7.直向きな隷従
ルーナの黄金の目がこちらを見て驚いている。
状況はすぐに分かったらしい。もがこうにも、ソロルは離してくれなかった。魔術を使えば簡単だ。ゲネシスの注意は現れたばかりのルーナに向いているのだから。
しかし、ソロルの鋭い視線を背後から受けると、その手が今もわが命を握っているのだと思い知らせて来ると、魔法の使い方すら忘れてしまったのだ。だから、私が真っ先にできたことは、叫ぶことだった。
「お願い、ルーナ……逃げて!」
「主従の魔術ね」
残酷にもソロルは見抜いてしまった。絶対に答えまいと即座に口を噤んだが、もう遅かった。体の震えこそが何よりも答え合わせとなってしまっただろう。
華やかな声でソロルはルーナに向かって声をかけた。
「いらっしゃい、〈金の卵〉のお嬢さん。ちょうどよかったわね。あなたの“ご主人様”を今からいただくところなの」
ルーナが驚いたようにこちらを見つめてくる。しかし、直後、彼女の顔に現れたその表情に、私の方が驚いた。
これまで、〈金の卵〉というものは、人懐こく怒りらしき感情を宿さないものだと聞いていた。だからこそ人間にとって扱いやすく、生粋の魔物であったとしても家畜として優れているのだと。実際に、ルーナが心から怒りを覚えているような場面はあまり覚えがなかった。ルーナはいつだって、無邪気な少女のようだった。
しかし、今は違う。憎しみと激しい怒り。野獣のようなその眼差しに、私の方がぎょっとしてしまった。
そして、彼女は獰猛な猫が威嚇するように唸り声をあげたのだ。
「アマリリスを返して!」
直後、彼女の姿は黒豹へと変わった。いや、いつもの黒豹ではない。もっと巨大な黒い魔獣の姿に変わっていた。それが雌だとは一見して分からないような雄々しい生き物の姿を借りると、そのまま私たちめがけて突進してきた。
こんな状況をゲネシスが放っておくわけもない。一言もしゃべらぬまま、彼は剣を構え、ルーナに迫った。
「やめて、お願い! ルーナ、逃げて!」
その命令は通じなかった。ルーナとゲネシスがぶつかり合う。
私はどうなってもいい。生贄になるのなら、喜んで身を差し出そう。どんな責め苦にも耐えられる。こんな光景を見せられるくらいならば、私が身代わりになりたいくらいだ。しかし、私に課せられた運命はどうやら血も涙もないものだったらしい。……いや、だからと言って諦められるか。
ルーナは平和を愛していた。世界を愛していた。人を愛していた。自分が戦う未来なんて、本当に想像できていただろうか。強くならねばと何度も言っていた彼女を思い出すと、今更ながらぞっとする。どうして、こんなことになってしまったのだろう。
絶望に身を打ちひしがれつつ、抗う心だけは忘れてはならない。
ルーナとゲネシスが戦い始める。剣をかわしながら、次々に姿を変えていく。これまで色々なものを見つめ、そして学んできたのだろう。空を飛ぶことだっていつの間にか覚えていた。私と共に歩んだ日々はどれだけのものだっただろう。しかし、どんなに経験が豊富だったとしても、あまりにも短い。アルカ聖戦士として生きてきた男に挑むには、あまりにも経験が不足している。
それでも、彼女の行動は、ゲネシスの注意を完全に逸らしていた。
あの子は私が盗んだ子だ。クロコ帝国の国民の行く末なんて気にせずに、自分が利用するためだけに盗んだ。けれど、旅の中で、何度あの子の存在に救われただろうか。あの子は優しい子だ。悪意を知らない子。癒しに他ならない子。私の大切な宝物だった子。これから先、まだまだ未来のある子。未来がなければならない子なのだ。
その強い衝動に、恐怖は打ち消された。私の挙動に気づき、ソロルの手がすぐに動く。リヴァイアサンの時と同じだ。今度こそ食い殺されるかもしれない。だが、一度覚悟を決めればもう怖くない。死ぬ気だった。死ぬ気で私はゲネシスに指を向けた。
彼さえ殺してしまえば、ルーナだけは助けられるかもしれないのだから。
――蟷螂の鎌の魔術。
有りっ丈の怒りと恐怖、そして敵意が込められる。
――《収穫》
死神の持つような鎌がゲネシスの首を収穫しようと狙う。それを見て、ソロルが冷たく腹をなぞった。どんな苦痛が私を襲うかは分からない。だが、冥界にさらわれるのはあの男だけではないだろう。道連れだ。仇は別の誰かが取ってくれるはずだ。カリスか、生き残っている誰かか。
しかし、死の口づけが私の身体に触れるより先に、絶望的な光景が目に映った。
蟷螂の鎌がゲネシスを捕らえ損ねたのだ。いや、ただ狙いが逸れたのではない。ソロルの助力があったわけでもない。ゲネシスがおよそ人間とは思えない動きで剣を持ち直し、鎌を弾いてしまったのだ。ルーナと戦いながらにも関わらず、だ。
「……そんな!」
器はただの人間。しかし、相手は神獣とも呼ばれていた存在を殺したような男だ。甘く見ていたということか。それならば、私はこのまま犬死するしかないのか。直後、酷い腹痛が襲ってきた。なぞられた場所だ。血の味が体内からこみ上げてくる。明らかに体がおかしかった。このまま死ぬを待つしかないのか。最後の闘志すらも消されかねない状況で、それでも私はどうにか意識を保ち、ただルーナを見つめた。
「本当にいけない子ね」
囁く声は私にしか聞こえないだろう。
「安心して。ただ脅かしただけよ。内臓は無事だから死にはしない。殺すのは後よ。その前に、あなたの生きる意味を消してあげる」
「やめて……」
こうなってしまったら、もはや懇願するしかなかった。
しかし、相手が聞く耳を持ってくれるはずもない。
「ゲネシス、やりなさい!」
執行人の命令が下ると、一気に形勢が変わった。
ルーナもゲネシスも対等に戦っているように見えたが、それは誤解だった。ゲネシスは様子を見ていたのだ。そして、許可を待っていた。ソロルの許可を。愛しいサファイアの幻影の許可を待っていた。そして、許可は下ってしまったのだ。
黄金の目に恐れを浮かべてルーナが後退する。限界だ。もう戦えない。体力が尽きてきている。戦う気力までが奪われつつある。猛獣の姿をしていた彼女が、ついに再び少女の姿へと戻ってしまった。そんな姿を見て、冷静でいられるわけがなかった。ゲネシスに、あるいは、ソロルに、私は泣きついていた。
「もうやめて、お願い、お願いだから、それだけはやめて……やめさせて……私はどうなってもいいから……」
痛みをこらえ、声を振り絞る。しかし、ソロルは黙ったままだ。
もう戦う力はない。それでも、ルーナにはまだ逃げる力が残っている。逃げたっていい。こんな情けない主人など見捨ててしまってもいいはずなのだ。ルーナは少女の姿で後退し、ゲネシスは剣を持って迫っていく。そのまま再び裏口に逃げてくれたらどんなによかっただろうか。
しかし、ルーナはそうしなかった。これが「主従の魔術」の副作用なのだろうか。それとも、ルーナの意思なのだろうか。そのどちらなのかを知ることも出来ない。
最後に彼女は黒豹の姿になった。初めて私と出会い、襲い掛かってきたあの姿だ。黄金の目は美しく、胸元には白い逆さ十字のような模様が刻まれている。しなやかで美しいが、それだけの姿。本当は猛獣のような身体能力なんてないと言われていた。見かけだけの姿で、アルカ聖戦士に敵うはずがないのだ。
それなのに、ルーナは床を蹴り飛ばし、高く、高く、跳躍した。
白い牙と爪をゲネシスに向けて、彼女は咆哮しながら襲い掛かる。とても勇敢な姿だった。とても逞しい姿だった。とても美しい姿だった。
こんな成長を誰が望んだというのだ。彼女にはいつまでも私に守られる存在でいてほしかった。
勝敗はあっさりとついてしまった。
「うっ……」
ゲネシスは傷一つない。上がったのはルーナのくぐもった悲鳴だけ。そして轟音と共にその巨体が床にたたきつけられると、そのままいつもの少女の姿へと変わった。まだ生きている。生きている。しかし、ゲネシスが冷たく振り返る。
「もう……やめて」
それ以上、立っていることが出来ず、腰から下の力が抜けた。血の味はまだする。意識が遠ざかりかけている。そんな私をしっかりと支え、逃さず、ソロルは愛する手駒を睨みつけながら命じた。
「やりなさい」
感情のないその言葉に、感情のない彼が動く。ルーナの目が私を見ている。黄金の目が、私を見ている。駆け寄ってやりたい。しかし、体が震えて動かなかった。痛みを堪え、視線で応じることしか出来なかった。一歩、また一歩と近づいてくるルーナは愛らしく、それでいて悲痛なものだった。あんなにも可愛い子なのに。無害な子だったのに。
ゲネシスには心がないのだろうか。剣を構えるその姿には一切のためらいも感じられない。私には、彼を憎むという余裕がなかった。ただ祈るしかなかった。だが、何に祈ればいい。神はもうとっくにこの子を見放しているのに、何に祈ればいいのだろう。
「やめて――」
当てもなく、訴えることしか出来なかった。
そして、その時は来た。ゲネシスの剣が、突き立てられる。
これは悪夢なのだろうか。目を覚ませば解放される夢なのだろうか。現実であるなんて誰が信じられよう。だが、どんなに私が信じられなくとも、これは夢ではない。夢ではなく、現実だったのだ。
ソロルの言った通り、生きる意味が失われた瞬間でもあった。何のために、私は生き続けなければならない。
痙攣している体がやがて止まり、固まってしまう。確かにそこに愛しい子の身体はあるのに。もう笑いかけてくれない。もう話してくれない。確かにそこに横たわっているのに。
もはや、反抗も、復讐も、不可能だ。戦うという行為すらままならず、座り込むしかない。そんな私の様子を冷静に判断したのか、ソロルは手を放し、離れていった。
「ゲネシス、他のお客さんが来てしまうわ。早いところやってしまって」
ルーナの命の灯が尽きていく。その余韻など微塵も感じずにソロルは言った。
「あたしは先に行く。老いぼれ婆はもういないもの。代わりにマルの生まれ変わりに教えてやらなくては。新しい主人が誰なのか、抱きしめて教えてあげなくては。だから――」
行かせてはならない。死の抱擁が、彼女を襲ってしまう。
しかし、もう立ち上がることが出来なかった。身も心もすっかり壊されかけている。そんな私の意識を守っているのは、利き手の人差し指にはまる指輪の存在だけのようだ。
それでも、指輪はルーナを守ってくれなかった。〈赤い花〉としての私は無能すぎたのだ。
「その子の解体をよろしく。〈赤い花〉を抜くだけでいい。傷つけないように注意するのよ。じゃあ、早く来てね。愛しているわ、ゲネシス」
愛の囁きを残し、ソロルは優雅に去っていく。
残されたのは、私とゲネシスと、そしてリヴァイアサンとルーナの亡骸だった。荒れた聖マル礼拝堂が再び血と死に穢された。きっともうすぐ、三つ目の死がここを穢すのだろう。そうだとしても、もはやどうでもよかった。あの聖剣が、私をもう一度ルーナに会わせてくれるのなら、どうでもいい。
ゲネシスがゆっくりと近づいてくる。漆黒の髪、目、礼服、いずれも処刑人と呼ぶに相応しい。見上げてみれば、その姿は死の天使のようだった。古代イリスの彫刻といったかもしれないが、この美は偉大なるイリスの先人たちにも再現不可能だろう。
「泣いているのか」
心の死んだ声が聞こえてくる。
「悲しんでいるのか」
答えることが出来ず、私はただ彼を見上げていた。
「苦しいのか」
なんて美しい顔をしているのだろう。
「待っていろ、すぐに楽にしてやるから」
憐れむような黒い目が異様だ。しかし、何故か今の私には救いを与える目にすら見えた。おかしな話だ。彼のせいでこんな想いをさせられているというのに。
刃の煌きが私の目に焼き付く。少しでも切られてしまえば、すぐにルーナに会える。そこはきっと穏やかな楽園だろう。そう信じたいほどに、現実が受け入れられなかった。
しかし、そんな天使の導きを邪魔する者は現れた。
「そうはさせない」
激しい敵意の込められた声と共に、突如、彼女は私とゲネシスの間に現れた。麦色の毛並みが視界を遮る。強く唸る声が耳をくすぐる。ゲネシスに強い敵意を示しながら私をかばうその生き物を見て、私は少しだけ我に返った。ゲネシスも同じだ。剣をいったん降ろし、ジッとその生き物を見下ろす。
「カリス……」
呆然としたまま、私はその名を思い出した。
麦色の狼――カリスは私を庇いながら、ゲネシスに向かって唸っている。かつては愛していたといった相手。しかし、今はそんな過去も忘れてしまったかのように、彼女は強い怒りを示していた。
「私が相手だ!」
その唸り声は、荒れた礼拝堂全体に響き渡った。




