6.共に歩む者
ヴィア・ラッテア大渓谷の世界ともそろそろお別れだ。不思議な発光精霊に囲まれながら、おどろおどろしい猛獣や怪物たちの気配に静かなる警戒心を寄せる日々もすぐに終わる。シトロニエ国に入れば、しばらくは人間にも優しい美しい大地が広がり、ディエンテ・デ・レオンまでの道のりは、だいぶ優しいものになるだろう。
それでも、大渓谷の世界とのお別れは当初予想していたよりも少しだけ惜しいものに感じられた。きっと、私の隣を歩く麦色の魔物が共に過ごしてくれたからだろう。一見して普通の狼でないことが明らかな彼女は、緑色の双眸を輝かせ、その表情に得意げなものを含ませながら悠々と歩いている。
彼女が共に歩みたいと申し出てきたのは今朝の事だ。気づけば私を温めるように寝ており、身支度を整える光景を面白そうに眺めていた。後から聞けば、火を消したのは彼女だったらしい。いつもならば、うとうとしかけた時に消すものだが、彼女のお陰でそのまま深い眠りについてしまったらしい。その後、狼の体毛に守られ、おかげでぐっすり眠ってしまった。ろくに手入れもされていないはずだが、どうやら蚤取りはしっかりしていたらしい。
「シトロニエか。結構前に立ち寄ったきりだ。出来れば人間一人を食う前に美味い肉をご馳走になりたいところだね」
狼の姿をしながら、彼女は平然としゃべりだす。旅人に見つかれば面倒事を招きかねないが、幸いにもここは裏道だ。どうやら馬車の通る道にはまだ人食いの気配がするらしい。
雑談を続けるのは、その人食い以外の猛獣どもに存在感を示すためだとカリスは主張していた。不必要な争いを避けるべく、人狼とアルカ聖戦士がここにいることを教えてやりたいのだとか。確かに、驚いて襲い掛かってくるような臆病者は近づいてこないだろう。来るとすれば、相手を誰だか分かっていながら襲う、本当に狂った化け物くらいだ。そういうわけで、私はカリスとの会話に応じていた。
「……そう言うからには、教会に行く気になったか?」
「ああ、行ってもいい。お前を信じてみよう。少なくとも、アマリリスに惨殺されるよりはマシなはずだ」
「分かった。ただ、道のりは長いぞ。ディエンテ・デ・レオン寄りのジュルネという地域まで直行する。途中で幾つか町は通るが、いちいち教会に立ち寄る暇が惜しくてね」
「ふうん、急いでいるものだな。そんなにディエンテ・デ・レオンに早く行きたいのか。確かマルの里だったかな」
「そう言ったかな?」
「ああ、マルの里までは面倒をみてやれるとお前は言っていた。そこで何か用事があるっていうことだろう? 観光ではないようだな」
やはりこの狼女、甘く見てはいけないらしい。
「こちらにはこちらの都合ってものがあるのさ」
そう言うに留め、私は行く手を見つめた。
「ともあれ、そう言うことだから、ジュルネの教会に紹介する。安心してほしい。そこには旧友が派遣されているはずだし、あちらが納得するまで庇ってやれる。もし、難色を示したとしても、マルの里があるから心配はない。向こうの方が幾らかは魔の血に寛大だ」
「そこまでしてくれるのか。有難いものだな」
カリスは不思議そうに言って、緑の目で窺うように私を見上げてきた。警戒心が含まれているのは、それだけ殺伐とした世界を生き抜いてきたからなのだろう。そんな彼女を見ていると、人懐こい犬のようにも見えてしまい、自ずと笑みがこぼれてしまった。
「助けてもらったからな。それに、今だって安全に進むために協力してくれているだろう。これで貸し借りなしだ」
するとカリスは狼の顔でじっと私を見つめてきた。表情の読み取りづらいその顔からは、何を考えているのか察するのは難しい。
カリスはひとしきり私の顔を見つめると、気が済んだのか目を逸らし、だんだんと見えてきた大渓谷と平原の境へと視線を移した。
「そうだな」
短く、そして控えめに、彼女は頷いた。素っ気ないその態度が少しだけ気になった。
ともあれ、こうして私は孤独を貫くはずの旅で同行者を手に入れてしまった。利便性の問題か、カリスは狼の姿で進んでいた。二足歩行で歩き続けるよりも幾分か楽なのかもしれない。そう思い始めると、妙に羨ましくもなるものだった。
「直行って言っても、町は通るのだろう?」
歩いていると、不意に彼女が訊ねてきた。
「たとえば、アプレミディなんかはシトロニエに入ったばかりのものが必ず立ち寄るのだと聞いたことがあるぞ」
「そうだな。一度、体を休めるべきだろうな。アプレミディはちょうどいい。今回も立ち寄る予定だ」
「でも、そこの教会は駄目なのだろう? ……それなら、私は何を食べればいい」
「人間は駄目だ。私の前で人を襲うのなら、聖剣をお前に向けなくてはならない」
そう言って、シニストラの柄を軽くたたいて見せると、カリスは狼の目に不安の色を宿して窺ってきた。そして、深くため息を吐く。
「分かっているさ。だが、それでは飢え死にしてしまう」
「金はあるか?」
「持っているように見えるか?」
「じゃあ、仕方ない。私が新鮮な肉を買ってやる。ノブレス牛の肉なら人狼の口にも合うはずだ」
「そこまでしてもらう義理はない」
「お前の為じゃない。アプレミディの人々のためだ」
一匹の人狼ごときに使う金ではないかもしれないが、どうせ私は独り身だ。金は有り余っているし、アルカ聖戦士という身分も無駄に高いものがある。懸念があるとすれば、シトロニエの内情だ。革命があって以降、シトロニエではよくない噂が浸透しつつある。リリウム教会の権威を揺るがすものだ。国内の教会関係者の不祥事が暴かれ、民が怒っていると聞いたのだ。
果たして、アルカ聖戦士の私は歓迎されるのか。少なくとも、一番荒れているだろう首都カトルセゾンには立ち寄らないほうがいいだろう。シロトニエ語については、あまり心配はいらない。忘れかけてはいるかもしれないが、アルカ語もまだまだ通用するはずだし、そもそもアルカ語が通用しないあたりには近づかないつもりだ。
さて、問題があるとすれば、一つだけ。
「それよりもカリス。お前はどうするつもりだ。私と共に宿に泊まるつもりか?」
確認すべきことだから確認しただけなのだが、カリスには鼻で笑われてしまった。
「人間、それも、アルカ聖戦士と共に泊まるだと? 窮屈にもほどがある。心配ご無用。人狼には人狼の寝床というものがあるのだ」
「そうか。ならば、せめて私の呼びかけには耳を澄ましていて欲しいものだね。腹が減っても安易にアプレミディを混乱させないでくれると有難い。お前を斬り殺すのは何だか心が痛む」
「こっちだってまだまだ死にたくはない。安心しろ、お前のご厚意に甘えてやるよ。……それに、ノブレス牛とやらの味も気になるからね」
その声は妙に素っ気ない。しかし、それでいて、親しみを感じてしまう奇妙な声色だった。狼の顔からはその真意など分からないが、カンパニュラにも人狼の仲間はいた。その真の姿はなかなか見せて貰えるものではなかったが、どんな生き方をしていようと、たいていの場合、本質は変わらないのだということを強く感じた。
カリスもまた普通の生き方が許されれば、普通に暮らす女性だったのかもしれない。
「それにしても、人間に害をなさずに町へ向かうというのも、なんだか楽しいものだな」
ぼんやりと呟く狼の姿を横目に、歩み続ける。
ヴィア・ラッテア大渓谷の大地ともおさらばだ。脅威が何もなければ素直に美しいと思えるこの世界との別れは、少しだけ惜しいものでもある。
それでも、カリスがいるせいだろうか。予想していたほどは寂しさを感じずに済んだ。ディエンテ・デ・レオンまでのこの不吉な旅路に同行者などいらないと思っていたはずなのに、実際に共に歩き、会話が出来る者がいることはとても有難く、疲れも忘れてしまえるほどのものだった。
他愛もないシトロニエにまつわる話をしながら、私はふとカリスの人間の姿を思い出した。今、目の前で確認できる麦色の体毛と同じ色の長い髪が風に揺れる姿。非常に美しいその姿は、カンパニュラの美術学生ならば絵や彫刻として再現したいと思っただろう。そんなことを思っているうちに、ふと、気づいたのだ。
こんな事、サファイアが生きている頃には感心すら持たなかった。サファイアは私にとって唯一の女性であり、美女であった。宝石のような明るい眼差しが脳裏に浮かび、そして、フリューゲルとチューチェロの狭間にある霧の森で目にしたくすんだ青の目を思い出す。いつの間に、こんなに時間が経ってしまったのだろう。サファイアを失ったときは、次の相手など考えることも出来なかったのに、気づいたらこんなにも、思い出のサファイアと現実の私との生きる時間に開きが出来てしまっていた。
カリスと談笑し、その人懐こい笑い声を聞きながら歩くヴィア・ラッテアの旅。この空気を味わっていると、これまでには考えた事もなかった新しい道が見えてくるような、そんな気がした。




