1.ヴィア・ラッテア大渓谷
クロコ帝国からシトロニエ国とラヴェンデルの境には大渓谷が広がっている。ヴィア・ラッテアというのは、クロコ帝国の公用語で「天の川」という意味である。
学生時代、私はこの名で大渓谷の場所と特徴を覚えたものだが、共に学園に通っていたジャンヌは違った。シトロニエ国のジュルネ地方出身で、女学生ながらカンパニュラにいた当時から将来を期待されていた優秀な人物だ。異性ながら親しくなり、幼い頃から変わらぬ友情を築いてきたうちの一人でもある。ゲネシスという私の名を真っ先に気に入ったと、シトロニエ訛りのアルカ語で堂々と述べてきたことは昨日のように思い出せる。
彼女いわく、シトロニエ国では大渓谷のことを、昔からエフェメール大渓谷と呼んできたらしい。その意味は「蜻蛉」。蜻蛉と言っても、単なる虫ではなく、虫に交じって人に悪さをするという妖精たちのことである。そのエフェメールとやらに囲まれながら歩くことは、魔というものに慣れない者からすれば恐ろしくてたまらないのだろう。
たしかに、その警戒心は大切にした方がいい。ヴィア・ラッテア大渓谷はかなり怪しい場所だし、危険な場所でもある。いたるところに魔物や魔獣は存在するし、善悪の分からぬ猛獣だっている。また、山賊が住み着いていると噂されており、女性ならばアルカ聖戦士であっても気を付けなければならないそうだ。
もちろん、アルカ聖戦士として認められた女性を女性扱いする方が間違っている。たいていの場合、そういう愚かな山賊は襲おうとした相手に囚われ、多くの場合は、クロコ、ラヴェンデル、シトロニエのいずれかの法の裁きを受けることになる。
今、突き出すとすれば、何処がいいだろう。
クロコ大帝は近頃、国内の統制にお忙しいと聞く。言われてみれば、手が回っていないのだろうと思うことは多々あった。
たとえば、アリエーテ地方。中心でもあるアリエーテの町で、最近、魔女狩り騒動があったらしい。教会も深く関わっているほどのもので、聖下のお言葉を伝令したところで、多くは意味をなさないものだが、そこでの騒動は一味違った。処刑寸前の女に逃げられたという怪しい噂もそうだが、何よりも、同じアルカ聖戦士の一人――諜報員によれば、実はその男こそが騒動の発端となった吸血鬼だったらしい――が、無様にも殺されるという不穏な事件があったのだ。
また、少し離れたヴェルジネ伯領の村では、成熟寸前の貴重な〈金の卵〉が盗まれるという事件があった。あちらでは、人狼による少女誘拐事件も起きており、休暇に入る前の私の仕事納めでもあった。向かってみれば、人狼の気配は微塵もなく、村人たちはすっかり〈金の卵〉の盗難で大騒ぎしていたので大した働きはしていない。少女たちは見つからなかったが、人狼の仕業とすでに分かり、その死体も見つかった後だったので、私の任務はそこで終わった。
その後、少女誘拐事件が続くことは一切なくなったが、盗まれた〈金の卵〉がどうなったかも分からないままとなっているために、村の大人のほとんど全員が死人のような顔をしていた。
逃げてしまったものは仕方がないと言ったところで、彼らには大した慰めにならないだろう。むしろ、不安や怒りを煽るだけだ。〈金の卵〉の盗難について、帝都レオーネの反応は芳しくなかったそうだ。領主であるヴェルジネ伯が頭を抱えながら言っていた姿は見ているだけで悲痛なものだった。
〈金の卵〉の養育には多額の資金がやり取りされるわけで、クロコ大帝がその気になれば、責任者たる領主には厳しい罰が待っているらしい。もちろん、そうなれば、原因となる村もただではおかれない。
彼らの未来を思うと可哀想なものだが、だからといってよそ者の私が何かしてやれるわけでもない。歯痒い所だが、クロコ帝国の問題に対して余計な首を突っ込むのはよくないと言われていた。ヴェルジネ村を救えるのは、ヴェルジネ村の者たちだけ。もしくは、アルカ聖戦士などといった窮屈な肩書を持たない者だけだろう。
それに、勘違いしてはいけない。我々は神に忠誠を誓って聖なる力を使いこなす戦士だが、万能の戦士ではない。いつどこで命を脅かされるかも分からない。少々我々だって、いつまでも他人の未来を案じていられるほど平和な暮らしではないのだ。それは、休暇中であったとしても同じこと。
ヴィア・ラッテア大渓谷を塵が覆い始めている。
真昼間のはずなのに、空はかなり暗い。灰色の世界は煩わしい。だが、世の中の魔族や魔物たちが思っているほど、我々人間は貧弱ではない。この腐った内臓のような悪臭に耐える訓練はカンパニュラで何度もしてきたのだ。
それでも、今だけは塵に苦しんでいるふりをしていた。
ヴィア・ラッテア大渓谷にいる盗賊は、何も人間ばかりではないだろう。そもそも盗賊という身分に堕ちている者の多くは、人間社会に溶け込めない輩ばかりだ。ヴェルジネ村を襲ったものもそういう輩だろう。そして、今近づいてきている”彼女”も。
塵が降っていながら堂々と歩いている人物が一人。女であることは遠めでも分かる。麦色の髪が煌き、翡翠のような両目は鋭い。みすぼらしい恰好をしているが、ただの浮浪者でないことはすぐに分かる。もっとも、塵が降っておらずとも奴が只者でないことはすぐに見抜けただろう。そうでなければアルカ聖戦士失格だ。
気が狂っているのでなければ、私の格好を見て、何者か分からないわけもないはずだ。それでも、恐れずに彼女はこちらへと近づいてきた。その手には剣を持っている。その剣の種類だけは意外なものだった。聖剣だ。アルカ聖戦士の持つ聖武器〈シニストラ〉の紋章が見える。つまり、私が隠し持っているものと同じである。クルクス聖戦士たちの持つ聖武器〈デクストラ〉に比べ、繊細さには乏しいが頑丈さに長ける武器が多い。どんなに強靭な肉体を持っていても、〈シニストラ〉の聖剣をぶつけられればさすがに痛い。どんな魔物もそれは同じだ。
では、何故そんな聖武器を彼女が持っているのか。聖戦士だから? いや違う。違うことはすぐに分かった。近づいてくる彼女には、アルカ聖戦士の紋章もなければ、行動の端々からもその兆候はうかがえない。
拾ったものか、奪ったものか、どちらにせよ、こんな塵の中で動かない私に対し、遠慮もなく近づいてくる魔物を警戒しない理由はなかった。
「止まれ」
短く威嚇すると、彼女は驚いたように眉を上げた。
「おや、喋る元気すらないと思っていたが」
「それ以上近づけば、敵とみなす。私の身分が分からないということはないだろう」
「ああ、分かるよ。アルカ聖戦士だろう。だが、人間だ。魔の匂いは一切しない。弱々しく、我々の餌になるだけの哀れなケダモノ共だ」
けらけら笑う彼女の影を見て、その種族を推察する。一瞬だけだが人の影をしていなかった。狼か犬、もしくは狐といったところか。
「そうか。ならば試してみるか?」
動けぬふりをして煽ってみれば、彼女は楽しそうに笑い、そのまま身をよじった。〈シニストラ〉の聖剣が地面に落ちる音が響く。脅しのために持っていただけだったのか、そもそも初めから剣などあてにしていなかったのかは分からない。剣をあっさりと手放して、彼女は正体を現した。
狼だ。狼によく似た巨大な生き物。人狼という種族。人間を食べて生きる魔物。
人のような姿をしているのは、捕食のためだと聞いている。だが、皆が皆、人間を食べなくては生きていけないわけではない。良質の肉さえあればいいのだ。世界各地の豊かな環境で育った牛や豚の肉は、人狼と人間の共存さえも可能にする。そういうわけだから、私の同胞にも人狼は存在した。
しかし、これもまた現実だ。いまだに世界では人狼の被害で死ぬ人間が多い。全ての人狼が良質な肉を気軽に食えるわけではない上に、旨味のある野生動物たちは気軽に狩れるというには少々強すぎる。安くで買える肉は、何を食わせているのか知らないが不味すぎて食えたものではないらしい。
ならば、生きるための日々の食事をどうするべきか。そういう悩みを抱え、結局は弱い人間を殺す人狼も数多く存在しているのだ。この女もそうなのだろう。生きるために私を殺し、食べるつもりだ。
別に怖くはない。ただ、哀れだった。こうしなければ生き延びることのできない、その不運さに同情してしまう。彼らの背景を知っているからこそ、単純な憎しみ以外の感情が占める割合も大きすぎる。
この世は闇だ。信仰なんて彼らの役になど立たないということを、任務先で何度も目の当たりにしてきた。彼女もその一人に過ぎない。
「後悔しても遅いぞ、人間。恨まないでくれよ」
そう言って飛び掛かってくる。勝てると信じて疑いもしない。見事だともいえるケダモノが跳躍し、そのまま突っ込んでくるのが見えた。あちらがその気なら、手を抜く必要もないだろう。毛皮を得たところで何も得はしないのだが、孤独であったとしてもわが身は可愛いものなのだ。
けれど、意外なことに、この度の戦いの相手は慎重で聡明なバケモノだった。私がかすかに動いただけで何かを察知し、そのまま身をよじってぶつかりに来るのを避けたのだ。あと少し彼女の判断が遅れていれば、私は高値で売れる毛皮を手に入れていただろう。しかし、そうはならなかった。
抜きかけた剣を鞘に戻すと、人狼女は十分距離を置き、そのまま地べたに伏した。どうやら追撃はないらしい。ため息を吐くと、そのまま人間らしい姿に戻った。
「驚いたな……騙されるところだったよ」
苦笑しながら呟き、緑の目で私を睨みつける。
「そうか、はったりでも何でもなく、アルカ聖戦士っていうものは本当に侮ってはいけないものなのだな」
「今更知ったのか。世間知らずの狼よ」
「知識としては聞いたことがあった……だが、誇張だと思い込んでいたのさ。まさか本当に、塵が降っている中も剣を抜く元気があるとはね」
退屈そうにそう言うと、彼女はそのまま横になった。その表情を見るに、戦意はすっかりどこかへ消えてしまったようだ。だが、まだ気が抜けない。
そんな私の警戒を見て、狼女は目を細めた。
「残念だがお前の肉の味は諦めよう。酸っぱいブドウがなんとやらってわけじゃないが、もともと大人の雄の肉はあまり好みじゃないのだ。飢え死にするわけじゃないのなら、怪我をする危険を冒してまで手に入れる価値はない」
「ならば、女子供を襲うつもりか。卑劣な奴め」
「卑劣でなければこの世界は生き抜けないものでね」
煽るように言って、そして不敵に笑って見せた。
「それに、悪くないんだよ。信仰深く迷信深い淑女まがいを篭絡し、背徳感で狂わせながら信頼させておいて、ぎりぎりのところで裏切ってやるのさ。あの顔は一度見たら忘れられない。子供というものはいつだって無邪気すぎてつまらんものだが、大人の女を狩るのは恐ろしく楽しい。自分が清純だと信じて疑わない女ほど、堕ちた時の戸惑いと裏切られた時の絶望的な顔が愛おしい。……ああ、お前では絶対に楽しめない遊びだな。やはりやめておこう」
そして、私が自ずと不快な顔をしてしまうことを面白がる。
その言葉の何処までが本当なのかはどうでもいい。同胞の人狼たちは人間社会で生きることを決めた育ちのいい者ばかりだったが、世間的な人狼というものはこの女のように下劣な奴ばかりなのかもしれない。
だが、そうだとしても相手が襲ってこない以上、剣は収めるしかない。疑わしきは罰せずというのがアルカ聖戦士の掟でもある。血の気が多く、誓いを忘れるような者はあの女を斬ろうとするだろうが、あいにく、私はそうではないし、正義感を振りかざして無駄に体力を使うことに魅力は感じない。聖下もあまりお望みでないと聞く。
孤独であろうと、世界がつまらぬものであろうと、私はまだ辛うじて聖戦士の端くれであった。したがって、この狼女への反応は非常に冷たいものとなった。
「ならば、目の前から消えろ。二度と近寄るな」
そう言ったところで、ふと塵の悪臭を吸い込んでしまい、顔をゆがめた。目の前の魔物への不快さと合わさって、相当な拒絶になっただろう。
だが、厄介なことに、そんな私の様子すらも狼女は面白がり始めた。
「ほう、私を殺さないつもりか。お前の知らぬ場所で何人の女が犠牲になろうと知ったことではない、と?」
「目撃しないうちは罪と数えない。お前のことが密告されたならば、すぐに斬り殺しに行くが、あいにく、今はその時でない。それに、私は休暇中なものでね」
クロコ帝国のヴェルジネ伯領での任務が終わって、長い休暇を貰ったばかりだ。教皇領の都イグニスにある自宅を留守にして、理由なき長旅をしているわけではないが、任務の為でもない。ただ訳あって、西南の国ディエンテ・デ・レオンに行かねばならなかったのだ。行って、確かめねばならないことがあった。決して短い旅ではないからこそ、無駄に争って怪我をするのはよろしくない。
もちろん、休暇中であっても密告や目撃によって聖剣を血で濡らさなくてはならない時もあるだろう。だが、積極的にその機会を求める気は全くなかった。
世間の期待には悪いが、今は旅の目的となっている諸々の事柄で頭がいっぱいだ。
そんな私の事情など、目の前の魔物女には想像もつかないだろう。盛大に笑い飛ばすその姿を見ながら、こちらは空しい気持ちでいっぱいになっていた。
美しい女に化けてはいるが、内面までの評価を含めれば、私の知る一番の美人には敵わない。心より愛した亡き妻サファイアの笑みを思い出し、辛い気持ちを思い出してしまった。そんな私の表情などお構いなしに、狼女は揶揄ってくる。
「ふうん、そうか。そんなものなのか、アルカ聖戦士なんてものは。人間どもも哀れなものだ。ああ、そういえば、この剣の持ち主もそうだった。お前のように自分の事しか考えていない哀れな魔物だったね」
「……魔物?」
訊ね返すと、狼女は急に不快そうな表情を浮かべた。
「白を切るな。どうせお前も承知の上だろう。聖戦士の中に魔物や魔族も多数いることを。彼らの尊い魔の力を借りていながら、世間の魔物への弾圧を抑制しようともしない。そういう恩知らずな奴らだ、お前たちなど」
そして、調子に乗ったと見えて、次々と悪口を言いはじめた。
「比較するならば、まだ革新派の方が真心のあるやつが多い。リリウム教会の集団圧力に屈することなく、権力と財力で腐りきった似非聖職者たちを拒絶し、真理を追究する心を守り続けている者ばかり。唯一の神などというものをいまだ信じてはいるが、権力など恐れずに批判すべきことは批判する。私が見たのはそういう誠実な奴らばかりだった」
「そういう連中もいつまでもそのままとは限らない」
ため息交じりに私もまた揶揄ってやった。
「人数が増え、組織化されればまた変わる。革新派の者たちだって、その流れが生まれた頃とはだいぶ変わっただろう。それに、こういうことは我ら人間だけの問題とは限らない。お前たちもそうだろう? 人狼というものもつまらぬ掟や同調圧力に悩まされることも多いと聞く。そういうのが嫌で抜け出したはずなのに、気づけばまた集って、同じことを繰り返してしまうものなのだと」
すると、あからさまに機嫌の悪そうな表情を浮かべた。
「知らんな。私はどうせ一匹狼なのさ」
そうして、狼女はその場に胡坐をかいた。塵はまだ止んでいない。銀色の煌きは忌々しい悪臭を放つが、鼻さえ塞いでしまえば麦色の髪と艶やかな肌を輝かせているその光景は綺麗と言えなくもなかった。
「鬱憤を暴力に変えればどんな人物も悲惨なものになるものさ」
仕方がないのでそう言うにとどめ、そのまま口を噤んだ。
訓練してはいるが、やはり塵の臭気は辛い。作業するにしても無駄に喋らないように気を付けなければ肺いっぱいに吸い込んでしまう。塵は人体に害があるとも昔から言われている。あらゆる悪魔のもたらす病も、定期的に降る塵に結び付けられているほどだ。こんな中で無駄に話すことはない。いかに寂しい身の上とはいえ、神に忠誠を誓っていないような卑しい化け物と話す気はなかった。
狼女もそんな私の素っ気なさに気づいたのだろう。緑の目をこちらに向けると、退屈そうな表情を見せる。そして、〈シニストラ〉の聖剣を拾うと、ゆっくりと立ち上がった。
「お前とこのまま話すのも面白そうだが……」
そう言って、あらためてこちらを見つめ、妖しく笑う。
「私も私で食うものを探さねばならん。だが喜べ。お前は襲わないでやると約束しよう。アルカ聖戦士の身分に感謝するんだな」
「別の旅人を襲うつもりか?」
「文句があるのならば、せいぜい世の中を平和にする礎となれ。我らも高級な家畜の肉を食えるような世の中になれば、我々とお前たちとの対立もなくなっていくだろう。私も、こんな卑劣な遊びに興じることはなくなるはずさ。まあ、貴様らが本当にすべての民の命を尊ぶ世界平和を目指すのならば、の話だけれどね」
そうして、彼女は影の中に溶けて行ってしまった。
直後、塵は止み、体は軽くなった。逃げたのだと気づいたのはその後だった。さすがは人狼。塵の止みかける匂いを感じたのだ。だが、悪しき人食い狼を取り逃がした焦りは私の中にはなかった。
残酷であろうと、これこそが現実だ。人狼は人間を食らう。そこに正義も悪もない。そう、正義も悪もないのだ。何度も何度も言い聞かせ、これまで何度も共に戦ってきた〈シニストラ〉に囁きかける。
「お前は……どう思う?」
答えるはずはないが、まるで友人と寄り添っているかのような安心感がもたらされる。
向かうはただディエンテ・デ・レオンへ。
何が正しくて、何が間違っているのか。何を求め、何を拒絶したいのかを確かめるためにも、私は進むしかない。




