5.卵泥棒
翌朝、目が覚めるとすぐに私たちはヴェルジネ村から離れるべく進みだした。
カリスを見失わないか心配だったが、生憎、彼女の進行方向も私たちと同じだった。私の動きを見ているのか、はたまた偶然なのかは分からない。私たちは互いに距離を保ったまま、ヴェルジネ村からどんどん離れていた。カリスにとってもあの村に留まるのは危険だったのだろう。
ヴェルジネ村は今頃どうなっているだろうか。ルーカスの亡骸は恐らく発見されている。しかし、村娘たちの亡骸は見つからず、おまけに〈金の卵〉まで攫われた状態。踏んだり蹴ったりとはこのことだ。
だが、何かしらの処罰を受けるあの村の人間たちに同情なんてするつもりはなかった。同情するくらいなら、最初からルーナと契約を交わさない。今や、この子は私のものとなった。返してやる気なんて更々ない。
私は人間ではないのだ。魔女狩りで討伐されるべき悪魔らしく振舞おうじゃないか。
「ねえ、アマリリス」
山道を進みながら、ルーナはしきりに話しかけてきた。
「どこに進むの?」
「別に決めてない。各地方の噂を聞いて面白そうなところに行くだけ。カリスを追いかけて進むつもりだったけれど……生憎、彼女は私から目を離さないようね。今も距離を保ちつつ追いかけてきているみたい。だから、何処にでも行けるわ」
「――わたしね、この村を出たい」
「そうね、この村からは離れましょう。ヴェルジネ領は危険だもの」
「あのね、わたし、〈金の卵〉が全く殺されない国に行ってみたいの。そういう国ってある?」
答えに詰まってしまった。
クロコ帝国の周辺国について詳しくないわけではない。そもそもの話、私はこの国の出身ではない。
ここへ来たのは面白そうな噂話を聞いたからだ。人狼の盗賊が村で人を襲っている。自分たちが襲われるなんて思いもしないだろう。そんな情報屋から買った噂話を元にたどり着いただけだ。だが、それだけに、その辺の者たちよりも異国に詳しいという自信はある。
そんな私でも、すぐに答えられなかったのは、〈金の卵〉が世界各国であまりにも当然のように屠畜されている現実があったからだ。本当ならば即答できるのが望ましい。それでも、〈金の卵〉を生産せず、屠りもしない国を思い出すのには少しだけ時間がかかってしまった。
「あるわ。でも、ちょっとだけここから遠いわね」
時間がかかっただけましだ。可愛いルーナに希望を持たせられるのだから。
「どんなところ?」
わくわくした様子で訊ねてくる我が隷従を撫でながら、私は答えた。
「ディエンテ・デ・レオンという王国よ。獅子の牙……ライオンの歯っていう意味ね。ただ、あの辺はちょっと慌ただしい場所なの。お隣ではグリシニア連邦とウィステリア大公国が摩擦を起こしていて、さらに国王妃には超大国カシュカーシュと怪しい繋がりあるという噂があって――」
ルーナは首を傾げた。
少し難しかっただろうか。私は一度話をやめ、とにかく、と彼女に教えた。
「とにかく、〈金の卵〉が殺されない場所はそのディエンテ・デ・レオンというところよ。昔ながらの信仰が残っていて、魔物の血を引く一族も国民として堂々と暮らしている国。もし行ってみたいのなら、連れていってあげる」
「本当?」
「本当よ。可愛いあなたに嘘なんかつかない」
ディエンテ・デ・レオン。ここから本当に遠い場所だ。しかし、気が遠くなったりはしない。そもそも海を渡った先にあるマグノリア王国にいたことだってあったのだ。マグノリア王国に比べたら、陸続きであるだけましと言えよう。
この子のためならば、カリス狩りにこだわり過ぎることもない。ディエンテ・デ・レオンにも、その道中にも、人狼はたくさん暮らしている。この大地に住まう人狼を次々に襲ったとしても、数が減り過ぎるなんてことはないはずだから心配はいらない。肝心のカリスも、この様子だとずっとついて来るだろうから心配はいらない。
それに何より、久しぶりに目的のある旅ができることが嬉しく感じられた。
「ライオンの歯かぁ」
ルーナは私と手をつなぎ、遠い果ての地へと思いを馳せる。その横顔が可愛くて、私の顔にも自然と笑みが浮かんだ。そして思った。こうして素直な微笑みを浮かべるのは何年ぶりだろう。昔の私はもっと笑っていた。ただ人狼を食い殺すことばかりではなく、もっといろいろなことを考えて生きていた。
あの頃には友人がいた。しかし、独りぼっちになってからは違う。私はどれだけの時間を一人で過ごしてきただろう。どれだけ経っても、一人になってしまったあの日のことが忘れられなかった。
「桃花……」
その名を呟いてみて、久しぶりに聞く響きが身に沁みた。
「どうしたの、アマリリス」
ふと、立ち止まっていた私をルーナが振り返った。
いつの間にか繋いでいた手からすり抜け、彼女は少し先にいた。何もないところでただ歩いているだけなのに楽しそうなその姿は、人間の少女に似ていても子猫のように無邪気だ。
「ルーナ」
転ばないで、と言おうとしたその時、風向きが変わり、ルーナがはっと一方を振り返った。私が異変に気付いたのは、その直後だった。
最初に聞こえたのはルーナの小さな悲鳴。そして、次に見えたのは獣の姿。私の目の前で瞬時に切り替わり、一人の女の姿となった。私とルーナの間に割り込むその人物。気配を隠し、此処まで忍び寄れるとはさすが盗賊といったところか。しかし、その有能さを素直に褒める気分にはなれなかった。
「アマリリス……」
ルーナが捕まっている。
羽交い絞めにし、首元を乱暴に掴まれている。柔らかそうな皮膚に爪が食い込んでいる。あと少し力が込められれば、鮮血が噴き出すだろう。その光景だけで、私の動きも止められてしまった。
爪はとても鋭利だ。ルーナを捕まえているその手は人間のものではない。手のみがケダモノのものとなり、あとは人間の女――それも大変美しい姿をしている。
初めて会う人物ではない。カリスだ。
「主従の魔術か」
彼女は笑いながら言った。
「これは面白い。噂には聞いたことがあったが、どうやらこうすると本当に手出しできないらしいな」
ルーナが怯えている。内心とても恐ろしかった。あのまま攫われて、食い殺されでもしたら、私は発狂してしまうだろう。
こうされてみてやっと、私は主従の魔術の危険性に気づけた。でも、もう遅いし、後悔などはしていない。軽い気持ちで結んでしまったのは確かだが、だからと言って何も絶望することはない。焦らずに、取り戻せばいいのだ。
冷静さを保ちつつ、私はカリスに向き合った。
「ルーナをどうする気?」
すると、カリスは目を細めた。
「さて、どうしてやろう。相方の死もあって依頼は取り下げられたからね。こいつを盗む理由なんてもうない。あるとすれば、友の仇にせめてもの苦痛を味わわせるくらいかな」
「お金が手に入らなくて気が立っているようね。友人が死んだばかりだというのに元気そうで何よりよ」
「殺したお前に言われたくない。どうせ我々は外れ者だ。生まれながらにして多くから憎まれるのならば、その通りに生きてやるまでのこと。それに、お前だって正義の味方というわけではないだろう?」
「……そうね。その通りよ。私は魔女だもの」
素直に認めてやれば、カリスはけらけらと笑った。
「じゃあ、分かるな? 私に説教など無駄だ。この小娘はもう金にならない。だが、こいつを殺すことでお前が潰れるのなら、そうするまでだ。都合のいいことに、こいつは滅多に味わえない御馳走だからね」
「アマリリス……」
可哀そうに、ルーナはすっかり怯えている。さっきまでの無邪気で愛らしい表情はすっかり消えていた。
私が少しでも動けばルーナの命はないだろう。カリスは冗談で言っているのではない。気の立っている猛獣を無駄に刺激するのは得策ではない。
「一応、聞いておくけど」
出来るだけ落ち着いた口調で私はカリスに訊ねた。
「ルーナを返してくれるという選択はあるの?」
「返しはしない。だが、お前の態度次第では、こいつだけは助けてやってもいいぞ」
「どうすればいいの?」
「その場に座れ。魔術は使うな。こいつの首かお前の首かの選択だ」
ルーナか自分か。選べるはずもない。私はその場に膝をついてからカリスの顔を見あげた。
「血の気が多いのね。何も殺さなくたっていいじゃない。もうあなたを襲わないって約束してあげるのに」
「いいや、お前だけは潰しておかねばなるまい。生かしておいても人狼の為にならない。……それに、分かっている。そんな約束は無意味だ。お前は約束を守るような女ではない」
カリスは興奮気味に言った。
強がっているが、その目には怯えが窺える。心が伝われば、心臓が刺激される。魔女の性はカリスを欲しがっている。いずれ、彼女は私のものとなるだろう。だが、いまではない。いまはまだルーカスの魂が消化されずにいる。腹を空かせておかねば勿体ない。よく味わうためにも、もうしばらくは寝かせておかなければ。
様々な思いが交錯し、言葉は出なかった。ただ、私の表情より意図を読み取ったのだろう。カリスはルーナを拘束したまま一歩、退いた。
「どうしたの?」
そんな彼女に私は訊ねた。
「私を殺すのでしょう?」
魔術を使用する片鱗を見せずに笑う。
まだ殺しはしない。時期が早すぎる。だが、殺さずに楽しむ方法もある。カリスを追い詰めるその日まで、私への恐怖心を植え付ける方法はいくらでもある。そうして手に入れた狼の味は格別だ。何度もそうやって食事を楽しんできた。だからこそ、私は大切な隷従を囚われていても焦ったりしない。
今だけはカリスに信じ込ませるのだ。自分が有利な立場にいるのだと信じ込ませるのだ。私になら出来る。
私はじっとカリスの目を見つめた。
荒々しく、乱暴で、殺伐とした彼女の心は荒んでいる。しかし、肉体の奥に秘められた魂は、どんな食材よりもずっと美しく輝いている。
あの味をさらによくする方法を私は知っている。
「さあ、好きにすればいいわ。その代り、ルーナには手を出さないで」
魔女は気が狂った生き物だ。そう信じられている。魔女である私も否定はしない。魔女や魔人は性に囚われているせいで頭がおかしいと言われているのだ。だから、我々の態度はそう深く考えられないことも多い。薄い皮の部分だけを見て、あっさりと襲い掛かってくる人狼は星の数ほどいた。
今の状況でも同じだろう。思慮の足らない人狼ならば、攻めに転じてきただろう。そんな馬鹿どもが私は大好きだ。カリスもそうだといいのだけれど。
「いや――」
しかし、厄介なことにカリスはただの馬鹿ではなかった。最大の機会を手に入れ、絶対的に有利だと思ってしまいそうな状況にて、彼女は猛進してこなかった。
気づいてしまったのだろう。私の周囲に蜘蛛の糸が張り巡らされていることに。
「騙されるものか……」
ルーナを抱きしめたまま、カリスは後ずさりをする。
その最中、ルーナが暴れだし子猫となって逃げだした。しかし、そのルーナを再び捕まえるという愚かな真似もしない。
ルーナは取り戻せた。だが、まだ手を抜いてはいけない。まだ諦めてはいけない。緊縛の魔術でカリスを手に入れるのだ。焦って食べることはない。ただ、その心身に叩き込むのだ。叩けば叩くほど、人狼の味は美味しくなる。
「生き延びたければ、私を殺してみなさいな」
私の方は地面に膝をついたまま。
それでも、周辺に張り巡らされた見えない糸は、私の意思に従って動く。さほど魔力は使わない。それでも、この魔術で仲間が死んだのだと思えば、カリスもすっかり怯えてしまったようだった。
「どうやら違う手を考えるべきのようだな」
カリスは言った。
「だが、お前の弱点が何かよく分かった。せいぜい捕食者のつもりでいろ。いつか思い知らせてやる。我々人狼を甘く見ていると痛い目に遭うぞ」
逃がすものか。
――蜘蛛の糸の魔術《緊縛》
捨て台詞と共に去ろうとする彼女をめがけて一斉に糸を向けた。
しかし、カリスを捕らえることは敵わなかった。彼女が影道へと逃れるほうが一歩早かったのだ。
どうやら、私はあの人狼の力量を見誤ったらしい。だが、腹立たしくはなかった。馬鹿な獲物を捕らえることは好きだが、手間取りながら手に入れるのもまた楽しいものだ。
カリスとの長い付き合いの予感が、私の気持ちをわくわくさせてくれた。