7.落ちてきた天使
医務室に寝かされている人物を見て、息をのんでしまった。
聞かされていた通りの光景がそこにはあった。自分の記憶力を疑ったことはない。疑うまでもなく、寝ているのは確かにジブリールだ。真っ白な体毛に見覚えのある紋章。あれほど威厳のあった表情はなく、今は目をつぶり呼吸をするのに忙しい。それでも、真っ白な体に嘴の形や色、そして一度覚えたジブリールの気配を探り、同一人物であることはよく分かった。
仮に、ジブリールじゃなかったとしても大問題だ。鳥人であるのは間違いない。このような容姿の魔物や魔族などいない。空を飛べる鳥系の種族がいたとしても、肘より枝分かれする翼や人らしき顔に嘴という特徴は鳥人特有のものなのだ。彼女がジブリールであろうとなかろうと、鳥人がこの場所の上空を飛び、墜落してきたということ自体がおかしいことなのだ。
それに、奇妙な感覚にも気づいた。ジブリールの姿を見れば見るほど、その違和感に囚われてしまう。
「この気配……」
「お気づきになられましたか?」
隣に立つアリコーンに問われ、私は静かに肯いた。
気配は確かにジブリール個人のものだ。だが、隣に立つアリコーンと見比べ、レスレクティオ教会に待機しているウィルのことを思い出し、さらにカエルムで一度会った時に感じたジブリール自身のことを思い出したうえで、今のジブリールを見つめたときに気づくことがあるのだ。
何かが足りない。何かの気配が足りないのだ。とても大事な部分が抜けている。聖獣の子孫たちを敬うだけの理由ともなる威圧感。鳥人ならば誰だって――それこそ、嘴のなかったアズライルだって宿していたジズの血筋である気配が、今のジブリールからは全く感じられないのだ。理屈ではなく感覚で分かるこの違いに、私は戸惑ってしまった。気にした方がいいことなのか、はたまた、この度の騒動による混乱なのかが分からない。
しかし、気にするならば、今のジブリールが鳥人でありながらベヒモスの領域に入りこめた理由に何か関係があるようにも思えるものだった。
「ジブリールさんは……その、よくなるのでしょうか?」
訊ねてみれば、アリコーンは暗い表情を見せた。
「相当ご無理をなさったのでしょう。空を飛べたことですら驚きです。容態は先ほど診せていただいた人狼女性よりも悪い。お亡くなりにならなかったことが奇跡です。……それでも、彼女とてジズの末裔なのです。快方に向かっております」
それでも、かなり悪かった。強靭な鳥人が受けた診断とは思えない惨状だ。適切に処置されているためだろう、快方に向かっているという言葉通り、今は血の臭いも遠く、その酷さは見た目では分からない。
だが、それでも苦しそうに呼吸をしているのだ。何が彼女を苦しめたのだろう。
「カエルムで一体何が……?」
答えなど返ってこないと分かっていながら思わず呟いてしまったその時、医務室の扉が開かれた。角人の聖戦士が呼びに来たのだ。
「アリコーン先生、そしてアマリリス様。フィリップ様がお呼びです」
「フィリップが?」
「緊急会議とのことで、巫女様方も一緒に会議室に集まられておいでです」
「……なるほど」
アリコーンはひとまず頷き、医務室に待機する修道女たちに告げた。
「後を頼みます。もしも分からないことがあれば、部屋で休んでいるもう一人の助手を叩き起こしてください」
どうやら私も行かなくてはならないらしい。
医務室を共に出てみれば、廊下には緊迫した空気が流れていた。先ほどよりもひんやりとしている気がするのは緊張のためだろうか。
カエルムは今、どうなっているのか。アズライルは、ミケーレ隊長は、ラビエル医師は、そしてネグラたちはどうなったのだろうか。
「ジズの気配を感じない。……これは、とても恐ろしいことです」
道すがら、アリコーンは述べた。
「世界の何処にいても、我々は先祖である聖獣の血から逃れられないのです。それは時に強い守護となり、強い呪いとなる。本人がどんなに望もうとも、聖域にいらっしゃる聖獣たちがそれを許さないのです。どんなに我々が嫌がっても、偉大な祖先が健在ならば、我々に流れる血によりその気配は人々に伝わる――ではなぜ、ジブリール女史から気配を感じないのか」
ジズが何らかの理由で解放を許したからか。いや、それでいいのだろうか。
それでは、あまりにも悪い方向から目を背けている気がした。
「ジズが……カエルムの聖山にいらっしゃらない」
導き出した答えを口に出してみれば、アリコーンだけではなく私たちを呼びに来た聖戦士までもが不安をあらわにした。
聖獣が聖域を捨てて何処かに行くなんてことがあるだろうか。……いや、あったのだ。今回と似ているとカエルムで教えられた歴史に刻まれてあった。三つの聖地が荒らされ、巫女が殺され、聖獣の気配が消えたという歴史。罪人の女とフラーテルの話が、脳裏によみがえる。教えてくれたのは医務室で今苦しみながら戦っているジブリールだった。
――では、つまり、ネグラ様が……。
ふと、カエルムで話したネグラの姿を思い出し、震えそうになった。それはこれまでとは規模の違う恐怖だった。
「おそらく、ジブリールさんがシルワ大聖堂の上空を飛べたのも、ジズの気配がなくなったからでしょう。問題は、ジブリールさんがそれを自覚していると思しき事。レスレクティオ教会ではなく、ここを目指したのはなぜか。何を伝えたくて、直接此処まで飛んできたのか。カリスさんのことも含めて考えるに……脅威はすぐそこまで来ているのではないかと」
アリコーンの静かな分析に、角人の聖戦士たちが顔を見合わせた。地上において聖獣の子孫に牙をむく者はほとんどいない。縁者を得たソロルが竜人を一人殺しただけでも大事だったのに、カエルムの身分あるものをこれほどまでに追い込む者がいるなんて到底思えなかった。
しかし、誰がそんなことをしたのかと問われれば、思いつく者は一人しかいない。カリスにあった生々しい傷跡。それを見たアグネスが同じだと呟いた。きっとあれは大剣で斬られたものだ。ジブリールもそうだとすれば、どんな相手が彼女たちを斬りつけたのか。想像はすぐにできた。
ゲネシス。カリスがひどく失恋した相手。最後の献身の愛の証明に、我が愛しい獲物がソロルの手から救い出すはずだった忌々しい人間の男。確か彼は聖剣使いの聖剣士だったはず。
「死霊一匹と人間一人にこんな事態が……あり得ない」
会議室まで同行していたクルクス聖戦士の一人が呟いた。私たちの前だったからだろう、同僚がそれを軽く諫める。だが、その呟きも尤もだ。普通に考えればあり得ない。鳥人は戦士でなくとも手ごわく、カエルム大聖堂はとても入り組んでいる。カリスだってこれまであらゆる敵と戦ってきたはずの人狼だ。本気でかかれば、人間ならばひとたまりもないだろう。そもそも、普通の人間ならば、長く会話を重ねた相手にすんなりと刃を向けられるものではない。
いやそれとも、ゲネシスを普通の精神の人間だと思っている方が間違っているのだろうか。たった一人であっても、躊躇いや慈悲の欠片も持ち合わせていなければ、手厚く守られているはずの巫女の近くまでたどり着けるものなのだろうか。
ただの人間にはできないはず。
これこそが、究極の固定概念になってはいないか。それこそ、リリウム教会の認めた聖戦士ならば無条件で善人であると思い込んでしまうほどに危険なのではないか。
「あり得ない……と決めつけるのは恐ろしいことです」
アリコーンが言った。
「それに攻め込んだ敵が一人とも限らない。死霊は同調するのです。人はいつだって死ぬものです。我々が魔女狩りを辞めさせられない間に、疫病が発生するたびに、多くの罪なき魂が天界へと向かう前に死霊に囚われているのです。未練があるほど死霊は魂をとらえ、この世に現れる。巡礼という形で世界中から多くの人が訪れるこの地もまた、大勢の亡者との縁を結びやすい場所でしょう」
ゲネシスを守るあのソロルだけではない。あらゆる故人がソロルやフラーテルとなって、牙を剥いてくるかもしれないのだ。ならば、それを指揮するサファイアの皮をかぶったあのソロルは死霊の女王とでも呼ぶべきか。
「縁者のない死霊を滅ぼすのは、枝を折るようにたやすい。だが、枝も集まれば折るのに苦労をするものだ。そういうことがカエルムで起きたのではないか……」
アリコーンの予想はあまりにも不吉なもので、聖戦士たちもとうとう黙ってしまうほどだった。私も不安だ。ソロルやフラーテルが大勢で襲ってきたらと思うと恐ろしい。数はやはり暴力になり得るのだ。一体一体がどんなに弱くとも、身動きを封じられればあっという間に形勢は決まってしまう。
一匹一匹は弱い小さな蟻が巨大な存在を倒して食い殺せるようなものだ。そういった恐怖が少しずつ近づいてきているなんて、考えただけで恐ろしい。
「なに、ただの悪い予感です」
アリコーン自身も不吉さに身震いしたのだろう。苦く笑いながら彼は黙り込んでしまった。しかし、その悪い予感はまるで真実のように脳裏から離れなかった。
いつかジブリール達に起きたことが自分たちにも起きるのではないか。その恐怖は全く無視できるようなものではなかったのだ。




