6.塵降る夜
あと少し進めばヴェルジネ伯領から外れることが出来る。
クロコ国自体から抜け出すにはまだまだ時間がかかるが、森山を越えた先にあるアリエーテの町では、ヴェルジネ村の事件の噂もさほど流れてはいないだろう。
アリエーテの町に行きたいのにはいくつか理由もあった。そのうちの大きな理由は、ルーナが町を見てみたいと言ったからだ。
ルーナはあの狭い小屋しか知らない。町の賑やかさなど見せてもらったこともない。もしも、あのまま養育が続き、帝都に戻る日が来たとすれば、繁殖施設に向かう前に、少しは見せてもらえたかもしれない。最後の晩餐のようなものだ。人々の生活の犠牲となる代わりに、気分だけでも楽しませてもらえただろう。もちろん、それが幸せなどと絶対に思えない。
「アリエーテの町ではお宿に泊まるの?」
塵が降る夜、岩場の影にて互いに身を寄せ休んでいると、ルーナが訊ねてきた。
「ええ、そうよ」
「お金はちゃんとある?」
「ちゃんとあるわ」
ルーカスを殺したときに猫糞したものだ。特別な理由がない限り、所持金はだいたい狼狩りをしたときに手に入れていた。常に多すぎず、少なすぎない額が手元にある。二人分でもどうにかなるだろう。
「よかった。村の人たちはね、いつもお金に困っていたの。去年からは帝都からもらえるお金が減らされたってわたしを責めてきたの」
「酷い話ね」
「うん、辛かった。でも、仕方ないの。わたしはその為に村にいたから」
ルーナは悲しそうにそう言った。
その表情を見て、私は気になった。この子は何処まで自分のことを把握しているのだろう。
ルーナたちのような〈金の卵〉は消費されることを前提に生まれてくる。変身能力は並々ならぬ魔力の証。その力を人々の生活の為に利用すべく、ある偉大な錬金術師――実は人間ではなく魔人だとも噂されている――が開発したのだと聞いている。
そんな彼らを哀れみ、ひっそりと保護している人間もいるらしいが少数だ。大量に生み出され、利用価値も高い魔物とあれば、いちいち心ある生き物だなんて思われたりもしないだろう。
思い出すのはルーナが閉じ込められていたあの小屋。閑散としており、非常に狭かった。必要最低限の空間のみが与えられた檻の中でルーナは暮らしていたのだ。人間も傍にいない。喋ることが出来るということは、人と話すことは許されていたのだろうが、必要以上に構われなかったことは確かだ。
今頃、ヴェルジネ村の人々はルーナの失踪を悔やんでいるだろうか。しかし、だとしても、その反省内容はルーナの管理についてのみだっただろう。一人くらいはルーナの顔を見ることがないことを寂しがっていて欲しいものだが。
しかしルーナは、意外とあっさりとしていた。ヴェルジネ村の人々へ悪態でも吐くかと思いきや、そういうことは一切口にしない。口にするという思考にすら至っていないらしい。恨むという感覚がないのだろうか。ルーナを手に入れてから少し経つが、いまだに私は彼女が明確に恨んでいるという姿を見ていなかった。彼女から受け取れるのは、喜びと甘え、恐怖と不安、悲しみ、一時の怒りといったシンプルな表情ばかりだ。
世の中を知らないためなのか、はたまた、そういう性格なのか。どちらにせよ、純粋な子供のままでいさせることには不安もあった。
「ねえ、ルーナ」
私はそっと彼女に囁いた。
「これからはもう、あなたの役目は変わるの。それは分かる?」
「うん。分かるよ。アマリリスと一緒に生きていくの。怖いけど、役に立てるのなら、狼狩りのお手伝いも頑張る」
「お利口ね。でも、人狼はとても賢くて危険な生き物たちだし、囮というものも賢くなくては上手くやれないものなのよ」
「そうなの? じゃあ、どうすればいいの?」
「心配しなくとも、世の中を知れば賢さも自然と身について行くものよ」
「世の中?」
不思議そうにルーナは首を傾げた。無邪気なものだ。だが、凶暴な者を相手にしたときに、可愛さというものは大した武器にはならない。特に、カリスは危険だ。彼女には慎重さという武器がある。その上、ルーナの愛らしさなど通用しないだろう。
彼女を守るためにも、彼女自身に様々なことを知ってもらうのは大切だろう。その為に、私はまず彼女に訊ねた。
「ルーナ、あなた、文字は書ける?」
「文字……この国の文字?」
「クロコ語でもいいし、違う言語でもいいわ。自分の名前を自分で書ける?」
「……分かんない」
恥ずかしそうにルーナは言った。ルーナの閉じ込められていた小屋を思い出せば、文字というものをまじまじと見たことないのだとしても頷ける。落胆している少女の黒髪を手ですきながら、私は出来るだけ優しく言った。
「大丈夫、今は分からなくても、私が少しずつ教えてあげる。いずれ、この国以外の言葉も教えてあげる。いつか行くディエンテ・デ・レオンでも使われるアルカ語なんかも自分で分かった方が嬉しいでしょう?」
「よく分かんないけど、言葉が分からないのは困るかも」
ルーナはそう言った。
分からないのだとしても、それはいい。いずれ、彼女の役に立つだろう。今はまだクロコ語しか話せないが、日常会話など少しできればいい。アルカ語さえ覚えれば、大抵の国でも通用する。だが、その前に、覚えておくべきは文字だ。本を読めるくらいにはなってほしい。
「まずは、自分の名前を書いてみましょうか。ルーナはこう書くのよ」
地面に指を這わせて文字を書く。ルーナはそれを不思議そうに見つめていた。何度も見ながら自分でも指を動かし、地面に書いている。五回ほど書いてから、ようやく何も見ないで書けるようになった。
と、そこでルーナはハッと私を見上げてきた。
「これで、知らない人にもわたしの名前を伝えられるの?」
「そうよ。それが文字というもの。ルーナはだいたいの国でこう書くから、これさえ覚えれば大丈夫」
「直接会っていない人にも伝えられるの?」
「ええ、そうね。何処かに書いておけばいい。大昔の人が残した記録だって文字が分かれば読むことが出来るの。ルーナの感じていることや考えていることだって、文字で残すことが出来るのよ」
「すごい。わたし、もっと文字を知りたい」
「少しずつ、ね。まずはこの国で使われるクロコ語を教えてあげる。その後で、アルカ語の文字と発音ね」
「ねえ、アマリリスはどう書くの?」
せがんでくる可愛らしい隷従の要望に、私は答えた。
塵が降る世界はとても静かだ。動いているのは魔の血を引くものたちだけ。その中で、さらさらと地面に指を這わす音は妙に響いている。
ルーナは私の名前を何度も見つめながら、真似して書いていた。そうして何度か練習した上で、呟くように言った。
「アマリリスって文字がたくさんあるんだね」
そして、何度か何も見ないで書こうと試みていた。
可愛い少女を見つめながら、ふと私は過去を思い出していた。自分が字を習った時のこと。薄っすらと覚えている。教えてくれたのはニューラではなく、実の母だ。母と引き裂かれてからどのくらいの時が流れているだろう。少しずつ出来ることが増えて、その度に褒めてくれたはずの母の温もりが、すぐには思い出せぬほど遠かった。
――あの頃の私は、今のルーナよりも幼かったっけ。
「書けた! ねえ見て!」
「し、静かにね」
大声を出すルーナを、私はそっと諫めた。
塵降る夜はまだ続く。猛獣たちは動けないだろうが、濃淡問わず魔の血を引く者たちは快適に過ごしている。中にはルーナの魔力の匂いを好ましく思う者もいるだろう。そういった者からルーナを守り切る自信はあったが、だからと言ってむやみに戦闘になるのは御免だ。
ルーナにもそれは分かるのだろう。しまったという具合に両手で自分の口を塞いでいた。そんな彼女の頭を撫でながら、私はルーナの書いた文字を見つめた。鏡文字になっている部分が一か所。それ以外は上手く書けていた。
「ちょっと間違っているけど、それ以外はよくできているわ」
「やったぁ」
口を手でふさぎながらルーナは喜んだ。くぐもった声だが、あまり絞れてはいない。それでも、今度は諫めなかった。周辺に危険な生き物の気配は感じられない。カリスの気配はするが、いつもよりもずっと遠く、接近している様子は全くなかった。
「他にも書いてみたい?」
「書いてみたい」
「分かった。じゃあ、次はこれ」
こうして私は、塵の降る間だけでも三つほどの単語をルーナに教えた。いずれもルーナが知りたがった固有名詞である。ルーナや私の名前も含めると計五つ。一気に覚えようと頑張り過ぎたのか、ルーナは最後に教えた〈金の卵〉という文字を書こうとして、ぱたりと突っ伏し、そのまますやすやと眠り始めてしまった。
眠ると同時に変身の力が発動したのか、ルーナの身体は少女ではなく真っ黒な子猫へと変化していた。
無邪気なものだ。〈金の卵〉とは皆、このような生き物なのだろうか。自分の隷従にしてしまったせいか、ルーナのことが可愛くて仕方なかった。だからこそ、彼女がすっかり寝入ってしまうと、私の方はなかなか寝付けなかった。
今にカリスが接近してくるのではないか。そう思うと、緊張して落ち着かない。
全くおかしなものだ。人狼は私の獲物に過ぎない。生きていくための糧であるはずなのに、どうして私がその人狼を恐れなくてはならないのか。面白さと忌々しさで複雑な気持ちになっていると、心臓がとくりと音を立てた気がした。
私の命を握る〈赤い花〉が文句を言っている。
必要以上に怯えることはない。カリスだって私を恐れているのだ。人狼はこの大地が私に与えてくださった恵み。少し知恵があり、力があるだけで、私からルーナをかすめ取るなんてことがそう簡単に出来るはずはないのだ。
――だから、大丈夫。
私は何度も自分に言い聞かせた。夢うつつの中で踏みとどまらねばと思ってしまう自分の無意識に言い聞かせた。
――眠っても大丈夫。
その暗示が効果をなすのには少しだけ時間がかかった。