6.聖竜の悲鳴
礼拝堂の中はしんとしていた。
皆、無事に避難できたのだろう。しかし、せめてその事実にホッとする間もなく、取り憑かれたように歩いていくゲネシスの後姿に目を奪われてしまった。迷いなく祠の前に立つ。
その美しい後姿を眺めながら、ふとソロルの視線がしっかりと閉じられた裏口へと向いた。きっと狙っている獲物が何処へ逃げたかを確認しているのだろう。
聖マル礼拝堂の水の音は変わらない。祭儀の時は非常に美しく、清らかな音であり、その空気も澄んだものに感じたものだ。しかし、こうしてソロルに囚われ、首筋と胸元を指で抑えられている今、湿った空気が非常に冷たく、凍えてしまいそうなくらい苦痛だった。
ソロルがその気になれば、私はすぐに殺されてしまう。気まぐれに生かしているだけで、本当は今すぐに潰したって構わない程度の命に過ぎないだろうから。そう思うと悔しいものだが、抵抗することすら怖かった。
それは、今までに感じたこともないほどの死への恐怖だった。
ゲネシスが祠を見つめ、そして天井を見上げる。左右から床へと水が流れ落ちるそのちょうど真ん中あたりだ。婚礼の儀にてブランカが見上げた場所と重なる。そこを獲物の姿を見つけた猟師のようにじっと睨みつけると、彼は剣を構えた。矛先が一点に向けられる。光ったのは剣だろうか、コックローチならばそう記憶したのだろう。だが、私には違うように思えた。光ったのは指輪だ。剣を持つ左手の薬指だった。
その輝きが礼拝堂全体を覆うと、遠くからゆっくりと声が近づいてきた。海を見つめていると聞こえてくることのある悲しげな声だ。鯨の歌声とも呼ばれると聞いたことを思い出した。これのことだろうか。不思議なまでに寂しくなる声が大きくなってきた。
現れるのはおそらく、鯨ではない。
昨日手に入れたばかりのコックローチの情報、そして、ウィルたちと確認し合った報告を思い出す。
ジズは、ベヒモスは、どうして消えてしまったのか。
聖獣は現世に干渉しない。そう思われていたはずなのに、ゲネシスの指輪はその大いなる存在を確かに引き寄せてきたのだ。
そして、光が消える頃になって、彼女は現れた。
リヴァイアサン。あるいはセルピエンテ。ウロボロス。
さまざまな名が彼女を表してきただろう。絵画や彫刻で彼女を表そうとした人々は数知れない。厳つい作品も多いが、美しい作品も多い。しかし、そのどれもが本物の彼女には敵わない。
紫色の姿は一目でわかるほどのただならぬ気品をまとっており、人間たちの祖がかつて住んでいたという海と同じ色の目がだんだんとはっきり見えてきた。
やはり、あの悲しげな声は彼女の咆哮だったのだ。つい先ほど、ブランカと再会したはずの聖竜。女神であることを禁じられた今であっても、彼女は言葉に尽くせぬほどの素晴らしい姿をしていた。
ただ一つだけ語れるのは、本物の彼女は優しく、穏やかな目をしていたということ。
彫刻にあったような他者を威嚇し、今にも食いつきそうな竜は何処にもいない。竜人たちの偉大なる母は、全てを慈しむような眼をしていた。
その眼差しは、自身に剣を向けてくる不届き者を前にしても変わらない。
こんなこと、あっていいものか。
リヴァイアサンの見守る相手は魔の血を継がぬ全ての種族である。そこに私は含まれていない。死霊も含まれない。この礼拝堂の中にいる者に限れば、彼女が愛する対象は祠の前で剣を掲げるゲネシスただ一人だろう。
ちっぽけな愛すべき生き物を前に、リヴァイアサンは不思議そうな顔をしていた。自らの意思で来たのではない。引きずり出されたのだ。そして、何故、自分が愛すべき存在に敵意を持たれているかも分かっていない。
旧世界の神の言葉なんてちっとも分からない私でも、そう察することは容易だった。
「逃げて!」
思わず叫べば、ソロルの手に力がこもり、首を絞められた。途端に呼吸が苦しくなり、喉の奥から血の味がこみ上げてくる。ただの首絞めではない。死霊は触れるだけで相手を食えるのだ。その力の片鱗を味わわせてくれたのだろう。
「邪魔をしないで」
脅しと分かる声が背後から襲い掛かる。
「黙ってみていないと、もっと苦しい思いをさせる」
そう言って、彼女は力を抜いた。途端に苦しみから解放され、泣き出してしまいそうになった。
本当に、私は臆病者だ。これまでは、自分のことを買いかぶっていたかもしれない。もっと強いと思っていた。騙し討ちが成功するたびに、私は世界を知っている気になっていた。人狼に怯えながら暮らす人間たちを憐れみ、心の何処かで馬鹿にしてきた。
ああ、今なら懺悔もできるだろう。私は世の中を舐めていたのかもしれない。警戒した気になって、自分を賢いと信じていたのかもしれない。だから、本当に神がいるのならば、どうか止めて欲しい。
「ゲネシス!」
しかし、残酷な執行人は神ではなく背後に立つ死霊であるのだ。彼女の鋭い命令が下ると、ゲネシスは床を蹴り飛ばしてリヴァイアサンに襲い掛かっていった。その動きのなんと怪しいことか。彼は本当に人間なのだろうか。人間の気配しかまとわりつかせていないのに、魔の血なんて一滴も継いでいないと見えるのに、彼はリヴァイアサンの姿に怯むことなく剣を向けたのだ。
だが、リヴァイアサンとて古くは女神と讃えられた竜である。長きにわたる平穏の時間にどっぷりとその身を浸していたとしても、一目で何事かを判断したらしい。ゲネシスの剣が彼女の首を刎ねるより前に、彼女はヘビのようにうねりながら礼拝堂の天井へと逃れた。何度も、何か所も、天井にぶつかりながら、聖竜は悲鳴を上げる。どうにかこの場から逃げようと思ったのだろう。しかし、逃げることが出来ていない。まるで檻のように、礼拝堂は彼女を閉じ込める。
この恐ろしい事態の要因は、ゲネシスの身に着けている指輪にあると睨んだ。ならば、あの指輪を奪えば、聖竜を助けられるだろうか。
もちろん、それは許されなかった。体は硬直し、水気と自分の冷や汗で凍えそうだ。頭の中に広がるのは、情けなくも、この戦いが終わった後の自分の行く末ばかり。
死は安らかなものだろうか。ルーナはどうなってしまうだろう。そんな事ばかりが頭をよぎり、ただ目の前の光景を頭に焼き付けることしか出来なかった。
ゲネシスは礼拝堂の床を歩きながら、非常に冷徹な視線を天井に向けていた。今の彼に果たして感情はあるのだろうか。グロリアと活き活きと話していたこともあると聞いたが、そんな過去も信じられないほど、その様子からは何も感じない。ただ黒い衣に身を包んでいるだけ。黒い目や表情からは、何を考えているのかがさっぱり分からなかった。
彼の頭にあるのは己のすべきことだけかもしれない。手に持っている剣で、今もなお悲鳴を上げながら逃れようとする美しい竜をどのように捕らえるか、それだけを考えているのかもしれない。
やがて、ゲネシスの考えはまとまった。それは、逃れようと暴れ続けていたリヴァイアサンが、力尽きて空を飛ぶのに疲れてしまった直後だった。床に落ちてこようとする彼女を目にするなり、ゲネシスは走り出した。跳躍して届くと踏んでの事だろう。その通り、彼の目論見は正しく、呪われたその剣はようやく聖竜の鱗を傷つけることに成功した。
竜の絶叫があがる。竜の固い鱗が剣を弾き、ゲネシスごと突き飛ばす。一見すれば傷はさほど深くないように思えた。しかし、時間が経つと、リヴァイアサンのいる床は真っ赤に染まりだした。
聖竜の悲痛な息遣いが礼拝堂の空気を濁していく。床にたまった血は小川のように続き、片側の溝へと流れていく。清らかだった水路は、すでに穢されていた。同じようなことが、シエロ、カエルムでも起きたのだと思うと、今更ながら寒気がした。
そこへゲネシスが容赦なく追撃を加えた。
一度、決まってしまえばあとはもう簡単だった。リヴァイアサンは悲鳴を上げるばかりでゲネシスに手を出そうとしない。彼もまた愛するケモノの子孫だからなのだろうか。一度でいい。その鋭い牙が、この愚かな罪人の身体を貫くことがあればいいのに。
しかし、私の見ている前で、決着は呆気なくついてしまった。
そう、イムベルの大きな守りが崩壊した瞬間に、私は立ち会ったのだ。
頭の中が真っ白になった。
ゲネシスは倒れ伏した竜の巨体に何度も何度も剣を突き立てている。その口からは言葉が漏れ出さない。暴言も吐かなければ、世迷言も吐かない。ただ何度も剣を刺し、もう動かない竜の命をその亡骸から徹底的に追い出していた。
美しい鱗が何枚もはがれ、血の川の中に浮かぶ。そんな光景をただ茫然と見ていることしか出来なかった私の後ろで、ソロルが愛情のこもった声で彼を呼んだ。
「もういいわ、ゲネシス。素晴らしかったわ」
傀儡のような男の黒い目が、こちらに向く。
「これで海の供物を守れるものはもういない。安心して。ゲネシス。もうすべて終わるの。それより、見て。あなたの大嫌いな魔女よ。これからの先の大仕事のために、まずは練習をしましょうか」
その言葉に、ふとカリスの報告を思い出した。
彼の義弟は魔女によって攫われたのだったか。私も幼い頃に怯えた人形の魔女だ。魔女だからと言って、私と彼女には何の接点もない。しかし、魔女を憎む者からすれば、誰だって同じということだろう。別におかしい事ではない。そういう人間は多い。人狼に身内を殺され、全ての人狼を憎む者だって珍しくはない。
彼の目にやっと感情らしきものが宿ったのはその時だった。彼は魔女を嫌っている。
「〈赤い花〉……」
やっとその声は聴けた。淡々とした感情の死んだ声だった。
「汚らわしい魔女とはいえ……長年、保護を命じられてきた……」
見た目よりもずっと声が老けているように感じられた。しかし、何よりも聞いているだけで心が痛むようなその声色は、異様としか言いようがなかった。
「あなたはもうアルカ聖戦士じゃない。歪みだらけのリリウム教会の命令なんて、もう二度と守らなくていいの」
ソロルが優しく告げると、ゲネシスはじっと私を見つめてきた。
目と目が合うと、鳥肌がたった。人食いを覚えてしまった猛獣に、丸腰で挑まなくてはならないかのような緊張だ。今の状況はそれよりも悪い。生贄で捧げられる状況という方が相応しいだろう。
どんなに震えたところで、ソロルがこ拘束を解いてくれるはずもなく、ゲネシスが憐れんでくれるはずもないと嫌でも分かってしまったからだ。
ソロルが楽しそうに恋人に囁いた。
「その剣で貫きなさい。でも、注意して。〈赤い花〉を傷つけては駄目」
「君は、その〈赤い花〉が欲しいのか?」
「ええ、そうね。あたしを愛しているのなら、その証に美しい花を頂きたいの」
「そうか……君がそう言うのなら」
剣を構える彼の姿が目に映ると、気が遠くなってきた。
神はいないのか。それとも、私の献身が、意味のないものだったのか。いたとして、異教徒であるのがいけなかったのだろうか。もともと私の命は、ここで終わってしまう運命だったのか。
あまりの仕打ちに世界を恨みそうになる。
そんな時だった。
荒らされた礼拝堂全体に響き渡る扉の開閉音に、びくりとしてしまった。開いたのは、右前方に存在する裏口。開けたのが誰なのか、その姿を見て、心臓が止まってしまうかと思った。
ソロルとゲネシスが、ゆっくりとその人物へと目を向ける。だが、扉を開けた人物が見ているのは、私だけだった。私の状況だけだった。
――ああ、神様。それだけは。それだけはお許しください。
祈るしかなかった。祈るしかない。祈る以外には何が出来るだろうか。動くのを辞めたがる頭をどうにか動かして、私は彼女に叫んだ。
「だめ!」
心からの祈りを込めて、私は命じたのだった。
「逃げなさい、ルーナ!」




