4.因習
マナンティアル家は不可思議な一族だ。初代海巫女マルの兄妹の子孫であり、マルの生まれ変わりと信じられている歴代の海巫女たちを生み出してきた。彼らの家系はとても特殊で、血脈の有無は竜人一族によって管理されているらしいと聞く。
マナンティアル家に子どもが生まれれば、男女どちらであろうと必ず竜人の聖職者が確認することになっている。巫女が新しく生まれる時代は勿論のこと、無事に生まれ育っている時代や、聖地でリヴァイアサンと共に過ごしている時代であっても、その掟は守られる。
竜人たちはマナンティアル家に生まれた者を一人一人見つめ、将来を占うらしい。初代海巫女であるマルの血を濃く受け継いだとされる者は、マナンティアル家を出ることが許されない。男であれ、女であれ、いつか海巫女を生む可能性の高い者はマルの里に縛られてしまうのだ。
これはマナンティアル家だけの問題ではない。マルの里においてはマナンティアル家の遠縁も同じだ。ティエラの里で繁栄している〈果樹の子馬〉と呼ばれる魔族や、シエロの里にいる〈金の鶏〉と呼ばれる魔物の一族も、巫女が生まれるオリソンテ家やカルマ家を中心として同じように管理されている。
彼らを巡る問題はとても根深い。巫女が生まれる以上、仕方ないという声もある。だが、自由を求めて逃亡する者と、血の流出を理由に排除される者もいると言われ、問題視されることも度々ある。
しかし、巫女の一族と聖獣の子孫の問題は、リリウム教会も立ち入れないところにあった。竜人も、角人も、鳥人も、力がありすぎて誰も逆らえないためだ。それに、巫女の一族以外の大多数は彼らに悪い印象を抱くことが一切ない。迷惑を被られることが全くないからである。
マナンティアル家などに生まれ、自由を求めたために粛清された者の悲劇に同情する声はある。だが、重要な問題として取り扱われる場面はさほど多くないのだ。彼らの悲劇がそれほどまでには有名ではないためでもあるし、それを知る者も所詮は他人事としてしか見ていないためでもある。私もその後者の一人と言えよう。
ただ、生後間もなく受けることになる占いについて、彼らはどう思っているのだろうと疑問に思うことがある。リリウム教会すらも止めることが出来ない因習にしか思えないが、それはそれで幸せなのだろうか。巫女たちは生まれながら覚悟を決めているものなのだと聞かされるが、それは本当なのだろうか。
多くの疑問が浮かぶなか、私はまたしても聖泉霊園を訪れていた。ここで眠っているという巫女たちは、どんな人生を送ったのだろうか。リヴァイアサンに会えなかったことを嘆いただろうか。無事に聖地へと送られた巫女たちはどうだろう。聖竜のもとで、彼女たちは幸せに過ごせたというのだろうか。
マナンティアル家の人々の幸せなんて、私には分からない。だが、逃げ出そうとして殺された者への同情はいつだって変わらないものだった。
「旦那様」
慰霊碑を見つめていると、背後から微風の様な声が聞こえてきた。ソロルではない。振り返る前から、誰なのかは分かった。見てみれば、予想通りの顔がそこにある。クリケットだ。いつの間にか現れていた。
「クリケット、お前か。何の用だ」
「そう突き放すような言い草はどうかおやめください。私は情報屋。求めている人の元に情報を売るのが私の仕事なのですよ」
「欲しい情報なんて何もない。一人で考え、一人で決めるだけだ」
「果たしてそうでしょうか。私の見たところ、旦那様は迷っておいでです。これまでの価値観を変えるなどと言う大きな局面を迎えていらっしゃる。愛しい彼女との約束もないのに、こうして、お墓参りをなさっているのもそのせいでありましょう?」
「だとしたら、なんだ?」
いかに質のいい情報屋であろうと、今の私に役立つ情報などあるものだろうか。そんな疑いの眼差しを向けてみれば、クリケットはにやりと笑った。
「……マナンティアル家の実情を憐れんでいらっしゃるようですね」
クリケットの好奇心に満ちた目がこちらを見つめている。人間離れしたその眼差しはとても不安になる。
「翅人は人間の心を読めるのか?」
答える代わりにそう訊ねてみれば、クリケットは満足そうに笑った。
「いえ、ただの勘です。旦那様とのお付き合いは長い。こうして語り、見つめているうちに、貴方様がどういった御方なのかがだいたいですが分かってくるのです。もしも、気になるようでしたら、私の知るマナンティアル家の人々についてお教えしますよ」
「……何のために」
「単なる噂話です。世間話とも言いますね。有料ではありますが、世間の事をもっとお聞きになった方が、考える材料にもなりましょう」
売れると見込んだものはどうしても売りたいのだろう。それだけ、商売敵に悩んでいるのだろうか。どうでもいい。それに、どうしても金がないわけでもない。退屈しのぎになるのならば、何の目的もなくクリケットの語る噂話とやらに耳を傾けるのも悪くないかもしれない。
「幾らだ?」
訊ねてみれば、クリケットは嬉しそうに指をあげた。ディエンテ・デ・レオンにおける単位を考え、これまでの情報料のことを考えると破格の安値だ。
「分かった」
短く承諾して相応の硬貨を投げると、クリケットはきれいに受け取ってお辞儀をしてきた。見た目だけならば紳士のようだが、表情に浮かび上がる胡散臭さはどうしても消えないものだ。だがそれが翅人の普通なのかもしれない。
「有難うございます、旦那様。とても助かります。では、語りましょう。〈聖泉一族の悩み〉について」
クリケットは慰霊碑を見上げ、そして澄んだ声で語りだす。
「恵みの海、純潔なる泉、清らかな川。古くより守られてきた彼らの血脈はそういった言葉で表現されております。しかし、どんなに周囲が奉ろうとも、生まれてくる人々は人間なのです。古くより続く仕来りによって、尊い血を外に持ち出すは大罪。駆け落ちしようとした令嬢が恋人共々厳格な父親に首を刎ねられる逸話は今でもマナンティアル家の中でよく語られるそうですよ。しかし、悲劇の令嬢への同情を口にするのははばかれる。彼らによれば、尊い血を濃く引いていながら、マルの里を捨てようとした罪はとても重い。新しい海巫女がマルの里以外で生まれてしまったら大変だ。そう信じ、彼らは自分たちを土地に縛り付けているのです」
部外者からすれば哀れなものだ。自由に生きる事は許されず、望む道を歩むことも出来ない。生まれてすぐにそう決められてしまうなんて、可哀想だ。そう思ってしまうものだ。もちろん、巫女の一族だけが特別なのではないだろう。王侯貴族の中にはそういう者もいる。私のように孤独で、今日をどう生きようがある程度は自由だという者の方が珍しいのかもしれない。
それでも、歪みは感じた。多くの人の平穏のために犠牲になっている者がいる。尊ばれながら自由を制限される人々と、その犠牲の上に成り立つ平和な世界。かつてリリウム教会が止めさせようとした理由も分かる。だが、止めさせるのは叶わなかった。多くの人の希望を集めている信仰のためでもある。
「巫女たちも、自由を求めたことはあるのだろうか」
「さあ、それは分かりません。巫女は生まれながらにして特別であると皆が信じております。かつてはこの習わしを忌み嫌ったリリウム教会の関係者たちだって、代を経てすっかり信じる者ばかりになっておりますからね。巫女たちが口にするのは、いつだっていずれ再会する神獣への愛慕ばかり。……ただ、私は見聞きしてしまいました。今生の海巫女であるブランカ様のご家族の嘆きを」
「ブランカ様の家族?」
ソロルが欲しがっている海巫女ブランカ。非常に暴力的な欲望を向けられていることを彼女は自覚しているという。怯えながらもリヴァイアサンの元へ向かうのが自分の定めと理解していると聞くが、その家族についてはあまり聞いたことがない。
「ブランカ様がお生まれになった時、ほぼ同時刻に生まれたマナンティアル家の嬰児と見比べて、現在の花嫁守りであらせられる竜人戦士ウィル様が海巫女マル様の生まれ変わりだと見抜いたそうです。その際、ご両親の顔色はとても悪かったのだと。産後間もなくの御母上はもちろんですが、御父上も、巫女の再来に周囲が浮かれる中、悲しそうな眼をしていたと聞いております。巫女のご両親というものはいつの時代も気丈であらせられるものです。しかし、それは外面だけ。本当は悲しいのです。悲しいけれど、そうせざるを得ない。それがマナンティアル家に生まれた者の宿命なのだと納得するしかなかったのです」
「それは……哀れだ」
だが、別れを惜しんでくれる家族がいるだけでマシだ。そう思うのは、私が孤独だからだろう。育ての親も、愛した妻も、見守るべき義弟も、皆いなくなってしまった。そんな私にとって、多くの者たちから愛されて育ち、別れを告げる相手のいる巫女たちの人生はまばゆいほどに輝かしく見えるものだった。
「ブランカ様にまつわる嘆きは主に御母上のものだそうです。せっかく健康に生まれた我が子は巫女として尊い役目を担って旅立っていく。代わりに彼女の兄弟姉妹が支えているようですが、何処かでブランカ様の御話をお聞きになるたびに、辛い気持ちが起こってしまうようなのです。巫女はそれだけ重い役割を担います。常に命を狙われ、聖竜の伴侶として振舞わなければならない。聖海は非常に遠く、海巫女という立場上、生家との繋がりは絶たれてしまう。母として……それが悲しいようですね」
――生みの母親の嘆き、か。
私の母は、どういう人物だっただろう。薄っすらと思い出せる両親の姿は、笑っていた気がする。
「巫女たちのご両親――主に生みの父母による凶行記録というものもあります。とくに巫女の母親という立場は我々が思うよりも複雑かつ深刻なもので、我が子が巫女であると知るやいなや、別人のようになってしまう場合もあったそうです。ブランカ様の御母上は比較的安定してはおりますが、この歴史はそうした父母の悲しみの上に成り立っているのですよ」
巫女として生まれた以上、聖獣との再会こそが幸福とされて過ごす。聖泉霊園のこの慰霊碑だって、そのために創られたものだ。
だが、そこまでしてこの因習を守るべきなのか。私にはその大切さがよく分からない。多くの人の平穏のためにというが、この儀式は本当に平穏なる世界の役に立っているのか。かつては生贄として命を捧げられてきた巫女と聖獣たちの血塗られた歴史。その犠牲の上に成り立っているのが、あらゆる差別と偏見に苦しむ平穏の世界だというのだろうか。
「クリケット、お前の意見を聞きたい」
「……意見、ですか」
珍しく怪訝そうにクリケットはこちらを窺ってきた。そんな翅人に対し、私は肯く。
「私がもしも何千年もの間、当然のように繰り返されてきた風習を一瞬にして廃れさせたとして、お前はどう思う?」
「どう、っていいますと?」
「喜ばしいことなのか、不吉な事なのか。巫女も生まれず聖獣もいない世の中というものは、お前の目にどのように映る?」
「……それは、かの愛しい彼女のご依頼なのでしょうか」
「質問しているのはこっちだ、クリケット」
少々苛立ち気味にそう言うと、クリケットは静かに目を細めた。
「それは失礼を。では、お答えしましょう。私は静かに世の中を見つめるだけの翅人情報屋です。目の前で起こることをありのままに受け入れ、その情報を求めている人々に売りに行く。それだけです」
「大きな混乱で聖獣がいなくなったとしても、お前は構わないということか」
「聖獣の守護も、巫女の祈りも、我々翅人の世界にはあまり意味を成しておりません。我々の世界は天敵だらけです。この世は残酷なものです。無事に生まれ落ち、育っていったとしても、翅人の半数以上は大人になれない。この厳しい環境は、我々の生まれのせいでしょうか。世の中に生きる種族のほとんどは、リリウム教およびそれに類似する信仰の守護の及ばぬ生活をしております。この身分で貴方様の世界に飛び込んだとしても、どうせ差別や偏見で使い捨てられるだけ。人々の生活を裏から支える人狼や吸血鬼の戦士たちの末路を見てきたからこそ、そう実感しております」
「我々の信仰と活動が、お前たち魔の者を救ってはいないということか」
訊ねてみたものの、クリケットの言っている意味もよく分かってはいた。リリウム教はもともと一部の人間のためのものだった。三聖獣の信仰も、特定の種族のためのものだった。多くの人を愛で救いたいと本気で願う者はたくさんいるだろう。しかし、願うだけではだめだ。両手を広げても、手の届かない場所で苦しむ者はたくさんいる。
サファイアだって、その一人だった。
私は何のために戦ってきたのだろう。生前のサファイアを苦しめる人々のためなのか。ずる賢くなければ上手く生きていけないこの世界から脱落した者たちは、単なる敗者だったのだろうか。
「……あの人ならば、この世界を作り変えることも出来るのだろうか」
そう呟いたとき、ふと聖泉霊園の端より視線を感じた。カリスかと思って振り返ったが、そこにいたのは、いかなる邪魔者でもなかった。
サファイア。……いや、ソロルだ。
彼女の姿を見て、クリケットが丁寧に一礼をした。
「それでは、私はこの辺でお暇しましょう。良き選択ができますよう」
まともに返答するより先に、クリケットの姿は消えてしまった。沈黙の霊園に取り残されるのは、生者である私と死者の姿をした彼女だけだった。




