5.同調現象
コックローチの気配を薄っすらと期待して、インシグネ御殿をふらふらとさまよっていると、運悪くカルロスたちに見つかってしまった。隣にいるのはフィリップの部下である青い馬体のクリニエール、赤い馬体のフーフ、緑の馬体のシフレであった。いずれも表情はマスクの下に隠れているが、声の調子でどういった内容を話していたかが分かる。
見覚えのない四本足の角人戦士も一名いる。マスクで顔は隠れているが、その体格は素晴らしい。がっしりとしているのは人間らしい部分もそうでない部分も同じだ。暴れ馬というよりも、もはや野牛と表現するべきだろう。
「アマリリスさん、ちょうどよかった」
野太い声でカルロスに言われ、素直に近づいていけば、クリニエール、フーフ、シフレがそれぞれ頭を下げてきた。見覚えのない角人戦士は堂々としたままだ。おそらく、この三名よりも身分が高いのだろう。となれば、考えられる立場は一つだ。
「こちらはリル隊長です。シルワの聖地に住まうすべての〈果樹の子馬〉の平和はこの逞しい肩にかかっているといっても過言ではない」
「初めまして、アマリリスです」
挨拶をしてみれば、リル隊長はかなりの低音で挨拶を返してくれた。思っていたよりもベテランなのかもしれない。そういう年季を感じる声でもあった。
「何をお話していたの?」
「ご報告です」
カルロスにそっと訊ねてみれば、別の者が即座に答えた。クリニエールである。
「先ほど、レスレクティオ教会から伝令がありました。諜報に向かった人狼戦士と吸血鬼戦士がそれぞれ引き返してきたとのことです。原因は、異様に力のある死霊の妨害。どちらもフラーテルとのことでしたので、件のソロルではないようです」
「フラーテルの妨害……?」
驚いて訊ね返せば、リル隊長がやっと口を開いた。
「同調現象でしょう」
短く、吠えるような声に怯みそうになった。
「死霊という連中は時に強い個体の意思に同調します。カエルムで何があったのか、いまだ我々のもとに情報は届きません。ただ、引き返してきた二名はどちらも決して質の悪い戦士ではないのです。彼らが先に行けぬほどのこととなれば、それは本当にどうしようもなかったいうこと」
「――どうやら、行方不明となった戦士もいるらしいです」
カルロスが不安そうに付け加えた。
「カリスのその後は分からぬまま。たまたま余所にいた人鳥戦士が飛び立ち、様子を確認しに向かったそうですが、やはり死霊に邪魔されたと引き返してきたか、あるいはどうなったかさえも分からないとのことです」
思っていた以上に深刻なことになっている。
カリスの安否どころの話ではない。カリスの襲撃は成功したのか。これはもはや疑わしい。フラーテルの妨害が同調によるものだとすれば、あのソロルはまだ健在だ。強さに陰りがないということは、おそらく縁者も失われていないのだろう。
胸騒ぎがする。よくないものが少しずつこちらに向かってきているようだ。
「事態は思ったよりも悪い」
カルロスは唸った。
「ここもやがて混乱に包まれるでしょう。我々は早々に立ち去るべきかと」
「……ええ、その判断はあなた達に従います。ニフテリザやルーナにも伝えておきますわ」
素直にそう答えれば、カルロスは強く肯いた。
「そういえば、イグニスからの連絡で、ゲネシスという男をよく知る人物もまた現地に派遣されていることが報告されました。グロリアという人物です」
「……グロリア。ああ、グロリア」
カリスが教えてくれたあの名前だ。ゲネシスという人物の特定のために、友人の女性戦士として探されていた名前。では、特定できたということか。
「最初はゲネシスのいるカエルムに向かうようにと命じたそうですが、その後、カエルムの異変がすぐに伝わったため、カエルムを避けてシルワからイムベルを目指すようにと指示されたようです。いずれ、我々も合流することになるかと思われますので、そのつもりで」
カルロスの言葉に、私は黙って頷いた。
自分が死んでもグロリアがいる。
カリスはそんな不吉なことも口走っていた。縛ってまで戻ってくると約束させた人物が殺されている等と考えたくはないが、この不透明な状況下において少しでも希望を持てる人物ではある。
ゲネシスの級友ならば、少しは有利になれるだろうか。見たことも会ったこともないアルカ聖戦士の女性に過剰な期待を寄せるのも恐ろしいことだとは思うが、今はとにかくこの淀んだ空気を吹き飛ばすような新しい風が欲しくてたまらなかった。
「死霊は時折、〈果樹の子馬〉としても現れることがあります」
リル隊長が急に口を開いた。
「ソロルもフラーテルもこの大地に生き物として存在する種族です。奴らは我々にとって傍迷惑でしかありませんが、存在してはいけない理由などない。したがって、彼らもまた当然のように聖域に足を踏み入れる権利があり、それは神であろうと止められない」
言わんとしていることは少しだけ分かる。
「大聖堂も御殿も、時折、事故や病気による死が大地に染み込みます。死霊に囚われた人間の魂は、生前の記憶を縁にして生者の前に現れるのです。ゆえに、この場所もまた安全とは言えないのです。いつ、大地や床から死んだはずの人間や魔族が現れてもおかしくはない。それをお忘れなきよう」
こうしているうちにも、新たな死人の魂が死霊に囚われ、亡者となっている可能性もあるのだ。もしもそれが、ここに仕える〈果樹の子馬〉の縁者などであったら、巫女たちの故郷に残した親族であったら、かつてこの場所で暮らしていた何者かであったら、そう考え始めれば、いつソロルやフラーテルが現れてもおかしくないのだという事に気づき、震えてしまった。
そんな私の表情を見たためか、カルロスは眉を顰めつつ腕を組んだ。
「まあ、確かに、リル隊長のおっしゃる通り、深刻に考えるべきことだ。だが、必要以上に怯えることもない。かのソロルで感覚が麻痺している気がするが、本来死霊という者は弱々しい存在だ。我々やアマリリスさんほどの力がなくとも、日々、剣術を学んでいるニフテリザ嬢や変身できるルーナ嬢……ブランカ様の従者のゾロであっても対処可能だろう」
その言葉にリル隊長も蹄で床をかきながら頷いた。
「ああ、落ち着いて対処すれば我々の愛する〈果樹の子馬〉たちの小さな蹄でも消し去れるものでしょう。だが、お忘れなきよう。死霊は弱い生き物だが、通常からして人食いでもある。ただの人間はもちろん、魔族であっても翻弄して食い殺す力を持っているのです」
それについては、よく分かっている。
脳裏にこびりついて離れない過去の記憶だ。私は自分の愚かさで最愛の友を失った。過信はいけない。警戒を失ってはいけない。捕食対象であるニフテリザやブランカ達を守るためにも、常に新しいソロルとフラーテルの気配には敏感になっておかねばならないはずだ。
カルロスもリル隊長もどちらも魔物だ。人の血を継がない、あるいは、ごく薄くしか継いでいないため、死霊の餌食とならない。私の方だって、魔女として成熟して数年は経つ今、ただ孤独に存在しているだけの死霊に食い殺されると怯えるつもりはない。私にとって死霊はいわば石ころのようなもの。それでも、どんな石ころであっても、転ぶことで起きる危険について考えだしてしまえばキリがないものだ。
世界を知れば知るほど、私は臆病になっていった。それは今も変わっていない。
カルロスもまた腕を組んで考え込んだ。
「うん……確かに、何処からでも現れかねない人食い種族であることは忘れてはいけないことだ……それに、かつて学んだことによれば、奴らは我々ジズに守られる者の目を欺く魔術を身に着けているという。常に身を隠せる者ばかりとは限らないが、恐れるに越したことはない」
そこは初耳だった。
魔物の目で見た世界など知るきっかけがあまりない。死霊は私のような魔女も捕食対象とするため、そうした魔術を使わないのだろう。そもそも、魔術を使われたところで、誰かと答え合わせでも出来なければどうにもならない。ルーナとの旅でも死霊に襲われるようなことはなかったため、知らなかった。
リル隊長が低い声で唸るように言った。
「死霊は魔物の目を欺く力がある。この事実は常に頭に入れておくべきでしょうな。無限の力ではないと信じているが、油断は大敵。取り巻くすべての者たちに、怪しげな存在の報告を義務付けることが大事です」
彼の言葉が終わらないうちに、角人のクルクス聖戦士の数名が近づいてきた。何やら耳打ちをすると、リル隊長の表情が険しいものになる。
やがて、リル隊長が蹄で何かを命じると、クルクス聖戦士たちは駆け足で何処かに向かっていった。傍で待機していたクリニエール、フーフ、シフレもまた彼らと共に走り去ってしまった。
「カルロスさん、私と共に来てください。アマリリスさんは客間へ。その場でしばし待機していただけますかな?」
落ち着いてはいるが、ただならぬ緊張感が伝わってくる。
一体、何があったのだろう。話していた傍から、ソロルやフラーテルが現れたのだろうか。不安に思いつつも、今はルーナとニフテリザが心配だった。




