4.案内
翌朝になってみると、カリスはもう何処にもいなかった。襲ってこなかったのはもちろん、目覚めた私を愚弄するような声かけも一切なかった。
きっと私という人物に呆れて何処かに行ってしまったのだろう。そう思うならば今夜は来ないかもしれない。ほっとしたような、少し残念になるような、奇妙な気持ちだ。
気を取り直して支度に専念した。ディエンテ・デ・レオンに向かっているのは単なる慰安旅行ではない。そこで会わねばならぬ人がいるのだ。会って確認しなくてはいけないことがある。そのための旅は孤独でいい。むしろ、孤独の方が都合もいい。誰かを道連れにした旅はよろしくないし、ましてや人狼女なんてもっといけない。
これは差別ではない。のっぴきならない事情があってのことだ。ディエンテ・デ・レオンで待っている人が何者であろうと、私個人の心情として人狼の、それも女に会わせたくなかった。
しかし、いざ独りぼっちにされて、雄大なヴィア・ラッテア大渓谷を歩かされてみれば、昨晩に嫌というほど聞いたカリスの声が懐かしく思えてしまうものだった。
自分でも信じられない。私はこんなにも軟弱な人間だったのだろうか。昨日出会ったばかりの、それも自分を襲ってきたような野蛮な人狼を、少しの間親しく会話しただけで恋しく思うなんて馬鹿げている。
アルカ聖戦士になったばかりの頃は、もっと直向きに生きてこられたはずなのに。カンパニュラの学園を共に巣立った三人の仲間たちと誓い合って、男も女もなく、お互いに競い合うように名声を上げていったあの頃の私は何処へ行ったのか。
ああ、そうだ。
シトロニエ国を通るのならば、盟友ジャンヌの訪れるはずのジュルネの教会には絶対に行かないと。そこで久しぶりに忘れかけていたカンパニュラの匂いに触れてしまえば、迷うこともないかもしれない。
そう思うと早くジュルネ地方に向かいたくて仕方なかった。
だが、ジュルネといえばディエンテ・デ・レオンとの境であり、ヴィア・ラッテア大渓谷からは非常に遠い。進むしかないと分かっていても、気が遠くなるものだ。ならば、ジャンヌとたまたま出会えることを期待してみようか。とにかく、話がしたかった。別任務に就いているグロリアでもいい。会えるのならば、一足先に死後の世界の住人となってしまったピーターでもいいから、化けて出てきてくれないものか。
――いや、ピーターは駄目か。
死人ともう一度会う。それはとても不吉なことだ。その正体は亡霊でも何でもなく、死霊と呼ばれる魔物であることが多い。死霊というものは人間の血を引く者を獲物とする。そのために人間の血を引く死人の魂を捕らえ、この世界に現れるのだとされていた。
そう、一度死んだ者には二度と会えないのだ。死霊は死んだその人ではない。姿は似ていても、中身は違う。騙されてはいけないし、願ってもいけない。それが、正しい教えであることは十分理解しているつもりだった。
――だったのだが。
「サファイア」
亡き妻の姿が脳裏に浮かぶと、途端にすべての思考が滞ってしまう。必死に考えなくてはいけないことがある。よく考えて、冷静さを取り戻して、そのうえで判断しなければならないことがあるはずだ。
それなのに、私はやはり歩んでしまうのだ。そこに可能性を転がされてしまうと、楽しかった思い出がよみがえり、思わず手を伸ばしてしまう。
「サファイア……ミール……おれはどうしたらいいんだろう」
分からないまま、私は歩き続けた。歩くことが一つの答えであり、方法でもあった。亡き妻と義弟の存在感はそれほどまでに強烈で、理性だけで処理するにはあまりにも多くのものを遺していってしまったのだ。
だから、この道を歩いて進むしかなかった。
そんな時だった。
「ゲネシス」
名を呼ぶ声がして、我に返る。
振り返れば木々の間に不自然な影があった。日が照っているためだろう、彼女は影の中から出ようとしない。それでも、誰かは分かった。その声をもうすっかり覚えてしまっていたからだ。
「悪いことは言わない。迂回しろ。道なら私が教えてやる」
「何故だ?」
「この先に化け物がいる。熊よりも厄介な人食い族だ。それも知性に乏しいタイプのようで、欲望にとても忠実。力ですべてを解決しようとする」
「この剣でも敵わなさそうな相手か」
揶揄うようにそう言ったのは、自信があったからだ。私はたしかに魔の血を引かぬ人間で、人狼であるカリスから見れば頼りないのだろう。それでも、アルカ聖戦士として生き延びて数年。それが意味することは、魔物にも引けを取らない実力と、積み重ねてきた経験である。
それでもカリスが吐息だけで否定的な見解を示したのを感じ、こちらも素直に肯いた。
もちろん、分かっている。こんな自信に惑わされてはいけないのだ。いつだって過信は身を亡ぼす要因であるし、迫りくる困難を乗り越えるのではなく、自らその困難に不必要ながら近づいていくという行為は愚かでしかない。
実力試しは目的があってこそだ。その目的が今はない。少なくとも、ヴィア・ラッテア大渓谷でのびのびと暮らしているはずの知性に乏しい人食い族の生命を脅かしに行くだけの因縁も権利もない。
「じゃあ、案内してくれるか」
そういうわけで、カリスの提案に乗ったのだ。
相手が普段、どのようにして稼いでいるのかも察しがついていたし、初めて出会ったときのことを忘れているわけではない。ちょうどこのくらいの時間だっただろうか。カリスは私の血肉を求めて襲い掛かってきたのだ。そんな彼女の後に続くことは不安でなかったのか。もちろん、警戒はしていた。だが、私は私自身の力も信じていた。そうでなければアルカ聖戦士としてやっていけない。
相手もまた聖剣〈シニストラ〉を所有しているが、所有しているだけではいけない。ただぶん回すだけでは意味がない。それならば、人狼として生まれ持った力が彼女の武器となろう。ならば心配はいらない。彼女よりも凶暴で力強い荒くれ者の人狼たちならば何人も斬ってきたのだから。
それに、私の警戒や一抹の不安も無用のものと分かった。カリスはいかにして私を脅すかということではなく、始終、ヴィア・ラッテア大渓谷の空気に気を使っていた。彼女が申し出た通り、この近くに関わりたくない人食い族がいるのかもしれない。
強者と戦って討ち取ることは勇ましい戦士の条件でもあろう。実際に、神の教えを拒むような蛮族どもの中にはそうやって度胸試しをすることで男となると信じている者たちもいるし、聖戦士として共に誓い合った同胞の中にもそういう向こう見ずはいるものだ。
しかし、カリスというこの化け物はそうでないらしい。身寄りがない女であるからだろうか。己の力の限界を知った者の生き残り方は馬鹿に出来ないもので、魔の血を引かないしがない人間の私もまた参考にすべきものであった。
言葉を交わさずに私はカリスに続いて歩み続けた。馬車の通るような道を外れだしたときはさすがに警戒を強めたが、結果的にそれでよかったことが後から伝わってきた。轟音と悲鳴、そして猛々しいケダモノの凱歌のような咆哮が聞こえてきたのだ。
哀れなその悲鳴は男女複数の声が混じっているように聞こえた。全く違う旅人が襲われたのだと察した。そして、襲った者こそが、あの凱歌の咆哮の主なのだろう。
カリスがふと振り返り、静かに首を振る。表情は険しく、憐れみなどは含まれていない。ただ厳しい顔と少しだけホッとしたような感情が見て取れただけだった。
結局、その後も会話はせずに進み続けた。
日は陰り、何事もなかったかのように暮れなずむ。ヴィア・ラッテア大渓谷の景色は残酷なまでに美しく、先程の悲鳴など嘘だったかのようだ。それでも、私は忘れずに意識した。誰かが身代わりになった。よくあることだ。旅をしながら各国を巡るアルカ聖戦士ならば、多くの旅人と出会い、そして良くない別れ方をするものだ。クルクス聖戦士ならば手を貸すかもしれないが、アルカ聖戦士は違う。我らは十字架ではなく箱舟なのだ。目的のみを乗せて進む我らは時に残酷に溺水する者を見捨てるものだった。
それでも、我らは血の通った人間でもある。アルカ聖戦士の中には人の血を継がぬものもいるが、それでも神に誓った我らの大半は人の心というものを持っているのだ。忘れかけるにせよ、心が痛まないという事は普通ならばない。そして、私はその普通の人間……普通の男に違いなかった。
ようやく安全を嗅ぎ取ったカリスが立ち止まった頃には真っ暗で、虫の声や妖精たちの囁き声が大渓谷の夜を彩っていた。多くの村人や町人はそれが不気味だと述べるが、私は嫌いではない。同じく好きだと言った人物は、カンパニュラで誓い合った学友、そうでなければ、美しい異教徒の妻サファイアだった。
「安心しろ」
私の表情が優れなかったのか、カリスは開口一番そう言った。
「化け物はもう追ってこないようだ。複数の犠牲者がいたようだからね。しばらくは満足するだろうよ」
ちっとも慈悲のこもっていないその声に、私は距離を感じてしまった。人狼だから、というわけではないだろう。同じ人狼であっても、聖戦士ならばもっと心を痛めるものだ。そうではなく、カリスは異教徒であり、社会に馴染まずに暮らしてきた身分だ。利己的に生きてきたからこその態度なのだろう。
咎める元気はなかった。助けてもらったのはこちらの方だ。アルカ聖戦士はそういうものである。カリスに説教できる資格などないことは自分が一番よく分かっていた。それでも、私の本心は何らかの形で漏れ出していたのだろう。カリスは私の顔を見つめると、少し不満そうな顔をしてその場に座り込んだ。
「なんだ。食い殺されたかったのか?」
「そうじゃない。ただ――」
「ただ?」
ただ、何だろう。
カリスに助けてもらったのは嬉しいし、有難い。気の狂った人食い族と戦ったところで勝てる自信はないし、任務外の場面で身内以外の人物を救いに行くことはこれまでだってなかった。
それなのに、どうして、心が痛むという現象はなくならないのだろう。
「……ただ、割り切れないだけだ」
やっと見つけた言い訳を述べると、カリスは小さく唸った。
「割り切れない、か。さすがは、いい学校を出たお坊ちゃんだ。見ず知らずの旅人の命なんざ、私のような身分の者にゃ気にしている余裕がない。お前が羨ましいくらいだよ」
厭味ったらしく言われて怒るところなのかもしれないが、あいにく、怒りはわかなかった。ただ、答えるのが面倒なだけだった。
ああ、しかし、いくら面倒でも言うべき言葉はある。それだけは忘れないようにしなければなるまい。
「カリス」
きちんとその翡翠のような双眸を見つめ、私は告げた。
「案内をありがとう。おかげで助かった」
すると、意外だったと見えて彼女は肩をすくめた。
「そうやって素直に礼を言われると奇妙な気分だな。まあいい。まだ油断は出来ぬぞ。今宵もついていてやるから感謝するがいい」
偉そうな態度を忘れずにそう言ってのけたのだった。




