4.婚礼
時代が変われば価値観も変わる。先人たちが当然のようにやってきたことも、後世の人々にとっては前時代的な野蛮行為でしかないことだってある。何もかも次世代に残さねばならないという事はないのだろう。
生贄や人柱というものもその一つと言われている。いまだにその儀がはっきりと残っている未開の地はあるのだと聞いたことがある。だが、そう言って見ず知らずの地の民を蔑む世界の人々もまた、魔女狩りなどを行っている。誤解から見当違いの人を断罪し、平和を取り戻す。あれもまた一種の人柱であろうと私はよく思っていた。
三聖獣への輿入れの儀は、生贄の儀であったのだと読んだ。ニューラの所有していた書籍によるものだ。古来、神獣であった彼らを奉る行為を破壊する代わりに、リリウム教会はうまく取り込んだ。しかし、さすがに生贄は不味いとのことで、婚礼という形にすることでどうにか目をつぶったらしい。
そういうわけだから、古来は女神であったはずの聖竜の元に女性である巫女が嫁ぐという、リリウムの教義に照らせばいささか不自然なことが起きるわけだが、多くの人たちがそれで納得しているのだから深くは追及しない。婚礼とは男女の契りのみを表すわけではなく、聖獣と寄り添うことで平和を祈願する神への誓いをさすのだというのが聖職者たちの見解らしい。
それにしても、本当に古来の彼女たちは生贄だったのだろうか。あまりにも古い記録はあまり残されていないらしいが、生贄というのは誤解であり、生涯未婚のまま付き従っていただけだという説もあった。ニューラの家の灯りの揺らめきを思い出す。本のページをめくっていたのが、つい先日のようでもある。かの美しかった養母は今、どうしているだろう。勝手に飛び出してきておいて、無性に懐かしく会いたいとさえ思ってしまう。
ともあれ私は今、文章でしか知らなかった世界にいる。イグニス、カエルム、シルワで経験した時とは全く違う世界だった。
聖マル礼拝堂はひんやりとした石壁に囲まれていた。聖竜の宿るという祠は、これまでのカエルムやシルワと同じように、本来は聖壇があるだろう場所に存在する。他の聖地も同様、祠を囲むように礼拝堂を作ったのだろう。
リヴァイアサンは海より生命の祖を運んできたと伝えられている。人間を含むケモノたちの祖先であり、彼らが大地に住まうきっかけを作った。リリウム教会ではそれが一組の男女となっている。聖海の何処かには天界とつながる場所があり、現在もそれを捜索するべく航海は人気が高い。もちろん、教会に睨まれない程度となっているが。
イムベルは水と関わりの深い場所だ。だからだろう。聖マル礼拝堂では祠の左右のより高い位置より清水が流れ落ち、溝を伝って大聖堂の水路へと続いていた。水の落ちる音、流れる音は清らかで、深呼吸をすれば心の落ち着く水の味がする。どうやら海水ではないらしい。
「我が鱗に誓って、偉大なる母君に申し上げます」
ウィルの語る祝詞に手を繋ぐルーナが困惑の表情を浮かべる。イリス語だ。一応、聞き取れるが意外だった。祝詞がこちらということは、この儀式におけるリリウム教会の色は極めて薄い。
「右に居られるは我々の聖花。今日より貴女の半身となる現身。貴女に捧げるこの日のために、大切に育ててまいりました」
ウィルとブランカが立つのは祠の前だ。これまではブランカとその従者が聖地の者たちの前で跪いていたが、今回は違う。祠の前には誰もおらず、二人は紛れもなく祠だけに向かって頭を下げている。
ウィルの祝詞が終わると、ブランカは跪き、そして引っ張られるように祠の天井を見上げた。私には何も見えない。だが、確かに聞こえた。潮の音だ。聖マル礼拝堂に響き渡る水の音に混ざって、確かに聞こえた。それだけではない。遠くよりすすり泣くような、不思議な声が確かに聞こえてきたのだ。その雰囲気は、寂しげな野犬の遠吠えにも似ている。気づけば隣では、ルーナが耳を傾けている。発情期で気が立っているために、祭儀に集中できるかどうか心配だったが、今のところは問題ない。
それに、期待していたのだろう。聖歌が始まると、悶々とした煩悩など忘れてしまったらしい。どうやらこの子は本当に音楽が好きみたいだ。ならば、多少心配でもカンパニュラに入学させられることになったのはいい事と言えるだろう。どんなに辛くて暗い日々が待ち受けていても、せめてこの子には自分の望む世界を見せてあげたい。心からそう思いつつ、私もまた聖竜に静かな祈りを捧げた。
その後は、祝福の儀よりも短くまとめられた。私たち同席者は早々と退室させられ、あとはブランカとウィル、ブランカの従者たち、そしてこの場にいるはずのリヴァイアサンだけで行われるらしい。再び呼ばれるまで私たちは退室しなければならないようだ。
竜人や人間の修道士たちに導かれるままに、私はルーナと手を繋いで退室した。ルーナはふと振り返り、目を輝かせてブランカ達を見つめ、そして大人しく従ってくれた。
礼拝堂の扉が閉められると、話していい空気になった。そのため、ようやくルーナは我慢を解いて私に抱き着きながら興奮気味に語ってきた。
「すごく綺麗だったね」
この時期にここまで落ち着いて参加できたのはとてもえらいことだ。そっとその頭を撫でてやると、ルーナは恥ずかしそうにしながらも私から離れない。
「お歌も綺麗だった。すごくよかった。あんなに素晴らしい世界があったんだね。ヴェルジネ村の小屋の中に居たら知らない世界だった。わたし、すごく感動したの」
「ルーナの習いたい曲はあった?」
「全部! ……それでね」
と、声を潜めるので耳を傾ける。
「それで、覚えたらすぐに、アマリリスに聞いてもらいたいって……ううん、アマリリスがカンパニュラに留まらないのは知っているよ。知っているけれど……一人で勉強するよりも、傍でアマリリスに褒めてもらいたいって思っちゃうの。わたしって、わがままなのかな。カンパニュラでアマリリスと二人で、一緒に平和で愛に満ちたこの世界を見つめてみたいなってそう思っちゃうの」
発情期特有の目の潤みと頬の紅潮がいじらしい。しかし何よりも、その寂しそうな表情に思わず胸を打たれてしまった。
教会が何を考えているか、それは教会の者たちでも回答できない問いだろう。私だって本当のところは行ってみなければ分からない。見え透いた餌にしか見えないのは本心だ。
それでも、ルーナを預けると決めている以上、そしてそこでルーナが楽しみにしていることがある以上、カンパニュラそのものと縁を切り離すことは出来ない。
その上で、ルーナにこんな風に言われてしまって、激しく動揺してしまった。
「ルーナ、本当の希望を教えて」
周囲で談笑している者たちに聞かれぬように、ほんの小さな声で彼女に囁いた。
「カンパニュラで私と一緒に暮らしたい? 離れたくない?」
ルーナは迷っていた。私がもうずっと拒否していることを知っているからだろう。それでも、私の表情を窺うと、少し考え、そして震え気味にやっと教えてくれたのだった。
「ずっと一緒に居たい。離れたくない」
私は、これまで、私自身の事しか考えられていなかったのかもしれない。
ルーナを大切にしているつもりだった。
「カンパニュラでも……傍にいて欲しい。だって、わたし……アマリリスを……愛しているもの」
これがこの子の本心だ。イグニスで聞いた「我慢する」という言葉は、私が思っていた以上に深刻なものだったのだ。
ルーナの好奇心は寂しさの裏返し。そんな言葉が頭をよぎる。カリスにまで話しかけていたのは、親しそうにしていたのは、ただ単にルーナが〈金の卵〉で人懐こい性分だからというだけではなかったのだろう。その理由だけだと捉えることは、あまりにも非情に思えてしまったのだ。
たった今の発言に、ルーナは自分自身でばつが悪そうにしている。それでも、私から体を放そうとしない。そんな彼女の姿は今まで以上に愛おしく見えた。
「ああ、ルーナ」
しっかりと抱きしめ、離さない。心も体も手に入れたはずの生き物だったが、こんなにも思いやれることが出来ていなかったなんて。
そんな少女に私は詫びた。
「ごめんなさい、ルーナ。私が間違っていたわ。あなたが……あなたがそれを望むのなら、一緒にいましょう」
――だって、私もまた、この子を愛しているのだもの。
自覚した感情に自分で驚いてしまった。
カリスが結んだと言ってもいい絆だ。魔術で始まったものだとしても、今、私が抱いているこの感情のすべてが、偽りだなんてどうして信じられよう。
だから、気持ちは固まった。ルーナの隣に居なくては。
そんな時だった。
ばたばたとした足音が廊下中に響き、聖マル礼拝堂の外で待機していたうちの数名が何やら話し込む。その場の空気が一気に異様なものに変わった。聖戦士のいくらかが駆り出され、共にどこかへ走っていった。方向的に大聖堂の正面へ向かったのだろう。聖リヴァイアサン礼拝堂やスクアマ礼拝堂の方向でもある。
何も言われずに残された私たち以外に、修道士や修道女たちが何やら話し合いながら足早に去っていく。何が起きたのかいまいち分かっていないのは、私とルーナくらいだろうか。困惑していると、その場に残されていたニフテリザが近寄ってきた。
「何か問題があったらしい」
声を潜めながら、腰に隠し持つ短剣へと手を伸ばしていた。昔、私が買い与えたものをいまだに使っている。近々、もっといいものを譲ってもらえることになったと言っていたが、いつになることやら。
同じくその場に待機していたのは、メリュジーヌ隊長とその部下の数名、ギータ医師くらいだ。カルロスとその部下たちの姿は見えず、グロリアも同様だった。メリュジーヌ隊長の指示を受けた部下の数名と共に、問題があったらしき場所へ確認にいったらしい。
グロリアも一緒に、ということは――。
緊張感が遅れてやってきた。
メリュジーヌ隊長がそれとなくギータ医師に話しかける。
「先生、今のうちに非戦闘員と共に避難しておいてほしい。祭儀の途中だが、やむを得ん。ブランカ様やウィルたちにも伝えてくれるか。客人のうちで、傍にいて貰いたいのは〈赤い花〉の聖女様だけだ」
メリュジーヌ隊長の赤い目がちらりとこちらを見つめてくる。ニフテリザとルーナの避難について言っているのだろう。ギータ医師は軽く肯き、こちらに近づいてきた。ニフテリザは素直に従ったが、ルーナは不安そうに私を見つめてくる。
「アマリリスは一緒じゃないの……?」
黙って首を横に振ることしか出来なかった。このために此処にいるのだ。ルーナの身の安全もすべて、このために守ってもらえている。ここで、共に避難するわけにはいかない。
「そんな……でも」
「そろそろ連れて行ってくれ――嫌な予感がする」
ルーナの声を遮るようにメリュジーヌ隊長が指示を送る。ギータ医師が静かに頷き、聖マル礼拝堂の扉をノックする。しかし、中の反応を待たずして、遠くで怒声があがった。一瞬ではあったが、奇妙な悲鳴にも似ていた。廊下には誰もいない。声だけが聞こえてきた。遠かったが、果てしないとはいえない。ほどなくして、変化は訪れた。
長い廊下の向こうから、こちらに向かってふらふらと歩く何かが見えたのだ。




