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AMARYLLIS  作者: ねこじゃ・じぇねこ
8章 ゲネシス

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9.枯れゆく花

 あれから数日間、呆然としたまま時が過ぎていた。ソロルによる傷は浅く、一日と経たないうちに身体はよくなった。それでも、心の方は先が見えないままだ。なぜ、自分が生きているのか分からない。息をして吐いているだけで、生きているとも言えない状況だ。ただ、幾度となく話しかけてくる者たちはいた。グロリアと、そして、カリスが主である。

 ルーナの葬儀の事は覚えている。ルーナだけではない。たくさんの人が死んだようだ。私が見たのは棺ばかりだ。そのうちの一つ――ルーナの棺を見せつけられて、立っていることが出来なくなった。


 どうしてこんなことに。


 そんな言葉ばかりが頭をよぎった。棺に触れてもあの子の温もりは全く感じられない。ただ冷たいだけ。縋りついたところで、過去は戻らないのだ。未来しか待っていない。そのなんと空しい事か。

 頬を当ててみれば、ルーナの声が聞こえてくるようだった。

 あの子の魂は、何処かで歌っているのだろうか。カンパニュラでやりたいことがいっぱいあったはずなのに。変身もたくさん覚えて、みんなを楽しませながら、もっともっと世の中のことを知って、愛していくはずだったのに。


 どうしてあの子が死んで、私が生きているのだろう。


 呆然自失の葬儀の中で、同じく呆然としている人物の気配に気づいた。負の感情が心地よくて引き寄せられるように視線を向けてみれば、それはカルロスであった。怪我の癒えぬ彼が見つめている先には棺が三つ。どういうことなのか、考えなくとも分かった。

 カルロスの身体は傷だらけだった。だが、葬儀に参加できただけでも軽症な方らしい。たとえば、メリュジーヌ隊長。生きているらしいが、葬儀に参加できる状態ではないらしい。ニフテリザもそうだと聞いた。重傷のまま清潔なベッドに寝かされているらしい。まだその顔を見ていない。


 竜人のウィルは無傷だった。だが、体は無事でも心が深く傷つけられていた。目に生気が宿っていなかったのを覚えている。項垂れる先にあるのは、またしても三つの棺である。ゾロ、ゾラ、ブエナ。こちらの三人も、助からなかったのだと耳にした。西風の精霊の血を引くブエナとは何度も話した。ならば辛いはずなのに、彼女が死んだと聞いても、もはや何も感じることが出来ない。心の動きが鈍ってしまっている。ルーナの死にここまで囚われてしまうなんて、自分でも思わなかった。


 葬儀の中にブランカの棺はなかった。ブランカはソロルに攫われてしまったらしい。ならば助けに行かなくては、とウィルは何度も呟いた。だが、助けよという命令は下されない。イムベルの司教も、そう訴えるウィルを宥めるばかりだったと、聖職者たちが囁き合っている。

 誰もが分かっているのだ。ブランカはもういない。亡骸すらもう何処にもない。その匂いを追いかけようとした人狼や番犬の戦士たちが追跡を諦めるほどに、何もなくなってしまったのだ。

 ほんの半日で、イムベルは崩壊寸前となってしまった。


 葬儀の準備はとても大変だったのだという話を聞いた。

 イムベル大聖堂には今でも死霊がうろつき、遺体を集めて船に乗せるだけでも命がけだったそうだ。おかげで大聖堂やアルムム御殿の大切な書物や聖具までを持ち出すことも、ましてや聖マル礼拝堂に残され、腐りかけているリヴァイアサンの亡骸をどうにかすることもままならないという。


 ラケルタ島を脱出し、ウィータ教会まで逃れられただけでも幸運だったとでもいうのだろうか。幸運だなんて素直に認めたくはない。失ったものが多すぎたし、いまだに私はあの時に死んでしまいたかったとしか思えなかった。


 葬儀はしめやかに行われ、たくさんの墓が出来た。

 そこにはルーナの墓もある。〈金の卵〉という種族で、そのように立派な墓を作ってもらったのは、もしかしたら世界で初めてだったのかもしれない。だが、墓が立派かどうかなんてどうだっていい。そんなもの、まだまだ必要なかったはずなのだ。彼女はまだ若く、そして隷従であった。飽きるほど共に生きるはずだったのに。


 ――愛しているから、か。


 ルーナがそこにいない。無邪気な声も、無邪気な笑みも、私の手の届かないところにいってしまった。それが、こんなにも苦しいなんて。


 桃花が死んだ日よりもひどい。これも主従の魔術の弊害なのだろうか。それとも、魔術なんて関係ないのだろうか。

 寂しさでどうかなってしまいそうだ。いやもう、どうかなっているかもしれない。それなのに、指輪は私の手で輝く。狂わせてもくれない。

 私の心はとことん壊れていき、それでいて大切な部分までは壊れきれずに指輪によって守られている。だからこそ、いつまでも苦しかった。私にとってこの指輪はとても残酷な存在だ。だが、だからと言って指輪を取ってしまったらどうなるか分かっている。もうこりごりだ。会いに来てくれるカリスまでを手にかけるようなことはしたくない。辛うじて、そんな理性は残っていた。


 ――ルーナ……。


 サルタトル館の半地下には、格子窓のついた部屋がある。扉は錠で固く閉ざされ、絶えず監視もついているようだ。ここは牢獄ではないのだと司教に念を押されて通された後は、まるで囚人のような日常が待っていた。どうやら、教会の者たちは私の自殺を何より恐れているようで、珍獣が飼育されるかのような監視生活が始まった。

 

 しかし、もう、どうでもいい。抗う気力も、憤慨する気力もない。ただ言われるままに部屋に入り、座り心地だけは妙にいいベッドに座り、ぼんやりしているだけで時間は過ぎていく。


 みすぼらしい私の縄張りには幾度となく訪問者が現れる。ウィルやカルロスではない。長きに渡る旅で共に行動し、よく話し、親しみさえも抱いた彼らは、私に直接会うことを許されていないのだと聞かされた。

 代わりに訪れるのは、やはりグロリアかカリスばかり。とはいえ、きちんと見張りに通されてやってくるのはグロリアだけだ。恐らく、誰かに命じられて会いに来ているのだろう。


「アマリリスさん……」


 目を見て話すことも辛かったが、彼女は無理強いしない。そこは心地よく、好ましいところである。


「もう三日目です。そろそろ食事を摂ってください」


 食事は毎日二度運ばれる。

 指輪をはめて魔女の性から解放されている以上、私には必要なものだろう。魔女なのに飢え死にとは珍しいし、情けないだろう。だが、そうだとしても、体が受け付けなかった。食べるという行為が疎ましい。


「少しでもいいんです。食べられそうなものがあったら仰ってください」


 グロリアの説得はだいたいこの調子だ。だが、どうして聞かねばならない。ルーナはもういない。それだけで、もはや生きる意味がない。こんな私をどうして生かす必要がある。


「グロリア」


 日に日に声にすら力が出なくなる。だが、念願の死が迎えに来てくれるまではまだまだ時間がかかるだろう。だから、私は訴えた。聖なる裁きを下すことの出来る彼女を見上げ、訴え続けた。


「お願い、グロリア。私を殺して」


 願い事は無視され続ける。

 グロリアがもたらすものは、頼んでもいない抱擁ばかりだった。慣れていないことは肌で分かる。心から心配しているのか、上に命じられるままに会いに来ているだけなのかまでは分からないけれど。


「……しっかりしてください」


 グロリアは言った。


「ルーナさんが悲しんでいますよ」


 きっと寂しがっているに違いない。だから、会いに行きたいのに、誰もそれを許してはくれない。生き地獄を味わうくらいならば、と、私に死を賜ろうとした黒ずくめの天使のことを思い出す。ルーナを奪っていった相手でもある彼は、今頃どこにいるのだろう。


「お願いです。どうか意識を保ってください」


 グロリアは必死に訴えてくる。


「でないと、このままじゃ、あなたの立場が――」

「――立場が、何?」


 私はもうどうなっても構わない。代わりの〈赤い花〉が見つかるならば、さっさと処分してもらってもいい。そうすれば、ルーナのいない世界を生きなければならないなどという苦行を免れるのだ。


 誰か、私を助けてほしい。自ら結末を引き寄せる力さえも失った私を、誰か。


「……とにかく、少しでいいから食べてください。あなたまで不幸になってしまえば、ニフテリザの容態にも響きますよ」


 友人の名を出され、少しだけ我に返った。


 教会は一応、ニフテリザに対して出来る限りのことをしてくれているらしい。彼女が一命をとりとめたのも、幸運にも無傷で生き残ったというギータ医師のお陰でもある。もっとも、彼であってもルーナのことはどうすることもできなかったのだけれど。それに、ニフテリザの方も、まだ、いつどうなってもおかしくはないと聞いている。傷はそれだけ深い。

 彼女を追い詰めたのもゲネシスだと聞いた。ブランカの従者たちを守ろうとしたが、守れなかった。カリスが間に合ったことで、辛うじてとどめは刺されずに済んだのだが、今は起き上がることも出来ない状態らしい。


 ブランカとウィル、そしてギータ医師はニフテリザ達とは離れており、共にあのソロルに襲われたそうだ。ウィルとギータ医師が守ろうとしたが、ブランカは自分のために二人が犠牲になることを良しとしなかった。そして、彼女は攫われ、二人は無事だった。

 具体的に何があったのか。そこまで追求する元気がない。聞いたことをただ記憶にとどめるだけでも今は精いっぱいなのだから。

 ここから私の心が回復することはあるだろうか。とてもそうは思えない。


 今だって、どんなにグロリアに説得されても、モノを食べるということが出来なかった。

 もともと、料理を食べるという行為は苦手なのだ。子どもの頃に経験したっきりであるし、指輪を受け取って以降に思い出した程度のものだから。


「冷めないうちに別の人にあげて。必要とする人に。私は……とても食べられないの」

「アマリリスさん」


 グロリアが困り果てた呟きを漏らしたちょうどその時、看守の許可もなく部屋に入ってきた者の気配に気づいた。

 気怠さの中でどうにかその気配を確認してみれば、カリスが薄暗い部屋の隅からこちらに近づいてくるところが見えた。


「カリスさん、またそうやって勝手に――」


 グロリアが咎めようとするのを、カリスは首を振った。


「助祭に断っておいた。彼なら司教にうまく伝えてくれるだろう。この女のお守は私が引き受ける。グロリア、お前の対応は優しすぎる。ニフテリザの話し相手にでもなってやってくれ」

「――けれど」


 戸惑うグロリアを無視する形で、カリスは私の顔を覗き込んできた。


「聞こえるか、アマリリス」


 乱暴に顎を持ち上げられるも、不快な気持ちすらわいてこない。ただ痛いだけだった。鋭い目に睨みつけられても、怖さすら感じなかった。


「先ほど、イグニスから連絡があったのだ。長官方が聖下を説得し、指輪の量産を決めたそうだ。今後、〈赤い花〉が増えると見込んでのことだ。このまま、本当に何も出来なくなれば、お前の身分は尊い聖女さまから〈金の卵〉よろしく都合のいい家畜に成り下がってしまう。どういうことか分かるか? かつてルーナに用意されていた暗い道を、お前自身が歩まされることになるのだぞ」


 グロリアが息を呑んだのが伝わった。しかし、私の方は怒りが全くわかなかった。ただ、合点がいっただけだ。だから、こういう場所に閉じ込められたのか。だから、殺さぬように気を付けているのか、と。


 多くの〈金の卵〉がたどった道を歩まされることは、昔なら恐怖しただろう。そうして利用価値が下がったら、私もまた屠畜されるのだろうか。そうだとしても、もはや嫌悪感は一切わかなかった。

 それでもいい。されるままに流されたっていい。死はもはや怖くなかった。痛みも拷問も、今は怖いと思えない。もうルーナに会えないというだけで、生きているのが辛く、また、それでも死ねない自分が情けない今、殺してくれるのならとても有難いくらいだ。


 私の反応が鈍いためだろう、カリスは苛立った様子でラヴェンデル語の短い悪態を吐くと、そのまま手を離し、グロリアを振り返った。


「すまないが、二人きりにさせてくれるか」


 猛獣らしさの抜けぬ声だった。だが、グロリアはその心情をおくびにも出さず、静かに頷いて去っていった。

 グロリアの声で扉は開けられ、彼女が退室するまたすぐに閉め切られる。逃げるつもりなんてちっとも湧かないのに滑稽なものだ。


「……何がおかしい」


 からっぽのこの笑みが表情に出ていたのだろうか。カリスが見下ろしながら、乱暴なアルカ語でそう言った。


「お前を見ているこちらは全く面白くない。何処も死の嘆きと悲しみばかりだ。辛いのはお前だけではない。生きている者はもちろん、無念にも死んだルーナだって、今のお前を見たら悲しむだろう」

「私が死ねばよかったのよ」


 自分が泣いているのか、笑っているのかも分からない。


「あの子には未来があった。私とは違う希望が待っていた。私が死ねばよかったの」

「分からないのか。ルーナはお前を守って死んだのだぞ」


 力なく彼女は言って、そのまま床に座り込んだ。人間と寄り添い始めて長いが、こういうところはまだ人狼らしいのかもしれない。ぼんやりとそんなことを考えていると、カリスは私を振り返ってきた。目を逸らすのも億劫で、ただ目を合わせる。こうして見ると、彼女もやつれたように思う。シルワで診てもらったはずの傷はどうなっただろう。あの時は、彼女が死んでしまうかもしれないと恐れていたのに、すっかり元気そうだ。あの時の恐怖が、とても懐かしいくらいだった。


「アマリリス」


 カリスが呟く。目に浮かぶのは怒りでも呆れでもない。戸惑いのようだ。


「非情なことを言っていることは分かっているさ。だが、お前には戦ってもらわねばならないのだ。まだ戦えることをその身をもって証明しなければ、お前は確実に不幸になってしまう。ソロルはゲネシスを連れて逃げた。何処へ行ったかは分からないが、おそらくローザ大国にいるのだろう。義弟を奪った魔女への復讐。あのソロルは、いつもゲネシスの憎しみを掻き立てていた」

「……そうね。あんなに強い力をつけて、聖地までこんなにも荒らして……きっと復讐は遂げられるのでしょうね」


 どうにか返事をしてみるが、カリスは視線を外さない。


「復讐だけじゃないだろうよ。奴も今のお前に似ている。ソロルに言われるがまま、傀儡となり、罪と罪を重ね続けて本物の悪魔のようになってしまうのだろう。そのまま放置すれば、この世界がおかしくなってしまう。平穏とは無縁に――ルーナが愛した世界が壊されてしまうのだぞ」


 その言葉に、ふと、最期の別れが迫っているなど気づかなかった瞬間が蘇った。


 一瞬でも、共にカンパニュラで暮らせると信じて、素直に喜ぶ無邪気なあの子の姿を思い出すのは辛い。物覚えもよく、他人から好かれるいい子だった。自分の短所と向き合い、それを改善しようと努めるよくできた子だった。〈金の卵〉の置かれた状況を変える希望となるはずの大切な子だったのだ。

 そんなあの子に神は残酷な運命をもたらした。この責め苦は彼女のものだろうか、私のものだろうか。死ぬ前のあの子の笑顔はいつまでも脳裏に焼き付いたままだった。


 あの子は世界を愛していた。全てを愛していたのだ。

 私の危機を目撃するまで、怒りというものすら知らなかった。酷い環境で飼育していたヴェルジネ村の人たちのことさえも悪く言わなかったのだ。


 ――いっそ、心がなくなってしまえばいいのに。


 体が震え、すっかり枯れたと思っていた涙がしぶとく零れ落ちた。そんな私を見つめ、カリスはそばに寄ってきた。抱擁は求めていない。だが、肌と肌の温もりを感じると、確かに少しだけほっとした。グロリアにもう何度かこうしてもらったが、カリスの抱擁はまた違う。乱暴で、加減が全く分からない。捕まえた子羊を食らう狼のような抱擁だ。けれど、それでも、私は確かに安心していた。


「すまなかった」


 カリスは言った。


「間に合わず、すまないことをした。だが、恨むのならば、神ではなくゲネシスとソロルを恨むのだ。……そして、私を恨めばいい」

「あなたを恨んでも仕方がない……あなたが生きていてくれたのは……よかったことだから」


 ルーナを失った悲しみは一生癒えないだろう。だが、カリスが生きていたのは喜ばしいことなのだ。こうして抱擁されながら、しみじみと感じていた。そんな私の背中を撫でながら、カリスは耳元で嘆くように囁いた。


「よかったというのなら、ルーナの後を追おうとしないでくれ」


 その戒めの言葉に、心の傷の痛みが少しだけ癒える。まるで長くの間に会えなかった恋人のようだ。殺し合おうとしてた時期を思えば、とても奇妙なものだと思うけれど。


「此処で教会を怒らせるのはまずい。お前を徹底的に庇ってくれるブランカ様はもういない。ウィルやカルロスもお前を庇える状況にない。あの二人は近々ディエンテ・デ・レオンに戻される。聖戦士などそんなものだ。グロリアだって同じ。いつ何処に飛ばされてしまうか分からない。イグニスのお方々がその気になれば、お前は明日にでも錬金術の材料か、もしくは、あらゆる欲望と野望の道具にされてしまう。……お前のそんな姿は私も見たくない!」


 感情的にカリスは吐き捨てる。


 そんな人狼の温もりを味わいながら、ぼんやりと過ぎ去った日々の事を思い出していた。初めて会ったとき、私とこの人はどんな関係だっただろう。もはや忘れてしまいそうだ。欲望のままに私はこの人の同胞を殺してきた。生きるためと言い訳をして、殺戮を楽しんできたのだ。そして、最愛の獲物としてこの人を愛してきた。その愛は、単純な性愛よりも深く、悩ましく、濃密なものだっただろう。一つの生命を弄び、踏みにじり、自分だけのものにする日を、心の何処かで私は楽しみにしていたのだ。


 それが、たった一つの指輪によってこんなにも狂わされてしまうなんて。


 これがカリスの本心ならば、私はなおさらこの人を殺せない。あの時のような欲望が再び蘇るのは怖かった。ならば、どうすればいい。指輪の量産は決まったのだ。一生、教会の連中の気が済むまで、飼われ続けるのも悪くないかもしれない。


 生きるわけでも、死ぬわけでもない、生きながら枯れ果てていく日々の始まりだ。

 しかし、怖くはなかった。使えなくなって処分される日はきっと、ルーナに再会できる日となるだろうから。


「今のお前は……ゲネシスにそっくりだ」


 その言葉が妙に突き刺さる。


「どこが……似ているの?」

「生きることを諦めたその眼だ。誰の言葉も聞かず、自分のことしか考えない。本物のサファイアはきっと、ソロルに囚われたまま彼の姿に絶望しているだろう」


 あの哀れな人間に似ている。はっきりとそう言われてしまうと、少しだけ彼女とまともに話す気になれた。


「ねえ」


 少しだけカリスの背に触れながら、私は訊ねた。


「……あなたのお話を聞かせて」


 カリスが黙ったまま抱擁を解く。驚いたようなその眼に、続けて訴えた。


「あなたの目で見た、感じた、ゲネシスとの思い出をぜんぶ聞かせて」


 恐ろしく頭は冴えていた。


 混濁した心が少しだけ安定した瞬間だったようにも思う。右にも左にもぶれない視点を真っすぐカリスに向けて、その美しい顔を見つめていた。カリスは翡翠のような目をこちらに向けてくる。だいぶ疲れてはいるが、在りし日に見たシルワの美しい光景をただ思い出す眼差しだ。

 麦色の髪をかき上げ、カリスは大きくため息を吐いた。

 そして、ベッドのわきに座り込むと、私から目を逸らしてしまった。だが、逃げはしない。そのままじっと待っていると、彼女はゆっくりと口を開いた。


「分かった。話してやろう」


 その姿は、まるで、力のない人間の女のようでしかなかった。


「奴と出会ったのは、お前がまだ教会に捕まる前の事……クロコとシトロニエ、ラヴェンデルの国境――ヴィア・ラッテア大渓谷でのことだ」


 その視線がゆっくりと天井へと向く。


「今思えば、懐かしい。……あれは塵が神々しく輝く灰色の真昼の時刻だった」


 そうして彼女は思い出に浸り始めた。

 ずっと庇ってきた男の記憶を一つ一つ言葉にして物語として紡いでいく。虚ろな心を抱えながら、私はカリスを見つめた。その哀れな雌狼の物語に、そっと耳を傾けた。

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