6.傷だらけの狼
客間に戻ってみれば、ルーナやニフテリザはすでにそこにいた。
二人とも不安そうな顔をしていた。きっと、何処かしらにいたところを部屋に戻るようにと命じられたのだろう。
現れた私の姿を見て、ホッとした表情を見せたのはルーナだ。少女の姿で駆け寄り、抱き着いてくる。その姿はとても愛らしいが、今はその愛らしさを堪能している余裕もなかった。
ニフテリザは外の様子をしきりに気にしている。何があったのか、何故、部屋に待機しなくてはならないのか、リル隊長に聞く暇もなかった私もまた、ニフテリザと同じく外が気になって仕方なかった。
カルロスは何処に連れていかれたのだろうか。
「稽古場で突然、部屋に戻るように言われたんだ」
やがて、ニフテリザは話すことを思い出したかのようにそう述べた。
「マチェイもベドジフもヴィヴィアンも、みんな駆り出されていった。何があったのかを聞く暇なんてない。戦闘員の半数が何処かに向かい、非戦闘員は避難を命じられて……いったい何があったか知っている?」
「分からない。私もただ戻るように言われたの」
此処に戻るまでに混乱は目にしてきた。〈果樹の子馬〉たちが慌てて何処かに逃げようとしているさまや、クルクス聖戦士たちがけたたましく蹄を鳴らしながら駆け回る姿があった。何か、とんでもないことが起きたらしい。
しかし、それはいったい何なのだろう。戦う準備は必要なのか。必要だとして、私までもここに避難させられたのはなぜか。何かが現れたにしろ、それはゲネシスやサファイアの姿をしたソロルではないのかもしれない。
と、思考に耽り始めたその時だった。
刺してくるような過激な気配を感じた。臭いで例えるならば刺激臭だろうか。色で例えるならば攻撃的な赤色。味で例えるならば辛味だ。そういう激しい印象を伴う気配が、客間の隅で感じられた。
すぐに確認してみれば、不自然な影の集まりが真っ先に目に入った。それが何を意味するのかを理解するより先に、まるで母体から子が産み落とされるように、影から何者かが排出されてきた。
人間の姿をしている。だが、人間ではない。心より愛してきた種族の女。オオカミの姿をしていない彼女は、人間とさほど変わらない。そんな姿で、彼女――カリスは汗と土埃、そして血だらけの状態で床に転げ落ちた。聖剣が転がり、音を響かせる。
苦しそうに呼吸をする彼女を前に、私たちは呆然としてしまった。やがて、ルーナが真っ先に我に返り、ためらいもなくカリスの傍へと駆け寄った。
「大丈夫? 苦しいの?」
様子を窺うも、カリスの返答はない。生きてはいるが、意識があるのかないのかはっきりとしない。影道はまだ閉じられていないが、次第に細く薄くなってきている。ここを通ったという事は、意識はあったのだろう。今もあるかもしれない。だが、すぐにでも途切れてしまいそうなくらい、荒々しく、弱々しいものだった。
「ね……ねえ、アマリリス、ニフテリザ……」
ルーナが振り返り、その不安そうな顔が目に入ったことで、ようやく私も動けるようになった。近づいてカリスの身体を見てみれば、すぐに苦しみの根源と思われるものが確認できた。斬られている。酷い傷だった。
「カリス……!」
手当が出来れば望ましい。だが、残念ながら、治癒に関する魔術には明るくない。気休め程度のことか、死を与えることしか出来ないのが私の欠点でもある。死を与えるのは論外だが、気休め程度の癒しならばないよりマシかもしれない。
苦しむ彼女の血塗れの手を握り、私はその気休めに縋ることにした。
「カリス、聞こえるわね?」
私の問いかけに、カリスの呼吸が揺れる。反応はあるが、きちんとした返答になっていない。その様子を少し離れた位置から確認し、ニフテリザが言った。
「医者を呼んでくる……」
「でも、待機しなさいって――」
ルーナが言ったが、ニフテリザは首を振った。
「医者のアリコーン先生とはさっきお話をする機会があったんだ。一番弟子のアグネスとも話したから、ふたりの顔は覚えている。医務室の位置も覚えているから、二人はここで待っていて!」
止める間もなくニフテリザは部屋を飛び出して行ってしまった。
走り去る足音が遠ざかると、聞こえてくるのは開けっぱなしの扉の揺らぎ、そして苦しむカリスのうめき声だけだ。ルーナが困惑しながらニフテリザの去った方向と、カリスの姿とを見比べている。
だが、やがて、カリスの姿のみを見つめるようになると、その小さな手を汗のうかぶカリスの額へと当てた。
「お熱はないみたい。でも、とても冷たいよ……」
癒しの魔術は作用し始めていると思われる。だが、私はこの魔術に自信がない。冷えているということは、死神が彼女に近づいているということだろうか。いいや、渡すわけにはいかない。カリスは約束通り、戻ってきたのだ。ゲネシスを仕留められたかどうかはともかく、今、私の手の中にいる。たとえ相手が死神だろうとこの獲物を渡すものか。魔女の性が封印されていようと、この女は私のものだ。
しかし、このままでは――。
斬りつけたのはゲネシスだろうか。聖剣の毒が、彼女の命を蝕んでいるのだろうか。あるいは、傷を顧みずに必死に逃げた末に、力尽きてしまったのだろうか。
「カリス……しっかりして」
私には何が出来るだろう。目の前で弱っていく人狼を、こんなにも救いたいと思ったのは初めてだった。
焦燥感がじわじわと体に浸透してきたその時、客間の扉は開かれた。ニフテリザが帰ってきたのだ。共にいるのは角人の女性。聖戦士でないためか、馬面のマスクはしていない。人間のものによく似た顔と一瞬だけ目があった。赤い体毛と銀色の角、桃色の鬣。二本足の角人だった。可憐な印象の目をカリスに向けると、すぐに真剣な表情を浮かべ、こちらに声をかけてきた。
「助手のアグネスと申します。先生もすぐに参ります」
ニフテリザの言っていた人物だ。道具を床に置くと、すぐさまカリスの様子を窺う。傷口を見ると、顔をしかめながら小さな声で言った。
「同じだわ……」
「同じ?」
思わず訊ね返したその時、別の角人の男性が現れた。こちらも二本足である。馬面のマスクはつけていない。彼こそがアリコーン医師のようだ。
「すぐに清潔なベッドへ」
「はい」
素早く指示に従い、アグネスがカリスの上半身を支える。その時、血がまだ流れているのに気づいた。固まっていないということは、斬られて間もないのか。それとも、固まるのを待たずに影道を走り続けてしまったのか。
アリコーンは素早く駆け寄り、アグネスと共にカリスの身体を支えて空きベッドへと運んだ。どうすればいいのか分からず、ただ見守っていることしか出来ない私の前で、ふたりは適切に対処していく。やがて、ひと段落終えたところで、カリスの荒い息遣いが聞こえなくなってきたことに気づき、慌てて駆け寄った。
ベッドを覗き込む私にアグネスが声をかけてきた。
「とりあえず、これで様子を見ましょう」
薬品の匂いが漂っている。包帯がまかれ、赤黒い血の付いた綿が皿に置かれていた。助かった、ということだろうか。呆けている私に、アリコーンもまた声をかけてきた。
「いつ目を覚ますかは分かりません。少なくとも一晩は苦しむでしょう。ただ、我々にいま出来ることは尽くしました。目覚めるのを待ちましょう。待って、話を聞かなくては。この方と……ジブリールさまに」
「ジブリール?」
意外な名前を出され、聞き返してしまった。
記憶にあるジブリールという名は一人しかいない。カシュカーシュ風の名前だからだろう。私の知っているジブリールという人物はカエルムにいた空巫女の相談役ただ一人だ。しかし、おかしい。なぜ、ジブリールの話を聞かなくてはとなるのだろう。
意味が分からずうろたえる私に、アリコーンは静かな声で説明してくれた。
「先ほどの事です。見張りをしていた者により、謎の白い物体が空より接近しているとの報告があったそうです。もしかしたら空を飛べる魔族の姿を借りた死霊かもしれない。フィリップはそう判断したらしく、戦える者を集めて迎え撃つべく待機しました。ところが、シルワ大聖堂の上空に現れたのは真っ白な体を血に染める鳥人の女性だったのです」
「まさか!」
反射的にそう言ってしまったのには理由がある。だって、これまで散々、言われてきたではないか。聖獣の血を引く者は、先祖以外の聖獣の領域に入ることが出来ない。だからこそ今だってリヴァイアサンの子孫であるウィルはレスレクティオ教会に留まっている。ジズの子孫である鳥人がここまで飛べるはずがない。あり得ないはずだったのに。
「驚く戦士たちの前で鳥人は力尽き、地上へ落下してきました。誰もが支えきれないと恐怖しましたが、大樹の枝が彼女の身体を受け止め、衝撃を和らげてくれたおかげで致命傷を負わずに済んだそうです。私が駆けつけた頃には地上に寝かされておりました。そして、カルロスさんとその部下の方々より教えられたのです。彼女はジブリールさま。以前、輿入れの儀で会ったことがあるというフィリップも同じくそう言いました。カエルムの花嫁守り……それもレグルス戦士であり、確かな血統の鳥人のはずだと」
なぜ、ジブリールがそんな状態で空より落ちてくるのだ。
血まみれの状態。必死に飛んできたのだろうか。そして、ほぼ同時にカリスは此処に到達したのだ。何が起こったのか、何があったのか、すべては彼女たちが目覚めなくては分からないままである。
まずは、そのジブリールの様子を見たい。
「会うことは可能ですか?」
訊ねてみれば、アリコーンは分かっていたといった様子で頷いた。
「こちらからお願いするおつもりでした。どうぞ、私と一緒に医務室へ」
肯くとアリコーンはアグネスたちに告げた。
「アグネス、しばらく此処を頼む。お嬢様方、すみませんが、しばらくアマリリスさんをお借りします。お部屋からは出ないように。アグネスの指示に従ってください」
ニフテリザもルーナも不安いっぱいな表情で私を見ていた。
残していくのは心苦しい。だが、ここで共に外に出るのは少し怖かった。
「二人とも、アグネスさんと一緒に。カリスのことをお願い」
懇願するような気持ちで声をかけると、少しだけ二人の表情が変わった。いつものように深刻そうなニフテリザといつになく真面目な表情のルーナ。その様子なら、残しておいても大丈夫だろう。
納得を感じてから、私はアリコーンと共に客間を後にした。
話に聞いただけでは真実の全貌は見えない。その端々が見え隠れするばかりだ。落ちてきた者は本当に鳥人なのか、ジブリールなのか、まずはこの目で確かめなければ。そして、見極めなくては。これから何が起ころうとしているのか。何が起こっているのか。




