8.救いの手
恐ろしい唸り声をあげてカリスがゲネシスを威嚇する。かつては恋し、必死になって説得しようとしていた相手に愛憎の込められた唸りを向けているのだ。
対するゲネシスの眼差しは冷たい。何処までも非情だ。その非情さは、私の怒りすら呼び覚ませないほどに冷ややかなものだった。
いや、いかなる眼差しも、いまの私の心を奮い立たせはしないだろう。
だって、視界の端でルーナが倒れているのだもの。その事実にばかり囚われ、まともに現実を受け入れることすらできない。何が起こり、何が待っているのか、ただ心と体の痛みをこらえ、目の前の光景を見ていることしか出来なかった。
生きる意味は呆気なく砕け散った。痙攣の止まったあの体にまだ生命が残されているのだとしたら、神を信じよう。しかし、そんなことはないのだと魂の底にまで教えられてしまう。死んだ者たちをたくさん見てきたこの目が、その奇跡を否定するのだ。
指輪のはまる手が痛い。沸き起こるのは怒りではなく絶望のみ。カリスの怒声も私の闘志を奮い立たせることはできなかった。逃げる気力すらない。だって、ルーナがいないのだもの。生き残って何になるのだろう。
「退け、汚らわしい化け物」
ゲネシスの冷酷な声が聞こえてきた。
「この世は地獄だ。それは〈赤い花〉にとっても同じ事。だから、私がこの剣で、煉獄へ送り届けてやろう。それがせめてもの情けだ」
走り出す彼の姿が美しかった。迫りくる死の天使のようだ。その接吻はきっと激しい痛みすら感じる余裕をくれないのだろう。恍惚とした私の前で、カリスもまた走り出す。目の前の光景をただ目に映していることしか出来ない中で、イリス神話の登場人物かと見まがうその青年の身体を、逞しいオオカミのような全身を使って強く蹴飛ばした。
弾かれる力のままに私のすぐまで着地を決めると、カリスは振り向くことなく私に囁いてきた。
「逃げろ」
そしてもう一度、ゲネシスに襲い掛かる。
逃げろ。その言葉が辛うじて頭に沁みこみ、再び何が起こったかを思い出した。立たなければ。痛みをこらえてでも。でも何故なのか。逃げなくては。しかしどうして。
私が世界に力を貸す理由はもう何処にもない。ニフテリザは手を離れていき、私にはもうルーナだけしかいなかった。ルーナさえ居てくれればそれでよかったはずなのに。
――愛しているから。
その言葉を貰ったのはつい先ほどのことだった。何を間違ってしまったのだろう。どうしてこんなことになってしまったのだろう。逃げて何になる。私はもう戦えない。戦う理由がない。今はもう、仇を取る力すら――。
「アマリリス!」
ゲネシスの注意を引き付けながら、カリスが唸っている。
「頼む、どうにか立ってくれ! 今はとにかく逃げるんだ!」
彼女は必死に言うけれど、勝敗はとっくについている。
私は自分の命より大切な存在を失ってしまった。今すぐに駆け寄って抱きしめたいのに、膝から下の力は完全に失われている。ソロルの怪しげな魔術のせいだけではない。カリスがどんなに叱り飛ばしても、もう私の命運は尽きたようなものだ。生き延びるという気力が湧かず、立つということすらままならないのだ。
それなのに、カリスは諦めない。どうして、諦めてくれないのだろう。そこまでして、私を生かすつもりなのか。〈赤い花〉だから。指輪を受け取ってしまったから。ならば、世界にもっとたくさん〈赤い花〉がいれば、すぐに楽にしてもらえただろうか。
「アマリリス……!」
「言っただろう、カリス」
戦いながらゲネシスが呟く。
「そいつは死にたがっているのだ。リリウム教会の玩具になるくらいならば、私がこの手で始末してやる。この剣を用いれば、その魔女は苦しまずに死ねるのだ。全ての〈赤い花〉に待ち受けている生き地獄よりはマシだろう」
「やめろ!」
カリスが吠えながら首を振る。
「やめてくれ! もうたくさんだ!」
そしてゲネシスから離れ、猟犬のように素早い足取りで私のすぐそばまで戻ってきた。動きはいい。すっかり良くなったのだろう。そのことだけがじわりと心に灯り、ほっとした。
そういえば、シルワではこの人に文句を言ってやりたかったのだった。元気そうな姿を見られて、それだけで私は満足だ。何故、何の、文句を言ってやりたかったのかまでは思い出せない。思い出したくない。思い出してしまったら、壊れてしまいそうだから。
「カリス……」
もう解放してほしい。赦してほしい。私はもう戦えない。
「もういい……あなただけでも、逃げて……」
庇うのはやめて、見捨てて欲しい。
しかし、カリスは私の傍を離れようとしない。私の声かけは無視し、必死にゲネシスを睨み、姿勢を低くしながら叫んだのだった。
「何人殺してきた。言ってみろ。アルカ聖戦士としての誓いはどうした。愛と平和のために戦ってきたのではなかったのか……!」
「今更もう遅い。それにカリス、お前には言われたくない。生きるために罪なき人を殺してきた人食い狼のくせに!」
「確かに私は人食いだった。だが、人食い狼を減らす方法を教えてくれたのはお前だったじゃないか。平和になれば、魔物たちも人間と共に生きられるのだろう? そう言って、私を教会まで連れて行ってくれたじゃないか!」
「うるさい、化け物めっ!」
黒い目に怒りが込められている。先程までなら敵意を抱いただろう。だが、もはやどうでもよかった。一人で死ぬか、二人で死ぬかの違いだ。それならいっそ、カリスには見捨てて欲しい。もうこれ以上、私を苦しませないで欲しい。この人だけでも生き残って欲しい。
もはや思いは声にならない。ただ空しく願いばかりを抱え、私はただ目の前の光景を見つめていた。
「カリス、お前は人狼だ。共には生きられない。どんなに人間の味方をしようと、お前は人狼なのだ」
ゲネシスは怪しく笑いだす。先程までは抑えられていた感情が、淀みなく流れ出しているようだった。
「ああ、お前はよく努力しただろう。人食いの盗賊崩れからよくぞここまで教会の連中に信用されたものだ。だが、忘れるな、カリス。人狼戦士など連中にとってみれば消耗品に同じ。いまに分かるぞ。私の言っていることが。聖下がどんなに心を痛めようと、この世界は聖下おひとりの御意向で決まるものではないのだから!」
ゲネシスの怒声が耳障りだった。
呪われた聖剣に指輪。そのきらめきが、私たち二人の未来を決定しようとしている。逃げる力の残らぬ私と、逃げようとしないカリス。このままでは、新しい亡骸が二つ増えるだけだ。
私はこのまま殺されたっていい。何処かに〈赤い花〉はきっといるだろうし、ルーナを失ってしまった今、何もかもが無意味に感じられる。だからもう、いっそのこと解放してほしい。楽にしてほしい。殺してほしい。このまま生き続けるなんて、不可能だ。拷問でしかない。
しかし、カリスには……カリスにこそは、逃げてほしかった。もうたくさんだ。私の目の前で、ルーナのように死なないで欲しい。心が悲鳴を上げてしまうから。死ぬなら、私の見ていないところで死んでほしい。
「これ以上、私の邪魔をするのならば、今度こそ、その首刎ねてやるから覚悟しろ!」
ゲネシスが剣を構える。どうやら、ささやかなこの願いすら、神は聞き届けてくれないらしい。
彼は本気だ。本気でカリスまで殺そうとしている。長い間、ずっと、彼女が彼の事を庇ってきたのに、どうしてそんなに非情なことが出来るのだろうか。カリスが人狼だからというのか。
――ルーナ。どうやら、すぐにまたあなたに会えそうよ。
カリスは今度こそ無事ではいられないだろう。その死を見届けて、私も殺されるのだろう。そうして、愛の証として届けられる花束にされてしまう。しかし、どうでもいい。
世界の崩壊が近づいている。その足音が聞こえ始めてきた。私の死は世界の人々を恐怖させるだろうか。だとしても、罪悪感はちっとも抱けなかった。
むしろ、心地よい。皆で崩壊に向かうのも、悪くないかもしれない。
だが、自嘲気味に笑いだすまでもなく、この場の空気が一変した。
カリスでもゲネシスでもない、別の者の声が荒れた礼拝堂に響き渡ったのだ。
「ゲネシス!」
その声に少しだけ目が覚めた。背後より誰かが駆け寄ってくる。そのまま床に座り込む私を背後から抱き、真っすぐ罪人へと視線を向け始める。
その姿を見て、ゲネシスの目がやや動揺を見せた。
「グロリア……生きていたのか」
グロリア。確かにそうだった。異変が生じた時に真っ先に出動した彼女。生きていたのだ。この絶望的な状況下で。生きて、ここまで戻ってきた。
戦闘服には汗が染み込んでいるらしい。ちらりと覗けば、その髪は水気を含んでより黒に近くなっている。最後に見た時は確かまとめていたはずだったが、戦いの最中で解けたと見え、水藻のように揺れていた。
「ゲネシス……本当に、貴方が全てやったのだね……」
震えた声で彼女は言った。間違いなく旧友だと確認したからこそのことだろう。
「私たちとの誓いはどうなったんだ……。ジャンヌやピーターにどう償うつもりだ……。彼らは貴方を友だと信じていたのに……。私だって……周囲がなんと言おうと、この目で見るまで、信じていたのに……」
そのアルカ語の言葉遣いこそ固いが、声の調子はより女性らしかった。動揺が強いらしい。その声の震えが妙に心地よかった。彼女の悲しみが、私の悲しみと重なって、現実離れした居心地の良さを感じてしまったのだ。
グロリアと行動を共にしはじめたのはシルワを経つ頃だった。あれから今日まで、彼女は常に感情を抑えたような声で喋っていたことを覚えている。今の彼女とはまるで違った。
そんな旧友の姿を前に、ゲネシスの戦意が揺らいだ。剣を構えたまま、そっと後退する。
「……お前には分からないだろう」
先ほどと変わって、その声にもまた動揺が含まれている。残酷さしかなかった冷徹な瞳の輝きは濁り、怯えのようなものすら見て取れる。
「愛を知らず、戦い続ける道を選んだお前に……おれの気持ちなんて分からないだろうよ」
奇妙なまでにゲネシスは恐れていた。カリスには強く出ることが出来ても、子ども時代から共に学んできた旧友を斬り殺せるほど心が壊れていないということか。後退し続け、グロリアの視線から逃れようと必死だった。
そしてその踵がリヴァイアサンの亡骸に触れた時、ふと彼の眼差しが裏口の向こうへと気を取られた。
「……呼んでいる。あの人が」
その注意はすっかり他に向いている。その眼は虚ろで、取り憑かれているかのようだった。
「行かなくては」
「ゲネシス! 待って!」
グロリアの叫びなど届かず、ゲネシスは走り出した。それを見て、カリスもまた走り出す。
「……逃がすものか!」
ゲネシスはもはや相手などしなかった。鍛えられた足で素早く裏口に向かうと、カリスなど振り返りもせずにあっという間に消えてしまった。しかし、カリスもめげない。目の前で裏口の扉が固く締められると、こちらを振り返って早口で言った。
「その魔女を頼む!」
グロリアに向かって咆哮するように言うと、そのまま影へと呑まれていった。
カリスが消えた。追いかけてどうするつもりなのか。そして、死の天使も消えた。愛する存在との約束も違えて、私を諦めて行ってしまった。
もう誰もルーナのもとに送ってくれない。どうやら私はまだ生きていなくてはいけないらしい。ルーナがいないのに。愛しい隷従を失ったのに。その恐ろしさにわなわなと体が震えてしまう。
「アマリリスさん……」
震えの止まらない私の身体をグロリアが抱きしめてくる。その胸に赤子のように縋っているうちに、自分がまだ泣く元気があるのだと知った。
騒動はこうして治まった。しかし、私の心情は、助かったではなく死ねなかった、だった。自らの悪運の強さに辟易する。礼拝堂に横たわる亡骸の一つから目が離せない。
ルーナ。あの子はどうして、目を覚ましてくれないのだろう。




