2.人食い狼
日が傾き始めると、ヴィア・ラッテア大渓谷では発光する精霊たちが活動を始める。彼らが、シトロニエ人にエフェメールと呼ばれる者たちだ。
空に浮かぶ星の瞬きよりも控えめに、彼らは緑の光をばらまくのだ。その輝きは、いつもならば取るに足らない飾りとして受け止めていた。だが、今日ばかりは落ち着かない。緑の輝きが暗闇に浮かぶ魔物の目のように見えるのだ。そう、緑。この色は落ち着かない。なぜなら、昼間、私を揶揄ってきたあの化け物と同じ目をしているからだ。
焚火の温もりに癒されながら、私は静かで話し相手もいないこの時刻をどう乗り切るかばかり考えていた。
約束の場所は近づいてきている。だが、まだ遠い。遠すぎる。ローザ大国からディエンテ・デ・レオンまで移動するとなれば、遠いのは当然のことだ。それでも、ローザ大国の片田舎で目にした懐かしい女性の顔は美しく、やはりまた目にしたいと思うものであったのだ。もう会えなかったはずの彼女。その再会が呪われているということは、よく分かっているつもりだ。
――それでも。
「……サファイア」
その名を口にすると、空しさがこぼれた。
間違っているのは分かっているつもりだった。実際に目にするまで、自分がそちらに傾かないと信じていた。それなのに何故、私はイグニスに戻らず、ここにいるのだろう。
「本当に、サファイアなのか」
「――サファイア?」
突如、声がして、ぎょっとした。
気づけば焚火に当たっているのは私だけではなくなっていた。一人きりのこの寂しい場所に、美しい女が同席していたのだ。知らない奴ではない。顔を見て、目を見て、その髪を見て、そして地面に無造作に置かれた〈シニストラ〉の聖剣を見て、やっと今の状況を正しく把握した。
あの狼女だ。きっと影道という人狼のための空間を通ってきたのだろう。焚火の周辺は影だらけだ。忍び寄るのは容易かったらしい。
我ながら油断したものだが、彼女の表情を見て、そのまま黙った。どうやらこの女に敵意はない。目のわずかな動きを見ればわかる。まるで友人にでもなったかのように、彼女は興味深そうに私の顔を見つめてくるだけだった。
「サファイアとは珍しい名だ。そういう名前をつける親がいるとは」
「……流浪の民の子孫だったからね」
うっかり返事をしてしまったのは、きっと私も寂しかったからなのだろう。虚構だとしても、親しそうに話しかけてくる人物は、自分で思っていたよりも、やはり貴重なものだったらしい。カンパニュラに居た頃ならば、そのような自分の弱さに辟易したものだっただろう。だが、今は違う。少しの交流が、心に響くまでに、私は会話に飢えていた。
「へえ、流浪の民か。しかし、いくら流浪の民でもサファイアという名くらいは知っていそうなきもするが……。【虚言癖のサファイア】といえば有名な罪人の名だ。大昔の人物ではあるけれども、そういう名前をね」
確かに有名な話ではある。だが、正直驚いてしまった。浮浪者の格好をしているようなこの女がそのような教養のあることを言いだすとは思わなかった。
有名とはいえ、学問に触れる機会がなければ知りようがない。よって、宝石の輝き、その尊さに心を奪われた両親が可愛い娘につけたとしてもおかしくない名前と言える。本当に珍しいことでもないのだ。片田舎の学校で聖職者となったような人物であったとしても、此方が常識だと思っていたような意外なことを知らなかったりするものなのだ。
それなのに、この女ときたら。
「お前は何者だ? ただの浮浪者じゃないな?」
「おや、意外か。そうだろうな。人食い狼だものね」
にやりと笑いながらそう言うと、彼女はあっさりと答えてくれた。
「こう見えて、故郷ではきちんと学校に行っていたのだ。それも、質のいい教師だった。もっとも、その故郷も今はなくなり、かつて親しくしていた一族は、揃って別の場所に暮らしているらしいが」
「なくなった?」
訊ね返してしまったが、無遠慮なことをしたとすぐに反省した。
別に珍しい話ではない。どんなに長閑で美しく、温かい人が集まっていようとも、少し歯車が狂えば端々の村から消えていくものだ。とくに人狼の一族の村ともあれば、そんなものだろう。どんなに聖下が愛を説いたところで、何も変わらない。教皇領でぬくぬくと暮らす同胞たちは、各国の都で恵まれた暮らしをしている者たちは、何も知らないままだ。
私の表情を見つめ、狼女もまた首をかしげる。だが、やがて目を細め、そのままくつろぎの姿勢に戻った。
「気になるなぁ」
彼女が言った。
「サファイアっていうのは、どんな人物なんだ? きっと、女なのだろうなあ? これから会うつもりか? ……ああ、ひょっとして現地妻というものだったりしてね。意外とあり得るぞ」
「お前には関係ないだろう?」
「おや、怒っているのか? いいじゃないか、ちょっとぐらい教えてくれても。こちらも話題が欲しいんだ。ああ、そうだ。お望みならば、この私の話をしてやろうか?」
「聞きたくないね」
「ふうん、つまらん男だ。まあいい。それじゃあ、お前の話をしよう。行先は何処だ? 何処に向かっている? シトロニエに向かっているのか? そこで何か楽しい事でも?」
シトロニエ国は現在、何処も荒れている。大革命があったばかりで混乱しているのだ。
新政府からは「民衆のために出来ることを」という目標が高々と掲げられてはいるが、その言葉が国の端々に届くまでには時間がかかりそうだ。シトロニエで楽しい光景などあまり見られないだろう。
だが、その一方で、少し期待していることはあった。ジュルネ地方の町に旧友が向かっているという話を聞いたのだ。カンパニュラで共に学んだ女性。サファイアではないが、気の許す同胞である。共にアルカ聖戦士となった三人の仲間のうちの一人だ。このヴィア・ラッテア大渓谷の別名を教えてくれたジャンヌ。会うのはいつ以来だろう。
こちらは休暇の身で彼女は任務中であるが、そういう場合でも、時間を見つけて会ってくれるのが彼女だ。顔を見て話せば心が落ち着くだろう。それだけ、今の自分は気持ちが荒れており、悩んでもいた。相談したいこともあった。
しかし、こんな事情を何故、今日会ったばかりの人物――それも、自分を襲ってきた人狼なんかに話さねばなるまい。そういうわけで、私は距離を守った。
「そんな予定はないし、あったとしてもお前に話すつもりはない」
「つまらん奴だ」
不貞腐れて彼女は目を逸らす。その時、風向きが変わった。彼女の方から漂う風と炎の温もり、そして微かに届いた臭気に、注意が引き寄せられる。ある意味で、嗅ぎなれた臭いだ。何処でもそういうものは漂っているものだし、人々もまた心のどこかで求めている。そういう悲鳴や嘆きをまとった臭いが、目の前の美しい女から漂ってきたのだ。
「お前……」
思わず声をかけてみれば、狼女はふと私の表情に気づき、少し考えてから改めて気づいたように笑った。意地悪なその笑みに、ますます嫌悪感が募る。
「そうか。ではやはり血の臭いか」
「正しくは新鮮な臓物の臭いかな。お前を食い殺さなかった分だ。言っただろう? 私だってこの世に生を受けた以上、食べなくては生きていけないからね」
そして、楽しいことでもあったかのように狼女は語りだした。
「お前と別れる前から気配は感じていた。ヴィア・ラッテア大渓谷をとぼとぼと歩く寂しい女だ。ラヴェンデル南部の出身とのことで、故郷の訛り言葉を喋ってやればすっかり気を許してくれた。貞淑な処女だったようだが、流行り病と内乱で村が困窮し、都に売られるところを逃げてしまったらしい。その話を心行くまで聞いてやり、生まれた時から待ちわびていたはずの悦びをこの私が与えてやったのだ。……餞別としてね」
聞きたくもない人の悲惨な最期を聞かされながら、私はただ首を振った。
こんな話を聞かされても、証拠がないという理由で剣を向けてはならないなんて。だが、その一方で、本当にそれを証拠だと信じていいのか疑う余地もなく断罪が行われる時だってあるのだ。
この狼女はそれを分かって告白しているのか、ただ揶揄っているだけなのか。
人狼の言うことなど信じてはならない。聖剣を持っていようが、神に忠誠を誓っていないのだから当然のことだ。
ならば疑おう。そんな哀れな娘はいなかった。そう信じて聞かなかったことにしよう。本気で蔑み、剣を向けようものなら、この狼女の期待通りとなってしまうかもしれないのだから。
「ああ、お前にも聞かせてやりたかったね。自分を清純な乙女だと信じていた小娘が堕ちていくその有様をさ。男を知らぬまま、女の姿をしたものに抱かれ、自暴自棄ながら背徳の痛みと悦楽に耽っていたよ。衣服をすべて剥いだのは何のためなのか分かっていなかったのだろうな。白い肌に浮かぶ血の色は美しく、迫りくる死の気配の正体すら分からずに冷たくなっていくその姿は獲物ながらぞくぞくするほど魅惑的だった。その悲鳴ときたら……。ああ、思い出すだけで楽しくなる」
狂ったように彼女は嗤う。
「帰る家も、家族も、仲間も、生きていく過程で、何もかも失ってきたのだ。もはや、あの瞬間だけが私の楽しみだ。人間という哀れなケダモノの悲鳴を聞く瞬間だけが……」
「哀れなケダモノはお前の方だ」
それ以上の言葉は差し控えた。本当の事かどうか確かめる術はない。目の前の女から漂う血の臭気が人間のものかどうかを確かめることも出来ない。確証のない状況で、ただ正義感だけに寄り添いながら咎める気にはならない。
それに今は疲れていた。この女の話をするだけで精いっぱいだ。
「……確かにそうかもしれないな。だが、それならお前たち人間も変わりやしない。生きた子ブタを前に、それをいかに美味しく食べるか、疑問もなく考えるだろう? 料理だってその一つだ。私は料理しただけ。手に入った若い娘の肉をいかに美味しく食べてやるか考えただけのこと」
「まさに悪魔の料理だな。同じ人狼の戦士が耳にすれば、怒りのあまりお前の皮を剥いでしまうだろう」
突き放すつもりでそう言ったのだが、狼女にはあまり効いていなかった。
「そうだな。確かに怒るだろう。お前たち聖戦士というものはプライドが高い生き物だからね。しかし、私から見れば傲慢なものだ。いかに自分たちが恵まれた食事をしているのか分からないのだろう。こうやって、人を襲わずに清らかな心と体を保ったまま、暮らしていけるのだからね」
そう言って狼女はまたしても笑い出した。その狂った笑いは見る者を不快にさせる。世の中を憎んできたのだろうか。絶望してきたのだろうか。見ているだけで、落ち着かなかった。
「文句があるならお前も目指せばよかったのだ。人を襲う化け物になり果てる前にな」
おそらく自分の心を守るためだろう。彼女と自分は違う。そう思いたかったのかもしれない。気づけば私はそう言っていた。途端に狼女の目がギロリとこちらを睨みつける。先ほどとは表情が一変していた。
「所詮お前もアルカ聖戦士だな。学校は何処だ? 当ててやろうか。その世間知らず具合はカンパニュラではないだろうか」
図星だった。その表情には恨みが込められている。ああ、頭では分かっていたとも。この世界はいまだ本人の努力ではどうにもならない壁があるのだ。信仰が人々の支えとなり、正しい生き方は死後の安らぎを守ってくれるものだと聖職者たちが説き、皆、その教えに縋って正しく生きようとしていた。そうしなければ辛すぎるためだ。生きることが、辛すぎる。しかし、辛いからと投げ出して惨めに死ぬのはもっと辛い。
聖戦士は体を張って戦うが、恵まれているのは確かだ。傭兵ならば特別な学校に行かずともなれるが、聖戦士となれば違う。この身分はまとまった金と後見人がなくては手に入らないものなのだ。
そういう世界から見放された果てが、目の前の狼女の姿だ。
「正直、聖なる武器をぶん回して偉そうにしている犬どもなんて、同じ人狼とは思いたくない……しかし、私だって分かっている。この感情すらも、裏を返せば羨望によるものなのさ。所詮、私は卑しい身分だ。故郷も仲間も失い、ある魔女のせいで仕事も失った。こうなれば世界にしがみついて、弱い者から掻っ攫って食い殺しながら緩やかに死から逃れるしかないのだよ」
野生動物と同じ、ということだろう。
こうして言葉は喋れるのに、哀れなものだ。ラヴェンデル出身といったか。訛り言葉を話してやったと言っていた。ならば、こうして私と会話をしているアルカ語以外にも喋れる言葉があるのだ。せっかくの語学がありながら、こうしてみすぼらしい恰好をしながら彷徨っているとは。
そのうえ、私のようなアルカ聖戦士などと会話をしたがるほどに、人恋しいわけだ。人間を騙し、食らっておきながら、会話を求めるなんて、本当に哀れな生き物だ。
「お前、その状況から逃れたいと本気で思うか?」
炎を囲んでそう訊ねてみれば、狼女の緑の目が驚いたように開いた。意外な質問だったのだろう。だが、しばらく考え込むと、かすかに狼らしく唸りながら肯いた。
「そうだな。逃れられるのならば、逃れたい」
そして、怪しげな笑みを取り戻す。
「まとまった金と確かな身分が手に入れば、人間を食い殺すこともなくなる。……それを楽しいことだと思い込まねばらなぬ必要もなくなるだろう」
どうやらそちらが本心らしい。黙って私は聞き続けた。
「狩猟本能には抗えないかもしれないが、食欲さえ満ちるのならば人殺しなんて面倒くさい種をまくことはない。マグノリアの地下街、あるいは、シトロニエ国のクレプスキュール街なんかで暮らせば、その手の欲望を満たせる娼館がある。そこで鬱憤を晴らせば人間狩りに手を染めることもないだろうよ」
信仰心が絶望的に足りない主張だが、相手は人狼であり、人狼には神のみぞ知る性質があるものだ。魔女や魔人の性などと同様、理想論では一生解決できない現実がそこにはあり、平和を追求するからこそ必要な物事も存在するものなのだ。
そういうわけで、獲物を追い詰めたいという狩猟本能が強い種族のものたちのための娼館は決して取り壊してはならない場所でもあった。ただし、誰もかれもがいけるような場所ではない。貧しければそもそも入ることさえも出来ないものだ。
だが、私の提案はもっと違う。この狼女が想像もしないようなことだった。
「お前のその人狼の力、リリウム教会が借りたいと言ったらどうする?」
「――なに?」
不快そうに狼女が訊ね返してくる。警戒心を隠すことのない表情だ。
「協力的な人狼は貴重なものだ。もしも、これまでの罪を悔い改め、神に仕えると誓うならば、お前には新鮮な肉と居場所が提供される。人狼として生まれもった力でリリウム教会を守ると約束するならば、お前は化け物を辞めることが出来る。その狩猟本能を持て余すくらいなら、人々のために使う気はないか?」
「……信じられんな。家柄も人柄も確かなものでないうえに、罪なき人間の命を弄び、食ってきたこの私が、教会に受け入れてもらえるのだと?」
「確かに、お前が一人で行ったとしても門前払いだろう。だが、アルカ聖戦士の紹介があれば話は別だ。どうだ、狼女。化け物を辞める気はないか?」
本能のままに生きる人狼は好きではない。しかし、それは人狼という種族全ての問題ではないのだ。愛する妻は人狼によって殺された。しかしその一方、任務を助けてくれた人狼戦士だって存在したのだから、混同してはいけない。
人狼だって機会さえあれば生き方を変えることは出来る。もしも、人狼の飢えを解決する方法があるならば、それを勧め、化け物となる人狼の数を減らせばいい。そうすれば、亡き妻サファイアや、この度、犠牲になったというラヴェンデルの女のような不幸な者は減っていくはずだ。
だが、狼女の警戒心は薄れない。
片膝を立てて頬杖を突き、疑うような表情で私を睨みつけたのだった。
「会ったばかりの――名前も知らないような男の誘いなんて怪しいだけだな」
そんなことを言うので、思わず揶揄ってしまった。
「そんな男の焚火に共に当たるお前は何なんだ」
笑いかけてやると、狼女はむっとした表情を浮かべた。
「まあ、いいさ」
そう呟いてから、私は彼女に改めて向き合った。
「ならば、きちんと自己紹介でもしようか。私の名前はゲネシスだ。カンパニュラ出身のアルカ聖戦士。休暇中で今はディエンテ・デ・レオンに向かっている。お前が望むのなら、シトロニエ国のいずれかの教会に案内してやろう。お前が何故か肩入れする革新派ではなく、保守派の教会だけれどね」
「ゲネシス、か。まあ、覚えておいてやるよ」
そう言って目を逸らすものだから、私もまたむっとした。
「おい、お前は? いくら人狼でも名前くらいあるのだろう?」
「当たり前だ。我々人狼を見下すのなら許さんぞ」
緑の目に不快感がこもる。だが、すぐに怒りを引っ込めて、素直に応じてくれた。
「――カリスだ。ラヴェンデルで育った。生まれは知らん。この名を遺してくれた母親のこともね」
「カリスか。いい名前だ。古代イリスの神話にその名前の美の精霊が登場する。確かに、美女に化けたものだ」
「ふうん、さすがアルカ聖戦士。世間を渡り歩いているだけあって、世辞は上手いようだな。化けたというが、この姿は生まれつきのものだ」
つんとした態度でカリスは言った。
もちろん、彼女がわざわざ美女の姿を選んで変身したと言いたいわけではない。単純に、その名が相応しいと思っただけだ。髪を洗い、垢を落とし、綺麗な衣服を着せれば淑女のようになるだろう。それに教養もあり、理性もきちんとある。アルカ聖戦士である私が力を貸せば、この哀れな狼も人間として暮らすだって出来る。そして、これまで食い殺してきた人間の数以上に、救うことだって出来るはずだ。
「では、カリス。お前はどうしたい? 焦らずゆっくり考えてくれ。少なくとも、ディエンテ・デ・レオンのマルの里に入るまでは力を貸してやれるぞ」
それ以降は保障できない。その諸々の事情までもを話すつもりはないが、カリスの方も何らかの納得をしたらしい。
「――分かった。せっかくの縁だ。考えてやってもいいぞ」
傲慢ともいえる態度で彼女は言ってのける。そして、にやりと笑いだした。
「ああ、そうだ。縁ついでにこれも頼んでおくか」
そう独り言ちてから、こちらに向かって告げた。
「この近くの話なのだが、とある魔女の一行が旅をしている。聞いて驚け。その魔女ときたら〈赤い花〉を宿しているのだ」
「〈赤い花〉……」
「花売りの兼業していそうな情報屋の翅人男に付きまとわれている。なあ、危なっかしいと思わんか? 〈赤い花〉はお前たちの中では貴重な存在だと聞いているぞ?」
「――確かに、それは否定しない」
「そうか、じゃあ、捕獲してやってはどうだ?」
やけに勧めてくるその態度に違和感を覚えつつ、私は首を横に振った。
「悪いがそうはいかない。貴重な存在であろうと、自然に生えているものをむやみに摘み取ってはならないのだ。その魔女を取り押さえる正当な理由でもない限り、我が教会は手出しが出来ない」
「罪なら犯している。これだよ」
そう言ってカリスは聖剣〈シニストラ〉を見せてきた。
「この剣の持ち主は吸血鬼だった。たしか、エスカという名前だったな。囮というクロコ語を思い出せば偽名かもしれんが、アルカ聖戦士であったのは確かだ」
「あいにく、知らない奴だ。アルカ聖戦士といっても大勢いるものさ」
ただ、アリエーテの町で起こったということが頭をよぎった。処刑される予定だった女が消え、アルカ聖戦士であった吸血鬼の男が無残な遺体で見つかった事件である。
「知らなくてもいい。よく聞くがいい。この剣の持ち主エスカは死んだ。殺されたのだ。殺したのは〈赤い花〉だ。アマリリスという恐ろしい魔女なんだよ」
「……アマリリス」
何処かで訊いたことのある名前だ。花の名前。古代イリスの神話に出てくる人物の名前。それだけではない。もっと不確かな噂話として聞いたことがある気がしたのだ。人狼が戦々恐々として語るアマリリスという魔女。
アルカ聖戦士として世界各地を回っている間、そういう名前に触れる機会があった気がしたのだ。
それはそうと、魔女か。正直、そちらもあまり好きではない。人狼と等しく、改心すれば仲間にすらなれると分かっていても、感情がその種族を許したがらないのだ。アルカ聖戦士は時に私情を捨てなくてはならないのに。
だから、私はため息を吐き、心を落ち着けた。
「せっかくの耳より情報だが、アマリリスという人物を捕らえよという命令は下っていない。それにお前の意見を上に伝えるのもいいが、それだけで正確に伝わるとは思わないし、下手すれば何もされないかもしれない。……というのもね、おそらくそのアルカ聖戦士だと思うが……アリエーテの町に派遣された同胞に背徳行為があったと聞かされたからだよ」
「背徳?」
訊ね返すカリスに私は頷いた。
「任務の合間に花嫁探しをし、魔女狩りに火をつけるような行為を進んでしたらしい。諜報員がたまたま目撃していたのだ。彼らもその行く末までは目撃できなかったそうだが、報告によれば罰せられるべきは我らが同胞であったはずの男であり、罰した者は誰であろうと正義であるのだとさ」
「……馬鹿な。お前たちの仲間だろう?」
「仲間だとしても、つつましく暮らす人間の女性に罪をかぶせ、吸血鬼の里に攫うなどという野蛮行為は認められない」
聞いた話では、その男は吸血鬼の三つのタイプのうちの一つ、マテリアルという種族のものだったらしい。マテリアルは成熟すると老化しなくなるという不思議な特徴があり、マグノリア王国などで錬金術の研究が今よりも盛んだった時代、未成熟のマテリアルを使った実験が数多く記録されている。マテリアルという名もそこが由来であるとカンパニュラで習った覚えがある。しかし、彼らは一度力をつければ手に負えず、錬金術師が殺される事故も多かったらしい。
年頃になるとマテリアルは年を取るのをやめ、繁殖相手を求めてさまよいだす。要領のいい者はそのまま何百年も子孫を残し続けるので厄介だが、人並みの怪我やマテリアル特有の病で死ぬという可能性がある。だから、彼らにとって繁殖相手探しは重要なのだ。
マテリアルが聖戦士になるのは珍しくないが、だからと言って繁殖相手探しのために人間世界を脅かすことは許されていない。そのために魔女狩りなどという集団ヒステリーを扇動したとなれば、これはとんでもない罪だ。
よって、断罪したものは崇められこそすれども、咎められることはない。
もしもカリスの報告が本当であり、そのエスカという男が私の思っているアリエーテの町にいた同胞だとすれば、残念ながらカリスの思うとおりにはならないだろう。
「――くそ、つまらん!」
カリスは男のように荒々しく吐き捨てた。とっさに出たのか、アルカ語ではなくラヴェンデル語だった。一応、カンパニュラで死ぬほど勉強したので分かる言葉だが、いまだに早口だと困る。そう思っていると、カリスの方も気づいたのかアルカ語に戻った。
「つまらない。敵討ちでもしてくれたらいいのに」
「敵討ちか、無理だね。〈赤い花〉なのだろう? どんな問題行為を働こうと保護するだけに留まるだろう。今のご時世、生きている〈赤い花〉はそれだけ貴重なんだ」
「貴重? じゃあ、マグノリア王国の地下にでも行けばいいのに。あの場所では今も花競りが盛んだと聞くが……」
「そうはいかないんだ。マグノリア王国の教会に阻まれるからね。海で隔たれているせいか、聖下のお言葉を引っ提げて行ったとしても、素直に聞いてもらえないものだ。地下街の花競りに関する相談は続いているが、今日明日で解決するものでもない」
「ふうん。お前たちは、本当に面倒な奴らなのだな」
興味なさげにそう言って、カリスは大きくため息を吐いた。
「――せっかく、この地獄の追いかけっこも終わると期待したのに、とんだ当て外れだ」
「地獄の追いかけっこ?」
「〈赤い花〉の魔女の事だ。あの小娘……魔女の性で七日に一度の人狼狩りをしなくては生き延びられん。生きるために善人だろうと悪人だろうと、手に入る者から追い詰め、そして殺してしまう恐ろしい女なのさ」
顔をしかめながらそう言った。その姿にピンときた。なるほど、こんなにも傲慢で堂々と人間を見下しているようだが、本当は恐ろしくてたまらない状況なのだ。
「追われているのか?」
訊ねてみれば、カリスはいっそう不満をあらわにした。だが、黙って見つめていると観念したように頷いてくれた。
「いつからだ?」
「もう分からん。いちいち数えてなどいない。ただ、ヴェルジネ村で会ってからずっとだ。奇襲に備えてこちらも絶えず監視をしている。落ち着かない日々だ」
ヴェルジネ村。そう聞いて、はっと思い出したのだ。
休暇に入る直前に担当していた任務だ。そこで人狼らしき被害があった。村では〈金の卵〉が養育されているからどうにか退治してほしいということだったが、向かってみれば〈金の卵〉は攫われ、犯人と思しき人狼は見るも無残な細切れの屍となって見つかった。
仲間割れにしてはおかしい。そう、誰が犯人か分からない状態のまま、可能性のみを現地のクルクス聖戦士たちに伝え、そのまま休暇に入ったのだ。
「……ヴェルジネ村では何をしたんだ?」
訊ねてみれば、カリスは口を噤む。そんな彼女を見つめ、私は訊ねた。
「言え。言わぬならお前との談笑は金輪際受け付けない」
冷たく言ってのければ、カリスは渋々ながら口を開いてくれた。




