5.陥落
影がゆらゆらと近づいてくる。動きが奇妙で、非常に怪しい。メリュジーヌ隊長とその部下たちが武器を構える。私もまた意識を研ぎ澄ませた。蜘蛛の糸でいつでもその首を飛ばせるように……しかし、よくよくその何者かの姿が見えた時、今度は違う衝撃が我々を襲ったのだ。
「ベドジフ……?」
思わず声を上げると、メリュジーヌ隊長の部下の数名が振り返った。その視線に反応することが出来なかった。
ベドジフだ。カルロスの部下の一人。ふらふらとした足取りで、血だらけだった。鎧はしっかりと胴を守ったと思えるが、守られていないところが傷だらけだった。赤い足跡で床が穢されている。流血は止まっていない。よく知った者の見るからに痛々しいその姿に、血の気が引いてしまった。
「敵襲……敵襲です……死霊たちが……たくさん――」
非常に弱々しい声で彼が言った直後、とうとう力尽きてしまった。一瞬の緊張が走った直後、彼の周りの床が下から破壊され、敵対する者たちは現れた。
「ギータ先生!」
メリュジーヌ隊長の声に従い、ギータ医師が手早く礼拝堂の扉を開き、ニフテリザとルーナを押し込んで共に消えていった。扉が固く閉ざされると、その音で現れた敵――死霊たちが一斉にこちらを見た。竜人の姿をしているものは一人もいない。皆、ただの人間に見えた。もしかしたら、ここで亡くなった者や、ここに深い縁のある巫女の一族の者たちかもしれない。
彼らに睨まれ、怯んでしまった。少なくとも七体はいる。こんなにも多くの死霊に睨まれたのは初めてだった。
「怯むな!」
メリュジーヌ隊長が吠えた。私にではなく部下にだ。
「ヴィトゥス、アントニウス、減らせ!」
その命令に従い、二名の黒い竜人戦士が鎖を外されたように走り出す。手には人には扱えぬような大剣が握られている。
死霊はその存在こそ不気味であり、人間や魔族の一部にとっては恐ろしい捕食者でもあるが、竜人という者たちの敵ではない。案の定、ヴィトゥスとアントニウスの攻撃が数分も続かぬうちに、現れた死霊のうちの半数以上があっけなく減らされた。その死に様は無力な人間のものに似ており、そこがまた複雑な気分にさせてくる。竜人たちも恐らくそのはずだが、戦士という職業にあってか、感情は微塵も出していない。
動けぬ屍はやがて塵となって消える。新たな敵が現れるより前に、出撃したうちの一名の鬣が金色の方――おそらくヴィトゥスだった――が、倒れ伏しているベドジフの息を確かめ、手を貸そうとする。まだ生きているのだろう。
そこへ、メリュジーヌ隊長の第二の命令が下った。
「ルノー、ユリアン!」
私はヴィトゥスの動きに気を取られていたが、彼らはそうではなかった。冷静に状況だけを見据え、少しずつ必要な相手を動かす。ルノーもユリアンもすでに敵の居場所を見据えていた。アントニウスを翻弄し、ヴィトゥスを襲おうとしていた死霊が、ルノーの手によって打ち砕かれる。
しかし、潰しても、潰しても、死霊の数は減らなかった。七体どころではない。その数は次々に増えていた。
メリュジーヌ隊長の表情が険しくなっていく。大剣を手に敵を操る者たちの居場所を突き止めようとしているらしい。
礼拝堂の中の人たちはちゃんと避難できただろうか。此処を通すわけにはいかない。ルーナとの未来のためにも、どうにか勝たなくては。
不安に思うなか、竜人戦士たちが次々と死霊を潰す廊下の向こうより、突き刺してくるような気配を感じ始めた。
――サファイア。
聖海よりも深くおどろおどろしい眼光が、暗闇の向こうから近づいてきている。多くの仲間たちが駆け抜けた先から、堂々と歩いてきているのだ。その向こうが今どうなっているのかなんて考えることも出来ない。私はただ、青い双眸に目を奪われていた。
サファイアの姿を借りて罪を重ねる死霊。ごくありふれたソロルだったはずの彼女も、いまや、死霊たちの女王と呼ぶにふさわしい。彼女だけではない。きっとすぐに彼女の守る恋人の姿が拝めるはずだ。
メリュジーヌ隊長の目の色が変わる。
「ヴィトゥス、いったん引け! 怪我人と共に中へ!」
そんな命令が下った直後、私は確かに見た。サファイアの亡霊の背後から、ケモノのように疾走する人影。やはり来た。彼だ。髪も黒く、目も黒い。ただ剣だけが煌々と輝いている。それが何者なのかはすぐに察した。明らかに人間の気配をまとっているのに、死人のように生気がない。非常に恐ろしい姿だ。
「いかん……!」
彼の姿に気づき、メリュジーヌ隊長が素早く私の傍に来た。動揺しつつも魔術で助力しようとする私を強く制すと、他の部下二名に視線を送り向かわせた。死霊なんかとは比べ物にならないもっとも通してはならない二名を相手に竜人たちが怒声を上げる。
ここまで彼らが来たのはどうしてなのか。ベドジフの傷は誰にやられたのか。他の者たちはどうなったのか。様々なことが頭をよぎる中、それでもサファイアが近づくたびに、さらに死霊の数は増えた。
「アマリリスさん」
メリュジーヌ隊長が低い声で囁いてきた。
「いいですか、あなたの敵はあの男です。ソロルに気を付けつつも、あの男だけを狙うのです。我々の事は一切考えずに!」
そして、誰かの悲鳴があがった。人間のものというよりは、怪物の甲高い悲鳴に似ている。倒れ伏した者の名前を竜人戦士の一人が叫んだ。ついに一人、やられた。
メリュジーヌ隊長が聖剣を構えなおし、咆哮した。
「大罪人め!」
死霊を減らしつつ、たった一人のソロルを狙う部下たちに混ざっていく。
扉の前から動かずに、私はただ黒い目の聖戦士ばかりを見つめていた。その顔立ちは古のイリス国で作られた彫刻のようだ。男性の美をすべて詰め込んだような顔立ち。だが、その目元には疲労がたまっていた。ぎらぎらとした視線が一瞬こちらに向き、目が合う。
――ゲネシス。
その名は、確かに刻まれた。
深呼吸をし、私は魔力の流れを確認した。滞りはない。なんでもいい。彼を止めるのだ。
1、2、3、指輪がとても熱い。5、6、ゲネシスにルノーが挑みかかる。8、何が起こったか分からない。10、11、12、ルノーが苦しみ倒れ伏した。14、15、彼がこちらに来る。17、18、狙いが定まる。20、もっとも狙いやすい場所に、彼はいる。
手を伸ばし、意識を傾けた。
――蜘蛛の糸の魔術《切断》
これまで数多の人狼たちを葬ってきた魔術が、一人の男を狙って飛び出していく。その糸が人間に見えるはずもない。事実、彼の視線は全くぶれなかった。見ているのは私でもない。きっと、私の背後にある扉だろう。急に走り出す彼を糸が襲う。
29、その体は切断される。そのはずだった。
「無駄よ」
ソロルの冷たい声が響くと、ゲネシスの持つ剣が何かを弾いた。糸だ。その瞬間、私は彼の手に目を奪われた。指輪。左手の薬指にはめられた指輪が、輝いている。
一瞬呆然とする私をめがけて、ゲネシスは走る。だが、我に返って次なる魔術を考えるより先に、別の者が彼の行く手をふさいだ。メリュジーヌ隊長である。
「よくも可愛い部下たちを!」
大剣を手に襲い掛かる彼女を、ゲネシスはひらりとかわし、そのついでと言わんばかりにメリュジーヌ隊長の部下を傷つけ、倒していく。無力な死霊たちに囲まれながら、開いた道をソロルは優雅に歩いている。こうして、道を作ってきたのだろうか。カルロスの部下たちも――グロリアも――そのほかの大勢の者たちも、やられてしまったのだろうか。
しかし、怯えている場合ではない。蜘蛛の糸がダメならば、次なる魔術だ。
――蜂の針の魔術《貫通》
今度は、考えるまでもなく自然と出た。邪魔な数字たちも今は浮かばない。それだけ、切羽詰まっていた。煩わしい数唱のクセも、出なければ出ないで落ち着かなかった。
そのせいだろうか。貫通はゲネシスを捕らえられなかった。死霊は減らしたが、それだけだ。敵の数を減らしてみれば、こちらの被害がはっきりと目に映った。気づけば、立って戦えているのはメリュジーヌ隊長だけになっていた。
ソロルは悠々と前進する。
メリュジーヌ隊長と戦うゲネシスの動きは、さほど変わったようには見えない。人間の動きだ。それでも、さり気ない動作が竜人戦士の攻撃をかわす。私の視線は時折、ゲネシスの指にはまる指輪へと向いた。
何が彼に力を与えているのか。あの指輪なのか。ソロルなのか。その正体はつかめない。しかし、いくらなんでも首を刎ねてしまえば、それで終わるはずだ。
――鍬形虫の鋏の魔術。
指をさしてよく狙いを定める。
――《断罪》
出来る限りの敵意を込めて、私はゲネシスを狙った。
だが、ちょうどその時、ゲネシスの剣にメリュジーヌ隊長が貫かれた。彼女の悲痛な声があがり、金の美しい鬣を揺らしながら倒れていく。
ゲネシスの方は彼女の苦しみにはさほど興味を抱かず、その剣でさらに止めを刺そうとした。と、そこで、私の仕掛けた魔術に気づいたようだった。
「下がりなさい」
ソロルの声に従い、彼はその場を離れた。幻影の鍬形虫が彼の首を狙ってその鍬を閉じたのは、ほんの数秒後のことだった。
大技の反動ですぐに次の魔術は浮かばない。その隙に、ゲネシスは下がるついでに既に倒れて戦えない竜人数名の身体に剣を突き立てていた。まだ生きている彼らに止めをさしているのだ。
「やめて!」
思わず叫ぶと、力がわいてきた。焦りと怒りが生まれ、気を奮い立たせてくれたのだ。数でやられたのなら、こちらも数だ。どうか、まだ生きている味方が巻き込まれぬようにと祈りながら、私は思い浮かんだその技をゲネシスへと向ける。
――蝗の大群の魔術。
メリュジーヌ隊長が痛みに震えている。どうか、蝗たち。彼女らを襲わないでほしい。
思いを込めて、私はゲネシス一人に視点を定めた。……一人?
――《暴食》
通常、魔術を思い浮かべてから発動するまでに、数秒ほどの間が空く。今回もそうだ。どんなに意識しても、間を一切置かずに正確な魔術を操るのは非常に難しい。とっさに身を守りたいがために出た魔術ならばまだしも、特定の標的がいる状況で、必死に考えながら適当な魔術を見つけ出した今は特にそうだった。
だから、この魔術は結局、発動しなかった。その直前に、ゲネシスを殺そうとした私の――指輪のはまる方の腕を、背後から掴み上げる者が現れたからだ。
「おいでなさいな」
ぞっとするほどの甘い声が背後より聞こえてきた。
死霊から目を離してはいけない。
縁のある者、縁のある場所。彼らが存在できる場所には限りがあるが、その場所においては自由に動くことが出来るのだ。
捕まってしまった。生きたまま、ソロルに捕まってしまった。
それが何を意味するのか。どんな死がもたらされるのか。分かっているだけに恐れが体を縛り上げてきた。
死霊の女王たるこのソロルが動いたとすれば、きっと、メリュジーヌ隊長が倒されたときだろう。戦いと魔術に夢中になった私に忍び寄るのは、こんなにも簡単なことだったのだ。だが、今更分かったところで、捕まった事実は取り消せない。敗北という言葉が脳裏に焼き付き、一気に息苦しくなった。
「この中よ」
ソロルが歌うようにゲネシスを操る。愛しい人の声で、なのだろう。抗えないほどの怯えが生まれてしまった。桃花の死の光景が頭をよぎる。未熟な頃より恐怖してきた捕食者の手が伸び、衣服の上より私の鼓動を確かめ、含み笑いを漏らしている。
その間に、ゲネシスはゆっくりと歩き出した。止めの刺されていない竜人戦士たちのうめき声を無視しながら、まだ必死に戦おうと、動こうとするメリュジーヌ隊長に一切目もくれず、彼は真っすぐ聖マル礼拝堂の扉の前へとやってきた。
「さあ、行きなさい」
そして、扉は開けられた。
ソロルに捕まったまま、私は内部を目にした。しんとしている。では、裏口から皆逃げたのだ。ほっとしたのも束の間、ゲネシスは真っすぐリヴァイアサンの祠へと向かっていった。何をするつもりなのだろう。
取りつかれたように見つめる私の耳元で、ソロルは囁いた。
「せっかくだから、あなたにも見せてあげましょう。その命を枯らしてしまう前に」
非常に冷たい声が心を凍らせてきた。




