1.友人の噂
シトロニエ国は荒れている。そうは聞いていたが、確かに不吉な空気が流れていた。
それでも、アプレミディの人々は温かかった。不安定なご時世だからだろう私がアルカ聖戦士であると気づくなり、町の問題をあれこれ話してくれた。きっと、解決を期待したのだろう。
カリスの方も大人しかった。ノブレス牛の価格は高騰が激しかったが、肉屋の抱えていた問題を軽く解決してやれば、適正な価格で売ってくれたため、飢えさせることも、アプレミディをこれ以上混乱させることもなく終わった。
私が去るという話をすると、アプレミディの人々はがっかりしたような表情を隠さなかった。きっと地元のクルクス聖戦士たちのことが信用できないのだろう。短期滞在の旨を伝えるために彼らとも少しだけ話したが、町の人々との不和を少しだけ嘆いていたから間違いない。
それにしても、首都カトルセゾンを避けてジュルネまで向かうのは意外と大変だった。素直にカトルセゾンを経由すれば、ジュルネまで直行できる。それだけ短い距離を進めばいいのだが、避けるとなれば広大なソレイユ地方やリュヌ地方、さらにはニュイやミニュイといった地域を通っていかねばならない。
馬でもいればよかったのだが、生憎、愛馬をイグニスで手放してしまったため、徒歩だ。食事の問題は、私よりもカリスの方が深刻だった。それでも、神の恵みだろうか。ジュルネ地方までの道のりは、恵まれたものだった。ソレイユ地方では快適な休息をとれたものだし、リュヌ地方ではリシェス羊というノブレス牛並みに良質な羊肉を貰えた。おかげで、カリスを飢えさせずに済んだし、せっかく親切にしてくれた人々を裏切ることにもならなかった。
シトロニエ国は荒れていると聞いていたが、人々は温かかった。それでも、カトルセゾンでは多くの血が流れ、憎しみ合いが続いているのだという噂は、田舎の端々にまで届いていた。
――なるようにしかならんさ。
シトロニエ訛りのアルカ語でそう言ったのは、最期に立ち寄ったミニュイの町の壮年男性だった。彼にはジュルネの町の噂を教えて貰えた。そこでは人狼の被害の噂が流れている。ジャンヌが派遣される理由だろう。
人狼と聞き、カリスは複雑な表情を見せた。可能ならば、穏便に解決したいと言っていたが、もう何名もジュルネの人々を食い殺してしまっているらしい。ジュルネの人々にも知られている怪物を、今更赦しを貰うことが出来るだろうか。そうでなくとも、人々はシトロニエ国の行く末に怯えているというのに。
「なるほど、しばらくお会いしないうちに、様々な変化があったようですねえ」
ジュルネ地方とミニュイの大地の境にて、怪しく笑う男が私にそう言った。マグノリア紳士風の男だ。奇抜な緑の服はとても目立つのに、話しかけられるまでは誰も彼に注目しない。翅人というものは、そういう種族なのだ。
カリスが一言断ってから私の元を離れて間もなく、彼は私の前に現れた。クリケット。恐らくその名は偽名だろう。しかし、どうでもよかった。私の目の前で悪さをしない限り、彼は利用価値のある男に過ぎない。
「久しぶりだな、クリケット。何かいい商品でも持ってきたのか」
彼の商品は情報である。怪しげな情報屋。見聞きしたものを売るという信用なければ成り立たない職業だが、心配せずとも翅人情報屋は総じて質の高いものだ。もちろん、信じ切ってしまうことの恐ろしさはあるが、必要以上に警戒することはない。これまでに彼の情報に裏切られたことはなく、彼もまたアルカ聖戦士という金蔓とそう簡単に縁を切るつもりもないらしく、もう何年も仕事に役立つ情報を仕入れてきてくれたものだった。
「ええ、それは勿論」
やけにへらへらした様子は気に食わない。
「本当はディエンテ・デ・レオンまで息を潜めていようかと思ったのですがね。この近くに商売敵がおりまして、彼に旦那様を取られてしまったらと思うと居ても経ってもいられず、こうして飛んでまいったのです」
「心配せずともそう簡単に乗り換えたりしないさ。信頼ある情報屋は貴重だからね」
「それは光栄な事です。ご贔屓ついでにご伴侶様にも私の質を宣伝くださるとありがたいですねえ。残念なことに、彼女はその商売敵を信頼なさっているようで」
「カリスのことか。悪いが彼女の判断に任せる。客引きなら、自分でやってくれ……それよりも、情報は?」
素っ気なく促してみれば、クリケットは表情一つ変えずに頭を下げた。
「ええ、私の持ち込みました情報は、〈青き美玉〉、〈悩める女聖戦士〉、そして〈赤い花の子羊〉の三つでございます」
その笑みはあまり好きになれないが、情報タイトルからして、いずれも気になるものに違いなかった。とくに〈赤い花の子羊〉というのは、カリスが恐れている魔女のことだろう。
「いかがなさいます? 今なら三つセットでこの価格ですよ」
そう言ってクリケットは調子よく指で数を示す。ジュルネの貨幣が今、いかほどの価値となっているのか怪しいところはあるが、とりあえず、私が思っている通りでいいだろうと判断するに、確かにお得な価格と言えなくもなかった。
個人的に〈赤い花〉のことは気になる。万が一、衝突することがあれば魔女というものは厄介だ。教会より保護を命じられている〈赤い花〉ならば尚更のこと。それに、前々から聞かされているアマリリスの情報だとすれば、カリスが少しは安心するだろう。〈青き美玉〉はおそらくディエンテ・デ・レオンで待ち受けていることについて。〈悩める女聖戦士〉は、わざわざ私に売りに来たという事は、ジャンヌのことだと思われる。
となると、やはりすべて買うべきだ。そう判断し、私は通貨を投げた。クリケットは落とさずに受け取り、頭を下げる。
「いやあ、さすがはアルカ聖戦士様。気前がいいことで。それでは、どれから語らせていただきましょうか」
「〈青き美玉〉から頼む。その後に〈悩める聖女〉、〈赤い花〉は最後だ」
いつもはこのように細かく指定はしない。軽く気になったことを最初に言うだけだ。だが、今は状況が違う。カリスがいつ帰って来るか分からないと思うと、個人的な問題は彼女が戻ってこないうちに聞いてしまいたかった。
そんな逸る気持ちがクリケットにも伝わったのだろうか。彼は意味ありげな笑みを浮かべ、そして頭を下げた。
「かしこまりました。それでは、〈青き美玉〉のお話を」
姿勢を正し、彼は語る。
「旦那様が会いたいと思っている方について私の知っていることをお伝えしましょう。“彼女”の正体については、旦那様もご存知の事でしょう。しかし、こちらはご存知でしょうか。“彼女”はディテンテ・デ・レオンであなたを待っているのではありません。貴方様と常に一緒に居るのです」
「一緒に居る? 信じられんな。そう感じたことは一切ない」
「そうでしょうとも。彼女は並みの連中とは違います。少し変わった思考力とお力のある存在です。遠き地にいたとしても、今の我々の会話もそっと耳を傾けているはずですよ。それでも貴方様の声かけに反応なさらないのは、強い意志によって、そうしているのです。貴方様の意識を確かめたいのでしょう。本当に、自分の味方となるかどうかを試すために、敢えて出会いの場所から離れた地域を選んで、再会の場所としたのです」
「なるほど、では、“彼女”は少し変わったところのある者なのだな」
「ええ、同種族の中でもとても優秀で聡明な方です。そして、残酷であることも忘れてはなりませんよ。しかし、旦那様がもしも望むのならば、地獄の果てまでお付き合いくださることでしょう。その愛が偽りか真実か、それは私にも分かりません。ただし、旦那様が迷いつつもディエンテ・デ・レオンを目指しているという事実については、間違いない真実でしょう。……まだ迷いは?」
「――あるよ。だから、ジャンヌに会って話をするつもりなのさ」
アルカ聖戦士として、人として、道を踏み誤っている。脇道に逸れただけだとしても、そろそろ後戻りすべきだろう。しかし、先に広がる光景が気になりすぎて、歩みを止められないのだ。そんな中、同行することになったカリスは迷子を正しい道に誘導する天からの使者なのだろうか。だが、そうだとしても、歩みは止まりそうにない。
「なるほど。では、私の思っていたよりも深刻にお考えなのですね」
そう言って、クリケットは笑みを引っ込める。
「では、このまま〈悩める女聖戦士〉のお話に移りましょうか。アルカ聖戦士のジャンヌ様のことでございます。彼女は今まさにジュルネを目指しておいでです。恐らく到着は明日。全くお変わりないようでした。きっと、彼女ならばあっさりと任務を遂行できるでしょう。……しかしですね、ジュルネの町を騒がせている犯人の人狼について、気になる点がございます」
「気になる点?」
「はい、どうやらこの人狼――女なのですが――旦那様のご伴侶様をよくご存じのようです。つい先ほどのことです。二人がお話しているところを私は目撃しました。ジャンヌ様と彼女たちがぶつかり合うことは……あまり良くないことに思えますね」
「……知り合いか」
あり得ない話ではない。
カリスはラヴェンデル育ちだと言っていたが、シトロニエの隣国だ。ヴィア・ラッテア大渓谷に阻まれているとはいえ、影道という世界を通る人狼にとって険しい道など存在しないようなものだ。
ジュルネの町を荒らしているのは、彼女の知り合いなのだろうか。そうだとすれば、面倒くさいことになりそうだ。とにかく、カリスが戻ってきたら訊ねてみる他ないだろう。
「ジャンヌ様もジャンヌ様で少し問題を抱えているようですね」
「問題? 『悩める』という部分の事か」
「はい……どうやら、ジャンヌ様はこの度の任務の後で、生家のご家族と今後について話をするようですよ。詳しいところは探れませんでしたが、噂によれば、そろそろ未来を見据えて剣を教会に返すのはどうかと、そう言われるようです」
「……そうか」
ジャンヌもまた人生の分かれ道に差し掛かっているということか。似たような話は数年前にも聞いた。ジャンヌではなく、グロリアだ。
数年前、マグノリア国およびウィステリア公国がグリシニア連邦との対立を深めた際、グリシニア連邦の隣国となるディエンテ・デ・レオンでは治安の悪化を恐れてリリウム教皇領へ協力要請を出した。多くのクルクス聖戦士が移動となり、特にディエンテ・デ・レオンの出身者は、いつリリウムに帰ってこられるかも分からない任務をすることとなった。アルカ聖戦士も例外ではなく、私たち四人も聖地を守るために覚悟を決めた。
だが、治安の悪化は上の者たちが考えていたよりも酷かった。もともと、ウィステリア公国の築かれている辺りは、グリシニア連邦のいくつかの州の一部だった。支配下に置かれて以降、ウィステリア国に忠誠を誓ったものもいれば、行き場を失って別の州へと移る者もいたらしい。だが、そういう難民の受け皿が整っていなかったらしい。行き場を失った者の中には代々の流浪の民も多かった。ディエンテ・デ・レオンに入り込み、生活苦から犯罪に手を染める者も次々に現れ、さらにその混乱を狙った魔物や魔族を含む悪人の動きも活発になっていたのだ。
殉職者が現れだすのにそう時間はかからなかった。屈強な男であっても、いつ死ぬか分からない状況。家柄のいいカンパニュラ出身の女性戦士たちの実家がそのまま何も言いださないわけがなかった。
グロリアにそういう話が来たのも、当然の流れだった。むしろ、戦地配属を免れたからとジャンヌの方にもそういう話が来なかったらしいことの方が意外だった。グロリアの場合は、許嫁がいるのだという噂も聞いていた。鳶色の双眸と髪の色。何処となく鷲や鷹といった猛禽を思わせる彼女は、女性らしさの全てを失ったわけではないが、初めて会った子どもの頃から変わらず少年のような人だった。
だから、その話を聞いたときは衝撃的だった。だが、もっと衝撃的だったのは、グロリアの決断だった。許嫁と剣を天秤にかけ、剣を選んだのだ。そのまま、待っていたかのようにディエンテ・デ・レオンへの配属が決まり、実家の反対を押し切って彼女は同じく配属の決まった私などと共に旅立った。
その時の彼女の言葉は今でも耳に残っている。
――私は〈シニストラ〉と結婚したようなものだ。
聖剣に使用される聖油の実態を、彼女と何度か話をしたことがあった。人々のために学び、戦い続けるために、犠牲となる者たちがいる。〈金の卵〉の命と引き換えに作られる聖油もその一つだ。アルカ聖戦士のために作られる〈シニストラ〉は、〈デクストラ〉に比べて聖油の量が多い。手入れをするときも、聖油を使うのが習慣となっているため、無意識のうちに我々は多くの命を遣い潰している。
この事実にどう折り合いをつけるか、それは様々だ。〈金の卵〉と実際に触れ合って、育成を経験して、彼らの事を理解してから聖剣を大切にする者もいれば、この事実に耐え切れず、剣を手放してしまう者もいる。
グロリアは前者だった。ショックを受け止めきれずに辞める者たちを決して非難はしなかったが、〈金の卵〉の犠牲を重く考えていたのだ。だから、辞めたくなかったのだろう。
そこはジャンヌも同じようなものだ。我々は長く戦士をしていく中で、どうしても信仰と現実の境に悩むものだ。しかし、そうだとしても何のために学び、どんな犠牲がありながら立っているのかを理解していたからこそ、辞めることなくここまで来ているのだ。
グロリアは剣を選んだ。母親になる道を選ばず、人間の婿ではなく、聖剣〈シニストラ〉だけを婿として選んだ。彼女らしい選択だと今でも思う。あまり感情を表に出さず、恵まれた容姿を持ちながらも浮ついた話が全くない。
それでは、グロリアと親しいジャンヌはどうだろう。似たような境遇で育った女性戦士となれば、同じように選択しそうなものだが、ジャンヌはグロリアではない。グロリアのように強い志で自らの道を選ぶほどには、家族愛への興味を失っていない。夫婦愛や親子愛、兄弟姉妹の愛から生まれるしがらみをよく理解し、共感する力があるのはジャンヌの方だと思っている。弱った私の心に寄り添う力があるのも、いつもジャンヌだった。
「ジャンヌ様はあなたがジュルネを通ることをご存知です。久しぶりにお会いすることを、楽しみにされているようですよ」
「そうだな。……もう一度、馴染みの顔に会えるということは、我々にとって大金よりも有難いものだ」
「純血の人間戦士というものも、大変ですねえ」
クリケットはにやにやと笑う。その反応はあまり好きではないが、いちいち怒るのも面倒臭い。ちらりとその胡散臭い姿へと視線をやり、促した。
「それで、ジャンヌの話はそれで終わりか?」
「……ええ。残念ながらもうございません。最後に移りましょうか。〈赤い花の子羊〉の情報をお求めとのことで。子羊の名はアマリリス。貴方様のお求めの魔女でしょうか」
「間違いないな。個人的に保護依頼を受けてしまったものでね。可能ならば、というだけだが」
「彼女を保護なさるのですね」
「不満か?」
「い、いえ、滅相もない!」
妙に慌て気味に否定するところを見るに、このクリケットもまた、単純な情報屋ではないのだろう。翅人情報屋というものは質の高い情報を売買するだけではないとのことだ。彼らは怪しげな商人でもあり、特に、人攫いの技に長けている。もしも、人攫いの証拠が掴めたら、そのまま教皇領や周辺国へと引き渡すことになる。だが、尻尾を掴ませないのが彼らの特徴でもあるのだ。
風の噂に過ぎないが、翅人情報屋の多くは花売りも兼業している。もちろん、売るのはただの花ではない。カリスが前に揶揄ってきたように、〈赤い花〉などの希少種となった魔女や魔人を捕まえ、反抗心を砕き、繁栄させ、生まれた子どもたちを商品にしてしまうのだ。リリウム教会にとっては宿敵であるし、花売り側も知られたら不味いことはよく分かっているだろう。
クリケットがもしも花売りであったならば。これまで世話になったのは確かだが、明確な証拠が出てしまえば関係はそこまでだ。〈赤い花〉をすでに匿っているならば、その居場所を吐かせ、保護することになるだろう。花売りは重罪だから、二度と前の様な生活は出来ない。だから、長年質のいい情報を売ってもらってきたよしみで、せめて死罪にしないようにと庇ってやるくらいはしてやろう。
もちろん、明確な証拠が出たら、の妄想話だ。それに、マグノリア王国などに逃げ込まれたら、手出しも出来なくなる。
「私は誇り高き情報屋なのです。花競り業界なんぞに足を踏み入れませんとも」
「どうだかね。だが、どうせ証拠はないんだ。今のところは信じてやろう」
「有難いことです。……さて、そろそろお話に入りましょうか」
「ああ、頼む」
カリスが怯えた相手。人狼狩りの魔女アマリリス。クリケットの目と耳が記憶した彼女の姿が語られる。
「【人狼狩りの魔女アマリリス】は旦那様のご伴侶様を執拗に狙っております。性悪な商売敵が彼女らの両方を客にとっておりましてね、終わりの見えぬ鬼ごっこをいつまでも続けている状態なのです。しかし、あの魔女は厄介です。このご時勢、きちんとした魔女の教育をじっくりと受けることのできた方は珍しい。〈赤い花〉として開花して以来、彼女の『虫の魔術』は数え切れぬほどの命を吸い上げてまいりました。保護なされるおつもりでしたら、彼女の操る糸にご用心ください。気づけば、旦那様の御身体が、作りかけの操り人形のようになってしまうかもしれません」
「物騒な話だ」
本気で怖がっていたカリスの表情を思い出す。執拗に狙っているということは、カリスを殺すまで諦めないつもりなのだろうか。カリスを守りつつ、〈赤い花〉を生け捕りにするにはどうするべきだろうか。いずれにせよ、私一人ではどうにもならない気がした。
「その通り、物騒なお方です。あ、そうだ。旦那様、ご伴侶様を生餌になさるおつもりでないのなら、なおさら、貴方様からも一度、情報屋の乗り換えをご提案していただきたいものです。そして、かの商売敵をどうか一度懲らしめてやってはくれませんかね。ゴキブリ野郎は狼と魔女の両方に互いの情報を売りつけ、混乱を招いているのです。奴は間違いなく花売りです。長年、大事に見守ってきた〈赤い花〉を摘む機会を窺っているのです。奴の存在はきっと、旦那様の保護活動の邪魔になるはずですよ」
花売りに目をつけられている成熟した〈赤い花〉か。なおさら、放ってはおけない。
ディエンテ・デ・レオンで重大な選択をするまでは、せめて、アルカ聖戦士としての誓いを守りたい気持ちはあった。けじめでもある。
「その悪質な商売敵っていうのは、なんという名前だ?」
「名前ねえ。我々に名前など聞かれますか」
「クリケット」
皮肉交じりの返答に苛立ちを隠せなかった。翅人という種族をそんなに多くは知らないが、マグノリア国の翅人はどうやら皮肉好きのようだ。ただし、私の方は皮肉を受け止めて楽しむ性質でもない。
クリケットはそんな私の性質を見抜いてか、こほんと咳払いをした。
「これは失礼。私のような通り名でしたら存じております。奴はここ数年、コックローチという汚らしい名前を使用しております。その名前の通りの性格で、力があれば踏みにじってやりたいくらいです」
「コックローチか。覚えておこう」
覚えたところで、実際に会えるとは思えない。クリケット含め、翅人というのはいつも逃げ足が速く、賢ければ賢いほど生き延びる術にたけている。彼らは力の弱い生き物だが、その分、頭の回転が速く、相手の力量を知る眼を持っている。初めから勝てない戦いは決してしないからこそ、囮でもなければ捕まえるのは至難の業だ。
私に出来ることはせいぜい、カリスに助言してやることと、そのコックローチとやらよりも早く、アマリリスを我が教会の権力の及ぶ場所へと追い込むことくらいだろう。
「そうそう、これもお伝えしておかねばなりませんね。アマリリスの進行方向はあなた方と同じ。ジュルネの町を経由してディエンテ・デ・レオンに向かうようです。きっとまずはマルの里に立ち入ることになるでしょうね」
「マルの里か……」
そこには、たくさんの竜人戦士がいる。それに、マルの里ならば、ちょうど年頃の海巫女が遠い聖地イムベルを目指す旅の準備をしているはずだ。ジュルネの教会にたどり着いた時点で、それとなく教会の者たちに伝えておこうか。教会間の伝令は恐ろしく早い。人々の目を盗んで魔物や魔族の戦士たちの協力を得ているから当然だ。
アマリリスがまだジュルネにいるうちに、マルの里では彼女らを迎え入れる準備が整うかもしれない。
「なるほど、有用な情報だ」
「それはどうも。……しかし、旦那様。差し支えなければ御聞かせいただけますか?」
クリケットは不思議そうに訊ねてきた。
「なんだ?」
答えると、彼は安心したように微笑みを浮かべる。
「旦那様はどうなさるおつもりで旅をしていらっしゃるのでしょうか。ご伴侶様といつまでも一緒にいるわけにもいかないでしょう。それに〈赤い花〉は貴方様が再会を求める“彼女”の宿敵でもあることをご存知ないわけではないでしょうに」
クリケットは私の影を見つめながらそう言った。再会の地で待っていると信じていた亡者は、今も私の傍に潜んでいると言っていたか。だとしても、声も聞かせて貰えず、姿も見せて貰えない以上、それは居ないも同然だ。
「別に決めているわけじゃない」
だから、気兼ねなく正直に私は答えた。
「どうするべきか、この先は神に委ねる。それまで私はアルカ聖戦士として生き続けるだけだ。困っている人狼を一人助け、減っている〈赤い花〉を保護するだけ。この行動が、私と“彼女”を引き裂くとすれば、それは神の導きだ。再会したときに“彼女”が、どのような言葉を投げかけてくるのか、試してみようではないか」
一度死んだ者は蘇らない。蘇ったとすれば、それは死霊である。死霊に縋れば必ず不幸がまとわりつく。死霊は大昔に世界を貪りつくそうとした呪われた種族でもある。しかし、本当にそうなのか。実際にこの目で確かめたかった。
「ほう、それで律儀に約束の場所を目指しているというわけですか」
「おかしいと思うか」
おかしいというのが普通だろう。死霊を死霊と分かった上で、その要望に応えてとぼとぼと長旅をするなんて。少なくとも、人間ならば狂っていると判断しているだろう。
「いいえ」
しかし、クリケットはそう答えた。
「亡き人にもう一度会いたいと思う気持ちは自然なことです。旦那様が向かう道へ、私もついてまいりましょう。なんなら、地獄の果てまでお付き合いしますよ」
「ずいぶんと頼もしいな。だが、私についてきたって何の得にもならないぞ」
「分かっておりますとも。ただね、旦那様、翅人には翅人の願望というものがあるのです」
「願望?」
「ええ。我々はただ死にたくないあまり生きておりますが、同時に生き飽きてもおります。ゆえに、生き甲斐というものを求めるのです。ある者は資産を増やすことに喜びを感じ、ある者はささやかながら人助けを繰り返す。しかし、私は違うのです。……私は、他の翅人が誰も観たことのない景色を見てみたい。旦那様の行動の果てに何が待ち受けているのか、非常に興味があるのですよ」
「不気味な願望だな。待っているのは、後悔ばかりが生じる景色かもしれないのに」
「まだ迷っておいででしょう。その心の動きも実に興味深いのです。これまで多くの人間を客にしてきましたが、貴方様のような人物はあまりいない。どちらの選択だろうと私は構いません。これからも、そっと見守らせていただきますよ」
「……好きにしろ」
そう言ってみれば、クリケットは帽子脱いで一礼をし、そのまま風の向こうに消えてしまった。
やっと独りきりになれた後に訪れるのは思考である。サファイアの声が聴きたい。死んだ者の声は聞こえないと言われているが、死霊は言った。自分になら、本心が伝えられるのだと。不幸な身の上のまま亡くなった彼女は、世界をどう見ていたのか。死霊の力を借りて蘇った彼女は、どうして欲しいのか。
共に歩むカリスは、きっといつか私の手を離れて居場所を見つけるだろう。その後、私はどのように歩むべきなのか。いまだ答えは見つからなかった。




