3.魔物の説教
再び彼女の気配を感じることになったのは、宿に戻ってすぐのことだった。不自然な影の集まり。ヴィア・ラッテア大渓谷からここまでの間、その禍々しい雰囲気に親しみすら感じた瞬間はあった。
麦色の髪の美しい女性。もう来てくれないと思っていたのに、彼女は現れた。こちらを軽蔑するように見つめている。
「カリス……」
寝台に座ったまま、私は先に声をかけた。待っているのが苦痛だったからかもしれない。ともかく、カリスの視線はそれだけ痛いものだった。しかし、別に悪いと思っていないのも事実だ。カリスに出来ることは全て終わった。後は私だけの問題だ。今更、善人ぶるつもりもない。身勝手になれるところまでなってやろう。その方が私も楽だし、カリスも楽だろうから。
「せっかく話をつけてやったのに、セルピエンテ教会にはいかなかったのか?」
訊ねてみるも、カリスの表情は変わらない。動じないまま、彼女は答えた。
「行ったよ。ベロニカにも会った。代理と聞いていたのに、結局、人狼戦士にも会う羽目になった。いけ好かない野郎だ。アマリリスを捕まえるときに身体を張ってくれたのは感謝しているが、同じ人狼だからと馴れ馴れしくて苛々した」
「……そうか。アマリリスの方も計画は進んだのだな。……無事に保護できたか?」
「ああ、おかげさまでね。さっそく揶揄ってやったのだが、どうも様子がおかしい。お前の言っていた指輪は、確かなもののようだ。……お前を誘惑している“あの女”には、さぞ頭の痛い展開だろう」
緑の双眸が突き刺すようにこちらを睨みつける。
「あの女の狙いを知らないとは言わせない。若き海巫女様はすっかり怯えていらっしゃる。可哀想に、毎晩のように悪夢を見ているらしいぞ。何もかも、あの死霊女のせいだ。だが、忘れるな。向こうは念願の〈赤い花〉を手に入れた。指輪もすでに嵌めさせて、奴も魔女ではなくなった。殺されたルーカスやエリーゼのことを想えば、聖女扱いは胸糞悪いが、この状況ならば仕方ない。海巫女様のためだ」
リリウム教会に頼りながら本心では敵視している様子のカリスだが、どうやら海巫女の扱いは違うらしい。三聖獣や巫女たちへの信仰は、もともと異教徒の祭りを取り込んだものである。だから、洗礼を受けているかどうかに関わらず、聖獣と巫女を中心とした一連の信仰を共有する者は多いと聞いている。カリスもそうであるようだ。ならば、問題なくここで暮らすことだってできるだろう。
だが、ソロルの願いを受け入れれば、カリスの暮らしにも影響する。せっかく与えてやった居場所も私がこの手で壊すことになるだろう。
そうなれば、彼女は今度こそ私を恨んでくれるだろうか。
黙っていると、カリスは荒々しい声を上げた。
「聞いているのか、ゲネシス! 奴と何を話したか教えろ。まさかとは思うが、教会の情報を奴に話していないだろうな?」
迫ってくる人狼女にこちらも一瞥をくれてやる。
人狼は嫌いだが、カリスのことは心から嫌いにはなれないのだという自覚もある。もっとも、ジャンヌを殺したのではないかという疑問が常に頭の片隅にはあるのだが、そうに違いないという気持ちとそうであって欲しくないという気持ちがぶつかり合っている。
だから、カリスと向き合うのは辛い。
「何とか言え。ソロルはお前に何を求めた? 奴は何を企んでいるんだ」
「もう帰ってくれ」
ようやく言葉をかけることが出来た。
あの話を聞いていないのならば幸い。まさか言えるはずもない。ソロルの恐ろしい企みを聞かされたなんて、その上で、迷っているなんて、カリスには言えなかった。
もしも、私が何もかも満ち足りた聖戦士であったならば、こんなに迷っていなかっただろう。あのソロルがサファイアの姿をしていなければ。サファイアが今もフリューゲルで静かに暮らしていてくれたら。
だが、あのソロルはどんな姿をしている? 何を私に提案してきた?
諦めるしかなかった未来の可能性。心より愛した人の姿で囁く甘い言葉は、冷静ならば胡散臭いと切り捨てられただろうけれど、それでももしかしたら本当に、という期待までは捨てられない。
私たちは死霊の事を何も知らない。ただ盲目的に彼らが神の意に沿わぬ忌むべき存在であり、人々の敵であるという言葉を信じてきただけだ。死霊が何を目的として生まれ、どうして存在し続けているのか、どうして死者の姿を借りているのかという理由も、彼らから聞いたわけではないのだ。
リリウム教会の継承してきた教えは、本当に正しいことなのだろうか。時代と共に変化する考えもある。かつては洗礼を受けていないことは罪であった。少し前の時代まで、背教や棄教は死罪であった。記録と老人の記憶にのみ残るその頃の空気はもはや過去の遺物としか言えないが、それでも、ハダスの教えを守り続けたサファイアとミールは確かに差別され続けたのだ。
いったい、いつまで続くのだろう。そんな疑問が、ソロルの差し出した指輪の姿を思い出させる。
「ゲネシス」
カリスの悲痛な声がこちらに向けられる。
「分かっているのか? 死霊に味方しては、お前が不幸になる。ジャンヌを殺したのは誰だったか覚えているだろう?」
フラーテル。死霊の男性版だ。ピーターの姿をしていたと言っていた。だが、私はその姿を見ていない。カリスから聞いただけだ。
「ソロルもフラーテルも皆、同じようなものだ。故人の性別が違っただけ。どちらも獲物となる者を騙し、惑わし、欲望のままに存在するだけ。……ゲネシス、あのソロルはマルの里の人々に危害を加えているらしい。すでに食い殺されている者たちがいる。お前も聞いたのではないか? サファイアが恋しいのは仕方ない。だが、そのサファイアの姿で奴は罪を犯しているのだぞ?」
そこに怒れというわけだ。だが、怒りよりも先に、どうしても期待が生まれてしまう。心に余裕がないのだろうか。ソロルの犠牲になった者たちへの憐れみよりも先に、自分の願望を優先して考えてしまう。
サファイアと共に生きたい。ミールの仇を討ちたい。ヴァシリーサを討伐してしまいたい。新たな人形が生まれぬように。そして、世界を変えてしまうのだ。もう二度と、誰も悲しまない理想の世界を作るために。
「ゲネシス、聞いているのか? お前は、罪なき人々を救うために聖剣を掲げていたのだろう? 私に人食いをさせぬように此処まで連れてきてくれたじゃないか……」
「――そうだな」
短く答えてやれば、カリスの表情が変わる。縋りつくように、彼女は訴えてきた。
「アマリリスを無事に捕らえられたのだって、お前の協力があったからだ。奴は無事に聖女になれた。お前のお陰で教会は健康的な〈赤い花〉を手に入れたのだ。これで、あのソロルを牽制できる。何を企んでいようと、上手くいくはずがない。お前のお陰だ。……それなのに、お前はあのソロルの話を聞くのか?」
「話を聞くぐらいなら、ね。それに、〈赤い花〉の保護は任務の一つだっただけだ。お前の保護も、だ」
真っすぐ言い放てば、カリスは俯いた。そして、小声で「分かっているさ」と呟く。
どうして、罪悪感を覚えるのだろう。カリスとは共に歩めないと自覚したはずなのに、傷つけることも怖かった。自分の身勝手さゆえだろうか。
「この先の事は、運命とやらに身を委ねるつもりだ。お前も自分の幸せだけを考えるといい。人狼らしく、身勝手に生きろ。おれがお前に期待するのは、それだけだ」
その言葉にカリスは顔を上げる。
また、あの目だ。私を憐れむようなあの目。ヴィア・ラッテア大渓谷で初めて出会った頃にはしなかった。まるで人を食い殺した過去なんてないかのような、忌々しいほどに慈愛に満ちた目で、こちらを見つめてくる。
「……お前は迷っている。ジャンヌが心配していたんだ。大切な人を失った痛みで苦しんでいるのだと。サファイアのことだろう? でも、だからと言って、死霊とは関わってはいけない。話を聞くだけというのが怖いんだ。今ならまだ引き返すことが出来る。本当のお前は、聖剣を人々のために役立てるアルカ聖戦士のはずだ。お前は私を保護し、アマリリスを捕らえる貢献をした。教会はお前の訪問を歓迎するだろう。だから――」
迷っている。確かにそうだ。
カリスの言うことも分かる。私はまともではない。まともでない時の判断は間違いを犯しやすい。しかし、本当の私とは何だろう。サファイアと共に幸せに暮らしていた日々を思い出す。サファイアが死んだあとは、ミールを立派な青年にすることが生き甲斐だと信じていた。だが、どちらの未来も砕け散った。後に残るは抜け殻だけ。ミールまで奪われたあの日、本来の私は死んでしまったのだろうか。そう思うくらい、今の私は空っぽだった。
「もう行ってくれ。おれに構うんじゃない。教会に話がついたのなら、お前の居場所はここじゃない」
そう言うと、カリスは唸りつつ答えた。
「ゲネシス、お前も一緒だ。お前の居場所はあの女の隣じゃない。こんな宿、引き払ってしまえ。セルピエンテ教会に行こう。アルカ聖戦士一人分の客室ぐらい、カルロス隊長が用意してくれるさ」
「人狼の隊長か、同族同士仲良くできそうで安心したよ。だから、もう行ってくれ。おれに構うな。別に通報したっていいんだ。お前を恨んだりはしない」
「……愚かな奴。私の気持ちを何も分かってくれないのだな。もういい、願い通り今日は帰ってやろう。だが、明日も来る。明日分からなければ、明後日もだ。ぎりぎりまで黙っていてやる。お前が何事もなく戻れるように、私が上手く立ち回ってやろう。いいか、あのソロルは教会の敵なんだ。そこは忘れないでくれ」
カリスはひとり焦ったように訴え、そして小さな声で付け加えた。
「お前には、自分を大事にしてほしい。自分の未来を諦めないで欲しい。私の願いは……ただ、それだけなんだ」
その言葉が、心に突き刺さる。カリスのいたはずの場所へと視線をやったが、すでに帰った後のようだった。
「自分を大事にしてほしい、か」
反芻すれば、何故だか虚しい気持ちになった。
戻れるようにサポートしようしてくれている。
その好意も、よく分かった。
わずかに残る理性は、カリスの助言に耳を傾けるように言うだろう。しかし、それは大きな諦めを決心するということ。ソロルは何を知っているのだろう。この世の裏側。禁断の秘術。忘れなくてはならない輝かしい過去を取り戻すための方法。
愛しいあの人の笑みが見られる。今は偽物かもしれないが、本物になる方法がある。祈っても、願っても、助けてくれない神に代わって悪を滅ぼす力を手にできる。ヴァシリーサを倒せば、ミールのような悲劇は防げる。家族を奪われて嘆く者はいなくなる。この手で、世界を変えられる。
「ばかばかしい……」
とんだ夢物語だ。死霊に揶揄われているだけかもしれない。
それでも、端から疑っていいのだろうか。もしも、本当だとしたら、失った世界を取り戻すことだって……。
――ゆっくり考えましょう。
ソロルの甘い囁きが、頭の中で何度も木霊する。




