幼い頃より聞き覚えのある不思議な印象の名前である。
イリス風の名前は世界各地でありふれている。その為だろうとも思うのだが、別に母親の名前でもないし、親しい知人にもその名の者はいない。だが、物心ついた頃から、その名は記憶として残されていた。少し久しぶりに聞くが、この響きはいつ聞いても安定を産むのだ。その名の通り、優しい風に包まれるような気持ちだ。
「似ているんだ」
カリスはため息交じりにそう言った。
「似ているって?」
思わず問い返すと、カリスは少しだけ微笑む。
「聖女さまに、だよ」
アマリリスのことだ。皮肉たっぷりだが、心底嫌っている様子はない。確か、前も言っていた気がする。怯えていた過去すら霞んでしまうくらい、似ているのだろうか。
「――とにかく、私はアネモネみたいになりたかった。誰かを助けられるような強さが欲しかった。私は魔女の心臓なんて持っていない。だが、人狼として恵まれた能力がある。それを活かして困っている誰かを助けたいと本気で思っていたんだ。……子供の頃は大人に守られて何も知らないものだからね。正義の味方という奴になるのが夢だったのさ」
「女の子にしては。勇ましい夢を抱いていたのだな」
怒るかと思ったが、カリスは目を細めた。
「ああ、ルーカスも似たようなことを言っていたよ。たくさんの子どもに囲まれながら村でのんびりと過ごす。他の女たちのように、そういう幸せを求めたっていいんじゃないかって。……今思えば、なんだか告白みたいだな。子供の頃の話だが」
「仲が良かったんだな。いなくなって寂しいか」
「寂しい。……寂しいけれど、仕方ない。恨んでも、嘆いても、恋しがっても、あいつは帰ってこないんだ。妹のエリーゼもね」
「それでも、お前は恨みを捨てるのか?」
疑問に思ったままに訊ねると、カリスは一瞬だけ口籠った。動揺しているらしい。しかし、その動揺を空虚な笑みで隠してしまうと、カリスは答えてくれた。
「捨てた。今更拾おうにも何処にやってしまったか思い出せない。……それだけ、アマリリスは人が変わってしまった。指輪のせいだと聞いているが、だとすれば複雑だ。かつて恨んだ相手は何処に消えたのだろう。ああなると、ますますアネモネみたいで落ち着かない。今のあれを人狼殺しの魔女と同一視することはとてもできない」
悩む姿は魔物らしからぬ。もっとも、世間が思っているほど魔物というものは非人間的でもないというのは分かっているつもりだ。カリスはその中でも、より善人に近いところにいる。ミールと重なるほどに、彼女の心は純粋なもので出来ていたようだ。
錆び付かせたのは世界だろうか。人狼として生まれた境遇だろうか。しかし、彼女は希望を取り戻した。それを私のお陰だと思っているが、きっとそうではない。カリスの元来の性格なのだろう。そのことを感じるたびに、私は静かなる動揺を覚えていた。
この気持ちはなにものだろう。
カリスが善人らしく振舞うたびに、心がざわついて落ち着かなかった。
「話がそれたな。とにかく、お前さえよければ私はいつでも力を貸す。考え直してくれ。まだ時間はあるのだし」
そう言いかけ、カリスはふと一方に首を傾げた。目つきが変わったところを見るだけで、近づいてきている者が何なのか此方にも予測できた。
「風向きが変わったな。また来るよ。……今日みたいに話が出来たら嬉しい」
そう言い残し、カリスは影道に消えて行ってしまった。
残された私はしばしの沈黙の中で思考に耽っていた。ソロルと歩む道は暗いだろう。だが、暗くてじめじめとした道を歩み続けた先に、私の望むものはあるはずだ。
では、カリスはどうだろう。共に歩む道は明るいだろうか。全てを忘れてしまえば、人狼特有の空虚な語りに程よく笑わせてもらえるかもしれない。
「人狼のくせに……」
だが、憎めない奴なのは確かだった。




