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AMARYLLIS  作者: ねこじゃ・じぇねこ
4章 ミール

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2.憎めないひと

 エクリプスには有名な宿がある。シトロニエ国の危機にあっても、その宿の品位だけは保たれているそうだ。そういった場所は表面上、紹介がないと利用できないという形をとっている高位の魔物向けの施設であることも多いのだが、勿論、世界には人間向けの高級宿もないわけではない。エクリプスの象徴的なその宿も、人間向けのものだった。

 だが、今回はそんな宿の利用はしていない。アルカ聖戦士としてならば、利用できることもある。しかし、私は休暇中であり、リリウム教会とは距離を置かねばならぬ身だ。そういうわけで、任務以外では馴染みのないボロボロの宿に泊まっていた。


 部屋は狭いが、贅沢はいえない。壁はしっかりとしているし、内鍵がついている。一応は、強面の店主が利用客の選別を行っているようで、思わず眉を顰めてしまいそうな行動をとる客は見当たらなかった。

 ちなみに、アルカ聖戦士であることは言っていない。衣服も剣も紋章を隠し、単なる旅人としてここに来た。だから、いつもよりも扱いは悪く感じる。これはおそらくここの宿に限ったことではない。任務上、身分を隠さねばならないとなった時にしばしば感じることではあった。


 狭い部屋には椅子までついている。その椅子に座ってみれば、思っていたよりも体が疲労を溜めていたことを実感した。

 コックローチを仕留めそこなった苛立ちと、カリスへの白黒はっきりつかない感情に揺さぶられ、さらに気疲れしてしまう。出来れば静かに過ごしたいものだったが、借りた部屋の片隅には、それを許さぬ存在が堂々と姿を現していた。


「……ゲネシス」


 ソロルだ。だが、サファイアの姿と声のせいで、まるで亡き妻と旅行でもしているような気分になってしまう。


「どうか教えて? どうして、あの人狼を殺してくれなかったの?」


 サファイアの、心優しかったあの人の姿と声で、そんなことを訊ねてくる。

 生前のサアイアならば、こんなことは言わなかっただろう。この人はサファイアではないのだ。そんな静かな、当たり前の失望を再び噛みしめつつ、私は慎重に答えたのだった。


「殺す必要がなかったからだ」


 ならば、必要だったら殺すのか。カリスは人狼だ。その揺るぎない事実だけを言い聞かせ続ければ、聖剣〈シニストラ〉を向けることも出来るだろうか。

 実は自分でもよく分からない。共に歩めぬからといって、平然と斬って捨てられるほど残忍になった覚えはない。ましてや、共に旅をし、共に過ごし、何度も会話をしてきた仲とあれば――。


「情が湧いてしまったのね」


 迷いをひた隠しにして答えたつもりだったのだが、ソロルには見破られていたようだ。死霊相手に隠し事など無謀だったのかもしれない。


「でも、ゲネシス。忘れたわけじゃないでしょう? あれはジャンヌを殺した人狼なのよ。それに、あの女を生かしておくのは危険だわ。あなたの望む未来のためにも、あの人狼は殺してしまった方がいい」

「彼女は否定していた。ジャンヌを殺したということが、確かだと分からない限り、剣を向ける気にはならない。……それに、奴が何と言おうとおれの心は動かされない」

「それはどうかしら。あなたにはまだ迷いがある。迷いがあれば、ケダモノ退治も難航するわ。あたしに出来る助力にも限りはあるの。あなたの集中力の妨げになるようなものは排除すべきでしょう」


 愛しい人の声で、ずいぶんと冷徹なことを言うものだ。怒りは湧かない。だが、答えに迷ってしまった。サファイアの復活の鍵であるこのソロルの機嫌は損ねたくない。それなのに、カリスを殺せという命令だけは躊躇いが大きいのだ。

 呪いにでもかかっているかのようだ。これまで人狼を斬ったことだって、何度もあったはずなのにどうしてだろう。


 ――恨みは忘れよう。


 いつか聞いたそんな言葉が脳裏をよぎる。

 麦色の髪と寒気さえ生じる美しい横顔を思い出すと、気持ちが落ち着かなくなる。特に、サファイアの顔をしたソロルと接している時だと、得体の知れない罪悪感に似たものを覚えてしまい、気が滅入ってしまった。


「ゲネシス」


 黙っていると、ソロルが窺うように声をかけてきた。求めているのは、彼女への同調だろう。それはよく分かったが、その通りに返事をするのはどうしてもできなかった。


「あなたの言いたいことはよく分かった」


 もどかしさに囚われたまま、私は答えた。


「だが、カリスのことは放っておいてやってくれ。奴にはあなたが恐れるほどの事は出来ない。それに、集中力の妨げになんてならない。だから、安心してほしい」


 そう言っておいたが、自分でも半信半疑だ。そんな言葉が通用するはずもなく、ソロルの表情は優れなかった。だが、それ以上、すぐに食い下がるようなことはしなかった。ただ、しばし考えに耽ってから口を開いた。


「……一応、彼女をこちら側につかせるという道もあるわ」


 本意ではなさそうだが、そんなことを言った。


「気づいていないわけじゃないと思うけれど、あの女はあなたに恋をしている。その恋心は利用価値がないわけでもない。人狼をうまく操れればとても助かるでしょう。――ただし、問題はある。サファイアが無事に復活したときに、邪魔な人狼女をどうするか。それさえ考えておけばいい」


 ――利用、か。


 あまりにも非情なはずなのに、ふとソロルに促されるままにその詳細を考えようとしている自分に気づき、我ながら戸惑ってしまった。だんだんと自分がまともでなくなっていくのを実感した。

 それだけ善意を捨てなければならないということだろうか。サファイアを取り戻すためには、自分に感心のある人狼の純粋な心を時に使い捨てるほどの冷徹さも必要なのだろうか。……そこまでの覚悟が果たして私にあるのか。


「その件は保留だ」


 逃れるように私はソロルに告げた。


「ただ今だけはカリスのことは好きにさせてやって欲しい。彼女に危害を加えるのは……気が進まないようだ。どうせ束の間の平穏なんだ。彼女に私の歩みは止められないだろう」

「――あなたが迷っている、というのは確かかもしれないわね」


 ソロルは私の顔を見つめてそう言った。


「あの人狼女は、あなたがまだアルカ聖戦士に戻ってくれると期待しているわ。あなたは人狼の事が大嫌いだと思っていたけれど、あの雌狼の言葉には耳を傾けている」

「そんなことは……ない」


 否定したが、後ろめたさが生まれた。

 確かに、私はカリスを信じまいと自分に言い聞かせることが多いが、ふと彼女に親しみや躊躇いを感じていることがある。彼女が信じているように、私はやはり別の道を歩みたいのだろうか。

 だが、それならばサファイアはどうなる。ミールはどうなる。誰が魔女を討伐すればいい。人形となったままのミールを取り戻すにはどうしたらいいのだ。


 黙っていると、ソロルは寂しそうに微笑んだ。


「仕方ないわ。あたしはサファイアじゃないもの。偽物は本物に敵わない。それに、いつだって生きている人と共に歩めるのは生きている存在だけよ」

「おれが……カリスに気があるとでもいいたいのか」

「そうじゃないとしたら、どうして躊躇ったりしたの? あなたが躊躇わなければ、邪魔な狼はいなくなるわ。あの情報屋のことはあっさりと殺そうとしたのにおかしな人ね」

「情報屋はよく知らない奴だ。……だが、カリスは違う。それだけのことだ」

「へえ、そう。それなら、覚悟次第ということかしら。あなたも忘れちゃいないと思うけれど、この先の旅は過酷なものよ。もしも、あたしの指輪を受け取りたいのならば、これまで味方だった全てのものに決別しなければならない。その覚悟があなたにはあるの?」


 真っすぐ問われて口籠ってしまった。

 頭ではよく分かっている。悪事に手を染めてでもサファイアを死の世界から取り戻したい。その為ならば、正当化してでも指輪を受け取り、神獣を殺し、巫女たちをソロルに捧げられるはず。そう思ったからこそ、マルの里を出てエクリプスまで来ているはずなのだ。

 だが、その為の指輪はまだソロルの手の中にある。

 時間があるという言葉に甘えているのだろうか。ああ、そうかもしれない。カリスが私の戻る場所を守ってくれている。そんな好意に甘えているのかもしれない。


 ――ジャンヌを殺したかもしれない相手なのに?


 マルの里で見たジャンヌの姿をしたソロルを思い出した。彼女とはマルの里で別れたきりだ。ジャンヌの姿で罪を重ねていき、ジャンヌの姿のままうろつくのだろう。いずれは父母や兄の前にも表れるのだろうか。私を感情的に非難したジャンヌの兄ルネの元にも訪れるかもしれない。

 罪深い存在だ。ジャンヌが望んであの姿になったと、どうして思えるだろうか。しかし、私はあの死霊を心から憎めなかった。また会えるのか、もう会えないのか、それは分からない。ただ、どうしても忘れられなかった。無残に死んだはずの友がそこにいる。サファイアのように、全く同じ姿でそこにいる。そのことが、神の奇跡にすら思えてならないのだ。


 かのソロルは言っていた。ジャンヌの死はカリスの言うようなものではなかったのだと。それを私は否定することができなかった。カリスを憎んでいるからではないだろう。サファイアを、そして、ミールを取り戻すにはどちらにつけばいいか、分かりきっていたからだ。

 ソロルを信じれば、ソロルが正しければ、私はまた過去を取り戻せる。過去の幸せな日々を、懐かしい思い出をすべて取り戻せる。そんな誘惑に、どうして抗えるだろう。あんなにも愛した人たちだったのに。


 だが、私の心は頼りなく揺れ動き続けていた。

 サファイアを取り戻せるなら何でもできると思っていたのに、どうして指輪を受け取れずにいるのだろう。どうして迷い続けているのだろう。心のどこかでは、再びあの麦色の毛並みが私を睨みつけてこないかと期待しているのだから身勝手なものだ。

 奴が見捨ててくれないのも理由の一つだろうか。愚かなケダモノだ。私など見捨ててしまえばいいものを。


「――ごめんなさい。焦らせてもいいことはないわね」


 ソロルがため息交じりに呟く。そのふとした仕草がいちいちサファイアに似ているのが心苦しい。


「ゆっくりと覚悟をお決めなさい。まだ時間はあるわ。それに、どうせ機会を待たなくてはいけないもの。生半可な気持ちのまま、〈赤い花〉と顔合わせはよくない。一応、濃い血を引いた個体を手に入れてしまったようですものね」

「……カリスが恐れていた人狼殺しの魔女だ」

「ええ。そして、あなたの計らいで聖女になった哀れな魔女」


 怪しげに微笑みながらソロルは言った。その言葉にぞっとしてしまったが、彼女は静かに首を振って続けた。


「いいの。せいぜい短い希望を持たせてやりましょうよ。ついでに花売り連中もあぶりだせば御の字よ。世界に隠されている〈赤い花〉の居場所を特定して、その全てを食い散らかすことだってできるかもしれないわ」

「〈赤い花〉の殲滅も、お前たちの目的なのか」

「目的、というよりも本能よ。猟犬が兎を追うようなもの。猫が鼠を食べるようなもの。〈赤い花〉を見るとそわそわしてしまうの。その心臓をぜんぶ食べ尽くしてしまわないとって。おかしいでしょう? でも、あたし達は誰だってそう。きっと死霊ひとりひとりの味わってきた屈辱が全員に記憶されている為だろうと、あたしは思っているわ」


 死霊は世界を脅かし、〈赤い花〉はそれを守るために立ち向かった。

 魔女や魔人の性次第では死霊よりも恐ろしい〈赤い花〉ではあるが、その絶滅を願うことは許されることではない。現在、〈赤い花〉をひっそりと――あるいは、堂々と愛でている者や、食い荒らしている者だって、心から絶滅を願っているわけではないだろう。

 しかし、死霊は違う。その思いは目から感じられた。本来ならば、忌まわしいはずの話だ。それなのにどうしてだろう。微笑みながら〈赤い花〉を食べ尽くしたいというソロルの横顔は、奇妙なまでに美しく見えた。


「――いつか」


 彼女は窓辺より外を眺めながらつぶやいた。


「永遠の約束の印に、あの聖女に祀り上げられた哀れな〈赤い花〉の心臓がほしい」


 今までならば禍々しく思えたはずの姿も、今はただただ妖艶に思えてしまう。

 しかし、返答は躊躇われた。まだそのくらいは、私もまともであるらしい。


 ――〈赤い花〉を保護せよ。それが人々の希望となるだろう。


 もしも、ソロルが本気でその聖女に怯えているのだとすれば、負の世界へと入り込んで行ってしまった私を止められる唯一の手段ともなるだろう。

 カリスの、グロリアの、そしてイグニスで別れた愛馬ヒステリアの未来を守るものとなるのが、その哀れな聖女様であるのならば、それを枯らすということは完全に彼女らとの過去を粉々に打ち砕いてしまうことになる。


 やはり、私の迷いは深い。

 あれほど望んだはずのサファイアの復活やミールの救出への心意気まで蝕んでくる。

 これは何から生まれた迷いなのか。


 ――お前は迷っている。迷っているんだ。


 必死に信じる哀れな狼の姿が頭をよぎった。直向きな眼差しとその声。


「すまない、しばらく一人にしてくれないか」


 迷いから逃れたい一心でそう告げると、彼女は振り返った。そのサファイアの目に浮かぶ切なげな表情が心を抉ってくる。だが、サファイアではない彼女は、まだ私に遠慮があるようだった。


「――分かったわ。しばらく離れていましょう。気が済んだら呼んでちょうだい」


 そう言って、ソロルは消えてしまった。

 見渡しても、神経を研ぎ澄ませても、いつも近くにある気配は感じられない。どうやら、望み通り一人にしてくれたらしい。

 ほっとして、ベッドに横になる。まずは何も考えず、心身を休めたかった。このまま考え続けたって迷いは拭えない。ならば、一度、思考をやめてしまった方がいい。そう自分に言い聞かせていると、ふと違う気配が現れたのに気づいた。

 ため息が漏れる。束の間の一人だった。警戒心を忘れないように持ちつつ視線を向けてみれば、不自然な影の集まりが客室の片隅に発生していた。


「カリス」


 おおよそ予想のついているその名を口ずさめば、だんだんとその姿がはっきりしてくる。


「どうして、私を殺さなかったんだ?」


 優しく訊ねてくる声。翡翠の両目はこちらの胸が痛くなるほど純粋なものだった。

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