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AMARYLLIS  作者: ねこじゃ・じぇねこ
1章 カリス

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5.家族

 耳をすませば、異様なケダモノの声が聞こえてくる。穏やかな春の気配は大渓谷の端々に感じられはするけれども、夜の空気の冷たさは人の身体を虐めぬくような非常に厳しいものであるものだ。


 とはいえ、昨日と今日はその厳しさに加え、心を蝕むような孤独感までに耐え忍ぶということはなかった。理由は分かっている。昨日は命の危機にさらされるというとんでもない出来事があったが、今日はその脅威となった存在に救われるという奇妙な出来事があったのだ。

 そして、私に無益な戦闘を避けさせた張本人は、焚火に辺りながらおよそ淑女とは呼べないような有様で横になっている。少し綺麗にすれば美女と呼ぶにふさわしい顔をしているのに、肌は薄汚れ、目つきは険しく粗暴さが消えない。もったいないものだが、本人はさほど気にしていないようにも見える。

 そもそも魔物であり、生まれも育ちも淑女からはかけ離れている様子だから仕方ないことなのかもしれない。


「なんだ? 私の顔に何かついているのか?」


 何気なく見つめてしまっていたようで、ぎろりと睨まれた。その荒々しさに苦笑が浮かぶ。


「ついている、というか、土埃だらけだ。一度、沐浴した方がよさそうだな」


 そう言ってやると、カリスは軽く舌打ちをした。


「言われなくともそうしたいものさ。薄汚れたままだなんてまっぴらごめんだ。……だがな、落ち着いて水浴びも出来ない事情があるのさ」

「アマリリスとかいう魔女の事か。そんなに怯えるとは、相当なんだな」


 揶揄い気味に言ってやると、カリスは不快そうに唾を吐いた。


「他人事だと思って……。こちとら、いつ細切れになってもおかしくないんだぞ」


 本気で怖がっている様子なので、それ以上はやめておいた。

 魔女や魔人を舐めてはいけないというのは重々分かっているつもりだ。彼らは味方にもいるが、敵に回ることも多い。人の血をいくらか継いでいるはずだが、決して人間扱いしてはならないと言われている。絶対に甘く見てはならない相手だ。


「そんなに怖いなら、なおの事、教会に助けを求めてみないか?」


 相手は罪のない人間を食ってきたという魔物女だ。それでも、今や私にとっては命を助けてくれた相手でもある。こうして寂しい道中を語り合ってくれる相手でもあるとなれば、少しくらい気持ちは傾く。

 その一方で、迷いもあった。この狼女はどう反応するのか。可能性を広げてやれば、どういう生き方をしたがるのか。神の教えを守りたいならば、恨みや憎しみに支配されすぎてはいけない。私にとって大事なことは、カリスが何の生物であるかということではなく、どういう人物であるのかということだった。


 カリスはわずかに眉を顰めて炎の揺らめきへと視線を向けた。


「お前を通して助けを求めれば、本当にリリウム教会は助けてくれるのか?」


 獲物で遊んだと告白して揶揄ったときとは比べ物にならないような、そんな声だった。


「助けてくれる……と期待したい。それに、お前を狙ってそのアマリリスとやらが近づいてきたとすれば、保護する理由も生まれやすくなる。保護してしまえば、もう怯えなくて済むだろう?」

「……まあ、そうだろうけれど」


 カリスは頷きかけるも、引っかかるものがあるようだった。


 確かに、誘っておいて言うのもなんだが気持ちは分かる。どう見たって異教徒の彼女にしてみれば、我が教会の良くない噂は恐ろしいほどに実感しているだろう。自分とは違うものを恐れる事は当たり前であるし、人食だけでなく盗賊として生きてきたのであれば、警戒心がアルカ聖戦士並みに強くたっておかしくはない。

 目先の安全だけを理由に私の誘いに乗るとは思えないし、その予想通り、カリスは困惑した様子を崩せずにいた。


「別に、今すぐに結論を出す必要はない」


 せっかくの休息だ。頭痛のする想いでつぶしたくはない。こちらから話を変えてみれば、カリスは意外そうな顔でこちらを見上げた。


「今日は本当に助かった。礼を言わせてくれ。だが、教えてくれないか、カリス。何故、手助けしてくれたんだ? 昨日の今日出会って話しただけなのに」

「そうだな……確かにそうだが……」


 身を起こすと腕を組んで考え込み、ちらりとこちらを窺いながら彼女は答える。


「せっかくの暇つぶしをこんなところで失うのが嫌だったから、かな」

「それだけか?」


 もっと深い理由があると思っていた。だが、カリスは苦く笑い、人間にしか見えない姿で背筋をぐっと伸ばしながら言った。


「縁なんてものは、そんなもんだろう。こんなご時世だし、私の周辺にはしつこい魔女がいる。親しい人を失い、仕事まで失って浮浪者生活をしている孤独な私にとって、話が出来て、このご時勢でも勝手に死ななそうな人物っていうのは、貴重な存在なんだ。……つまり、対等に話が出来る相手が欲しかった。それがお前だった。それだけのことだ」


 とか何とか言って、私を騙す気なのではないか。

 そう思ってしまうのは、やはりカリスが人狼だからだろう。それがいい事なのか、悪い事なのか。リリウム教会で洗礼を受けたものとしては、正しい事ではないと言われるかもしれない。だが、アルカ聖戦士として正しくあろうとするならば、致し方ないことだと信じていた。他人を簡単に信じてしまうくらいならば、親しそうな顔をしつつひとつかみの猜疑心を守り抜く方が賢いだろう。

 そうでない同僚は死んでいったのだ。私は違う。だからこそ、私はカリスという女を心より信じることは出来ないと分かっていた。それでも、あからさまに敵意を示すのもまた愚かなことだし、疑いの心に支配されすぎるのも今度はよくない。その絶妙なバランスを感じながら、表面では笑みを浮かべて返答する。


「――そうか。確かに、そういうものかもしれないね」


 火の燃え盛る音だけが少し響く。何処かで妖精たちの歌声が聞こえた気がした。近くで宴でもしているのかもしれない。遠くでは野犬共の野太い声が響いている。近い様子はないし、カリスがいるならば気にしないでいいだろう。


 大渓谷のひんやりとした夜を感じながら、カリスは小さく息を吐いた。


「お前たちの教会は……これまでの私の罪を赦してくれるのだろうか」


 力なく呟く彼女を窺ってみるも、その眼からは真意が分からない。


「赦すとすれば、それは我々ではなく神だろう」


 そう答えてみたが、カリスは納得できていない様子だった。仕方のないことだ。彼女は我々とは違う世界の生き物であるのだ。リリウム教会に連れて行ったところで、本心から改宗するなんてつもりはさらさらないだろう。

 ただ、それでも、カリスは懺悔でもするように、私に告げてきた。


「盗賊行為に食人だ。それだけでも断罪されるべき存在ではないのか。人肉を食ってここまで成長したのだ。大した家柄でない人狼なんてそんなものだって、お前たちも知っているだろう? 人狼としての力を貸すと言っても、信じてくれないのではないか。仮に改宗したところで、私の過去は変わらん。人の味も……その愉しみも、覚えたままだ。それでも、私の居場所が出来るものなのか」


 この女も、複雑な構造なのかもしれない。

 人間を食う楽しみも、それに伴う罪悪感も人間の私には全く共感は出来ない。だが、別の行為に置き換えればその心情は少し分かるかもしれない。


 生きるために私は聖剣〈シニストラ〉を持つ。信仰は人のためにあってほしい。しかし、現実は理想のままにはいかない。時に私はアルカ聖戦士として教会へ尽くすために、人間を見捨て、それを正当化しなくてはならなくなる。生きるために仕方なく人を殺め、その生き方をどうしても変えられないという魔物たちを殺すこともある。

 戦いに勝つのは嬉しい。強敵に勝つのは楽しい。しかし、一方で、そうとしか生きられなかった相手を救えなかった空しさも心を蝕むマモノの一種だった。


 そんな時、私は何を拠り所にしているのか。


「それなら、過去に殺した以上に救えばいい」


 それを、短く答えてやった。


「人狼の力は人間にとって未知のものだ。聖下のために使うと誓うならば、誰だって有難く思うだろう。訓練された人狼戦士もたしかにいるが、とても多いというわけではない。同志が増えることは歓迎されるべきことだ」


 カリスの目がこちらを見つめる。その緑の輝きに向かって、私はさらに語りかけた。


「こっちに来れば、人肉なんかよりも美味い肉が食えるぞ。ディエンテ・デ・レオンのグルトン牛に、シトロニエのノブレス牛だ。それ以外にも、特別な飼料で育つ豚肉や鶏肉など、各国の極上の味で腹を満たせる身分が手に入る。どうだ? 盗賊なんかをするよりずっといいだろう?」


 すると、カリスは大きく深呼吸した。脳裏に浮かんでいるのは、美味しい食材にかぶりつく光景だろうか。そういう夢を持ちながら必死に暮らす者は数多い。人間もそうであるし、魔物たちだってそうだ。飢えと渇きとそれに伴う死の気配は誰にだって恐ろしく、ゆえに魔物や魔族は非力な人間を襲う。

 狩りをして手に入れることに疑問を持っている場合ではない。神が、信仰が、とのたまったところで世の中は厳しいものであるし、人間のための宗教なんざ末端の魔族や魔物たちにとって何の利益ももたらしてくれない。しかし、そんな魔物たちであっても、利権が関わると話は違ってくる。


 カリスはぼんやりと呟いた。


「もう狩りをしなくてよくなる、というわけか……」


 それは、心からのため息にも思えた。


 つい昨日、彼女は楽しそうに語った。帰る場所のない哀れなラヴェンデル女を凌辱した挙句に食い殺したというおぞましい話を嬉々として私に語り、その反応を楽しんでいた。それなのに、今日は今日でこんな表情をする。狂っているのか、狂いそうなのか、そのどちらが強いのかは分からないが、少なくともこの呟きは、冗談や嘘とは思えない本心からのものにしか思えなかった。


 カリスも自分の気持ちに気づいたのだろう。はっと我に返り、ばつが悪そうに目を逸らす。


「面白い話だな。気が向いたら甘えさせてもらうよ」


 そうして、彼女は力を抜いた。途端にその姿が狼へと変化する。わざと己が人間でないことを知らしめるためなのかは分からない。ただ、本来の姿をさらしてもなお、カリスという名前に相応しい美しさがそこにはある。


「話はよく分かった」


 カリスは言った。


「よく考えておくから、そろそろ別の話をしよう」

「別の話って?」

「お前の話だ。お前のことをもっと知りたいのだ」

「知ってどうする」


 何に利用する気だと思ったが、カリスもまた悩み始めたので意外だった。まさか、何も考えずに言ったのだろうか。他人を騙しながら生きてきた人狼にしては、妙に初心な気がして、それがまた奇妙で興味深いものだった。


「どうするって言われてもな」


 ようやく答えをよこしたかと思えば、そんなことを言いだした。


「ただ、知りたいだけだ。どうしてかは私も分からん」


 獣の顔で開き直られてしまうと、なんだか呆れてしまった。騙す気があるとかないとかそういう問題じゃない。町の酒場で出会った何も考えていない連中と何も変わらぬその姿に、警戒心すらばかばかしくなってしまった。

 ため息を吐きつつ、ふと思った。こういうのも悪くはない。話したところで悪用されることなんて何一つないのだ。カンパニュラの学長に拾われるという幸運で命を長らえながらも、その学長も亡くなり、妻も義弟も失った今、家族と呼べるものはもう誰一人としていなくなってしまったのだ。


 友人はいるが、友人は友人である。アルカ聖戦士の彼らとまた再び会えるとは限らず、いつどこで殉職してもおかしくはない。マグノリア王国出身であり、学友だった友人ピーターのように、任務先でその命を散らしてきたとしてもおかしくはない。まだ生きているジャンヌも、グロリアも、女の身でありながら剣を片手に奔走しているため、気軽に会って世間話を出来るようなこともない。


 そう思えば、この狼はどうだろう。人食いという意識は薄れ、話してやってもいいような気にもなった。昨日、しつこく聞いてきたのはサファイアの事だっただろうか。愛しい妻の話だ。いや、そちらはいい。まずは、自分の事を話そうか。


「じゃあ、子どもの頃の話でも聞いてくれるか」


 そう言ってみれば、カリスは驚いたように目を丸くした。だが、今言った意味を少しずつ理解していき、間違いなく聞き取れたままのことだと分かってからは、ぐいと狼の身を乗り出してきた。


「ぜひとも」


 アルカ語を忘れかけたと見えるが、まあいい。それだけ聞きたかったのなら、聞かせてやろうではないか。


「お前は昨日、カンパニュラ出身の私を妬んだだろう。違ったか?」


 真っ先に訊ねてみれば、カリスは狼の顔をゆがませる。


「ああ」


 彼女は男のように返事をした。


「妬んだかもな。カンパニュラっていうところは各国の貴族の子どもが通うのだと聞いていたからね。教皇領やクロコ国ならば並みの金持ちも通えるかもしれないが、それ以外の国となると違う。通わせるのにかなりの資金がいるのだと」


 よく知っているものだ。意外と盗賊という身分も侮れないものなのだろう。


「間違ってはいない」


 静かに肯定しつつ、私はカリスを見つめた。


「だが、断っておこう。私は大した家の子ではない。恐らくは商人の子……と思われるそうだ」

「思われる?」

「実は分からないそうだ。私はカンパニュラとイグニスの境の平原でたたずんでいたところを、当時のカンパニュラの学長一行が見つけたのだ。乗っていたと思われる馬車は倒れ、馬も御者も生きてはいなかった。中では私の両親と思われる人々が冷たくなっていたらしい。その風貌から察するに、ローザ大国の南部の街に住む貴族と思われたが、身元が分からずに終わってしまった。よって、大した家柄ではなかったのだろう、と」

「――で、何故、お前は生きていたんだ?」


 カリスの抱く当然の疑問に私は頷いた。


「聖戦士たちが馬車の周辺をよく見てみると、傍で異形の魔物が死んでいたらしい。人間に似ていたから、最初は家族の一人だと思ったそうだが、どうも違う。……そいつはマテリアルの男で、銀の短剣に胸を貫かれて死んでいた。刺したのは誰か。そんな疑問に答えるように、幼い私の衣服にも肌にも、汚らしい血がべっとりとついていたというのを、何度も聞かされた」

「想像するだけでぞっとする光景だな」


 人狼らしくない感想を口にしながら、カリスは犬が良くするように顎を地面につけた。


「その当時、何歳だったのだ? 家族の事は覚えているのか?」

「ほとんど覚えていない。……マテリアルを殺したという記憶もない。私はまだ幼く、五歳にも満たなかっただろうとのことだ。覚えているのは、絶望的に広大な平原の光景と、身の竦む恐怖心、そして愛した父母の悲鳴のようなものだけだ」


 本当に、それ以上は思い出せなかった。自分の名前さえも分からず、私はたたずんでいた。そんな私を哀れに思ったのが、カンパニュラの学長だ。慈悲深い彼は理想的な司教であり、指導者であった。孤児の受け入れ先をすぐに探してくれるほどに、彼は優しく、信頼でき、頼りになる大人でもあった。


「私はただの孤児ではなかった。マテリアルを殺したかもしれない少年だ。魔の血は一切引いていないと証明された後も、保護された私の将来を期待する声は早くもあがったらしい。それで、カンパニュラ入学の縁を手に入れたというわけだ」

「では、学費は?」

「学長が気にかけてくれたのだ。両親を失うという地獄のような状況で、一気に天国へと引き上げてもらったようなものだった」


 本当に、子どもの頃は不思議と幸運なものだった。共に育つ子供たちは誰もがいい家柄と身分を持っており、愛されて育っていた。その点、私は両親がいない。寂しいものだったが、それでも、あの頃は学長がいた。家族はいないが、彼は父のようなものだった。

 結局、気の合う友人たちと共に卒業し、アルカ聖戦士になってしばらくは、何の不自由もなく過ごすことが出来たのだ。


「だが、そんな日々にも終わりは訪れた。父代わりだった学長が亡くなったのだ」


 病気だった。悪い風が吹き、そろそろ老齢となる彼の身体を蝕んだのだ。彼の死は私の心までを蝕んだ。それでも頑張れたのは、友人の中でも特に親しかった三名の男女の存在と、派遣先となったローザ大国の西南部――フリューゲルという地で出会った、流浪の民の娘とその弟の存在が大きかったためだ。


「それが、サファイアとその弟というわけか?」

「弟はミールっていうんだ。ローザの言葉で『平和』や『世界』を意味する。彼はローザ生まれだからね。サファイアは違ったが」

「どこの生まれだったんだ?」

「マグノリアだ。マグノリア王国の北部……王国統一前には、シッスルと呼ばれていた地域の民だったが、統一の混乱期に住んでいた場所を追われ、命からがら海を渡り、ローザ大国まで流れに流れたらしい」


 その言葉にカリスが黙り込む。なんというべきか考えていたようだが、結局は口を閉ざしたまま、私の言葉を待つ姿勢をとった。


「彼女たちはリリウム教徒ではない。かつて大陸に築かれていたハダスという亡国の末裔で、サファイアもハダスの教えを守っていた」

「ハダスの民か」


 カリスは静かにそう繰り返し、緑の狼の目で私を見上げてきた。


「ハダスの末裔に、アルカ聖戦士の組み合わせか。聞いただけで腹がいっぱいになる。不吉な予感のする巡り合わせだな」


 単なる揶揄いでないことは私にも分かっていた。

 ハダスの民は様々な場所で差別される。リリウム教の信者はとくにハダスの民への不信感が強い。ローザ大国でもそうだったのだろう。サファイアの口からフリューゲルの人々の悪口なんてついに聞くことはなかったが、傍から見て分かるものだった。


「フリューゲルの教会の名簿にサファイアの名は記されていない。任務が我々を引き合わせてくれ、絆を深めるのにもさほど時間はかからなかった。だが、結婚となると、障害しかなかった。やがて、サファイアとミールの両親が亡くなった後もね。我々がどんなに愛し合おうとも、アルカ聖戦士への誓いも、彼女たちの信仰も、どちらも捨てることが出来なかったのだ。それでも、我々は結ばれた」

「お前たち人間というものは、本当に回りくどく面倒くさいものだな」


 カリスは素直にそう言った。


「気が合うのならば周囲など気にせずにくっつけばいい。二人がそれでよければいいんだ。お互いに信じる心を辞めさせる必要なんかないはずだろう。それだけのことがそんなにも深刻な問題となるなんてね」


 その時、私は初めてカリスのような身分のものが羨ましく思えた。

 これまではあんな惨めな暮らしを強いられる異教徒が哀れなものだった。大地の精霊などという者に何故縋るのかが分からなかった。潔く世界の流れに乗ってしまえば、きっともっと楽になるはずなのにと、そう思った。もちろん、そんな思いは幻想でしかないと大人になってから分かったものだが。

 それでも、こんな風に羨ましく思ったことはない。今日が初めてだ。おかしなことだし、身勝手なことでもある。だが、これも私の本心の一つなのかもしれない。


「まあ、いい。お前たちのことが少しわかったぞ。心労というものはどんな呪いよりも厄介だ。長生きできぬことにも納得がいくな」

「ああ……だが、サファイアが死んだのは、彼女がハダスの民だからではない」


 そこで、興味を持つカリスの狼の顔をまともに見て、ふと、続く言葉を見失ってしまった。本当のことを言うのにためらいが生まれたのだ。きっと、こんなにも親しげに接してくれるからだろう。そんな人狼は物珍しい。恐らく、行く当てもなく、恐ろしい魔女に狙われているという絶望的な状況が彼女をやけくそにしているのかもしれないが。

 だが、どんな理由があろうと、私は言えなかった。ぼかして言うしかなかった。人間として当然の感情だろうと我ながら思う。


「サファイアは運が悪くて死んだのだ。誰でも遭うような事故でね」

「事故死か。不憫なものだな」


 カリスは疑問にも思わずにそんな感想を述べた。それでいい。真実のすべてを告げることはない。

 気づけば、サファイアとミールと共に過ごした日々が遠ざかっていることに気づかされる。あの頃の私にとって、安らぎとはもっと身近なものだった。それなのに、どうして私は今、ここに一人でいるのだろう。

 アルカ聖戦士でいる限り、志を共にする仲間には恵まれている。しかし、その仲間たちは、かつてサファイアとミールのようなハダスの民を拒んだ者達でもある。そう思うと複雑だった。


「ミールはどうした。そっちは生きているんだろう? 学校にでもやったのか?」


 ふと興味を持ったらしいカリスに問われ、心がさらに重たくなった。

 サファイアの死。愛した者の死は本当に辛かった。認めることが出来ないほどに、苦しく、悲しいことだった。それでも、彼女は幼い弟を遺したのだ。雪のように白い髪を持つ少年。ミールという名前が非常に似合う、無邪気で愛らしい少年で、姉によく似ていた。そんな彼もまた優しかった姉の死に嘆き、世の中を平和にするにはどうしたらいいのかを考えていた。

 彼は優秀だった。教えたことはすぐに覚え、カンパニュラの学生に相応しい素質があった。そう、彼がいれば、サファイアのいなくなった世界でもどうにか生きていける……はずだったのだ。


「はず?」


 淡々と語る私にカリスは容赦なく問いかけてくる。

 聖戦士の男子たるもの鋼の心を持て。それは、女戦士よりも強靭でありたいという男戦士たちの間で囁かれ、共感される価値観だった。クルクス聖戦士になった者は特に守りたい価値観だろう。しかし、私の心は、悲しみに惑わされる軟なものであるのだ。


「すまないが。それ以上は語りたくない」


 だから、私はカリスの問いを拒絶した。

 カリスはじっと私の顔を見つめていた。その視線に応えるのが気まずく、軽く目を閉じた。逃げるための、遮断だ。クルクス聖戦士は笑うかもしれないが、アルカ聖戦士はよく使う手段である。それほどまでに外は危険が多すぎるのだ。

 そうやって自分を守ることしばらく、カリスがようやく口を開いた。


「そうか。それは、悪かった」


 あっさりと納得した。

 目を開けてみれば、彼女は大きな狼の姿でその場に寝そべっていた。もうそれ以上は聞いてこないらしい。語るべき話題を失った私たちは、そのまま静かな時を共有した。大渓谷の雑音しか聞こえてこない時間。静かなる癒しを感じていると、次第に睡魔が襲ってきた。この揺りかごに身を預けるような安心感は何だろう。疑問に思う間もなく、私は深い眠りの先へと足を延ばし始めていた。

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