2.悪魔の誘い
リヴァイアサンと再会を果たせなかった海巫女たちの慰霊碑に、そっと触れる美しい女性が一人。
濃褐色の髪は地味な印象だが、それだけに白い肌と青い目が引き立つ。生前のサファイアは静かながらはっきりとした美しさを身にまとった女性だった。
そして、今、私の目の前で慰霊碑に触れる彼女も同じだ。その正体がソロルだといくら聞かされても、サファイアを呼んでしまいそうになる。
「あなたがあたしを選んでくれて、きっとサファイアも喜んでいるわ」
ソロルはそう言って、こちらを振り返る。怪しげな笑みも、神秘的に見えた。どんなに悪いことを企んでいようとも、忘れかけていた恋心が執着となって、何もかも許してしまいそうになるから恐ろしい。
「冥界で見つけたサファイアの魂は、生きているあなたに会いたがっていた。突然の別れに納得がいかなかったのでしょう。だから、あたしが此処まで連れてきてあげたの。ゲネシス、あなたとまた一緒に暮らしたいのですって。でもね、今のままでは、あたしはサファイアになり切れない」
「どうしたらいい?」
「特別なものが必要なの。特別な食材を口にすれば、あたしはただの死霊ではなくなる。そうすれば、あなた達を再会させてあげられるわ」
状況が違えば、胡散臭い話だと鼻で笑えただろう。
本当だとしても、耳を傾けるなというのが教会の掟であり、私は人々の生活を守るアルカ聖戦士だ。しかし、長く誇りを持っていたはずなのに、心は揺らいでいる。
「特別な食材というのは?」
気づけば私は深く訊ねていた。
ソロルは微笑む。サファイアと同じ双眸がやけに青く輝いて見えた。
「海巫女の血と肉が必要なの」
予想しなかった答えを愛する人の姿で告げられ、怯んでしまった。
しかし、ソロルは気にせずに続ける。
「海巫女だけじゃない。空巫女も、地巫女も、いただかなくてはならないの。古来より神々に捧げられてきた生贄たちの血と肉を食べれば、あたしはさらなる力を手に入れて、ただの死霊じゃなくなるの。死者と完全に同化することができれば、あたしは本物のサファイアになれる。サファイアの意識とあたしが一緒になって、また生きていた頃のように大地を踏みしめ、あなたと触れ合うこともできるわ」
実に呪われた手段だ。そう思った。
死霊が古来より三聖獣やその花嫁と対立してきたことはカンパニュラでも学んだことはあった。いずれも三聖獣側の立場からの記録だ。
こうして、死霊からその陰謀を聞かされたのは初めてのことだった。それも、仲間としてというのはかつてないことである。
何を言われても動じないと覚悟していたはずなのに、戸惑いは隠せなかった。罪のない巫女たちに危害を加えようとしている。サファイアの姿で。
「驚いているわね。当然よね。軽蔑したとしてもおかしくはないわ。あなたはアルカ聖戦士。罪なき巫女たちを危険にさらすなんてこと、したくないのでしょう?」
慰霊碑を撫でながら、ソロルは嗤う。
「でもね、知って欲しいの。あたしはただ力が欲しくて巫女たちを食い殺したいわけじゃない。食べることもまた彼女たちへの救済の一つ。あたし達は世界を変えてしまいたいの」
そして、まるで子供が悪戯を計画しているかのように笑いだす。
「巫女たちは古来より見えない檻の中で大切に育てられている。リリウム教の風が吹くまでは、神獣たちの生贄として殺されてきた人たち。それがなくなった今であっても、彼女たちを縛るものは多い。あなた達の神様とやらは、多くのものを見捨てていらっしゃる。あたし達、死霊という種族も含めて」
でも、と、ソロルは声を低くした。
「あたしは違う。彼女らの意識と共に、もっと自由で開放的な世界を創ることができる。これは世迷言などではないわ。あなた達が思っているほど死霊は弱い存在ではないし、あたしにはそれが出来る。ただちょっと支えが必要なだけなの。あなたが支えてくれると約束してくれれば、そして、協力してくれれば、あたしは世界を変えてみせる」
自信のある言葉だった。勢いに飲まれてしまいそうだ。誘惑と、威圧と、懇願と、欲望。そういったものに挟まれながら、私はどうにかわずかに残る良心と、平常心とを保つしかなかった。
「そんなことが可能だとして……許されるわけがない」
「誰に許されなくとも、あたしは動じない。あなたの協力さえあれば、あたしを止められるのは……禍々しい遺物の力を手に入れた〈赤い花〉くらいでしょうね」
冗談でも何でもない。ソロルは本気で言っている。目の輝きにはその未来が見えているらしい。狂っている、そう言いたいところだが、それでも切り捨てることはできなかった。
これがただの人間ならば、狂人と判断できただろう。しかし、サファイアの姿をしたこの人は、死霊だ。人間ではなく、人間に寄り添う種族でもない。冥界という不思議な場所から現れ、死者の幻影を見せる不可思議な存在。
だから私は、話を聞くことを止められなかった。
「そうは言っても、巫女は厳重に守られているじゃないか」
「攫うのは簡単よ。愛らしい海巫女はまだ邪竜と再会していないもの」
「……海巫女はともかく、空巫女や地巫女は違うじゃないか。それぞれの聖獣に守られている。聖獣の子孫たちも戦士として多く配属されている。あの場で悪行が働けるのは、頭のおかしい奴だけだ」
「そうね。あちらは少し厳しいわ。ただ突撃するだけでは、私はまた冥界に戻される。だから、あたしはあなたに期待しているの」
「期待? ただの無力な人間に過ぎないこの私に何を期待しているんだ?」
聞くべきではないと分かっていても、聞かずにはいられなかった。このソロルが、サファイアの蘇りを可能とするかもしれないと少しでも思うと、理性が何処かに飛んでいってしまいそうだった。
「あなたがその聖剣をあたしのために使うという選択」
ソロルは淡々と言った。
「あなたには、ジズ、ベヒモス、そして、リヴァイアサンを殺してほしい」
それは、とんでもない依頼だった。普通ならば、まともに聞いたりしないだろう。ただの人間には不可能に決まっている。こんなばかばかしい話をこれ以上聞いても、時間の無駄でしかないはずだ。
……だが、サファイアの眼差しが、私の心を揺さぶってくる。生きていた頃と同じ表情だ。その中身が違うと他ならぬ本人に聞かされているはずなのに、どうしても本人だと思ってしまうのだ。だから、相手は死霊のはずなのに、まるで不謹慎な空想話を楽しむかのように会話を続けてしまった。
「冗談を言わないで欲しい。アルカ聖戦士は万能ではない。ただの人間に……その願いが叶えられると思っているのか。あなたは死霊だから、きっと分からないのだろう。この世で人間という生き物は、あなた達のような力はないんだ」
すると、ソロルは微笑みながら首を振った。
「いいえ、あたしは知っているわ。あなたたち人間は、それほど無力な存在でもない。多くの人間の死を見つめてきたもの。あたし達には分かるの。覚悟と本心次第のお話よ」
やけに確信をもってそう言うので、不思議だった。
「……だいたい、どうやって三聖獣を相手にするのだ。彼らの姿は見えない。彼らの存在を感じることが出来るのは、彼らの子孫たちと巫女だけだと聞いているのだが」
だからこそ、三聖獣たちの存在は疑問視すらされる。本当にいるのか。いると信じられているだけなのではないか。巫女や子孫たちにしか感じられない存在に、それでも多くの人がすがろうとするのは滑稽だと言われることだってある。
だが、ソロルは違った。彼女は初めから、存在する聖獣たちについて語っている。
「これを使うの」
そう言ってソロルは手のひらを広げる。そこには一つの指輪があった。目立つような装飾は何もないはずなのに、奇妙なまでに存在感のある指輪だ。心惹かれる思いと同時に、嫌悪感や拒否感といった正反対の印象も抱いてしまう。禍々しくも見えたし、神秘的にも見えた。そんな指輪だった。
「これは?」
「これは古来の指輪。〈赤い花〉の聖女の指輪よりもずっと前に作られたもの。あなた達が三聖獣と呼ぶ彼らに神としての威厳があった時代のものよ」
遺物だ。聖遺物と呼ぶべきか、前時代の遺産と呼ぶべきか。三聖獣たちが神々出会った頃の神具はだいたいが処分されているらしい。かつての教会の指導であり、古来の文化をリリウム教化して三聖獣や巫女にまつわる信仰を正当化させるための手段でもあった。
だから、こういったものは、存在しないはずなのに。
「この指輪を嵌めた者は、神獣たちと交流することが出来る。そして、三神獣たちの生き血を浴びることで大いなる力を自分のモノにできる。選ばれし者の指輪は、世の指導者を生み出すためのものよ」
「どうしてそんなものをあなたが……?」
「冥界にはね、いろんな思念が迷い込んでくるの。これもその一つ。大昔に、我々兄弟姉妹のうちの一人がリリウムの世界に迫害された哀れな人間と親しくなった。その人がこの指輪を授けてくれたの。この指輪は、暗く淀んだ死の世界でこっそりと生きていくしかないあたし達に、平穏な世界を見せてくれる希望でもある。以降、あたし達の共有財産として大事にされてきたの」
そんな危険なものが、いったい何時から彼らは持っていたのか。
「けれど、この指輪はあたし達には嵌められなかった。生きている人間でなければ使えない。死霊は嵌めることを許されていない。だから、あたし達はいつも待望しているの。指輪を受け取るに相応しい勇者の出現を」
そっと語るソロルは、切なげに見えた。
「……あたしには分かる。深い悲しみを抱いたあなたこそ、この指輪に相応しい」
そう言って、私に指輪を差し出してきた。
受け取れるわけがなかった。
勇者だなんて笑わせる。
仮にこれが本物だとしても、三聖獣の血を浴びるなんて、そんな野蛮なことが出来るわけがない。私はアルカ聖戦士なのだ。正しき養父のもとで育ち、正しくあろうとしてきた。この指輪が使われていた時代があったとしよう。だとしても、現代ではあり得ない。時代錯誤の蛮行などに、手を染めてはいけない。
――受け取っては、いけない。
当たり前のはずなのに、どうしてこんなにも迷っているのだろう。
「大いなる力があれば、世界はあなたの思うまま。そして、あたしは巫女たちの力を手にして、本物のサファイアとしてあなたに寄り添える。あなたはただの人間じゃなくなるでしょう。あたし達が協力をすれば、人形になった哀れな少年の無念も晴らすことが出来るはずよ」
「ミールのことか」
復讐という言葉は何度も頭をよぎった。
それでも、ヴァシリーサの隠れる霧の城は人の力はもちろん、強力な魔女や魔人であってもたどり着けないと言われている。魔物もそうらしい。ヴァシリーサに匹敵する力を持つ者なんていないだろう。
しかし、それで納得できるだろうか。ミールを魔術で攫い、勝ち誇ったように笑うヴァシリーサの姿を思い出す。愛らしいとさえ言われる顔立ちも、憎しみが勝れば何よりも醜く感じてしまうものだ。
怒りはいつだって、私の心の底に燻っていた。
「目つきが変わったわね」
ソロルが青い目でにこりと笑う。
「そんなに恨んでいるのね。無理もないわ。チューチェロでの晩の事を覚えている? なすすべもなく二人で寄るはずだった自宅に一人で寂しく戻ったあなたの寂しそうな姿、私はずっと影から見守ってきたのよ」
――ああ、覚えている。あの虚しい晩のことは。
ミールをイグニスまで連れていくために、まずはチューチェロに構えていた自宅を目指していた。ヴァシリーサに襲われたのは、その途中だった。
本当ならば、チューチェロの自宅でささやかな晩御飯を食べながら、カンパニュラでの日々について語るはずだったあの夜。一人で自宅の扉を開け、一人で用意し、見つめた夕食の寂しさ。
――ああ、忘れることが出来ない。
信じて疑わなかった未来を突如奪われ、霧の森の中で呆然としたあの日の事。ヴァシリーサがいなくなってから、途方に暮れているところへ、愛しいこの人は現れた。
ミールとの別れとヴァシリーサの高笑い、そしてサファイアとの再会が、私の精神を一気に壊していったのだ。そして、止めとなったのがあのチューチェロの家での寂しい夜だ。
ディエンテ・デ・レオンに行こう。約束の場所で、再会しよう。
怒りと寂しさと恋しさ。自覚できるのはそんな感情だった。
「復讐には……その指輪が必要なのか?」
「ヴァシリーサはとても強力な魔女よ。かつては女神ともいわれていた方だもの。時代が女神を必要としなくなり、ただの魔女になってしまったけれどね。あの濃霧の守りを破るためには、とても強い力が必要となる」
「聖獣たちの力を奪ってまで、か」
――恨みは忘れよう。
仲間の死に落ち込む麦色の狼の姿が頭をよぎった。共に生きることを拒絶したはずなのに、どういうわけだろう。代償が大きすぎる。そのための不安だろうか。少しだけ、あの傲慢な雌狼の存在が恋しく感じた。我ながら身勝手なものだ。しかし、もうきっと来てくれないだろう。私はソロルを選んでしまったのだから。
それでも、迷う時間は必要だ。ソロルの勢いにおされて、指輪を差し出してくるその手に今にも触れてしまいそうで恐ろしい。まだ、恐ろしいと思えるだけ、私は踏みとどまれていた。
「どうするの? 指輪を受け取るのか、受け取らないのか」
「……考えさせてくれ。あまりに非現実的な誘いだ。理解も覚悟も追い付かない」
どうにか答えることが出来た。
「それに、あなたの言うことが本当だとしても、私はその指輪の相応しい人間ではない。それほどまでに世界に絶望してはいない」
「本当に、そうかしら?」
ソロルは首をかしげる。愛らしい仕草もまた、サファイアのことを思い出して辛くなる。目を背け、慰霊碑を見上げる私にソロルは容赦なく囁きかけてくる。
「あなたが守っている世界は、本当に正しい世界なの? サファイアやミールに辛く当たってきたのは誰? 神獣たちの力を使えば、すべてを変えることが出来る。多くの悲鳴はあがるでしょう。それでも、きっと救われる人もいるわ。あなただってその一人のはず。本当になりたくてアルカ聖戦士になったの? そう生まれてしまったからでしょう? この指輪は、あなたの願いを叶えてくれるものよ」
悪魔の誘いだということを忘れてはならない。そう自分に言い聞かせなければ、忘れてしまいそうな心境だった。
だが、いっそのこと忘れてもいいのではないか。
そんな気持ちがふと浮かんだことにも気づいた。
どんなに規律と信仰を守っていったところで、サファイアもミールも帰ってこない。しかし、この化け物はそんな常識を歪ませることが出来るのだと主張する。そこに賭けてみてもいいのではないか。指輪を受け取るだけで、全ての悩みから解放されるのならば、迷いなど捨ててこれまでの世界を裏切ったとしてもいいのではないか。
サファイアの身体で触れてくるソロルの感触に惑わされながら、私は迷い続ける自分自身をふと見つめた。
絶望していないと思っていた。しかし、絶望しているのかもしれない。信頼できる友人もいたし、笑って過ごせた日々もあった。それでも、これまでに失ったものも多い。
愛馬ヒステリアと共に駆け抜けたこの世界は、私にとって望ましい世界だっただろうか。神を信じ、人々を支え、アルカ聖戦士として奮闘してきたはずなのに、どうしても思い出すのはサファイアが死んだ日に聞いてしまったあの言葉だ。
――異教徒女でよかった。
あの発言をしたのが誰だったのか、今となっては分からない。だが、あの言葉は確実に凶器となった。これまでの鬱憤や疑問の引き金となるには十分な傷が出来たのも、あの時かもしれない。
「それでも、すぐには決められない」
しかし、私はそう答えた。
「どんなに腐った世界でも、サファイアは人々を愛していたはずなんだ」
サファイアは、ミールは、どんなに不当な扱いを受けても、フリューゲルを嫌いにはならなかった。もしも此処で指輪を受け取れば、変わるのは三聖獣と巫女たち、そして私たちだけだろうか。この裏切りによって流れる血はどれほどのものになる。ジャンヌやピーター、そしてまだ生きているはずのグロリアと誓い合った幼い日々の記憶が、脳裏に引っかかり、決断を鈍らせていた。
「そうね。急には決めるなんて無理よね。……ゆっくり考えましょうか」
ソロルはにこりと笑う。その柔らかな笑みも、記憶の片隅に追いやられてしまっていたサファイアのものと何も変わらなかった。中身が違うだなんてどうして信じられるだろう。しかし、本人がそう主張するのだから仕方ない。
「覚えていて、ゲネシス。あたしはいつだってあなたの傍にいるわ」
そんな言葉を残して、彼女は消えてしまった。いなくなってしまうと、先程まで会話していたのが嘘のように沈黙が私の身体を包み込んだ。聖泉霊園は静まりかえっている。ここにいるのは私一人のようだ。次第に強まってくる寂しさをぼんやりと味わいながら、とぼとぼ宿へと戻っていった。




