5.追放された種族
死霊の言葉に耳を傾けてはいけない。
カンパニュラで育った私はもちろん、リリウムの洗礼を受け、聖霊の宿る者たちならば誰だって一度はそんな言葉を教えられる。死者が現れるとすれば、それは神の思し召しか死霊によるもの。愛と平和を説くのではなく、罪をそそのかす者がいれば、後者であるから気をつけろ。
死霊はなぜ罪を唆すのだろう。この世に災厄が降りかかる時、悪魔が死霊を遣わして人の世を混乱させるのだといわれている。それを見たのはいったい誰なのか。人間ではない。人間の時間は有限のものだ。いつかは死が迎えに来て、天の国へと誘われる。永遠の命がそこでいただけるのかどうかまでは分からないが、少なくとも現世で暮らす者たちとは気軽に触れ合うことができない。
死霊が悪事を働いたことを伝えるものは記録である。学生時代、カンパニュラの図書館で読んだ資料があった。その昔、三聖獣に危害を及ぼし、巫女たちを殺した者がいたという。フラーテルの囁きで人間の女が剣を取ったのだ。稀代の悪女だが、現実に遭ったことなのかどうかまでは分からない。ただ、その時の悲劇と立ち向かった〈赤い花〉の聖女の記録は克明に記録されていた。
思うことはいっぱいあった。だが、もっとも感じたことは、憐れみでも恐怖でもなかった。どうして、死霊は人に罪を唆すのか。私はそこが気になっていた。
隣に立つソロルの真の目的は何か。サファイアを生き返らせ、ミールの敵討ちを手伝うという彼女は、どうしてそこまで尽くしてくれるのか。かつて、人間の女に力を与えたというフラーテルはどういう動機でそんなことをしたのか。
海巫女たちの慰霊碑を見上げながら、ソロルはふと言葉を漏らす。
「人間って、ずいぶんと色々なことを考えるのね」
サファイアそのものの声に身体が震えてしまう。
「あたし達がどうして罪を唆すのか、あなたは気になっているの?」
「……分かるのか?」
「死霊には分かるわ。人の子の心にはいつだって敏感なものなの。大昔からの因縁があたし達を結び付けている。だから、あたし達の狩りの成功率はとても高いの」
平然と言うソロル。人間を獲物としてしか見ていない。人狼と何が違うのだろう。人を襲い、食い殺す卑しさは同じはず。だが、優しそうな笑みはかつて最も身近にいた人のものと全く同じだ。戻ってきたと感じずにはいられない。そんな姿を見せられて、どうして諦めることが出来るだろう。
動揺する私を横目に、ソロルは付け加えた。
「でも、あなた達は単なる獲物じゃない。あたし達の世界を救ってくれるのは、選ばれし人間だけ。あたし達はいつも救われる日を待っているの」
「救われる日?」
「死霊は追放された種族。魔物の中でも忌み嫌われ、存在することすら許されない。でも、あたし達はこう見えて生き物でもある。あなた達の主張する創造主がいるのなら、どうしてあたし達をお創りになったのかしらね。死霊が世界の厄介者ならば、あたし達は何のために生まれてきたの? あたし達にはあたし達で生きる目的がある。もっとあたし達に優しい世界を夢見ている。その希望が、あなたのような人間なのよ」
青い、サファイアの目でソロルは慰霊碑を見上げる。醜く、同時に美しいこの世界を、死霊はどのように見つめているのだろう。
「人間ならば指輪を扱える。人間ならばあたし達を追放した三神獣たちに復讐が出来る。これはリリウム教誕生以前から繰り返される戦いでもある。あなた達が平穏と信じている世界はあたし達の追放の上に成り立った世界でもある。死霊は世界を乱す者。そう言って、昔の人たちはあたし達を冥界に送ってしまった。そこまでしたのに、どうしてそれからも不幸な人が現れるのかしら。不思議でならないわ。あなたのように死霊と分かっていても、死者を求めてしまう人がいるのはどうして? 清く正しい行いを続けているはずなのに、何故、世界には嘆きが溢れているの?」
「あなたは……この世界が間違っていると言いたいのか?」
そっと訊ねてみれば、ソロルはくすりと笑った。
「間違っていないとすれば、あたし達には辛すぎる。死霊の世界はいつだって寂しいものよ。死霊に生まれたのが悪いというのなら、あなた達の望む悪に染まったっていいと考える者だっている。あたしは変えたいだけ。あなた達のようにあたし達も生きることのできる世界を作りたい。その為に、あなたが指輪を嵌めて戦ってくれるのならば、不幸なあなたの為に力を貸すことが出来る。サファイアとの再会も、復讐も」
「ミールを……復活させることも出来るのか?」
恐る恐るではあるが、気になっていたことを訊ねてしまった。死霊は生死に関わる魔物だ。死んだようなものであるミールもまた取り返すことが出来るのか。どうしても気になった。
しかし、ソロルは黙って首を振った。
「ごめんなさい。ヴァシリーサに人形にされた子までは救えない。サファイアは命を奪われ、魂はあたしが抱きしめている。でも、ミールは違うわ。人形にされた子たちは、人形の中に閉じ込められる。あたし達が抱ける魂は、この世を離れたときの肉体を元に再現されるの。ミールの人形を壊して復活させても、戻ってくるのはやっぱり綺麗な人形でしかない」
「壊してから? ということは、ミールは……まだ死んでいないのか」
死んだようなものだと諦めろ。そう言ったのは、チューチェロの酒場で酔いつぶれた私とたまたま同席した旅人だった。人間のふりをした魔人であった彼もまた、ヴァシリーサのことはよく知っていた。
厳密にいえば生きているとは言えない。それでも、ミールの魂はまだ人形の中にある。霧の城の何処かで孤独な魔女に愛でられているのだろうか。だとしたら、人形だとしても、助けてやりたい気持ちが高まった。
「話も出来ず、自分では歩くことも出来ない。あたしなら人形になったミールの気持ちを伝えることが出来るかもしれないけれど、あなたが直接話すことは出来ないわ。……それでも、生きているとあなたは思うの?」
確かに、そう言われてみれば、死んだようなものだと助言してきたあの旅人の言うことは正しい。それでも、ミールの魂は人形の中にある。そう言われて、その人形を諦めることが出来るだろうか。私から未来を奪った卑しい魔女の慰み者になっているとすれば、それは絶対に許せない。
「物言わぬ人形であっても取り返したいというのなら、あたしはあなたの力になれる。ただし、それにはヴァシリーサの元へ行かなければならない。強力な霧の守りを突破しなくてはならないの」
「それで、巫女と……聖獣たちか」
因習を強制的に止めさせる方法でもある。多くの者は私を恨むだろう。だが、その中にはもしかしたら、感謝する者が現れるかもしれない。破壊という行為は凝り固まって変わらなくなってしまったものを変形させる手っ取り早い方法だ。
もちろん、神はお許しにならないだろう。だが、私はいつまで信仰に縛られなくてはならないのだろう。多くの犠牲で成り立ち、少数の者たちが救われるこの世界で、立場を逆転させるだけのことではないのか。
――いや、何を言っているのだ。
思考が偏りかけ、必死に気を取り直した。
絶望だらけの今に比べて、昔はこれでも愛に満ち溢れた世界を見てきたはずだ。生まれ落ちてすぐに家族は失ったが、それでも養父と呼べる尊敬できる人物が助けてくれた。学校では友人にも恵まれ、多くの人の優しさに包まれたことだって覚えている。
そのほとんどが死んでしまってはいるけれど、それでもまだグロリアが何処かにいる。愛よりも剣を取った彼女。戦い続けることで世界を救えるのだとまだ信じているだろうか。
「まだ迷い続けているあなたに、会わせたい人がいるの」
「……会わせたい人?」
ふと横に目をやれば、サファイアの顔でソロルはこちらをじっと見つめていた。吸い込まれそうなその瞳に惑わされてはいけない。そういう忠告は思い出せるが、思い出せるだけだ。どうしても愛している人への渇望が、心に焼き付いて離れない。
そんな私の心も、死霊は見抜いているのだろうか。微笑む彼女は何処までも余裕そうで、うっかりついていきたくなるような確かなものを感じてしまった。
ソロルがすっと手を伸ばす。指をさした先は、聖泉霊園を取り囲む林の中だ。普段はあまり人気のないその場所。示す方向を恐る恐る覗いてみて、息を呑んでしまった。そこには、知っている人物がいたのだ。
「……ジャンヌ?」
間違いない。ジュルネの町で弔った彼女だ。私が最期に見た無残な姿ではない。その少し前に、また会えると信じて疑わなかったときの姿をしている。
「ジャンヌ、生きていたのか……!」
嬉しさのあまり興奮気味に駆け寄りそうになった。だが、ジャンヌの方は林から出てこない。悲しそうな顔でこちらを見つめるばかりだった。母親似の目が私とソロルとを見比べる。サファイアの姿をしたソロルを窺うような表情だ。怖がっているのかと一瞬思ったが、どうも違う。
ソロルは、ジャンヌににっこりと笑いかけた。
「無事にこちらに渡れてよかったわ」
そして青い目で私を見つめてきた。
「ゲネシス、哀しいことだけれど、あの子はジャンヌではない。ジャンヌの魂を受け止め、抱きしめた姉妹。彼女本人ではないの」
「だが……どう見てもジャンヌだ」
少なくとも、最期に見た姿よりは記憶通りの友人だった。ピーターの姿をした死霊に殺されたのだという彼女。本人ではないと聞かされていても、やはり聞きたいことがあった。君は誰に殺されたのか。いったい何があったのか。
「おいで」
サファイアの声でソロルが呼ぶと、ジャンヌの姿をした姉妹が恐る恐るこちらへ歩み寄ってきた。歩き方がまだぎこちない。しかし、姿はアルカ聖戦士のまま。表情も、ふるまいも、何もかも友人にそっくりだ。
「あなたなら分かるはずよ。ジャンヌの最期をこの人に聞かせてあげて」
「……ええ」
声もまた本人そのものだ。
それでも、その正体は死霊。信じるのは危険だ。危険なことだ。そう分かっているはずなのに、耳を傾けてしまう。
「今こそ、お話しましょう。わたしの借りているこの姿の人が、どうして死んでしまったのか」
ジャンヌの声で、ジャンヌにはなかった余所余所しさと共に、彼女は語りだす。




