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AMARYLLIS  作者: ねこじゃ・じぇねこ
8章 ゲネシス

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2.竜の故郷

 港からラケルタ島まで小型船が運んでくれた。竜の故郷と呼ばれる美しい島だ。かつて岩山が竜の首に似ていたとも聞いているが、長きにわたる海風のせいで削れ、その形は思っていたほど竜のようではなかった。そんな海風を受けながら、厳かな気持ちでだんだんはっきりと見えてくるイムベル大聖堂の姿を目にしていたが、その風の感触ですら今のルーナには嫌な刺激のようだった。


 この調子でカンパニュラでは大丈夫だろうか。少し心配だ。


 ヴィヴィアンによれば錬金術師やら医師やらが〈金の卵〉の発情をコントロールする秘薬を研究しているらしい。本来の目的はなかなか発情しない雌に対する処置だが、逆の目的で使用することも可能だろうとのこと。

 ともかく、効果があるのならば、開発が待たれるものだ。今のままではいけない。私と魔術で縛られている以上、ルーナの人生には老いというものがない。特に指輪を嵌められている今、私もルーナも時が止まってしまっているのだ。老いないということは、いつまで経っても季節ごとの苦悩から解放されないということである。あまりにも辛いだろうし、可哀想だ。


 もちろん、発情期の苦悩から解放される方法は確かにある。だが、そのために、無責任に雄を借りるわけにはいかない。一人養うのだって一苦労なのだ。それに、学問の妨げになる。

 〈金の卵〉はその祖である〈金の鶏〉と違い、卵生ではない。さまざまな生き物が混ぜられているため、結果的に胎生に落ち着いたらしい。したがって、〈金の卵〉の雌たちは、人間や魔女よろしく長期間も次世代の命を胎内で大事に抱えなくてはならないのだ。

 体調も崩す可能性が高く、無理はさせられない。学びたいルーナにとっては困るだろう。だいたい、出産もただではないのだ。可愛いルーナの身に何かがあったらと思うと、あまりにも不安だった。

 ではやはり子どもの望めぬ体にすべきだろうか。その方が彼女も楽なのだとしたら。


 もしくは……カンパニュラであっても、常に私が傍に居れば――。


 考え続けているうちに、ラケルタ島にたどり着いた。島には小規模な港があり、あとのほとんどの面積はイムベル大聖堂とアルムム御殿の敷地で占められていた。

 カエルムやシルワの噂が流れているのだろうか。イムベルを訪れる一般礼拝者の数は非常に少なかった。明日の婚礼の儀の際は、さらに制限されることになる。恐らく、関係者以外はすべて島に残っていないだろう。


 イムベル大聖堂とアルムム御殿の案内は非常に簡潔なものだった。婚礼の儀のために使用されるサンタマル礼拝堂が解放されていないのは分かるが、その他の聖リヴァイアサン礼拝堂やスクアマ礼拝堂の紹介もあっさりとした内容に留まった。

 恐らく、ルーナの体調についてささやかながら話が言っていたのだろう。ラケルタ島で我々の到着を待っていたメリュジーヌ隊長やギータ医師との挨拶もそこそこに済ませ、客間へと案内された。


 これまでずっと私はニフテリザとルーナの三名で案内されてきた。しかし、今回は違った。ニフテリザを除いて、私とルーナだけが同室だった。


 ニフテリザが聖戦士の道を希望していることは周知の事実で、教会もそれを承認していた。いずれかの学校に籍が用意されるわけだが、その一番の候補がイムベルの都にあるウィータ学院であった。名前から分かる通り、ウィータ教会に隣接している。その詳細をじっくり見る暇はなかったが、質のいい学校に変わりない。カンパニュラには劣るかもしれないが、十分すぎるほどだとニフテリザは静かに感動していた。


 そう、もはや彼女の居場所は教会にあるも同然だった。命からがら逃げだしたクロコ帝国のアリエーテの町に帰されることはない。今のままでは慣れ親しんだ町には二度と戻れないかもしれないが、聖戦士になってしまえば話も変わってくる。

 この世界に生きる人間として、適した居場所が用意されているのだ。ニフテリザにとってはこの上ないことだろう。


 そういうわけで、彼女はすでに女戦士として先輩であるヴィヴィアンやグロリアと同室になっている。寝食を共にし、今からその空気を味わうらしい。私もルーナも寂しいものだったが、思えばディエンテ・デ・レオンで味わうかもしれなかった別れなのだ。ならば、彼女の新たな旅立ちを祝福する気にもなれるというもの。

 それに、ルーナはルーナで純粋に寂しがるという余裕がなかった。発情期といえども、いつもいつも相手を求めているわけではない。苛立ちや不安、疲労などが彼女の心身を蝕んでいた。こうした気配を感じ取ったため、案内があんなにも簡素だったのだろう。

 二人で使うには広すぎる客間にルーナを寝かせてやると、熱った体を嫌そうによじりながら、ルーナは私に告げた。


「しばらくお昼寝してみようかな」


 震えたその声が、可哀想だった。傍により、確かめてみる。


「一緒に寝た方がいい?」


 すると、ルーナは首を横に振った。


「――大丈夫。一人で眠れるから」


 遠慮気味なのは何故だろう。ルーナは思っているよりも気の聡い子だ。もしかしたら、自分のせいで案内が簡単に終わってしまったことに責任を感じているのかもしれない。

 だだ、本人が求めないのならばそれを尊重するのも大事なことだ。苦しむ彼女にささやかな眠気の魔術をキスで与え、きちんと寝入るまでそっと見守った。


 そうして、安らかな寝息を聞いてどのくらい経った頃だろうか。幸福感にすっかり浸っていた頃になって、かねがね期待していた気配の一つを突如感じ取り、慌ててしまった。

 とんだ邪魔だが、だからと言って完全に無視するわけにはいかない気配である。アルムム御殿の裏――おそらく、建物の中にはいないだろう。


 ルーナの様子を確認するに、今すぐに目覚めるということはないと思われた。それに、鍵をかけてやれば、万が一という時の間違いが防止できるはず。唯一、引っかかるとすれば、それは私自身の問題だった。

 前に忠告されたことを忘れたわけじゃない、このまま無視して一人で向かえば、今度こそカルロス達を怒らせることになるだろう。

 それは重々承知だったが、何分、今は気が急いていた。


 だから、私はすぐに気配を追ってしまった。ルーナを起こさぬように退室し、そっと鍵をかけてしまうと、カルロス達の姿を探すより先に、アルムム御殿の裏口へと急いでしまったのだ。


 相手は蜃気楼のように現れて消える存在。だが、その蜃気楼の持つ情報は侮れない。そう、アルムム御殿の裏口を勝手に開けてみれば、思っていた通り、コックローチはそこにいた。御殿の裏庭とも呼べるそこは、岩肌の露出した見晴らしのいい崖になっている。少しだけだがカエルムのグラディウス御殿の裏庭の雰囲気にも似ていた。

 そこでコックローチは潮の流れを眺めていた。私の登場には気づいており、片手をあげて挨拶をしてくる。ただ振り返りはしなかった。


「コックローチ……生きていたのね」

「聞いた話では、私との個人的面会は禁じられているのではなかったかな、アマリリス」

「そうね。でも、あまり待たせれば帰ってしまうのでしょう?」

「それもそうだね。どんな言葉を並べようと、奴らが私を信用するとは思えない。したがって、誰にも言わずに真っすぐやってきた君の方が正しい」

「世間話はこのくらいにしましょう。情報を頂戴」


 小銭なら懐ですっかり温まっている。コックローチを満足させるだけは持っているはずだ。早く聞き出したい気持ちでいっぱいだった。こうしている間にも、鼻のいいカルロスが、あるいは気の聡いウィルが、ここを嗅ぎつけてしまうかもしれないのだから。


「まあ、そう慌てないでおくれ。焦りは君の〈赤い花〉によくない。その心臓は大切にし給え」

「心がけましょう」


 そう答えれば、コックローチは頷き、指で数字を示した。


「持ってきた情報は〈罪人〉〈御馳走〉〈死神〉の三つだ」

「全部買うわ。いくら?」

「これだけだ」


 その指が別の文字を示す。その額は非常に手厳しい。しかし、手持ちで払えないというわけでもない。それだけ分かれば十分だった。交渉している暇ももったいない。すぐに投げてやれば、コックローチはその幾つかをうまくキャッチする。散らばった分を拾いながら、彼は静かに笑い、語りだした。


「ではまず〈御馳走〉についてお話ししよう」


 コックローチは質の悪い情報屋ではない。固定客に必要なだけの情報を与える人物だ。聞いて損するような情報はわざわざオススメしてこない。今の彼は私の状況をよく知っているだろう。つまり、〈御馳走〉で語られる人狼が、見ず知らずの人狼であるはずがないと踏んでいた。その期待は裏切られることもなかった。


「君が心より愛するカリスの近況だ」


 やはり、これだからコックローチは頼ってしまう。


「カリスはシルワを旅立った。そのうち、君の前に現れるだろう。彼女は彼女なりに頑張った。しかし、たった一匹の人狼に出来ることなど限られているものだ。人狼は強い生き物だが、万能の生き物ではない。想定外の事態に生き物は誰しも混乱する。そのため、カエルムでも、シルワでも、彼女は現場に居ながら悲劇を止められなかったのだ。しかし、神の恩恵か、はたまた大地の導きか、カリスは命を奪われることなく生きている。だから、せめて君の助けになるべく急いでいるところだ」


 カリスは生きている。それだけでだいぶ心が軽くなる。しかし、喜んでばかりはいられない。カエルムとシルワで起こった悲劇と言わなかったか。ああ、やはり、コックローチの目から見ても悲惨な出来事があの二か所を襲ったのだ。


「さて」


 言葉がまとまらずに黙っているしかない私を前に、コックローチはさらに続けた。


「ここで君は疑問に思うだろう。カエルムとシルワで何があったのか。次は〈死神〉と〈罪人〉の情報だ」


 どちらも不吉な名前だ。特に〈死神〉という情報名は知らないわけではないが、これが使われることは珍しい。疫病や戦火などで人がたくさん死んだ場所に関する情報を示している。


「お察しの通りだ、アマリリス。カエルムとシルワは今や屍を回収することも困難な状況に陥っている。死霊どもはボコボコと現れ、力のない者から順に数を減らしていった。死霊に殺された魂は速やかに死霊の所有物となり、力ある戦士が戦い続けても敵の数はいっこうに減らなかった。その結果、混乱は生じ、カリスの決死の攻撃は失敗し、ゲネシスと偽物のサファイアはまずカエルムの聖地を踏みにじった……」


 ゲネシスとソロルが健在であることは覚悟はしていたが、それでも嫌な情報だった。死霊の大群など、想像するだけでぞっとする。そんなものが此処にまで押し寄せてきたら――だが、それだけではない。彼らの襲撃の結果こそが、私の一番気になる点でもあった。


「それからどうなったの?」


 恐る恐る訊ねてみれば、コックローチは帽子を被りなおしながら答えてくれた。


「カエルムは不意打ちに近かったらしい。死霊の一匹一匹も、人間も、甘く見てしまったのだろう。結果、ゲネシスの侵入はまんまと成功し、ソロルもまた彼を依り代にカエルム大聖堂の奥深くへとたどり着いた。あとは分かるかな」


 非常に恐ろしいことだと分かった。


「ミケーレ隊長やジブリール氏をはじめとした多くの戦士たちが空巫女様を守ろうとしたはずだ。しかし、ジズはいなくなった。空巫女様を呼ぶ鳥人の声が高々と聞こえてきたが、その居場所は結局、分からないまま。その声を聴くに、囚われてしまったらしい」


 コックローチは語る。 


「私は風に紛れてみてきたけれどね、空巫女様が襲われるその現場には居合わせていないのだ。だが、その場に居合わせたらしいカリスの様子を見るに、酷い有様だったのだろう。私がたどり着いた頃には、空巫女様はすでにおらず、血痕だけがそこにはあった。聖シエロ礼拝堂は激しく荒らされ、傍には異臭を放つ巨大な鳥の亡骸が落ちていた」

「鳥……? ジズなの?」

「あれがジズなのかどうかは知らない。その後、ソロルはさらに力をつけ、ただの人間であったはずのゲネシスには異様な覇気がみられるようになった。ソロルの満足した顔を私は見た。〈赤い花〉よりもずっと美味な肉を存分に楽しんだ後の顔だ。誰の事か分かるかな?」


 背筋がぞっとした。怪しげなまでに青いあの目を思い出してしまった。

 それに、かつて見たことのある死霊がヒトの形をしたものを食らう場面を思い出してしまったのだ。


 黙って震えていると、コックローチが咳払いをした。


「……ともあれ、カエルムはそうして崩落した。そのままゲネシスは去るかと思いきや、混乱を広めるためか、動ける鳥人戦士を片っ端から襲い始めた。二度と飛べぬように翼を狙い、可能ならば止めもさしていた。多くの者の血が流れていき、戦士以外もまたジズの子孫ならば関係なく襲われ始めた。そんな中で、負傷しつつもどうにか飛ぶ力だけは守り切ったジブリール氏がシルワに向けて旅立ったのだ。カリスが斬られたのはその後だったよ。彼女をかばってのことだ。その光景は私も風に紛れてこの目で見たから間違いない」


 鳥の亡骸と亡骸すら見つからない空巫女。すべてが分かったわけではない。これはほんの一部だ。だが、重要なことはだいたいわかった。

 分かりたくないが、分からないままではまずいことなのだ。そう言い聞かせ、動揺をどうにか抑え込んだ。カエルムは崩落した。連絡がつかないほど死霊がひしめき合っているのならば、カエルムの人々はいったいどれだけが無事でいるのか。


「では、シルワは?」


 恐れながらもどうにか訊ねると、コックローチは静かに頷いてから答えた。


「だいたい同じことが起こった」


 真っ先に聞こえてきたのは、そんな絶望的な一言だった。


「一応、ジブリールとカリスの助言で備えは出来たのだ。しかし、シルワの者たちもゲネシスとソロルの力を見誤った。奴らはカエルムを陥落させた者だ。二人とも以前の二人ではない。きっと、空巫女とジズの気配が消えたことと関係があるのだろう。また、それに同調する死霊たちの攻撃は、角人たちを混乱させるのにも十分だった。一応、シルワはカエルムに比べてまだ被害が少なかったのだ。単純な死者の数はだいぶ減っている」


 だとしても、喜ぶべきでないことだけは確かだと察しがついていた。


「もちろん、そうであっても、カエルムと比べてマシだったとは口が裂けても言えない。何よりも奪われてはならなかったものは、シルワを支えるベヒモスの気配とそれに寄り添う地巫女様の存在だ。……その両方が消えてしまった」


 脳裏に愛らしい地巫女グリスの姿が一瞬だけ浮かんだ。ネグラといい、彼女といい、戦いさえ厭うような女性たちがどうしてこんなことに。

 嘆かずにはいられない。そんな心の痛みが生まれるほどに、私はこの人間たちの社会に溶け込んでしまったようだった。


「代わりに、聖ティエラ礼拝堂は激しく損傷し、正体不明の馬かサイに似た生き物の亡骸が横たわっていた。地巫女様の亡骸は見つかっていない。だが、ソロルの表情を見るに、探しても無駄なのだろうね。また、回復しかけの身体で勇敢に戦ったジブリール氏や、最期まで地巫女様を守ろうとされたフィリップ氏、リル隊長も無事ではなかった。カリスが生きていただけで儲けものだ。カエルムに比べて犠牲者の数こそは少ないが、その内容が深刻すぎるのだ」


 あまりの話に、絶句してしまった。

 コックローチの情報の質を信頼しているがためにショックは大きい。


 普通ならばこんなこと信じないだろう。実際、ばかげている。世の中において聖獣たちの子孫ほど恐れられている者たちはいない。その中でも、ジブリール、フィリップといった花嫁守りや相談役と呼ばれる者は非常に尊い存在だ。誰もかれもがなれるものでもない。しかし、何かあれば最もその身が危険にさらされる立場でもある。

 分かっている。全く信じないというのも恐ろしいのだ。あり得ないからと切り捨てるのは恐ろしいことだ。アリコーン医師だって似たようなことを言っていたじゃないか。そういえば、彼は無事だろうか。それと親しく接してくれたアズライルは。情報に漏れた人々のこともまた心配だった。


「ゲネシスとソロルは今、イムベルを目指している」


 コックローチは言った。


「ここもいずれ同じ目に遭うだろう。アマリリス。君も今度こそ死んでしまうかもしれないよ。それでもここに残るつもりかね?」

「……今はまだ残らなくてはいけないの。ルーナのためにも」


 どんなに恐くとも、逃げ出すことは許されない。それならば、ルーナをいかにして守り切るかを考えなくては。思考に耽っていると、コックローチがふと声色を変えた。


「そうか」


 目を細めながら、彼は述べる。


「それなら、せめて君の無事を祈ろう。……ああ、そうだ。せっかくだし、特別に奴らの弱点を教えてやろうか?」

「弱点? 何か知っているの?」


 コックローチが振り返る。目が合ったとき、おのずと足が動いた。


「もっと近くにおいで。あまり大きな声では言えなくてね」


 距離をとることも忘れ、歩み寄った。――その時だった。


 背後の扉が強く開かれた。雷撃が走るような衝撃に、反射的に振り返ってみれば、猛獣のようなまなざしをした二人の男性がそこにいた。いずれも魔物である。ウィルとカルロスだ。警戒心をあらわにした二人の目が一斉にコックローチへ向いた。


「この……」


 真っ先に言葉を発したのはカルロスだった。


「ゴキブリ野郎!」


 飛び出すと同時にその姿がオオカミとなって宙を舞った。変形する鎧がガシャリと大きな音を立てる。人骨をも砕けるだろう爪と牙がコックローチをとらえようとしたが、彼もまた翅人、あっさりとかわして後ずさりをした。


「おやおや、激しいお方々だ。どうかやめていただきたい」

「失礼ながら、ここは関係者以外立ち入り禁止です」


 ウィルが丁寧ながら厳しい口調でコックローチに告げる。竜人ならではのゴツゴツした手が私の腕を強く掴んでいた。

 感情の読み取りづらい微笑みをコックローチは浮かべている。そんな彼に向かって、カルロスが毛を逆立てながら白い牙を剥いていた。


「貴様、やはり花売りだな? そうだろう?」


 その問いに、私の方が戸惑った。

 もちろん、コックローチを心から信用していたつもりではない。そんなつもりは断じてなかった。……だが、私はどうしようとしていた。彼の情報聞きたさに、何をしようとしていただろうか。足が動いたのは何故だろう。どうして、私はコックローチに近寄ろうとしたのだ。


 動揺から立ち直れない私をウィルが後ろに下がらせる。今だけは心より、大人しく従った。


「彼女を連れ去るつもりだった。そうだろう?」


 カルロスの野太い方向は、魔女の性を忘れてしまった今の私ならば震えてしまうほど荒々しいものだったが、コックローチはこんな脅しなど聞き飽きたようで、てんで効いていない様子だった。


「いやあ、酷い誤解だ。私はただ大声では言えない耳よりの情報をお得意様のアマリリスにお伝えしたかっただけ」


 おどけた様子の彼に、カルロスが飛び掛かる。しかし、コックローチはまたしても冷静にそれをかわしてしまった。


「やれやれ、話も聞かずに暴力に頼るなんていただけない。気品あるその見た目が台無しですよ、カルロス隊長」


 そして、コックローチは私を見つめる。


「アマリリス。私の主張は変わらない。先ほどの通りだ。ここはもうじき危険な場所になるし、この御方々はそこまで信用に足る人たちかね? もしも君がルーナ嬢を愛しているのなら、とんでもない事になる前に逃げ出してしまいなさい。君がその気なら、私を呼ぶといい。ここから逃がしてあげるよ。私ならば、ルーナ嬢共々、安全な場所に匿ってやれる」

「黙れ、この虫けら!」


 カルロスが咆哮しながら飛び掛かっていく。しかし、その爪と牙が届く前に、コックローチは帽子を被りなおし、瞬く間に風に飲まれていってしまった。

 カルロスのせめてもの一発は空振りに終わった。誰もいない空中を空しく噛んだ後、人間のように荒々しく舌打ちをした。

 コックローチの気配がすっかり消えてしまうと、ウィルがすぐさま私へと視線を向けた。カルロスも同じだ。人の姿に戻るなり、怒りの矛先をこちらに向けてくる。怒りは尤もだが、これから先に降りかかる待遇を思うと、奥歯を噛みしめるしかなかった。


「アマリリスさん」


 沈黙を破り、ウィルが話しかけてきた。


「今すぐ、我々と一緒に来てください」


 そうして、半ば強制的にアルムム御殿の中へと引き戻されたのだった。

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