7.寄り添うケダモノ
教会の客間には、相変わらずカリスの気配があった。
カリスへの不信感は今日明日で拭えるものには思えないが、それでも、傍にいると感じて不快になるようなことはない。ただ、カリスを信じていいのかという問答ばかりが頭の中をぐるぐると回り続ける。
そんな私は、何度もため息を吐く羽目になった。ジャンヌの遺族との面会が終わってしばらく、葬儀の話を聞き、そのまま休憩を勧められて今に至る。葬儀は明日、ジュルネ教会で行われる。そこに出席してから、マルの里を目指すことになるだろう。そうして、とうとう本当の別れは来るのだ。
もう何百回目なのかというほどのため息を漏らすと、カリスがとうとう反応した。
「大丈夫か」
答えるのは面倒くさい。だが、肯いてやった。その返答をどう捉えたのかは分からないが、ベッドの下から気配が動くのを感じた。目で追ってみれば、客間の机の下に、不自然な影が集まっているのが見えた。出てくるという大胆さはないが、私と目が合いやすい場所に移動したらしい。
「散々な言われようだったな。特にあのルネという男。ジャンヌの兄だと言っていたが、ヒステリックにもほどがある」
「そうかな。妹を突然、惨殺されたのだ。仲のいい兄妹だったのならば、あの反応も不思議ではないと思うが」
「……そうかもしれないな。だが、お前が責められることはなかったんだ。ジャンヌを助けられなかったのは私なのに」
「あれでよかったんだ。もしも、お前が首を突っ込んでいれば、そのままルネに絞殺されていたかもしれないぞ」
実際、そのくらいの勢いはあった。ルネは見たところ、聖戦士でも何でもない。ジュルネにずっといるのだとすれば、魔族ならばともかく魔物――それも人狼への偏見は少なからずあるだろう。そこへ、カリスを出してしまえば、どうなることやら分からない。事を荒立てるのは嫌だった。だが、カリスの為とも言い切れない。結局は、自分のためである。その恐れを考えれば、私が悪者になろうと、これでよかったのだという結論に至る。
「庇ってくれたって、何も恩返し出来ないのに」
それでも、カリスはそう言った。実に人間臭い。そう感じるたびに、頭が痛くなる。先入観にとらわれるなというのがアルカ聖戦士の心構えだ。しかし、カリスと交流すればするほど、私は聖戦士ではない人狼という存在への偏見を自覚させられる。カリスがまるで人間の女のように振舞うのが、意外に思え、疑わしく思えてしまうのが我ながら辛かった。
「恩返しなどいらない。私はただ、波風を立てたくなかっただけだ」
「……そうやって、これまでも自分を盾にして物事を解決させたことがあったのか?」
憐れむように訊ねられ、答えに詰まってしまった。寄り添おうとするカリスの温もりに戸惑ってしまう。彼女から感じる優しさのようなものが辛かった。私の方は、まだカリスを信じ切れてやれないでいるのに。
「そうだとしたら、私は辛い。見ている方が辛い。お前が自分を蔑ろにするのは、私自身が蔑ろにされるより辛いのだ」
――ああ、サファイア助けてくれ。
優しさは時として鋭利な刃物よりも驚異的だ。カリスより感じる情愛が、清らかすぎて苦しかった。寄り添おうとする彼女の真意は分からない。それでも、好意はさすがに分かる。だが、答えられない。彼女が人狼でなかったら、もっと信じてやれるだろう。もっと真面目に向き合ってやれるだろう。しかし、この女は魔物なのだ。人を食ってきた人狼なのだ。
私が出来ることは、ただ一つ。彼女を保護してくれそうな教会に引き渡すだけだ。
「聖戦士は時として一般市民の盾にならなくてはいけない」
動揺を必死に抑えて、私はカリスにそう言った。
「防ぐものは力による暴力だけではないのだ。もしも見ていて辛いのならば、私に同行するのは止した方がいい。同じような役回りはきっと、ジャンヌだってやってきたはずだ。人々には誤解されたままであろうと、神は必ず見ている。そう信じて、我々は懸命に役目を果たしているだけなんだ」
勿論、私にだって辛い時はある。辛いけれど、そういうものだと理解して振舞うしかない。そうやって納得してきたことはいっぱいある。サファイアの死だってそうだった。サファイアの死で嘆き悲しむのが私とミールしかいなかったことだって、仕方がないと納得しようとしてきたのだ。
――犠牲者が異教徒女でよかった。
ふと、そんな言葉を思い出し、必死にまた忘れようとする。サファイアの死の騒動の最中に聞こえてきた言葉だ。フリューゲルの村人の誰かの声。男だったような気もするし、女だったような気もする。はっきりと思い出せないのは、あまりにも衝撃的な言葉だったからだ。聞こえてきた瞬間、後ろから殴られたような気分になってしまい、動揺を隠しきれなかった。今となっては確かめようがないが、せめてあの言葉がミールに聞こえていないようにと願うばかりだった。
フリューゲルの村人全てがサファイアたちに辛く当たったわけではない。彼らが定住し、自分たちの信仰を守り続ける姿勢を崩さずとも、表面上はそれを認めていたものだった。しかし、その本心までは分からない。誰から誰までがあのような言葉に同意していたのか、疑い始めればきりがなかった。
それでも、私は聞こえぬふりをした。サファイアのためにその場で怒ったりしなかった。ミールがその場に居たからでもある。あんな悪意を相手にしたくなかったからでもある。だが、あのわだかまりはいまだに残っている。あの場で発言者を突き止めればスッキリしただろうか。しかし、とてもそうは思えない。
「聖戦士という者たちは、哀しいものなのだな」
カリスが静かに呟いた。
「お前たちの神は本当に居て、見ているかもしれない。だが、それはいつ分かる。見ているかどうか確かめられないのに、一人きりで頑張り続けるのは辛そうだ」
「もちろん、辛いこともあるさ」
静かに白状できたのは、この場にカリス以外の誰もいないからだろう。
「何もかも投げ出したくなる時だってある。努力が報われず、神が本当に居るのかどうかも分からない。そんな時に、悪魔は現れるのだ。迷わずにいられるよう心を強く保とうとも、精神は無敵なわけではない。孤独なまま奮闘し、少しずつ疲弊していくのは身をもってよく分かる」
別れの際、振り返ってきた愛馬ヒステリアの表情をふと思い出した。長く慣れ親しんだはずの彼女をあっさりと手放せたのも、ジャンヌが心配してきたように心が疲弊したためだったのかもしれない。
「たまに辞めたいと思う時もある。そういう時に、思いとどまったのは、友人の存在だった。この度も、辞任ではなく休暇を選んだのは、ジャンヌとグロリアにまた会えるかもしれないと思っていたからだ」
そのうちの、ジャンヌまでもが死んでしまった今、残る友人はグロリアだけだ。彼女は長生きしてくれるだろうか。知人程度ならば他の戦士にもいる。だが、アルカ聖戦士は本来孤独なものなのだ。旅をして回るから、せっかく仲良くなっても別れなくてはならない。そして、再会の約束は果たされない場合が多いという残酷な現実もある。
「――すまない」
カリスの震えた声が聞こえてくる。
「そんな大事な友を、私は守れなかったのだな。それどころか、こんな庇われ方まで」
「もういいんだ。お前のせいじゃない。恨むべきは――フラーテルなのだろうから。そのフラーテルもお前が排除したのだろう。それで十分だよ」
ため息交じりにそう言うと、机の下にあった不自然な影から、翡翠のような光が見えた。カリスの双眸だ。闇に光る狼の目が、こちらをじっと見つめている。
「お前が何と言おうと、この恩は忘れない」
カリスはそう言った。
「愛馬を手放した話、聞かせて貰ったよ。お前がなんのためにマルの里に向かうのか、そして一人で何を悩み、何を決断しようとしているのか。私にも教えて欲しいんだ。……見守らせてくれ。人狼の私では、サファイアやミール、ジャンヌの代わりにはなれないかもしれないけれど」
訴えてくるケダモノは、とても輝いて見えた。飢えもせず、敵対もしなければ、どんな魔物や魔族も純粋無垢な心を持っているものだというのは聖下のお言葉だ。その通りなのかもしれない。その表情はまるで、志高く誓いを立てた修道女のよう。
だが、そんな目で見ないで欲しい。ケダモノのくせに。人食いのくせに。
――サファイアを殺した種族のくせに。
人狼はたくさんいる。いろんな性格の者がいる。ひとりひとりの人格が違う。そんなことを当たり前だと信じていたとしても、たった一つの出来事が価値観を歪めてしまうことだってある。全ての物事に法則性を見出してしまうのは、人間全体の罪なのだろうか。嘘つきで、凶暴で、人を食うためならば手段を択ばない。そんな種族の血をたっぷりと引いているカリスのことも、サファイアを殺した人狼と同じに見ている自分がいるのだ。
「お前のためだ、カリス」
感情を押し殺した声で、私は彼女に向かって言った。
「マルの里まで面倒をみてやろう。そこが我々の別れの場となる」
突き放すような言葉に、後悔はしていない。
カリスと共に生きることは出来ないのだ。だが、遠くからその幸せを祈ることは出来るかもしれない。この先、私がどんな道を歩むのだとしても、その行先は暗く淀んだ道となっていそうな気がする。これから先、正しく生きようと本当に彼女が思っているのならば、そんな味気ない道に同行することはない。
教会に保護され、たくさんの人と知り合えば、カリスもまた自分の正しい居場所を見つけるだろう。そうなれば、私への憐れみも、優しさも、次第に忘れていくはずだ。それでいい。それがいい。どんなに時間をかけても信じ切ってやれない私と共にいるよりは、彼女にとってもずっと幸せだろう。
「そう……か」
消え入りそうなカリスの声が聞こえてくる。
「分かった。……お前に従おう」
何処までも直向きなものを感じる、そんな声だった。




