2.処刑台のある町
クロコ帝国の中でもアリエーテの町は人の出入りが激しい。帝都レオーネに次ぐとも勝るとも言われている。旅人が来ることに慣れている町といえば、私とルーナが訪れた際の人々の反応も想像できるだろう。それでも、前に来た時よりもアリエーテの町はピリピリしているようだ。
なるほど、コックローチの情報を今更疑うわけではないが、確かに町の広場には処刑台があった。死臭の漂うあの存在こそが、人々の心を荒ませているのだろう。まさに目に見える悪魔。人間たちにしてみれば同じく恐怖の対象だろう魔女の私ですら脅威を感じた。
分かった上で入ったのだからそれなりの覚悟は必要だ。深入りはせずに、安全な宿で体を休め、ついでに人狼を一匹いただいてから、さっさと立ち去ろう。
「ねえ、アマリリス」
広場でぼんやりと処刑台を眺めながら考えていると、手を繋いでいるルーナが不安げに私を見上げてきた。
「なんだか皆、暗い顔をしているね」
そっと小声で言うその姿は少女のようだが、仕草は子猫のようだ。しっかりと手をつないだまま、私は静かに肯いた。
「そうね」
「あの大きな台はなに?」
「さて、なんでしょうね」
何も知らないのなら、わざわざ怖がらせる必要もない。無駄に怯えてしまったら面倒なことにもなりかねない。
ただ、念のためにしっかりと手をつなぎ、私はルーナに言い聞かせた。
「ルーナ、この町にいる間は私の言う事を聞かないと駄目よ。一人でいる時は、宿でいい子にしていなさいね。私以外の人と口を聞いちゃ駄目よ」
「うん、わかった!」
元気よく返事をするところが逆に不安だ。しかしまずは私だけの隷従の言葉を信じることにして、広場を去り、まずはルーナに町を見せてやることにした。
アリエーテは広くて栄えた場所だ。
旅の者が必ずと言っていいほど立ち寄ると聞いているが、その通り、クロコ帝国にしては珍しい物品が売られていることがある。
繁盛しているのは隣国であるシトロニエ風の料理店だ。私は料理を食べないが、ルーナが興味を持ったので食べさせてみた。
また、図書館などもある。帝都ほどではないが、それなりに貴重な本が保管されている。ルーナの為にも入ってみたい気もしたが、一日潰れてしまいそうだったのでやめておいた。アリエーテ教会が隣にあることもあまり好ましくないところだ。
他にも前に来た時にはなかった古着屋や、焼き菓子屋、見慣れぬ石畳の通り、妙に新しい石像などもあった。
焼き菓子屋で購入したトールタという菓子を頬張りながら、ルーナは目にするものにいちいち目を向けては驚いていた。
町を通り過ぎる馬車を見る度にはしゃいでいたが、なかなかその興奮は治まりそうにない。何度も手を引っ張って、その度にルーナは抱き着いてきた。トールタの甘い香りがこちらにも漂ってきたが、あいにく、私の空腹が促されるようなことはなかった。
さて、アリエーテの町で観たいところはだいたい巡った。ルーナに見せるために歩いたわけだが、実を言えば、ここではしゃがせておいて、宿に着いたらさっさと眠ってもらうという狙いもある。
というわけで、次に向かうのは宿である。
アリエーテの町にはいくつも宿がある。そのいずれも人間向けのものに決まっている。……と思いきや、実はそうとは限らない。こんな町でも魔物や魔族は多く出入りしているのだ。人外であることを隠して宿をやっている者もいれば、そんな宿を利用する者だっている。
以前、この町に来た時はそういう宿を利用した。今回もそのつもりだったので、間違いなくまだその宿が残っていて安心した。
多少くたびれた外見だが、しっかりとした宿であったことは前回利用したときに確認済みだ。
中に入ってみれば、見覚えのある男がカウンターにいた。彼こそがこの宿の主人だ。人間と変わらないように見えて、当然ながらそうではない。魔人の心臓を持つ男。妻は魔女であり、魔の血を引くものとの交流がとてもうまい。ただ、夫である彼の方はあまりそういう特徴はなく、当たり障りなく淡々と仕事をこなす堅実なタイプだった。
「おや、久しぶりだね。生きていたのか。宿泊かね?」
カウンターに近づくや否や、宿の主人が訊ねてきた。奥さんは不在らしい。彼の視線が緊張気味のルーナへと向いた。
「二人部屋でなくてもいいわ。空いている?」
ルーナが怯えているのを感じて、私はすぐに訊ねた。すると、宿の主人はすんなりと私に視線を戻して答えてくれた。
「一人部屋でいいのならちょうど空いている。だが、夢魔のお客のお隣だ。あちらも女性ではあるが、念のため、貞操を守りたいなら結界の魔術でもかけときな」
名簿とペンを差し出しながら男はそう言った。
「参考にするわ」
名前を書きながら、不穏を感じた。夢魔といえば壁を通り抜けられる厄介な魔物だ。教養が足りない者であれば、こうした宿でも節操なく他人を襲うだろう。奴らに同性や異性という概念は全くない。私はともかく、ルーナにちょっかいを出されないかが心配だった。
「ねえ、アマリリス。夢魔ってなあに?」
「あとでね」
ルーナの質問をあしらいながら必要事項を書くと、名簿を返した。書くことといってもそう多くはない。名前と種族、そしてタブーとなることだけだ。あらゆる魔の血を引くものが問題を起こさないための項目でもある。私の場合は、人狼を傍に置かないこととなる。魔女の性が刺激されれば困るからだ。
あいにく、今日は人狼の気配を感じない。カリスの気配も町に入っているようだが、この宿は選んでいないらしい。それは助かった。恐らく人狼向けの宿でも使うのだろう。
鍵をこちらに渡しながら、宿の主人は小声で告げた。
「気をつけなよ。近頃のアリエーテは物騒だ。どうも、いざこざを好む類の魔物がいるらしい」
「吸血鬼がいるという話は聞いたわ」
「見境のない吸血鬼はいやなもんさ。俺たち魔族も他人事じゃない。今のところ、被害者は人間ばかり。容疑者も人間ばかりだ。しかし、いつ俺たちに矛先が向けられるか分からないからね」
「大変そうね。でも、お生憎様。私たちはそう長く居るつもりもないし、関わる気もないわ」
「そうかい。まあ、幸運を祈っているよ」
前よりもよく喋るようになった気がする。それはともかく、何やら不吉な物言いだ。だが、あまり気にしないでおこう。何を言われようと意識しておくべきことは一つ。余計なことに首を突っ込まないということ。それだけで、危険は薄らぐのだ。
その後、宿の主人と二、三、言葉を交わすとすぐに部屋へと向かった。落ち着いてベッドで眠れると思うと、急に疲れてきたからだ。今回はルーナも一緒だが、今宵はあまり構ってあげられないだろう。
こざっぱりした部屋の中。古い建物だが、客間が埃っぽくないことはとても有り難い。寝台の上に座ってから、ぼんやりと呟いた。
「やっぱり二人で使うには狭いかしら」
「わたしは別に大丈夫だよ。それに、狭いんだったら、こうしたらいいでしょ?」
そう言って、ルーナは子猫の姿になり、ベッドの上で飛び跳ねてから、私にぴったりと体をくっつけてきた。可愛らしいものだ。
小さな背中を撫でてやるとルーナは本物の猫のようにごろごろと喉を鳴らした。そしてベッドの上で横になると、猫なりに不思議そうな表情で私を見つめてきた。
「ねえ、アマリリス。今日のお勉強は?」
「しばらくはお休み。昨日までの復習でもしていなさい」
「でも、書くところないよ?」
「頭の中で書けばいいでしょ?」
「えー?」
ルーナは真面目な方ではない。だが、物覚えはいい方だと思う。そのうちにクロコ語で書かれた本なども読めるだろう。そうなれば、身につく知識もぐっと増えるはずだ。この調子なら、アルカ語の方も期待できる。だからこそ、私はついついルーナに厳しく当たってしまう。
「アリエーテの町を出るまでに、これまでに教えてきた言葉や文を全て完璧に書けるようになっていること。それが出来なかったら、七日間なでなでしてあげないからね」
「えー、そんなのやだ! 寂しい!」
「じゃあ、書くところがなくてもちゃんと復習しなさい」
「はあい」
ルーナは子猫の姿のまま返事をした。やや気が抜けているのが気になるが、そこは大目に見てあげよう。それにしても、可愛いものだ。撫でてあげないというだけで言う事を聞いてくれるのだから。
隷従を持つのは初めてだが、いいものかもしれない。こればかりは、今も何処かで私を警戒しているカリスのお陰と言わざるを得ないだろう。
それにしても、カリスは今頃何処にいるのだろう。
魔物や魔族向けの宿は、宿の主人によって強力な魔術がかけられている。その為、この場所では人狼のための影道も、主人の許可なく通れなくなってしまうらしい。ぜひともその魔術の詳細を聞いてみたいところだが、あいにく、秘伝の技として口外は禁じられていると言われた。ニューラの元でも確かこのような魔術の本はなかったように思う。
それなら仕方ない。神より配られた手札に従って暮らしていくだけだ。
なに、贅沢なんて言うものじゃない。喰うに困るようなことはないのだから、今のままで十分だ。
腹が減っていない私に出来ることと言えば、カリスの居場所を探っておくことだろう。
一度覚えた人狼の気配はそう簡単に忘れたりしないので、人違いなど起こりえない。その魂をこの手で掴み取るまで、私は常に彼女の存在を感じ続けることになる。だが、その日はいつになるだろう。予定ではもうとっくに彼女の味を知っているはずだったのに。
「ねえ、アマリリス」
黙っていると、ルーナが再び口を開いた。
「なあに、ルーナ」
「狩りに行かなくていいの?」
「今日は大丈夫。ただ、アリエーテの町を出るまでに一匹くらいは欲しいかもね」
「その時は、わたしもお手伝いできる?」
「町での狩りは囮なんていらない。その時は、あなたはこの部屋にいなさい」
「この部屋に?」
ルーナは決して広くない部屋を見渡す。何やら不満そうだ。
「あなたが〈金の卵〉だと知られたら困るの。町は色んな人がいる。中には、他人の本質を見抜いてしまう者もいるから」
「そっか。うん、わかった……」
寂しそうに肯かれると罪悪感を覚えてしまう。だが、だからといってここで譲るわけにはいかない。下手な甘やかしは破滅に繋がる。ルーナを守ってやれる自信がない時は、隠した方がいい。
宿の主人はトラブルを最も恐れる。ここで営業出来なくなると困るし、今のご時世だと直接的に生命の危機にもつながりかねない。だからこそ、宿の夫婦はルールを重んじる。客の私物管理にも力を入れていることこそ、この宿の評価だった。
大切なものはここで預かってもらうのが一番だ。私の大切なものはルーナを置いて他にない。後は盗まれたとしても、大した痛手にはならない。
夢魔が隣人であるという点は引っかかるが、そこは仕方がない。
「でも、アマリリス。本当に一人で大丈夫なの?」
子猫の姿のままルーナは再び訊ねてきた。
「大丈夫って? 私が人狼に負けるとでも?」
「人狼じゃないよ。吸血鬼。この町には吸血鬼がいるんでしょ? さっきのおじさんも言っていたじゃない」
「ああ、そのことね。大丈夫よ。彼の邪魔をしなければそれでいいの。どうせ向こうも魔女には興味を持たないはずだし」
「本当に?」
問いかけられ、一瞬だけ答えに詰まった。
本当に、と即答するのが望ましかっただろう。だが、一瞬だけ思い出したことがあったのだ。私と同じ〈赤い花〉の心臓を持つ旧友、桃花。彼女がかつて言っていた話が頭をよぎったのだ。
桃花の叔母にあたる人物は、やはり〈赤い花〉の魔女だったのだが、吸血鬼に攫われてしまったらしい。吸血鬼が好むのは人間の血であり、魔女ではないとされていた。しかし、〈赤い花〉の不思議な香りに引き寄せられて、人間と同じように吸血欲求を刺激されたのだとか。だから、吸血鬼は警戒しなきゃならないというのが桃花の口癖だった。
なに、気にすることはない。私だって長い間、大地をさまよってきたのだ。その間、一度だって吸血鬼に襲われたことはない。だから、平気なはずだ。
それにコックローチだって言っていたじゃないか。彼は今、花嫁に夢中なのだって。
「本当よ。だから、もう寝ましょう」
私はルーナに言った。
「明日も町を見たいでしょう?」
欠伸をこらえながら訊ねてみれば、ルーナの方はいつの間にか半分ほど眠っていた。
「……ん、そうだね」
うつらうつらしながらそう答える。
どうやら、はしゃがせておく作戦は成功したらしい。