1.約束の地
ディエンテ・デ・レオンにようやく足を踏み入れた。マルの里の空気は長閑に見えて少しぴりぴりとしている。セルピエンテ教会を訪問してみれば、その空気はさらにひどかった。
休暇中のアルカ聖戦士であることは名乗らずとも紋章ですぐに分かる。アルカ聖戦士のふりをするのはとても大変だ。それに、私がラナシェンサを連れていたこともあって、話は早かった。
担当者は竜人で、そこもまた異国情緒を感じさせられる。カリスのことや〈赤い花〉の魔女アマリリスについての情報を報告すると、彼は深く肯いた。
シトロニエ国のジュルネ教会から手紙が届いたのは昨日の事らしい。ジャンヌがまだあんなことになる前に、私たちの報告を受けた教会の担当者が忘れずにクルクス聖戦士に手紙を持たせていたためのようだ。
聞けば、すでに〈赤い花〉の魔女を誘き出すための計画が進められているらしい。人狼狩りの魔女であることも伝わっていて、人狼戦士が一人中心となって、うまく誘き出すための計画を立てているそうだ。
待望の出現とあって、話がまとまるのがとても早い。
同時にカリスの保護をすぐに願おうとしたが、マルの里のセルピエンテ教会はあわただしく、そちらの担当となれる者の予定が整わないと言われてしまった。
この話がきちんと司教の耳に入るかどうかでさえ怪しいもので、落胆してしまったが、それでも、話をしてくれた竜人のクルクス聖戦士は、特別に担当となれる者の一人に話をつけてくれると約束してくれた。
聞けば、彼はラナシェンサの本来の持ち主だったらしい。怪我なく無事に送り届けたことに感謝されたらしい。
名前があがったのは、クルクス聖戦士の女性だった。アマアリリスの件で囮になる人狼戦士の部下の一人らしい。どうであれこれなら安心だ。後はカリスがうまく立ち回るだけ。
これで私の役目は終わる。
あとは、静かに自分の気持ちと向き合おう。
セルピエンテ教会の世話になるのは気が引けたため、風情を楽しみたいという適当な理由で宿を選び、体を休めながら、私は影に潜んでいるはずのカリスに段取りを伝え、そして別れを告げた。
「これでもう、お前ともお別れだな」
姿は見えないが、息を呑むのが分かる。
「明日はセルピエンテ教会の西棟一階、廊下の南側に行くんだ。そこの部屋の前で待っているクルクス聖戦士の女性に話しかけろ。ベロニカという名前らしい」
「ベロニカ、ね。――厄介払い出来て、安心したか。お別れだというのに、寂しくもなさそうだ」
素っ気なくそう返され、私はただ首を横に振った。
「少しは寂しいよ。だが、安心はしている。きちんとした相手に話が通されたからね。お前はきっと神に愛されているのだろう」
「改宗するかも分からない異教徒なのにね」
「……不満か。やけに冷たい言葉だ」
そう言ってやると、カリスの気配がいっそう強まった。人の気配が急に強まるという奇妙な体感。この感覚ともお別れなのかと思うと寂しさが少しだけ増すものだ。
「冷たく感じたか。それなら、悪かった」
客室の片隅にその姿は現れた。今宵は月光が強い。その輝きに照らされて、彼女の美しい顔はより神秘的に見えた。怒ってはいない。薄っすらと笑っている。空虚な笑みだ。人狼がよく浮かべる印象がある。
「実は、アルカ語はそんなに得意じゃないのさ」
カリスはそう言って、さらに目を細める。
「語彙力はお粗末なものでね。その上、お前たち人間は、魔のものと違って人の言葉の真意を読み取る才能に乏しい。だから、そう感じたのだろう」
「そうか。これまでそうは思えないのだが……まあいい。自信がないのなら勉強するんだな。リリウム教会と共に生きるなら、時に専門的なアルカ語を使用する機会がある。ラヴェンデル語は、必要となるまで封印した方がいいかもしれないね」
「専門的、ねえ。まあ、せっかくのお前の忠告だ。心得ておくよ」
そして、黙り込んでしまう。居たたまれない気持ちが一気に増した。カリスのことはもう気にしなくていい。彼女だって、もうアマリリスに怯える必要はないのだ。なのに、どうしてそんな態度を取るのか。
「おれがお前に出来ることは、全てやり終えた。この上、何を望むというのだ」
「十分だよ。私は何も望まない。ただ、お前の今後が気になるだけだ。休暇はいつまで取るつもりなのか。……そして、この場所でいったい誰と会うつもりなのか」
「誰だっていいだろう。それよりも、自分の今後の心配をしろ」
セルピエンテ教会に話を通した以上、カリスはもうリリウム教会と切れない縁を結んでしまっている。放置すれば人を食うかもしれない人狼の浮浪者を、ベロニカというその聖戦士がみすみす逃がしてしまうようなことはないだろう。ましてや人狼戦士の部下だ。何かあれば、その人狼戦士も黙ってはいない。
「アマリリスの恐怖から解放されたとしても、考えなくてはならないことがたくさん出てくる。これから、その力を他人のために使うつもりなら、うまく立ち回る練習も必要だ。身勝手が許される盗賊とは訳が違う」
「生憎、そういう忠告は間に合っている。芯から同調するかどうかは別として、特定の環境に溶け込むのは苦手じゃない。自信はあるんだ」
「そうか。それじゃあ、もう心配はないな」
「――そうだな、ゲネシス。礼を言おう」
淡々とカリスは囁く。
「ここまで助かった。……ありがとう」
そして、返答するより先に、彼女は影の中に潜んでしまった。他人のいる気配が遠ざかっていく。見えずとも、確かめられずとも、一人きりにされたことがよく分かった。追いかける暇さえ与えられぬまま、私は先ほどまでカリスが居た場所を見つめ続けた。
半信半疑のまま別れてしまった人狼。一方的に懐かれて、そして手放した。愛馬ヒステリアとの別れに少し似た感覚だ。だが、ヒステリアとは訳が違う。カリスは言葉を喋る。人間に紛れて暮らすことのできる魔物なのだ。
月光が陰り、室内が一気に暗くなる。人間にとってはあまり親しみの分からない闇に包まれながら、私はもう届かない返答を口にした。
「どういたしまして……」
想像以上に空しい気持ちになってしまった。
だが、これでよかった。間違ってはいない。カリスと歩む日々を考えたことも確かにあったが、現実的ではない。どんなに足掻いても、私が人間でカリスが人狼であるという違いは障壁となっただろう。カリスがどんなに歩み寄ろうとしても、意味がない。彼女が純朴で、真っすぐであればあるほど、私は苦しんでいたはずだ。
どんなに崇高な言葉を貰ったところで、今の私の気持ちは自分でもどうしようもないほど頑ななものだった。
人狼はサファイアを殺した種族だ。食い荒らした種族なのだ。どうにかカリスには告げずにいられたが、この先も一緒に居ればいつかは話すことになる。喧嘩もするだろうし、その時になってこの暴力を振るわずにいられるかどうかという不安もあった。
それに、私は知ってしまった。ジュルネの町で、ジャンヌが死んだ日、真っ先に口から出たのは「お前がやったのか」という彼女への疑いの言葉だったのだ。これが私の本心。本質。人狼を信用できない。共に生きることが出来ない。ただ、遠くから祈ることしか出来ないのだ。
だから翌日、私はセルピエンテ教会には行かなかった。
今頃、カリスはベロニカという人物に会って話をしているはずだろう。女性同士ならば、少しは打ち解けられるかもしれない。ジャンヌとだって死霊に邪魔されるまでは、うまく話していたようだったから、そこは心配いらないだろう。
――もちろん、あの話が本当だとすれば、だが。
ふと、またしてもカリスへの疑いを浮かべていることに気づき、いったん思考を止めた。
約束の場所は決まっている。セルピエンテ教会に行く代わりに、そちらに向かわねばならない。里の外れにある聖泉霊園という場所。代々の海巫女が生まれてくるマナンティアル家という一族の墓地だ。昨日、その墓地に関する忠告を聞かされた。死霊が現れるため、マナンティアル家の者たちさえも近づかないようにしているのだとか。
普段の聖泉霊園は、観光地にもなっている。輿入れ前にさまざまな事情で亡くなった海巫女が葬られている慰霊碑があるため、巡礼者が訪問したがるそうだ。サファイアもその噂を聞き、興味を持っていた。聖泉霊園の中は非常に美しく、神秘的だという話を聞いて、死後がそういうものだといいのにと呟いていたのだ。
そこで、彼女は待っていると言っていた。サファイアの姿をしたソロル。ローザ大国で交わした約束通りにその場所を臨み、リヴァイアサンと再会できなかった海巫女たちのための慰霊碑の前へと向かう。前にもマルの里へ来たことはあったが、聖泉霊園を訪れたのは初めての事だ。話に聞いて想像していたよりも、慰霊は大きかった。
輿入れ前の海巫女が初めて亡くなってしまったのは、今から何千年も前のことだと聞いている。この慰霊碑はその時に作られたものが、そのまま使われているらしい。それにしては、かなり綺麗でよく手入れされていることが分かる。多くの者たちが巫女の魂を慰めるべく手入れしてくれたのだろう。
しかし、その手入れもしばらくは止まっているようだ。新しい汚れがある。雨や塵によって生じるものだ。死霊を恐れて誰も近づけないのだろう。
慰霊碑に触れようとしたその時、他人の気配を感じて身震いが生じた。そして、現れたその人物の顔を見た途端、全身の鳥肌が立った。その寒気は一種の恐怖のためでもあるだろう。だが、同時に涙が出てきそうなほどの嬉しさを感じてしまったのだ。
「ゲネシス」
虚像だと言われても、納得できるものだろうか。
「本当にここまで来てくれるなんて、嬉しいわ」
青い目がこちらを見つめてくる。細長い首に、艶やかな肌は記憶の通りだ。
昔、よくしていたように長い髪をまとめているところも、もう二度と見ることは出来ないとさえ思った微笑みも、全て記憶通りの彼女だった。
「……サファイア」
その名を口走ると、彼女の微笑みに寂しげなものが浮かんだ。
「違うわ」
間違いなくサファイアの声で、彼女は否定する。
「今のあたしはサファイアじゃない。あたしはソロル。サファイアになり切れない者よ。あたしがサファイアになる為には、足りないものがたくさんあるの」
「足りないもの?」
「現世に存在できるだけの力。今はまだ、あなたや生前のサファイアの思念に縁のある場所にしか立ち入れない。でもね、力さえあれば変われるの。あたしは本物のサファイアになって、あなたと共に失われた未来を生きることが出来る」
本物のサファイアになれる。
悪魔の誘いのような言葉でも、今だけは心より信じたくなってしまう。サファイアもミールも失った私は、箱舟から落ちて溺れているようなものだ。板を差し出す者が何であろうと、縋りつかずにはいられない。
「あなたには選択してもらいたいの」
サファイアによく似たソロルは言った。
「……まずは私か“彼女”か」
その眼差しと声が厳しいものになって、私はやっと第三者の存在に気づいた。
聖泉霊園の入り口付近から此方を睨みつける人影が一つ。どうして彼女がここにいるのだろう。カリスだ。セルピエンテ教会に行ったものだと思っていたのに、彼女は翡翠の双眸をこちらに向け、警戒心を露わにしていた。
「ゲネシス、そいつから離れろ!」
その視線はソロルから全く外れない。正体はとっくに分かっているのだろう。
「何が友人だ、この愚か者。そいつが何者か分かっているのだろう。セルピエンテ教会は、そいつに怯えっぱなしだと聞いている。これは……とんでもない裏切り行為だぞ!」
カリスが荒々しく唸ると、ソロルは面白そうに含み笑いを浮かべた。サファイアのやるような表情ではない。ソロル自身が言っていたように、本物にはなれないのだ。――それでも、本物になる方法がある。
「カリス」
この選択は間違っている。そんなことはよく分かっている。罪の自覚はあるのだ。裏切りの自覚もあるのだ。天国の養父は嘆いているだろうか。魔女に囚われたミールは悲しんでいるだろうか。それでも、サファイアを死の世界から取り戻せるかもしれないと聞かされれば、罪を罪と分かっていても手を伸ばしてしまう自分がいた。
「此処から去れ。お前には居場所を用意した。通報するなり好きにすればいい」
言い放ってしまうと、不思議と解放感に見舞われた。これまでぐっと我慢していたものが、解消されたような気分だ。直後、カリスの浮かべた表情に多少の罪悪感は覚えたが、一度決めてしまえばもう揺るがない。
「――ゲネシス」
震えた声でカリスは動揺を露わにした。
「何を言っているんだ。お前は……アルカ聖戦士なのだろう?」
問いかけに此方の心も揺るがされそうになる。しかし、その前に、ソロルが動き出した。音もなく手が伸ばされ、カリスの身体に掴みかかる。その気配に瞬時に気づくと、カリスはそのまま影の中へと逃げ込んだ。
空を掴むと、ソロルはそのまま操り人形のような動きでカリスの逃れたと思われる場所を目で追った。だが、深追いは避けるようだ。
「邪魔者はいなくなったわね」
そう言って、ソロルは姿勢を正す。見れば見るほどサファイアとしか思えない。そんな姿でソロルは私に向き合って一礼した。
「選んでくれて、ありがとう。ゲネシス」
ソロルは言った。
アルカ語ではなく、ローザ語――フリューゲル地方の方言で。それは、かつて聞いたことのある響きだった。
――選んでくれて、ありがとう。
信仰も、信念も、お互いに捨てる必要はない。ただ真実の愛だけで結ばれようと決心し、フリューゲルで永遠を誓い合った日のこと。
いずれはチューチェロの私の家に行き、ささやかな幸せの日々を過ごすはずだった。明るい未来があると信じて疑わなかったあの頃の希望が、枯れ果てた心に一滴の雫をもたらした。
思い出が、愛情が、どうにもならないものを生み出している。死霊だと分かっていても、何処からどう見ても愛しい人にしか見えず、拒絶することなんて不可能だった。




